Masuk木蓮の父親から離婚届が届き、一ヶ月が経とうとしていた。晩秋の鋪道に色褪せた木の葉が舞い散り、冷たい風がビルの隙間を抜けて唸った。遠くで鰤起こしの雷鳴が低く響き、冬の始まりを告げていた。けれど将暉は、離婚届に自分の名前を書き込めないでいた。書斎の引き出しに仕舞ったままの緑色の枠の書類は、まるで彼の決断を拒む重石のようにそこにあった。毎夜、彼は書斎のデスクに向かい、ペンを握るものの、インクは紙に触れることなく乾いていった。木蓮の眠る病室、双子の鼓動、母子手帳の桜色の表紙が、頭の片隅で揺れていた。彼女への愛は冷めていたはずなのに、彼の心を締め付けた。
睡蓮は書斎のデスクに佇み、軋む引き出しをそっと開けた。そこには、書類の束の下に隠すように置かれた離婚届があった。彼女の細い指が、まるで壊れ物を扱うように、ゆっくりと紙を取り出した。緑色の枠が薄暗いランプの光に照らされ、証人欄の木蓮の両親のサインが冷たく浮かび上がった。今日も将暉の名前は書かれていなかった。睡蓮は厳しい目でそれを一瞥し、唇を噛んだ。彼女の心を次第に蝕むのは、将暉の躊躇だった。かつての無邪気な笑顔は影を潜め、代わりに猜疑心と焦燥が彼女の瞳に宿っていた。離婚届を元に戻し、引き出しを閉める音が、静かな書斎に小さく響いた。これを毎日、取り憑かれたように繰り返した。彼女の指先は、紙の感触を確かめるたびに、木蓮の存在を呪うように震えた。窓の外では、雷鳴が遠くで唸り、色褪せた葉が鋪道に落ちる音がかすかに聞こえた。睡蓮の心には、将暉の沈黙が刃のように突き刺さり、彼女を孤独の淵へと押しやっていた。
やがて将暉と睡蓮の暮らしは殺伐としたものになっていた。かつて木蓮が整えていた家は、彼女の不在とともに色を失った。温かな食卓、湯気の立つ味噌汁、隅々まで磨かれたリビングの清潔感。毎週のようにシーツを取り替え、織り目正しく畳まれた洗濯物の柔
泰山木の白い花が暗闇でランプのように綻ぶ頃、叶の武家屋敷に明るく賑やかな笑い声が響いた。縁側にはブタの蚊取り線香がゆらゆらと煙を燻らし、みずみずしいスイカが皿に並び、夏の夜の涼やかな香りが漂っていた。蚊取り線香の青い煙が月光に溶け、家族の輪を優しく守るようだった。「じいじ、んっあっ!」ヨチヨチ歩きの蓮生が、木蓮の父親の手を小さな手で引き、瓢箪池の鯉に目を輝かせた。水面には月夜に照らされた睡蓮の花が静かに揺らぎ、その繊細な美しさが過去の傷を優しく包み込んだ。柚月は木蓮の膝にちょこんと座り、田上伊月が持つ手持ち花火の華やかな明かりに、「ああ、うう」と小さな手を叩いて喜んだ。その傍らには、胡桃色のティディベアがちょこんと座り、睡蓮の「花梨」の記憶を静かに象徴していた。花火の火花が夜空に舞い、まるでヒナギクの花言葉「希望」を映すようだった。木蓮のプラチナのエンゲージリングが月光にきらりと光り、田上との結婚式の誓い、蓮生と柚月の成長が彼女の心に温かく刻まれた。木蓮の母親と田上の祖母は、縁側の長椅子に座り、その愛らしい光景に目を細めた。「ほんとに、可愛らしい子たちやね」と祖母が金沢弁で呟き、母親は微笑んで頷いた。「双子は木蓮に似て強いわね」と母親が付け加え、祖母は「伊月もええ旦那さんになったわ」と笑った。家政婦の村瀬さんが茹で上がったばかりの枝豆を運んでくると、塩の香りが縁側に広がり、家族の笑顔を一層温かくした。「木蓮さん、お嬢ちゃんと坊ちゃんは本当に元気ですね」と村瀬さんが笑うと、木蓮は柚月の柔らかな髪を撫でながら「.......ありがとう、皆に愛されてるからですよね」と答えた。田上は蓮生を抱き上げ、銀縁眼鏡の奥で優しく微笑んだ。「木蓮さん、私たち幸せですよね」その声は、金沢港の夜の波音のように穏やかで、教会での結婚式、ヒナギクのブーケを睡蓮
荘厳なパイプオルガンの音色が教会に響き、田上家と叶家のゲストを温かく包み込んだ。金沢の古い教会は、四月の桜吹雪に静かに覆われている。マリアと百合の花が飾るステンドグラスから、赤や青の色とりどりの光が差し込み、祭壇を神聖な輝きで照らす。木蓮と田上伊月は愛を誓う。互いの瞳には愛おしさが溢れ、柔らかな光の中で向き合う二人の姿は、まるで永遠を約束する絵画のようだった。ゲストの祝福の拍手と、子供たちの無邪気な囁きが、教会の高い天井に響き合う。参列者席では木蓮の両親に抱かれた、蓮生と柚月が目を輝かせ、田上の祖母はハンカチを握り締め、何度も頷いた。「汝、田上伊月は、この女、叶 木蓮を妻とし、良き時も悪き時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、妻を思い、妻のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?」神父の声が、厳粛に響く。「誓います」田上伊月の声は、力強く、木蓮の手を握る手に熱がこもる。「汝、叶 木蓮は、この男、田上伊月を夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分つまで、愛を誓い、夫を思い、夫のみに添うことを、神聖なる婚姻のもとに、誓いますか?」「誓います」木蓮の声は、柔らかだが確かだ。
田上の迅速な対応で、柚月は軽い肺炎で一命を取り留め、クベース(保育器)で経過観察を受けることとなった。透明なガラス越しに、チューブにつながれた小さな身体が横たわる姿に、木蓮と家族は涙を流した。蓮生は新生児室で祖母の手編みのおくるみに包まれ、力強い泣き声を上げていたが、柚月の痛々しい姿は木蓮の心を締め付けた。彼女自身も、授乳時間が大幅に遅れたことで乳房が岩のように硬くなり、乳腺炎を起こして高熱に苦しんだ。額に汗が滲み、ガラスの指輪が光る手でベッドのシーツを握り締めた。母乳だけで蓮生と柚月を育てようと意気込んでいた木蓮だったが、この一連の出来事で、医師の勧めもあり、ミルクとの混合育児に切り替えた。病室の鏡に映る自分の疲れた顔を見つめ、肩を落とし、涙を滲ませた。「私が......もっと早く気づいていれば......」彼女の声は掠れ、睡蓮の虚ろな瞳と「花梨」の部屋の暗闇が脳裏をよぎった。田上はそっと木蓮の隣に座り、彼女の手を握った。「木蓮さん、柚月ちゃんは助かった。あなたは素晴らしいお母さんです」銀縁眼鏡の奥の瞳は、父親としての温かな決意で揺れていた。彼の声は、あの金沢港の夜の波音のように穏やかで、木蓮の悲しみを静かに受け止めた。モニターのビープ音が、柚月の小さな鼓動と調和するように響き、病室に微かな希望を運んだ。木蓮は田上の手に自分の手を重ね、涙を拭った。「ありがとう、伊月さん......蓮生と柚月のために、頑張ります」彼女の心には、睡蓮の闇や和田家の崩壊が薄れ、双子と田上と
木蓮は新生児室のドアをノックしたが、その音は不安げに震えていた。ドアが開くと、賑やかな赤ちゃんの泣き声が溢れ、授乳室の生成りのカーテンを捲ると、柔らかな灯りの中で母親たちが赤ん坊を抱き、乳を与えていた。甘いミルクの香りが漂う空間は、神聖な趣を湛え、ウサギのぬいぐるみが並ぶ棚が小さな命を見守っていた。木蓮は看護師の姿を見つけ、震える声で背中に呼びかけた。「あの......すみません」看護師は哺乳瓶を洗う手を止め、振り返るとパッと明るい笑顔を浮かべた。「あら、柚月ちゃん......今日は早かったんですね。蓮生くんも待ってますよ、あら?柚月ちゃんは?」彼女は不思議そうに木蓮の腕を見やり、柚月の姿を探した。「......え、私......今、来たところなんですが」木蓮の胸は不安な予感で騒めき、背中に冷たい汗が伝った。彼女の左手では、ガラスの指輪が鈍く光り、ヒナギクの花言葉「希望」が一瞬揺らいだ。「さっき、叶さん......柚月ちゃんを抱っこして出て行きませんでしたか?」看護師の言葉に、木蓮の心臓が凍りついた。「......!?」脳裏に、睡蓮が柚月を抱く姿が、まるで黒い薔薇の残響のように鮮やかに浮かんだ。和田コーポレーションの不祥事、将暉の両親の養子提案、睡蓮の憎悪に満ちた呟きが、恐怖となって彼女を締め付けた。「あ......ありがとうございます!すみません、蓮生のことお願いします!」木蓮は踵を返し、新生児室から飛び出した。廊下の川のせせらぎのバックミュージックが、彼女の慌ただしい足音に掻き消された。田上が廊下で木蓮の青ざめた顔に気づき、「木蓮さん!どうしたんですか?」と駆け寄った。彼女は息を切らし、「柚月が…柚月がいない!」と叫んだ。
和田コーポレーションの破綻を報じる記事が、週刊誌の表紙を飾った。ゴシップ雑誌には、「堕ちた令嬢」と題された見開きページで、睡蓮のゴミ出しをする後ろ姿が掲載されていた。かつての可憐な姿は跡形もなく、艶を失った髪が乱れ、化粧する気力すらなく、シワだらけのワンピースを着た彼女の姿は、和田家の崩壊を象徴していた。報道陣のカメラが捉えた玄関先の黒いゴミ袋は、全国に晒され、睡蓮の孤立を冷酷に映し出した。企業の信用低下により、和田コーポレーションの傘下から撤退する企業が後を絶たず、医療事務機器業界の闇が次々と暴かれた。木蓮の実家である叶製薬株式会社も、和田コーポレーションとの連携を即座に解約した。叶家の決断は、木蓮の離婚と双子の未来を守るための、静かだが確固たる一歩だった。木蓮は病室のテレビでニュースを見ながら、蓮生と柚月のベビーベッドに視線を落とした。祖母の手編みのおくるみに包まれた双子の寝息が、彼女の心に穏やかな安堵をもたらした。ガラスの指輪が冬の眩しい陽光にきらりと光り、ベッドサイドのヒナギクの花束が清らかに輝いた。「これでいいのよ」母親が木蓮の手を握り、静かに囁いた。父親は腕を組み、テレビに映る将暉の謝罪会見を冷ややかな目で睨んだ。「因果応報だ」と呟く声には、娘への裏切りへの怒りが滲んでいた。睡蓮の「花梨」の喪失、将暉との破綻した生活、和田コーポレーションの崩壊が、木蓮の心に遠い過去として薄れていった。彼女は蓮生の小さな手を握り、柚月の寝顔に微笑んだ。木蓮は退院を控え、慌ただ
木蓮の病室のドアを激しく叩いたのは、黒いスーツを細身の身体に纏った長身の男性だった。「和田会長!大変です!」その口調と仕草には、焦燥感と焦りが滲み、病室の空気を一瞬で張り詰めたものにした。田上の祖母が鋭い視線を向け、木蓮はベッドにもたれたまま息を呑んだ。将暉の父親が「どうした、何かあったのか?」と振り返ると、男性は震える手でMacBookを開き、株取引の画面を指差した。「我が社の株が......!」そこには信じられない光景が表示されていた。和田コーポレーションの株価が急落し、海外資本による買収の動きが始まっているというのだ。画面の赤い数字が、まるで和田家の屋台骨が崩れる予兆のように点滅していた。義父の顔は青ざめ、果物かごを置いた手が小刻みに震えた。義母はハンカチを握り締め、唇を噛んでうつむいた。病室に重い沈黙が落ちた。木蓮は義父の提案、双子の養子を求める傲慢な要求を思い出し、胸に熱い怒りが再び込み上げた。「和田コーポレーションの危機と、私の子供たちは関係ありません!」彼女の声は、疲労と出産の痛みを越えて力強く響いた。田上は木蓮の手を握り、銀縁眼鏡の奥で静かな決意を宿した。「お引き取りください。木蓮さんと双子にこれ以上負担をかけないでください」と低く、しかし毅然と言った。祖母は「ほや!赤ん坊を取引の道具にせんといて!」と金沢弁で一喝し、絣の着物を翻して義父を睨みつけた。男性はMacBookを閉じ、義父に「至急、対策会議を......!」と促したが、義父は言葉を失い、病室の床に視線を落とした。







