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第3話

Auteur: 時緩
和樹のオフィスに入る前、私は一瞬ためらった。

迷っていたわけじゃない。

ただ、どうすれば彼にすんなりとサインしてもらえるか、考えあぐねていたのだ。

会社の人事ルールが決まった後、私も労働契約書にサインし直した。

それにデザイン部長っていう役職は重要だし、神崎家の事業もこの業界とちょっと関係があるから、退職書類をちゃんと処理しとかないと、帝都に戻ってから面倒なことになりかねない。

私がドアを開けて入ると、考えたセリフを言う前に、和樹の向かいに座る愛梨が目に入った。

どうりで入口の席が空いていると思った。

なるほど、もうこっちに移動してたのね。

愛梨が先に私に気づいて、親しそうに和樹の頭をポンと叩き、甘えた声を出した。「和樹!」

和樹は甘い声で「よしよし、今はダメだ。先にこの契約書を読ませてくれ」と言った。

「違うの、邪魔をしてるわけじゃなくて......」

鈴木愛梨は私を挑発するように見てから、大人しく「千尋さんが来たわ」と言った。

和樹は慌てて彼女との距離を取り、私の方を振り返って、視線が合った。

胸の詰まる思いを無視して、私は淡々と「和樹、サインが必要な書類がある」と言った。

ファイルごと彼に渡した。

私があえて彼と愛梨の親密な様子に触れなかったことに、和樹は少し安堵した様子で、「ああ」とうなずいた。

「和樹、じゃあお仕事頑張って。私はこれで」

愛梨は自分から出て行った。

和樹がファイルを開いたのと同時に、私が用意していた理由を説明しようとしたその時、愛梨が突然足をくじき、「ああ!痛い!」と叫んだ。

「愛梨!」

和樹はもう仕事どころじゃなく、サッと立ち上がり、駆け寄ろうとした。

私は彼を引き止めた。「先にサインをして。数秒もかからないわ」

彼は眉をひそめた。「千尋、いつからそんな冷たくなったんだ?この書類がそんなに大事か?」

「和樹......」

愛梨は床にうずくまり、足を押さえてしくしく泣いている。

和樹は彼女のことしか目に入らない様子で、もはや私と口論する気もなく、何の書類か確かめもしないで、私が指し示した箇所に適当にサインした。

それでよかった。

私はただスムーズに退職手続きを終えて、この街を離れたいだけ。

本来いるべき場所に戻る。

和樹は愛梨をソファに抱き上げ、彼女の足首を持って注意深く確認した。「大丈夫、腫れてはいないな。でもすごく痛むようなら、病院に連れて行こう」

「そんな、大したことじゃ......」

愛梨は恥ずかしそうに足を引っ込め、おびえたように私を一瞥した。

私は無表情でその場を去った。

車に乗る前、追いかけてきた和樹に引き止められた。「千尋、誤解しないでくれ。俺と彼女は何もないんだ。ただ、一緒に育った仲だから、面倒を見てやってるだけなんだ」

「うん」

私は淡々と頷き、彼が車のドアを掴んでいる手に視線を向け、離すように促した。「まだ用事があるの」

彼は一瞬戸惑った。「怒ってないのか?」

私は笑った。「怒るべき?」

「以前なら、俺がこんなことしたら、君はきっと怒った......」

「でも、あなたはそれでもしたでしょ?」

私は顔を上げ、彼の目にありありと浮かぶ動揺を見て言った。「もういいわ、冗談よ。今夜、家でご飯にする?」

「俺は......」

彼は後ろめたさを隠そうとして、私の手を握った。「夜は会食がある。でも、必ず帰る」

笑いたいのに、笑えない。

なんだか、彼が家に帰ってくることさえ、施しのように感じられた。

私は外で食事を済ませてから家に戻り、片付けの続きを始めた。

この時になって初めて、失望が限界に達すると、何もかも消し去りたくなるのだと知った。

私はこの家に自分が存在した痕跡を、一つ残らず丁寧に消し去っていった。

和樹の部屋にも手を入れた。

ただ、私が買ったペアの物だけを処分した。

歯ブラシ、コップ、スリッパ、パジャマ......

片付けの途中で休憩していると、愛梨からラインが届いた。

【千尋さん、見て。何年も経つのに、和樹は私がピンクの薔薇が一番好きなのを覚えてるのよ。前よりずっと気が利くようになったわ】

【私のためにこんな素敵な男性を育ててくれてありがとう】

【あなたのおかげで、私は楽をさせてもらっているね】

写真も添付されていた。

私が選んだポルシェのトランクが、色とりどりの花で埋め尽くされ、丁寧なイルミネーションまで飾られていた。

その瞬間、はっきりと分かった。

私がこれまで手にしたと思っていた愛情は、すべて別の人に向けられたものだったのだ。

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