ログインゴールデンウィークが始まる前夜、私、樫野亜依里(かしの あいり)は2時まで残業していた。彼氏の神森瑛士(かみもり えいじ)にLINEで17通もメッセージを送ったのに、返事は【今忙しい】の一言だけだった。 翌朝、インスタを開くと、妹の樫野珠希(かしの たまき)が写真を投稿していた。南国の海を背景に、彼女の腰に回された男の腕が写っていた。その手首につけられていた時計は、去年私が彼の誕生日に贈ったものだった。 珠希は子供の頃から一緒に育ってきた妹だ。家族の中で一番可愛がられている末っ子で、誰もが彼女に譲ってきた。 瑛士とは付き合って4年。瑛士が起業して一番苦しかった時期に、6年間かけて貯めたお金をすべて渡したのは私だった。 けれど今、私が一番愛する人と、一番可愛がってきた妹が、ふたりして私を騙しているのだ。 その写真を3分間見つめた後、妹に電話をかけた。 「珠希、ゴールデンウィークはどこか行った?写真、見たよ」 電話越しに一瞬の沈黙があり、それから甘ったるい声が返ってきた。 「違うよ、お姉ちゃん。あれは去年の写真。今日は家でドラマを見てるだけだよ」 「そう?じゃあ今から会いに行こうかな。珠希の好きなミルクレープ、ちょうど買ってきたところなの」 「あっ、大丈夫。今、友達とご飯食べてるから。また今度ね」 その声には、隠しきれない動揺が滲んでいた。 私は笑いながら「わかった」とだけ答えて通話を切り、すぐにタクシーを拾って空港へと向かった。 どうしても、この目で確かめなければ気が済まないのだ。
もっと見る私は披露宴会場を後にした。外に出ると風が出ていて、芝生の上の風船が右に左に揺れていた。リゾートホテルの夜景は美しかった。人工池に映る灯りが、まるで金粉を散らしたように煌めいていた。池のほとりに立ち、深く息を吸い込む。空気には芝生と土の匂い、それから遠くのバーベキューコンロから漂う煙の匂いが混じっていた。スマホが鳴った。知夏からだった。「亜依里さん!初期データが出たよ!リリースから8時間で、ユーザー継続率87%!予想より12ポイントも高い!ねえ聞いて!うちのレコメンドアルゴリズム、競合の大手を完全に引き離したよ!」スピーカーにしなくても聞こえるくらいの大声だった。「ふふ、よかった」私は笑った。今回は本物の笑顔だった。誰かに体裁を取り繕うためでも、誰かへの気遣いでもなく、ただ純粋に嬉しかった。「結婚式にいるんだよね?どうだった?花嫁より目立っちゃった?」「まさか。控えめな格好で行ったから」「イケメンとの出会いはあったりした?」私は少し考えて答えた。「ひとりいた」「誰誰?どんな人?」「新郎の同僚で、篠田渉さんって人」「いい名前ね。顔は?」「まあまあ。目元が綺麗だった」「電話番号は聞いた?」「聞いてない」「亜依里さん!」知夏が電話の向こうで叫んだ。「正気なの!?こういう場で知り合う独身男性って優良物件なのよ!なんで番号聞かないの!」「向こうが連絡したいなら、方法は見つけるでしょ」「ドラマの見すぎだよ!現実にそんな展開、あるわけないじゃない!」私は笑っただけで、何も答えなかった。電話を切り、駐車場へ向かった。夜風に髪が乱れる。ホテルのロビーを通り過ぎたところで、後ろから誰かが追いかけてきた。「亜依里さん!」振り向くと渉だった。少し息を切らして走ってきたらしく、ジャケットを脱ぎ、シャツの袖を肘まで捲り上げていた。「まだ帰ってなかったんですか?」彼は膝に手をついて荒い息を二度ほど吐き、それから顔を上げて私を見た。「妹さんに、頼まれたんです」「珠希が、渉さんに?」「ひとりで車で来たんですよね。帰りは1時間以上かかるからって、ちゃんと無事に車に乗るか見てきてくれって」珠希が……今日会ったばかりの男性に私を追わせた?眉をひそめた。珠希らしくない
披露宴も半ばを過ぎた頃、珠希はお色直しを終えて会場に戻ってきた。シャンパンゴールドのサテンドレスは、シンプルながら上品だった。それから各テーブルを回り、招待客に挨拶していた。私のテーブルに来た時、文和の姿はなく、珠希のそばにいたのは付き添っていた友人だけだった。「お姉ちゃん……っ」彼女の声は少し震えていた。お酒のせいなのか、緊張のせいなのかはわからない。友人は気を利かせて「デザートを取ってきますね」と離れていった。テーブルには私と珠希だけが残り、皿やグラスの並ぶテーブルを挟んで向き合った。まるで交渉の席のように。「今日は綺麗だね」先に口を開いたのは私だった。彼女の目がすぐに赤くなる。「お姉ちゃん、来てくれてありがとう」「考えるって言ったでしょ。考えた結果、来ることにしたの」「来てくれないかと思ってた」「どうして?」「だって……」彼女はうつむき、指でドレスの裾を弄んだ。昔からの、あの癖だった。「私、お姉ちゃんにあんなにひどいことをしたから。来ないのが当然だと思ってた」「珠希」私は名前を呼んだ。声は大きくない。「今日はあなたの結婚式だから、嫌な気持ちにさせることは言いたくない。でも、ひとつだけ聞かせて。正直に答えて」彼女は顔を上げた。目には涙が浮かんでいた。「あのウェディングドレス。本当に気に入ったから選んだの?それとも、私が好きだって言ったから?」沈黙。披露宴の音楽も、グラスの触れ合う音も、笑い声も、すべてが遠のいたように感じた。珠希の唇が震え、最後に出てきたのは、私が予想もしなかった言葉だった。「……両方」「両方?」「あのドレス、本当に気に入ってる。それは本当。でも、お姉ちゃんが最初に目をつけたものだっていうのも、ちゃんとわかってた。選んだのは、お姉ちゃんのものを奪いたかったからじゃない。一度でいいから、『お姉ちゃんの服』を着てみたかったの。お姉ちゃんみたいに綺麗になりたかった」昔の私なら、この言葉に心を動かされていたかもしれない。でも今は、ただ彼女を見つめて静かに言った。「珠希、あなたは私みたいになる必要なんてない。あなたはもう、十分綺麗だから。あなたはずっと、自分のままで十分だと思えなかったのよ。だから他人の物を奪うことでしか、自分の価値を
結婚式当日、私はスモークブルーのワンピースを着た。わざわざ新調したものではなく、手持ちの1着だ。化粧はごく薄く、普段仕事へ行く時よりも控えめにした。花嫁より目立ちたいわけではないけれど、自分が惨めに見えるのも嫌だった。実際のところ、私はとても順調にやっている。厚化粧をしたり、ブランド物のバッグを持ったりして、自分を誇示する必要などないのだ。結婚式は郊外のリゾートホテルで行われ、ガーデンでの挙式と屋外での披露宴が予定されていた。到着した時には招待客の半数以上がすでに集まっており、ほとんどが珠希の新しい職場での同僚や友人、あとは親族の姿もちらほら見えた。伯母が先に私に気づき、私の手を取って言った。「亜依里、来てくれたのね。少し痩せた?お仕事、無理してない?」「大丈夫、最近プロジェクトが忙しくて」「忙しいのはいいことよ、充実してる証拠だもの」伯母は声を落とした。「珠希の結婚相手のこと、聞いてる?条件のいい人らしいわよ。銀行員で、ご両親も教師ですって。ただ、珠希の昔のこと、相手は知ってるのかしらね……」「それは珠希の問題だから。自分のことは自分で何とかするでしょ」伯母は私をちらりと見て、言いかけてやめ、最後にため息をついた。「あなたは本当に、昔から物分かりが良すぎるのよね」物分かりが良すぎる。その言葉を聞いても、心は波立たなかった。以前は「物分かりが良い」と言われると褒め言葉だと思っていた。今はわかる。「物分かりが良い」の別の言い方は、「ただの都合のいい人間」だということに。挙式が始まる頃、私はガーデンの後方の席に腰を下ろした。あまり目立ちたくなかった。音楽が流れ、珠希が父の腕に手をかけてバージンロードを歩いてきた。あのマーメイドラインのドレスを身にまとい、長いベールが風に揺れて薄い霧のようだった。丁寧に施された化粧、きらめく瞳、口元はわずかに上がっている。上品でいて甘さも失わない、計算し尽くされた笑み。父の表情は複雑だった。口元は笑っているのに、目には何か潤んだものがある。父は大勢の招待客の向こうにいる私へ、そっと視線を向けた。その一瞬の視線には、たくさんの言葉が込められていた。すまない。来てくれてありがとう。それでもあの子は、お前の妹だから。そんな思いが伝わってきた。私はかすかに頷い
その晩、実家を出て車で帰る途中、昔瑛士とよく歩いた道を通りかかった。あのイタリアンはまだあった。入口には温かみのある黄色い灯りがともっていたが、看板は新しくなっている。以前は木製だったのが、今はLEDで光る文字に変わっていて、前より明るく、それでいてどこか見知らぬ店のようだった。私は車を止めず、そのまま通り過ぎた。その時、スマホの通知音が鳴った。共同経営者からのメッセージだった。【新プロジェクトの資料読んだよ。完璧だったよ。明日の会議、あなたがメイン発表者ね】私は車を停めてから、ひと言だけ返した。【了解】今度の「了解」は、かつて瑛士が返してきた「今忙しい」のような、その場しのぎの言葉じゃない。本心からの返事だった。車窓の外、街灯がひとつまたひとつと後ろへ流れていく。この数年、歩いてきた一歩一歩のように。灯っている街灯もあれば、消えている街灯もある。でも道は前に続いていて、私も前に進んでいる。マンションに着くと、管理人が声をかけてきた。「樫野さん、お帰りなさい。今日、郵便物が届いていたので、ドアポストに入れておきましたよ」「ありがとうございます」自分の部屋に戻ってドアを開けると、玄関の床には確かにひとつの書類封筒が落ちていた。差出人の名前は書かれていない。開けてみると、中には金の箔押しが施された招待状が入っていた。分厚く、縁にはエンボス加工まで施されている。珠希の結婚式の招待状だった。新婦は樫野珠希、新郎は鬼束文和(おにつか ふみかず)。日付は来月15日。場所は郊外のリゾートホテル。招待状には1枚のカードが挟まれていた。珠希の手書きの文字だった。【お姉ちゃんへ。たぶん来てくれないとは思うけど、それでも招待したかった。小さい頃から、大事な瞬間にはいつもお姉ちゃんがそばにいてくれた。今回も、お姉ちゃんにいてほしい。世間体を気にしてるんじゃなくて、本当にウェディングドレス姿を見てほしいの。珠希】そのカードを手に、しばらく立ち尽くした。珠希の字は昔のままだった。丸みを帯びて、少し続け字になった、彼女そのもののような字。一見素直で可愛らしいのに、一画一画に小さな計算が滲んでいる。小さい頃書道を習っていて、先生に才能があると言われたのに、地味な稽古が嫌で半年でやめた。それでも親戚への年賀状や手紙だけは特別