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Prologue

Author: 水守恵蓮
last update Huling Na-update: 2025-03-31 15:25:58

それから一週間後、私は再び病院を訪れた。

受付を済ませ、簡素な長椅子が並んだ殺風景な待合ロビーで、名前を呼ばれるのを待つ。

夕刻のこの時間、午後の診察も終わっていて、ロビーには会計を待つ患者が数人いるだけで閑散としている。

中絶手術は明日の昼の予定で、前日から入院するよう言われている。

私は、一週間分の入院準備をしてやってきた。

手にした同意書には、結局自分で筆跡を変えて『綾瀬塔也』(あやせとうや)と署名した。

これも、なにかの偽造罪とかに問われるんだろうか。

でも、頼める人なんかいないもの。頼れる人もいないし、産むわけにはいかないんだから、仕方がない。

自分がこうなってみて、母も私と同じように、普通の中絶には手遅れだったんじゃないかと考えた。

ジョン・エヴァンズという軽い外国人に騙されて、私を身籠った。逃げられた時には、もう一人で産むしかなかったのかもしれない――。

意味もなく緊張して、心臓が早鐘のように打ち鳴るのを自覚する。

私はお腹に両手を当てて、固く組み合わせた。

産まないと決めて、そう言い切ったのは私なのに、あの時医師に言われた言葉が、ずっと胸の根底でグルグル渦巻いている。

母は、なにが幸せだったというのだろう。

なにも悪いことをしてないのに、街中の人から奇異の目で見られて、肩身狭く生きてきて。どんなに頑張ったって生活は楽にならないのに、真面目くさって身を粉にして働いて、案の定、病に倒れた。

人生百年とも言われる時代に、自分はその半分も生きられず。

なのに、自分の命が尽きようとしている時まで私の心配をして、この子を授けたって言うの?

――心配なら、どうして……。

私はやるせない思いで俯き、ぎゅっと唇を噛んだ。

これだって、元はと言えば、『父』のせいだ。

余命僅かと宣告された母が、最期にどうしても、父がどこでどうしているか知りたいなんて言ったせい。

できることなら、私の顔を見せてあげたいなんて言ったから――。

二ヵ月前、私は、私が生まれる前……二十六年前の古い写真と、本当かどうかも定かではない名前だけを頼りに、父を捜しに渡英した。

捜し回る途中、事故に巻き込まれて、病院に搬送された。

そこに、地元警察、スコットランドヤードの刑事と共に、一人の男性外交官が通訳として事情聴取にやってきた。

私より四つ年上で、よくわからないけど、キャリア組と呼ばれるエリート中のエリートだそうだ。

百六十四センチと、女性としては長身の私より二十センチ近く高い身長で、引き締まった体型。怖いぐらい整った、端整な顔立ちをしていた。

癖のないさらりとした黒髪が、一見、エリートらしく知的。職務に忠実なようでいて、黒い瞳に蔑むような色を湛えて私を鬱陶しそうに見る人……それが、第一印象だった。

――お腹の子の父親は、彼以外心当たりはない。

母という悪いお手本を見て育ったせいで、私は恋愛にも結婚にも期待や夢はなく、もちろん男性経験はまったくなかった。

大事に守ってきた身体じゃない。あの日あの夜、この身体を彼にどうされようと、構わなかった。

だからって、妊娠なんて……。

あの時どうしてもっと冷静になれなかったのか、自分を呪いたい気分だ。

なんとなくお腹に鈍い痛みを感じて、私は無意識に両腕で抱え込んだ。

前に身を屈めて目を閉じると、今でも鮮明にあの時のことが網膜に浮かび上がってくる。

なにもかもが、今まで知らない初めての感覚だった。

声も反応も、自分のものとは思えないような。

意志とは関係のないところで、自分が自分じゃなくなっていくのが怖いのに、与えられるすべてが快感に変わり、恍惚としてしまった間に――。

『……お前、まさか処女か?』

私を組み敷いた彼が、額にうっすら浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、当惑気味に問いかけてきた。

『バカか! 払い損なんて言い方するから、こっちはてっきり……』

身体の中心を貫く耐え難い痛みに戦慄く私の上で、責任逃れするみたいにチッと舌打ちをした。

だけど、無言で深い溜め息をついた後……。

『わかった。だったらせめて、本当の恋人に抱かれてる錯覚、見せてやるよ。今だけは、本気で愛してやる』

そう言って、頼んでもいないのに、火照って昂る身体をぴったり重ね、固く抱きしめてきた。

熱い体温がどちらのものかわからなくなるほど、触れた部分が全部溶けて、肌の境界線が失われていくほど交わって……。

「っ……」

自分の思考に導かれ、あの時の熱が肌に蘇る。

私は小さく息をのみ、肩を上下させて息をした。

それでも、限界を越えて高鳴った鼓動は、簡単に鎮まりはしない。

私は両肘を抱えて、動悸が治まるのを待った。

あの夜、私は初めて、他人に『愛された』。

それで、このお腹の子を宿した。

私がどんなに冷ややかな目で見ていても……この世で唯一私を愛してくれた母が、私が独りぼっちにならないよう、授けた命だというなら、なおさら。

「私と同じ人生を、歩ませちゃいけない」

無意識に口を突いて出た言葉が、鼓膜にしっかりと刻まれる。

そう。だから、『産まない』という決断が正しいのだ。

わかっているのに、今さら心が揺れ惑う。

ドクンドクンと、早鐘のように打つ心臓が訝しい。

どうして?

わからない。

わからないけど。

『あなたがいてくれたから、自分は幸せだった』

――この子を産めば、私もそう思える?

「っ……!」

私はなにかに突き動かされたように立ち上がり、まっすぐ受付に歩いていった。

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