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あなたの子です。結婚してください
あなたの子です。結婚してください
Author: 水守恵蓮

Prologue

Author: 水守恵蓮
last update Last Updated: 2025-03-31 15:24:27

私は、父の顔を知らない。

戸籍上でも、存在しない。

それでも、私が生を得た以上、父親の役割を持つ人間がいるのは確か。

私は父に関する情報を、すべて母から伝え聞いた。

なんでも、『ジョン・エヴァンズ』という名のイギリス人だそうだ。

父が外国人というのは、私の髪が周りの他の子と違って薄い栗色で瞳はヘーゼル、顔立ちも日本人離れしているから納得できる。

純粋な日本人の母は、イギリスの貿易会社の社員だった父が日本に赴任していた時に、東京で出会ったという。

母は幼い私に、『王子様みたいな人だったのよ』と語った。

多分、私が夢中で読んでいた、シンデレラや眠り姫の王子様のように、素敵な人だと刷り込みたかったんだろうけど、その王子様はお姫様を迎えに来るのではなく、私が生まれる前に身重の母を置いて姿を消した。

そんなわけで、私の家族は、生まれる前からずっと母一人だった。

今の時代、シングルマザーは、それほど珍しくない。

でも、私が育った母の生まれ故郷の田舎町では、住民の感覚は都会に比べて一時代くらい遅れている。

母子家庭は、うちくらいだった。

その上、私がハーフだから、母は私を連れて歩くだけで、外国人に弄ばれて捨てられた惨めな女という色眼鏡で見られる。人々から向けられる奇異の目と偏見は、ただでさえ苦しい生活に精神的苦痛という拍車をかけた。

せめて、父が日本人ならよかったのに。

いや、私を産まなきゃよかったのに。

母一人なら、見世物みたいに生きるんじゃなく、ごく普通の幸せな生活を送ることができただろうに――。

いつの頃からか、私は同じ女として、母に冷ややかな視線を送るようになっていた。

そうすることで、『私は母とは違う』と、自分自身に刻みつけていたんだと思う。

それなのに、二十五歳になった今。

私は、母と同じ運命を辿るか逃れるか、人生の岐路に立っている。

「妊娠……ですか。私が」

一通りの検査を終え、粗末な丸椅子に座って初老の男性医師と向き合った私は、呆然と呟いた。

大きく目を瞠ったまま、瞬きも忘れる私に、そばに控えていた看護師が眉尻を下げる。

「沢(さわじり)さん、もう十二週目です。すぐにお相手の方にも報告してくださいね」

狭い田舎町。私が知らなくても、看護師は私を知っている。

私が母子家庭で育ったことも、未婚のまま妊娠診断を受けていることも。

そして多分……『お相手』なんか、いないことも。

「産めません」

話し合うなんて、悠長な提案は聞いてられない。

「……産みません」

私は、即決で返した言葉を、自分の意志に言い換えた。

「中絶を……希望されますか」

医師と看護師から向けられる視線に、憐みのようなものが混じったのを見て、無意識に俯く。

「沢尻さん。人工妊娠中絶は二十二週までは可能ですが、十二週までとそれ以降では、方法が異なります」

医師が、その方法とやらを淡々と説明し始めた。

すでに十二週目の私には、人工的に流産させるという方法を取るそうだ。身体への負担が大きく、数日の入院を要する上に、胎児は死産として埋葬届を出さなければならない。健康保険適用外だから、それなりの費用がかかる。

医師も看護師も様々な負担を強調して、私に中絶を思い留まらせようとしていた。

もちろん、私も怯んだ。

だけど――産めるわけないじゃない。

母子家庭の生活の苦しさは、私が一番よく知っている。

生まれてくる子は、イギリス人の父の血が四分の一入ったクォーターだ。

誰が好き好んで、母と同じ人生を繰り返そうだなんて思うの。

もっと早く気付いていれば……と、自分でも後悔して唇を噛む。

でも、この一ヵ月ほどの間、自分の体調を気にする余裕もないほど、忙しかった。

「わかりました。でも、産みません」

説明への理解を示しただけで、中絶の意志を変えない私を見て、

「そうですか」

医師は静かに相槌を打った。

「それでは、手術の予約を取りましょう。これ、中絶同意書です。お相手の方に署名してもらって、入院当日に持ってきてください」

淡々とした説明と共にA4サイズの用紙を差し出され、私はギクッと肩を強張らせた。

「署名……」

思わず独り言ち、同意書に目を落とす。

「……沢尻さん」

医師は、辛抱強く同意書を差し出したまま、穏やかな口調で私を呼んだ。

「こういう言い方でいいのか、わかりませんがね。亡くなられたお母様があなたを案じて、独りぼっちにならないよう、授けてくれた命のようには思えませんか?」

諭すように言われて、私はビクンと身体を震わせた。

「え……?」

「お母様は、最期まであなたを心配していたと聞いています。そして、あなたがいてくれたから、自分は幸せだった、とも」

聞き返しながら顔を上げた私に向けられたのは、私には到底共感できない、母の最期の言葉。

そう――。

私の母は、突然病に倒れて、ついひと月前に亡くなった。

私一人を、自ら創り上げた茨の世界に遺して。

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