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第2話

Author: 弦音
採血はまだ続いていた。意識が霞み始めると、記憶の奥底に封じ込めていたはずの過去が、怒濤のように押し寄せてきた。

5年前。雪奈は北山市で最も華やかで、気高く咲き誇る紅い薔薇のようだった。

藤原家の令嬢であり、容姿端麗で家柄も申し分ない。華やかで自己主張の強い性格で、どこへ行っても人々の視線を一身に集めていた。

あの夜会で初めて謙人の姿を目にするまでは。

黒いスーツに身を包んだ彼は人混みの中心に立ち、片手にシャンパングラスを持っていた。傍らの相手と静かに言葉を交わす横顔にシャンデリアの灯りが落ち、涼やかな目鼻立ちと、どこか浮世離れした冷ややかな雰囲気を際立たせている。

その姿はまるで、雪原にそびえる氷の彫刻のように冷たく、近寄りがたかった。

雪奈の胸が大きく高鳴った。一目惚れなど信じたこともなかったのに、あの瞬間だけは信じてしまったのだ。

好きになったら、まっすぐに想いをぶつける。それが雪奈の流儀だった。だから彼女は、迷うことなく謙人にアプローチし始めた。

花を贈り、プレゼントを届け、偶然を装って会いに行き、彼の会社の前で仕事が終わるのを待った。

想いを隠すつもりなど毛頭なかった。堂々と、周囲が呆れるほど情熱的に、彼を追いかけた。藤原家の令嬢が謙人に恋い焦がれていることは、北山市中の誰もが知っていた。

けれど謙人は、いつまで経っても心を動かされなかった。彼女を見る瞳に嫌悪はないが、心を動かされた様子もない。ただ、どこか冷たい距離があった。まるで雪奈のしていることなど、幼い子供のままごとにすぎず、真面目に取り合う価値もないとでも言いたげに。

そして、あのパーティーの夜。雪奈が人前で再び想いを告げたとき、謙人はついに耐えかねた。

彼女をバルコニーへ連れ出すと、はっきりと告げたのだ。自分にはすでに愛する人がいる、と。ただ、その相手とは家柄が釣り合わず、家族も認めていない。今はどうにか穏便に済ませる方法を探っている最中なのだと。

雪奈は言葉を失った。

身を切られるようにつらかったが、もともと思い切りのいい性分だった。涙で目を真っ赤に腫らしながらも、潔く諦めると告げ、二人の幸せを願うと伝えた。

それで、すべて終わりだと思っていた。まさか桐本家の両親が、この縁談にひどく乗り気になってしまうとは想像もしていなかったのだ。

一か月後、桐本家の両親が二人のための食事の席を強引に設け、そこであろうことか、二人の飲み物に薬を混ぜたのだ。

翌朝目を覚ますと、雪奈は謙人の隣に横たわっていた。全身が軋むように痛む。口を開く間もなく扉が乱暴に開かれ、記者の群れがなだれ込んできた。フラッシュの白い光が瞬き、シャッター音が機関銃のように鳴り響く。

責任を取るため、そして両家の体面を守るため、謙人はこの望まぬ縁談を受け入れざるを得なかった。

結婚の準備が進む間、彼はずっと深く塞ぎ込んでいた。まるで厚い暗雲の下で燻る炎のように、いつ爆発してもおかしくない危うさがあった。

雪奈にはそれが見えていた。ある日の午後、彼女は書斎の扉を叩き、彼にこう言ったのだ。

「謙人。私は、望まれない結婚に泣きすがって責任を取らせるような女じゃないわ。まだ侑香のことが好きなら、一緒に抗いましょう。この縁談、白紙に戻せばいい」

彼はデスクの前に座っていた。目の前には書類の山があるが、その瞳はひどく虚ろだった。

「この結婚をしなければ、親たちは侑香に危害を加える」

謙人は言った。

「彼女はもう、俺のせいで十分すぎるほど苦しんできた」

ゆっくりと顔を上げ、雪奈を見つめる。その目には、複雑な感情が暗く渦巻いていた。

「雪奈、この結婚は避けられない。だが安心してくれ。彼女のことは、忘れる」

それが、彼が初めて雪奈と交わした約束だった。そして彼女は、その言葉を信じたのだ。

以来、彼は侑香と一度も会うことはなかった。

結婚式の当夜、侑香から着信があった。謙人は押し黙ったまま、通話終了ボタンの上で指を迷わせていた。

そのとき雪奈は、胸の痛みを堪えながらも冷静にこう言ったのだ。

「出れば、家族に知られてしまうわ。あなたがまだ彼女と繋がっているって。それじゃあ、彼女を守ろうとした意味がなくなってしまう」

謙人はちらりと彼女へ視線を向け、静かに電話を切った。

だが、まさにその夜。侑香は何者かに暴行されたのだ。

雪奈が後になって知ったことだが、あの着信は、侑香が謙人に助けを求めるためのものだった。

一人で一晩中酒を飲み、帰り道で暗い路地に引きずり込まれた。あの着信が、彼女が必死の思いでかけた唯一の電話だったのだ。

それ以来、侑香は重いうつ病を患うようになった。

何度も自殺を図った。手首を切り、睡眠薬を大量に飲み、ガス栓を開けたままにした。そのたびに謙人が駆けつけ、彼女を死の淵から引き戻した。

雪奈に、何が言えただろうか。何も言えなかった。

侑香は、謙人が心の底から愛した人だ。彼が生涯でただ一人、深く愛した女だったのだから。

我慢すればいつか終わる、そう信じていた。だがその先に、もっと底知れない奈落が待っているとは思いもしなかった。

ある日、侑香は車を運転中に事故を起こし、歩行者をはねて死亡させてしまった。防犯カメラには、彼女が信号を無視して交差点に進入する様子が、はっきりと残されていた。どう見ても、事故の責任は侑香にあった。

遺族は頑として示談に応じなかった。金も謝罪も要らない。ただ法的な責任を取らせると言って聞かなかった。

深夜、謙人は雪奈のもとを訪れた。

「雪奈。侑香のうつはもう限界だ。刑務所になんて入れたら、間違いなく中で死んでしまう。3年でいい。彼女の身代わりになってくれないか」

雪奈は拒絶した。どうして自分が、他人の代わりに刑務所へ行かなければならないのか。

だが謙人は、彼女に選ぶ余地さえ与えなかった。

雪奈を気絶させたのだ。次に目を覚ましたとき、彼女はすでに留置所の硬い寝台の上に横たわっており、傍らには偽造された自白調書が置かれていた。

檻の中で泣き叫び、暴れもした。しまいには誇りも尊厳もかなぐり捨てて、一度だけ電話をさせてほしいと留置担当官に懇願した。電話は長いこと鳴り続けたが、誰も出なかった。

もう一度かけ直してみても、やはり同じだった。

三度目。ようやく繋がったが、電話口に出たのは彼の秘書だった。

「社長は侑香様に付き添っておられまして、お電話に出られる状況にはありません。雪奈様、どうか役目を果たしてください。刑期を終えれば済むことですから」

刑期を終えれば済む――なんと軽々しい言葉だろう。

その夜、全身を血まみれにした雪奈は、静かに電話を切った。それ以来、二度と彼に電話をかけることはなかった。

そして謙人への愛情も、地獄のような3年のうちに跡形もなく消え去った。

刑期を終えて真っ先にしたのは、離婚届を突きつけることだった。

現在、離婚の手続きはすでに進んでいる。指輪を取り戻そうとしたのも、彼との最後の繋がりを完全に断ち切りたい、ただそれだけの理由だった。

採血はまだ続いていた。雪奈は体がどんどん冷え、意識が薄れていくのを感じていた。

看護師が針を抜き、脱脂綿を押し当てる。立ち上がった瞬間、ふっと膝から力が抜け、目の前が急激に暗転した。そのまま、彼女は深い闇へと沈んでいった。

再び意識が戻ったとき、雪奈は病室のベッドに横たわっていた。謙人は入り口に立ち、医師と深刻そうに話し込んでいる。

「少し採血しただけで、どうして急に倒れたんだ」

医師は検査報告書をめくりながら、重苦しい口調で答えた。

「桐本さん。雪奈さんの体には、以前に負ったと思われる傷の痕がいくつも確認されています。中には、かなり重いけがだったと考えられるものもあります。

もともと体力がひどく低下していたところに、今回の採血が重なり、容体が悪化した可能性があります。

それから、過去に流産された形跡もありますが、その際にも十分に回復しきらないまま、今日まで過ごされていたのではないかと……」

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