INICIAR SESIÓN私は水野千歳(みずの ちとせ)。この日は、婚約者の柏木拓海(かしわぎ たくみ)との披露宴の日だった。 披露宴が始まる2時間前、父・水野正和(みずの まさかず)は田舎町から電車やバスを3度も乗り継ぎ、式場のホテルまでやって来た。 父が着ていたのは、10年以上も大事にしまっていた、よそ行きの古いスーツだった。袖口は擦れて色褪せていたが、革靴だけはぴかぴかに磨かれていた。 胸元には、赤い花飾りがついていた。ホテルのエントランスでは、ガラスに映る自分の姿を確かめながら何度も付け直し、ようやく位置を整えた。 会場に入ると、父は席次表を手にしたまま、おずおずと拓海のもとへ歩み寄った。 「拓海くん、私の席はここで合ってるか?」 拓海は席次表にちらりと目をやっただけだった。 「それ、変更前の席次表です。直前に席を変えたんで、お義父さんには別の席に移ってもらいます」 父は一瞬、言葉を失った。 「でも、私の席はこっちになってるんだが……」 拓海は面倒そうに眉をひそめた。 「今日は柏木グループの株主や大切な来賓も来ています。そちらの席を優先しないといけないんです。空いている席がありますから、そこに座ってください」 父は何も言えず、自分の古びたスーツに目を落とした。それから席次表をゆっくり折りたたみ、ポケットにしまった。 胸元の花飾りも外そうとしたが、留め具が布に引っかかってなかなか外れない。焦るほど手が震え、うまく指が動かなかった。 そこへ、拓海の母が淡々と口を挟んだ。 「水野さん、お食事をするだけなんですから、席なんてどこでも同じでしょう?拓海を困らせないでください」 父は慌てて何度も頷いた。 「はい、はい……私はどこでも構いません」 そう答えると、父は足元に置いていた古びた木箱を抱え上げ、案内された席へ向かった。 ふと会場に目をやると、ひときわ目立つテーブルには、拓海の長年の友人・藤井彩乃(ふじい あやの)の家族の席札が並んでいた。 拓海は彩乃の母親に付き添い、丁寧に席まで案内していた。 一方、父は私のために用意してくれた嫁入り道具の入った木箱を抱えたまま、スタッフ用の出入り口に近い席に座っていた。
Ver más2か月後、うちの会社は隆司の案件を受注した。調印式の日、父は最前列の席に座っていた。着ていたのは新しい淡いブルーのシャツで、高いものではなかったけれど、きれいにアイロンがかかっていた。隣では悠真が、手元の書類を何度もめくっていた。父が小声で言った。「もうそのくらいにしとけ。紙が破れるぞ」「確認してるだけだよ」壇上に上がって2人を見たとき、ふと結婚式の日の父を思い出した。あの日、父はスタッフ用の出入り口のそばに座らされていた。背後を配膳用のワゴンが行き交い、足元にはスープのこぼれた跡があった。拍手さえ、周りを気にして控えめにしていた。けれど今日は、最前列に座っていた。席をずらすよう言う人も、撮影の邪魔だと言う人もいなかった。調印を終えると、隆司が私に手を差し出した。「水野社長、今後ともよろしくお願いします」「水野社長」と呼ばれた途端、父の目がぱっと明るくなった。父は少しだけ背筋を伸ばした。私が娘であることが、どこか誇らしそうだった。調印式が終わって会場を出ると、拓海が待っていた。前よりずいぶん痩せていた。スーツ姿は相変わらずきっちりしていたが、以前のような、何でも思いどおりにできるという余裕はもうなかった。父を見ると、拓海は声を落として言った。「おじさん」父は一度足を止めたが、その呼びかけには何も返さなかった。「千歳、父さんと悠真は車で待ってるからな」悠真は一度こちらを振り返った。私が頷くと、父と一緒に車へ向かった。2人が離れてから、拓海は持っていた書類を差し出した。「藤井家とは、もう一切関わってない。健太も、もう柏木グループの案件には関わらせない」私は受け取らなかった。拓海は続けた。「結婚式も、もう一度やり直せる。今度は全部、千歳が最初に考えてたとおりにする。おじさんには千歳が決めてた席に座ってもらうし、悠真にも改めてグルームズマンを頼む」その話を聞いているうちに、どっと疲れた。「拓海。今になって戻ってきたのは、私を愛してるから?それとも、案件も、後継者としての立場も、藤井家と付き合うことで得てたものも、全部失ったから?」拓海の顔から一瞬、血の気が引いた。「千歳、本当に悪かった。あの日、俺は……」「悪かったのは、あの日だけじゃないよ」
拓海が会社に戻ると、会議室にはすでに取締役たちが揃っていた。結婚式での一件も、隆司との案件が止まったことも、健太が会食で失態をさらしたことも、すべて今日の議題になっていた。会議室の奥では、拓海の父が険しい顔で待っていた。「お前にこの案件を任せたのは、結果を出せると思ったからだ。それを、プロジェクトに関係のない人間まで連れていって、会社の信用を落としてどうする」拓海は席に着かず、立ったまま話を聞いていた。こういう場には慣れているはずだった。どれだけ厳しく追及されても、いつもなら冷静に受け答えし、何事もなく切り抜けてきた。けれど今回は、何か説明しようとしても、言葉が続かなかった。悠真をグルームズマンから外したのは拓海だった。健太の振る舞いを止めず、彩乃の家族が会場でも目立つ席に座ることもそのまま認めた。結婚式では藤井家に感謝を伝えながら、千歳の父には一言も触れなかった。結局、どれも拓海自身が選んだことだった。会議の終わりに、拓海の父は一言だけ告げた。「後継者としての話は、いったん保留だ」拓海が会議室を出ると、廊下では彩乃が待っていた。目を赤くした彩乃は、拓海を見るなり近づいてきた。「拓海、健太は本当に悪気があったわけじゃないの。あなたの役に立ちたかっただけなのよ。おじさまも、健太だけに全部責任を負わせるなんてひどいよ」拓海はしばらく何も言わず、彩乃を見ていた。彩乃は次第に落ち着かなくなったのか、先に口を開いた。「どうしたの?」「結婚式の日、千歳のお父さんがどこに座らされてたか、知ってたか?」彩乃は言葉に詰まった。「私……」「知ってたよな」拓海は低い声で続けた。「悠真がグルームズマンから外されたことも」彩乃の目に、また涙がにじんだ。「拓海、あの日は本当にバタバタしてたし、私だってどうしたらいいか分からなかったの。それに千歳はずっと私のことを誤解してたでしょ。私が何か言ったら、余計こじれると思って……」以前なら、彩乃がそう言えば、それ以上追及することはなかった。誰かに責められそうになれば、いつも拓海が間に入って庇ってきた。けれど今、頭に浮かんだのは結婚式の日のことだった。千歳の父はバックヤードで、袖口を濡らし、手の甲から血を流していた。それでも拓海に気
拓海がうちに来た日、父はベランダのそばにしゃがみ、木箱の留め金を付け替えていた。白髪交じりの髪に陽が差し、父は小さなドライバーをゆっくり回していた。そこへインターホンが鳴った。悠真が玄関を開けると、そこには拓海が立っていた。拓海の顔を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何しに来たんだよ」拓海は手土産を提げていた。包装からして高そうで、拓海の母が選んだのだとすぐに分かった。けれど、玄関先に立つ拓海には、いつもの余裕がなかった。「千歳に会いたい」悠真は鼻で笑った。「姉ちゃんがお前に会うわけないだろ」それでも拓海はその場を動かず、悠真の向こうにいる父へ目をやった。昔なら、拓海が来ると父はすぐに笑って立ち上がり、お茶を淹れたり果物を出したりと忙しくしていた。けれど、この日は違った。父は手にしていたドライバーを置くと、ゆっくり腰を上げた。「柏木さん」その呼び方に、拓海の表情が一瞬こわばった。拓海は家に上がると、手土産をローテーブルに置いた。「おじさん、結婚式の日のことは……俺の配慮が足りませんでした」父は返事をせず、木箱に残っていた木屑をふっと吹き払った。「結婚式は、もう一度やり直せます。今度はおじさんにもきちんとした席を用意しますし、悠真にも改めてグルームズマンをお願いします」悠真は鼻で笑った。「勝手に外しておいて、今さら頼めば済むと思ってんのかよ」父は悠真を制し、引き出しから1枚の紙を取り出した。式場の予約金、料理や飲み物、装花や演出、招待状、引き出物――紙には、それぞれの費用が細かく書き出されていた。父はそれを拓海の前に差し出した。「こちらで出す分は、こちらで払います。柏木家に出してもらうつもりはありません」父は一言ずつ確かめるように、ゆっくり続けた。きっと、何度も考えてきた言葉なのだろう。「それから、もう柏木家と縁続きになることもありません」拓海の表情が固くなった。「おじさん、俺は金の話をしに来たんじゃありません」「でも、こちらはそうはいきません」父は静かに続けた。「お金なら、払えば済みます」父は顔を上げ、拓海を見た。「でも、人をあんなふうに扱ったことまで、お金で済むとは思いません」拓海は何も言わなかった。そのとき、私は部屋から出
拓海は、私が抜けたくらいで隆司との案件が立ち行かなくなるとは思っていなかった。昔からそうだった。私がどれだけ手をかけても、拓海にとってはやって当然のことだった。夜通し企画書を直しても、それくらいやって当然だという顔をされた。取引先と一緒に郊外の工場を何軒も回り、靴擦れで足に血豆ができたときも、「女のほうが細かいところに気づくし、こういう仕事には向いてるだろ」と言われただけだった。隆司が納得するところまで予算を詰めても、会議で拓海が口にしたのは「チームがよくやってくれた」の一言だけ。私の名前が出ることはなかった。だから今回も、私が抜けたところで、なくなるのはせいぜい手元の資料くらいで、案件そのものには何の影響もないと思っていたのだろう。3日後、拓海は隆司との会食の席を設け、健太まで同席させた。その話を聞いたとき、私は法務局で、会社の設立登記に必要な書類を提出する順番を待っていた。悠真は隣で書類の束を抱え、父は待合の椅子に座って、修理途中の木箱を膝に載せていた。留め金はまだ直っておらず、蓋がずれないよう片手で押さえていた。悠真が小声で吐き捨てた。「健太まで連れてくって、どういう神経してんだよ」私は書類に署名を済ませ、ペンを置いた。「好きにさせればいいよ」自分で痛い目を見て、初めて分かることもある。その会食で何があったのかは、あとになって隆司の秘書から聞いた。拓海はきちんとスーツを着て現れ、健太もいつになく改まった格好をしていた。会食が始まって間もなく、健太がさっそく場を盛り上げようと口を開いた。「西村社長、ご安心ください。この案件、柏木グループに任せてもらえれば間違いないです」隆司は健太を見た。「君はどこを担当してるんですか?」健太は一瞬、言葉に詰まった。「私は……拓海さんの下で、いろいろ勉強させてもらってます」それから、取り繕うように笑った。「前の企画書も見ましたけど、要するに若い層に向けたマーケティングが中心なんですよね」隆司の表情がすっと冷えた。あの企画で本当に重要なのは、若い層へのマーケティングなんかじゃない。老舗ブランドのサプライチェーンを立て直し、そのうえで販売チャネルを顧客層ごとに組み直すことだった。隆司が一番気にしていた在庫回転の問題も、私は1か月かけ