Share

第3話

Author: 弦音
パリンッ――!

雪奈の体が激しく震え、ほとんど本能のままに伸ばした手で、ベッド脇の棚に置かれていたガラスのコップを払い落とした。

コップは硬い床に叩きつけられ、粉々に砕け散った。とっくに死に絶え、もう痛むはずなどないと思っていた心が、その瞬間、不意打ちを受けたように鋭く抉られた。

そう。彼女は流産していたのだ。

3年前。妊娠検査薬に浮かんだ二本の線を見つめた、その日のうちに、謙人に事実を伝えることさえできないまま、彼女はあの生き地獄のような監獄へと、他ならぬ彼自身の手で送り込まれた。

刑務所での日々は、まさに地獄そのものだった。

髪を掴まれて壁に叩きつけられ、薄暗く湿った階段から突き落とされ、凍りつくように冷たいコンクリートの上に、意識を失うまで跪かされた。

ある日、前触れもなく激しい暴行を受けた。その最中、下腹部を鈍い刃物で容赦なく掻き回されるような激痛が襲ってきた。

狭い監房の隅にうずくまり、体の下に広がっていく赤黒い血だまりを見つめながら、あまりの激痛に叫び声すら上がらなかった。ただ唇を強く噛みしめ続けた。口の中いっぱいに、生ぬるい鉄錆の味が広がるまで。

誰も助けてはくれなかった。

冷たい床の上で、たった一人、自分の体をきつく抱きしめながら、まだ形をなさない小さな命が、少しずつ自分の体から剥がれ落ちていくのを感じていた。

大量の血が流れた。今日の採血など、到底比べものにならないほどに。

あの絶望的な痛みは骨の髄まで刻まれており、今でも思い出すたびに、手足の先まで冷たく震える。

けれど、彼が知る由もなかったのなら。あのとき彼の心も瞳も、すべて侑香だけに向けられていたというのなら……

今さら、知る必要もないことだ。

謙人はこちらの物音に気を取られ、医師が最後に告げた言葉をきちんと聞いていなかったらしい。彼は足早に歩み寄ると、腰をかがめて様子を確かめた。

「どうした?手に力が入らないのか?水を飲ませようか?」

雪奈は無言で首を振り、伸びてきた彼の手を避けた。医師は空気を読み、そっと席を外した。

謙人は椅子を引き寄せ、ベッドの脇に腰を下ろした。長い沈黙のあと、掠れた声で口を開く。

「……あんなに傷を負っていたのに、どうして俺に言わなかったんだ」

雪奈は彼を見つめ、その問いがひどく滑稽に思えた。実際、ふっと笑いがこぼれた。口の端はわずかに上がっていたが、その目はまったく笑っていなかった。

「言ってどうなるというの?何度も看守に頼んで電話をかけたわ。でも、一度でも出たかしら?」

謙人の顔からさっと血の気が引いた。口を開きかけては閉じ、ようやく絞り出したのは短い弁明だった。

「……すまない。あの頃、侑香の容態が悪くて、俺はずっと付き添っていたんだ。刑務所には話を通して、君の面倒を見てもらうよう頼んでいたはずなのに、まさか……」

まさか、ね。雪奈は冷ややかに思った。この男の言い訳は、いつも「まさか」だ。

「もう終わったことよ。どうでもいいわ」雪奈は淡々と言った。「侑香のところに行けばいいじゃない」

謙人は首を振った。

「彼女はもう大丈夫だ。ここ数日は君に付き添う。どこにも行かない。雪奈、君を愛するよう努力すると言っただろう。今度だけは特別だ。もう二度と君を傷つけさせない。どちらか選ぶときは、必ず君を選ぶ」

雪奈はただ静かに彼を見つめ、何も言わなかった。

それから数日、謙人は言葉通りに行動した。

毎日病院へ通い、お粥を運び、果物の皮を剥き、検査に付き添い、散歩では歩調を合わせた。

スマホが鳴るたびに画面を一瞥し、すぐに切る。また鳴っても、また切る。彼は一度も電話に出なかった。

以前の雪奈であったなら、これほど心を尽くして寄り添われれば、夜も眠れないほど喜んだかもしれない。けれど今、彼の背中を眺めながら感じるのは、出来のいい芝居を見せられているような虚しさだけだった。

確かに演技はうまい。ただ、雪奈はもう熱心な観客ではなかった。

その日の午後、謙人は町の西側にある店へ、雪奈が昔好きだった栗菓子を買いに出かけていた。雪奈は一人で検査を受けに行き、廊下の角で偶然、侑香と出くわした。

すっかり痩せ細り、病衣を着たその体は、まるでハンガーに掛けられた布のように頼りなかった。それでも、あの潤んだ瞳だけは、清らかな泉を湛えたように美しいままだった。

雪奈は気づかないふりをして、脇をすり抜けようとした。

「雪奈さん」侑香が呼び止める。

雪奈は足を止めたが、振り返ることはしなかった。

侑香は彼女の正面へと歩み寄り、深く頭を下げた。顔を上げたときには、その目の縁がすでに赤く染まっていた。

「雪奈さん。私に血を提供してくださったのは、あなただと聞きました。命を救ってくださって、本当にありがとうございます」

「お礼はいらないわ。条件つきの献血だもの」

雪奈の声はひどく平坦だった。

「あなたは望み通りになった。私も望み通りになった。それでお互い貸し借りなしよ。あなたにお礼を言われる筋合いなんてないわ」

そう言って立ち去ろうとしたとき、背後から再び声がかかった。

「あなたが私を嫌っているのは知っています」

侑香の声はかすかに震えていた。

「私自身、自分のことを軽蔑しています。でも、これだけは伝えたくて。私は、そんなに悪い人間じゃない。もし私が本当に何の取り柄もない女なら、謙人が何年も私を愛し続けるはずがないでしょう。

あのとき暴行されて、苦しくて、何度も絶望したけれど……それでも、あなたを恨んだことは一度もありません」

侑香は言葉を切り、涙をぽろぽろとこぼした。

「私があなたに一番申し訳なく思っているのは、あなたを身代わりにして、刑務所へ行かせてしまったことです。誓って言います。本当は、私自身が行くつもりでした。

でも……怖かったのです。私がいない間に、彼があなたを好きになってしまうのではないかと。あなたは私より、何もかも優れていらっしゃいます。家柄も、容姿も、お人柄も。だから……怖くなってしまったのです。私が臆病でした。

申し訳ありません。本当に、申し訳ありません。ただ、彼を愛しすぎていただけなのです。彼もまた、狂おしいほど私を愛してくれました。

それなのに……運命は残酷ですね。私たちは、どうしても一緒にはなれなかったのです」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • あなたの愛は、いつも遅すぎた   第19話

    その日の夕方。彼女は甘味処を閉め、帰り道を歩いていた。夕陽が空を橙色に染め、古い通りには人影も少なく、静かだった。聞こえるのは自分の足音だけ。こつ、こつ、こつ。路地の入り口に差しかかったとき、地面に一通の封筒が落ちているのに気づいた。白い封筒。差出人の名も、宛先も書かれていない。石畳の道の上で夕陽を浴び、縁が黄金色に染まっていた。拾い上げて開けると、中には一枚の写真と、一通の手紙が入っていた。写真には湖が写っていた。青く、まるで彼女が昔身につけていたネックレスのような深い青さだった。湖面には落ち葉が数枚。黄色や赤、緑の葉が、静かに浮かんでいた。湖畔にはベンチがあり、その上に二つの指輪が寄り添うように置かれていた。見覚えのあるものだった。病院の人工湖に投げ捨てた、二つの結婚指輪。手紙を開いた。そこには一行だけ、文字が書かれていた。震えた拙い筆跡で、ペンを握り慣れない手で一画一画刻みつけたかのようだった。線がところどころ曲がり、インクが滲んでいる。【拾い上げてきた。捨てないで持っていてくれ。すまなかった。この人生で償いきれない分は、来世で必ず返す】雪奈はその写真を握りしめ、路地の入り口に長い間立ち尽くした。風が吹き抜け、肌寒さに身を震わせた。写真と手紙を封筒に戻し、路地の奥にあるゴミ箱まで歩いていった。手を上げ、ゴミ箱の上で止めた。ほんの少し、ためらった。そして、手を離した。封筒はゴミ箱の中に落ち、他のゴミの上に重なった。白く、ひどく目立っていた。彼女は踵を返して歩き出した。振り返らなかった。……4年後。「忘れ草」は、町の別の通りに移転していた。店構えは以前より大きくなり、入り口には鉢植えがびっしりと並んでいる。ポトス、オリヅルラン、クチナシ、ジャスミン、そして小さな赤い薔薇の鉢が一つ。一輪だけ咲いた花びらは縁がわずかに巻き、まるで笑っているようだった。店を訪れる客も、少しずつ増えていった。常連客は毎日のように顔を出し、お茶と甘味を楽しみながら、雪奈と他愛もない世間話をしていく。観光客も、店先の雰囲気に誘われるようにふらりと立ち寄り、気がつけば午後のひとときを、そこでのんびり過ごしていた。雪奈は三人の従業員を雇い、自分はたまに店に顔を出す程度で、大半の時間を新しいことを学ぶの

  • あなたの愛は、いつも遅すぎた   第18話

    「遅くない」彼は彼女の手を摑み、強く握りしめた。指が痺れるほど強く。「もう一度だけ、チャンスをくれ。俺は……」「あげられないわ」彼女は彼の手を振りほどき、扉の前まで後ずさった。背中を扉板に押しつけ、荒い息をつく。「チャンスなら、もう全部あげたわ。5年、1800日あまり、数え切れないほどのチャンスをあげた。あなたはそれを望まなかった」彼女は言葉を切り、頬の涙を拭った。だが拭っても拭っても、涙は次から次へと溢れてきた。「もう、あげない」彼女は奥の部屋へ入り、扉を閉めた。その日、扉が再び開くことはなかった。……あの男が、また来た。今回は花束を持ってきていた。真っ赤な薔薇。満開の花びらには水滴が残り、陽射しを受けてきらきらと輝いていた。彼が雪奈に花を差し出すと、彼女は受け取り、うつむいて香りを嗅ぎ、微笑んだ。その笑みは軽く、淡く、それでいて紛れもない本物だった。謙人は隅の席で、その真っ赤な薔薇を、その笑みを見つめながら、爪を掌に深く食い込ませて血を滲ませた。赤い薔薇。彼女は昔から、赤い薔薇が一番好きだった。自分は一度も贈ったことがなかった。彼女には必要ないと思っていた。気にしないだろうと思っていた。何でも持っていると思っていた。実際は、彼女には何もなかったのに。「雪奈さん」男が彼女を呼んだ。声は柔らかかった。「一つ、伝えたいことがあるんだ」「何?」「好きなんだ」彼は彼女を見つめた。その真剣な眼差しは、まるで人生を左右することを告げるかのようだった。「初めてこのお店に来たときから、ずっと好きだった。君の過去は聞かない。ただ、君の未来に関わりたいんだ。僕に、チャンスをくれないか」雪奈は言葉を失った。謙人が勢いよく立ち上がり、椅子が倒れて大きな音を立てた。雪奈と男が同時に彼を見る。「出ていって」雪奈が言った。声は静かだった。「出ていかない」謙人が歩み寄り、男の前に立ちはだかった。目は氷のように冷たかった。「彼女は受け入れない」「謙人!」雪奈の声が跳ね上がる。「彼女は俺の妻だ」彼は男を見据え、一語ずつ言った。「俺は離婚を認めていない」「もう成立してるわ」雪奈がスマホを取り出し、離婚届受理証明書の写真を彼の目の前に掲げた。画面には「離

  • あなたの愛は、いつも遅すぎた   第17話

    「俺は……」「あなたは何一つしなかったじゃない」彼女は手を引き抜き、一歩後ずさった。「一度だって。あなたの心にはずっと侑香しかいなかった。私は何だったの?彼女の身代わりとして刑務所に入るための道具?彼女に輸血するためのタンク?あなたの罪滅ぼしのための、ただの飾り?」「ちが……」「じゃあ答えて。もしあの日、あの刃物を持った男がもう一度現れたら、あなたはあの薬を私に渡す?」彼女は彼を見つめ、一語一語、静かな声で問い詰めた。だがその言葉のすべてが、冷たい釘のように彼の骨へと打ち込まれていく。「渡す?」謙人は口を開きかけたが、何一つ言葉が出てこなかった。「渡さないわ」彼女は自分で答えた。「あなたは絶対に渡さない。彼女はあなたが心の底から愛している人。私は何?あなたが罪悪感を紛らわせるための相手よ。あなたが私に優しくしたのは、愛していたからじゃない。借りがあると思っていたからよ。でも、私はあなたの罪悪感なんていらない。償いもいらないわ。ただ、目の前から消えてほしいだけ」彼女は踵を返し、奥の部屋へと入っていった。扉を閉めた。今度は、強く。バタン、と大きな音を立て、壁に掛けられた絵がかすかに揺れ、テーブルの茶碗も音を立てた。その音が、彼の胸を何度も無惨に打ちのめした。謙人はがらんとした店の中に立ち尽くし、全身を震わせていた。ゆっくりとその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆う。指の隙間から、とめどない涙が溢れ出した。彼は甘味処の入り口で、一晩を過ごした。一晩中、考え続けた。彼女の冷ややかな言葉を、あの男が彼女を見る優しい眼差しを、彼女が彼に向けた本物の笑みを。夜が明ける頃、彼は立ち上がり、近くの24時間営業のスーパーへ行き、あるものを買った。そして店の前に戻り、腰を下ろして待った。朝になり、雪奈がやってきて扉を開けた。彼を見て、眉をひそめたが、何も言わなかった。扉を開け、中へ入り、茶を淹れ始める。湯が沸き、湯気が立ちのぼり、彼女の顔を白くけぶらせた。彼もついて中に入り、いつもの席に座った。「まだ帰ってなかったの」彼女が尋ねた。「一つ、わかったことがある」彼は言った。「何を」「前に君に優しくしていたのは、愛していたからじゃなくて、罪悪感からだった」彼は彼女を見つめた。目の縁が赤く染まっ

  • あなたの愛は、いつも遅すぎた   第16話

    「償いたいんだ」彼は言った。声は砂を噛んだように掠れていた。「君が望むことなら、何でもする」「なら、帰って」「それ以外なら」雪奈は彼を見つめた。長い沈黙が続いた。急須の湯が冷めきり、足元の影が短くなる正午過ぎまで、長い沈黙が続いた。「私が一番望んでいるものが、何かわかる?」「何だ」「自由よ」彼女は言った。「あなたのそばから離れる自由。もう手に入れたわ。だから、二度と来ないで」彼女は立ち上がり、奥の部屋へと入っていった。扉が閉まった。鍵こそかかっていなかったが、彼女が再び出てくることはなかった。甘味処に、一人の男が現れた。三十代前半、金縁の眼鏡をかけ、カジュアルなスーツを着て、物腰の柔らかな雰囲気をまとっていた。窓際の席に座ると、陽射しがその顔を照らし、笑みは春風のように穏やかだった。雪奈は慣れた手つきで煎茶を淹れ、季節の上生菓子と一緒に彼の前へ差し出した。湯気とともに、茶葉の爽やかな香りがふわりと立ちのぼる。男は茶を一口すすり、ほのかに笑った。「うまいな」雪奈は微笑み返した。心からの笑みだった。取り繕ったものでも、無理に作ったものでもない。目を三日月のように細め、口角が上がって、頬に浅いえくぼが浮かぶ。浅いえくぼだったが、確かにえくぼだった。以前からあったはずなのに、謙人は一度も気づいたことがなかった。彼の前で、彼女はこんなふうに笑ったことはなかったのだ。彼の前で見せる笑みは、いつも慎重で、どこか彼の機嫌をうかがうようなものだった。大きく笑いすぎて彼を煩わせないか、楽しそうにしすぎて調子に乗っていると思われないか、いつも怯えていた。謙人は隅の席で、その笑みを見つめていた。心臓を、鋭く抉られたような気がした。彼女がこんなふうに笑うのを、見たことがなかった。一度も。5年間、1800日あまり、彼女は数え切れないほど彼に笑いかけてきた。だが、こんな笑みは、一度もなかったのだ。「こちらは?」男が謙人に気づき、礼儀正しく尋ねた。「知らない人」雪奈は言った。彼のほうを見もしなかった。謙人の指がぎゅっと握りしめられ、関節が白くなり、爪が掌に食い込んで血が滲んだ。――知らない人。彼女は、彼のことをそう言ったのだ。男は軽く微笑んだだけで、それ以上は

  • あなたの愛は、いつも遅すぎた   第15話

    彼は通りを渡り、店の入り口に立った。ドアベルがカラン、と涼やかな音を立てた。雪奈が顔を上げ、彼を見た。彼女の表情は少しも動かなかった。驚きも、怒りも、怯えもない。ただ、どこまでも静かだった。その目はまるで、見知らぬ誰かを眺めているようだった。道ですれ違う人や、木から舞い落ちる一枚の葉に向けるものと、何ひとつ変わらない。「何をしに来たの」彼女は、何の感情もこもらない声で尋ねた。謙人は彼女を見つめた。喉の奥が張り付いたように声が出ない。口を開いたが、一言も出てこなかった。三か月間考え続け、三か月間準備してきたのだ。頭の中で、彼女に会ったら言うべき言葉を何度も繰り返してきた。なのに今、彼女の前に立つと、何一つ言葉にならなかった。「俺は……っ」彼は口を開いた。声は砂を噛んだようにひどく掠れていた。「迎えに来た」雪奈は彼を見つめた。ほんの少し見つめた後、ふっと笑った。その笑みはとても軽く、淡かった。風に吹かれれば散ってしまいそうな。「迎えに?どこへ?刑務所に?」「悪かった」謙人が一歩踏み出す。声は切迫していた。失いかけた何かに、必死ですがりつくように。「全部わかった。中で受けた苦しみも、子供のことも、浴室でのことも、全部わかったんだ。雪奈、すまない……」「ごめんなさいで、過去が変わるの?」彼女が遮った。声は相変わらず静かで、冬の湖のように、さざ波ひとつ立たなかった。「ごめんなさいで、あの3年をやり直せる?私の子供を、生き返らせられるの?」謙人の顔から血の気が引いた。紙のように白く、彼女が医務室のベッドに横たわっていたあの顔のように白かった。「帰って」彼女はうつむき、本に目を戻した。ページをめくる音がかすかに響く。「ここは、あなたが来るべき場所じゃないわ」「帰らない」彼は入り口に立ったまま、喉が焼け焦げたように掠れた声で言った。「君が許してくれない限り、俺は一日たりともここを離れない。一生許してくれないなら、俺は一生ここに立っている」雪奈は顔を上げなかった。本のページをめくり、指をそっと紙面に押し当てる。その手つきは、どこまでも落ち着いていた。「あっ、そう。なら、立っていればいいわ」彼女は本当に、彼を無視した。彼は入り口に立ち続けた。午後から夕暮れ

  • あなたの愛は、いつも遅すぎた   第14話

    彼は踵を返して立ち去った。背後から侑香の泣き叫ぶ声が響いた。追いすがってきた彼女が後ろから抱きつき、顔を彼の背中に強く押しつける。涙が彼のシャツにじわじわと染み込んでいった。「謙人、行かないで!私が悪かったわ、本当に悪かったの!愛してる、あなたなしじゃ生きられない……」彼は彼女の指を一本ずつ引き剝がした。爪が手の甲に食い込み、皮膚が裂けて血が滲んでも、彼は止めなかった。「君は俺なしでも生きていける」彼は静かに言った。まるで自分自身に言い聞かせるように。「彼女もそうだ。俺のほうが……彼女なしでは生きられないんだ」彼は去った。背後で扉が閉まり、侑香の泣き声を向こう側に閉じ込めた。彼は廊下に立ち、冷たい壁に寄りかかって天井を仰ぎ見た。天井の蛍光灯が青白い光を放ち、ジージーと無機質な音を立てている。人感センサーの照明が何度も消えては、彼のわずかな動きを感知して再び灯るほど、長い間そこに立ち尽くしていた。スマホが鳴った。智央からだった。「まだ彼女を捜すつもりか」謙人は答えなかった。「どうして彼女を捜したいのか、考えたことはあるか」智央の声は、電話越しに低く沈んでいた。「罪悪感からか、それとも別の何かか」「……わからない」彼は言った。声はひどく掠れていた。「わかってるはずだ」智央は言った。「認める勇気がないだけだ」謙人は長い間、黙り込んだ。廊下は不気味なほど静かだった。自分の心臓の鼓動が聞こえるほどに。「会いたいんだ」ついに謙人は言った。「彼女がどれだけ苦しんだかを知ったからじゃない。俺がどれだけ彼女に借りがあるからでもない。ただ、会いたいんだ。毎日、会いたいと思ってる。彼女がいなくなってから、俺は何も手につかない。頭の中は彼女のことばかりだ。笑う顔、泣く顔、怒って唇を引き結び、黙り込む顔。俺は……」彼は言葉を止めた。喉に何かがつかえたようだった。「愛してるんだな、雪奈のことが」智央が代わりに言った。謙人は目を閉じた。また涙が流れた。「ああ。愛してる」……謙人は丸三か月、雪奈を捜し続けた。動かせるあらゆる人脈を使い、調べられる限りの防犯カメラの映像を確認し、彼女を知るすべての人間に尋ねて回った。周辺の町という町を駆けずり回った。行く先々で彼女の写真を見

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status