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第2話

作者: 空念
診察室を出た途端、伊織の目の前が真っ暗になり、ぐるぐると回るような感覚に襲われた。

よろめき、体が重く後ろに倒れこもうとしたその時、温かく力強い腕が彼女を抱きしめた。

一条航平(いちじょう こうへい)は、真っ青な顔をした彼女を抱えながら、優しく彼女の額にかかった乱れた前髪を整えた。

「伊織、大丈夫か?

全部聞こえていたよ……怖がらなくていい。前向きに治療すれば、きっと良くなるから」

彼の目尻が明らかに赤くなっていた。

伊織の心の中ではわかっていた。航平は誰よりも彼女の死を恐れているのだと。彼が毎晩、墓の前で無精ひげを生やし、酒に溺れる姿まで容易に想像できた。

だが、司がその時、何を思うのかは思い描けなかった。

双月湾の貝殻を拾って、彼女の墓のそばに置いてくれるだろうか?

それとも何年も経ってから、真理子と二人の子供を連れ、通りすがりに眠る故人を見舞いに来るのだろうか?

「ありがとう、大丈夫よ。

一人にさせて。司に……誤解されたくないの」

伊織は無理に笑顔を作った。

彼女は航平の表情が一瞬で強張るのをはっきりと見て取った。まるで何かに突然刺されたかのように。

航平は彼女の大学の先輩で、かつて熱心に彼女を追いかけていた。

航平と初めて出会った時、ちょうど真理子が彼女の履いている偽ブランドの靴を笑っていた。彼女は恥ずかしさで顔を真っ赤にしていた。それはスーパーの商品で、たった六百円で、見た目が本物に似ているだけだった。

司の表情には少し躊躇いが見え、指の関節が白くなるほど握りしめていたが、何も言わなかった。

ただ航平だけが飛び出して、まったく怖がることなく彼女をかばった。「お前ら坊ちゃん、お嬢ちゃんどもは、頭の中がブランド名でいっぱいの能無しだな!恥さらすなよ!」

こうした気まずい場面を、航平は彼女のために何度も切り抜けてきたのだ。

しかし、航平自身もお金持ちの家の出だった。

司とは違って、彼は伊織をシンデレラだとも思わなければ、誰かに守ってもらわねばならない野良猫だとも思っていなかった。

彼は、なぜ彼女がラース・フォン・トリアーを好むのか、なぜ『メランコリア』という映画を見て涙を流すのかを理解していた。

彼女が書き綴る痛みに満ちた苦難の描写、雨の中で声を枯らして叫ぶ様子を理解していた。

彼女が司と喧嘩して、泥酔する度に、航平はいつもタイミングよく現れて、涙を拭き、子供をあやすように彼女の肩をポンポンと叩き、眠りにつくまでなだめてくれた。

時に伊織は、司に対して激しい憎しみを抱いた。なぜ彼はあんなにも理不尽に彼女の心の中に踏み込んできたのか。

あの一杯の素麺の後、十五平方センチメートルの心のスペースにはもう他の誰も入る余地がなかった。

「今度は、俺を突き放さないでくれ、お願いだ。

お前が何をしようと、俺がついている」

航平はまるで過ちを認める子供のように、素直にそばに立っていた。

薄い唇をきつく結び、伊織を緊張した面持ちで見つめていた。まるで試験の解答を不安そうに待つ受験生のようだ。

伊織が口を開くより早く、背後に力強い足音が響いた。

「どうした?体調が悪いのか?

悪い、病院にいるってスマホの位置情報を見たばかりだ。真理子が予約してくれたホテルから戻ったところだ。

誤解しないでくれ……」

司は平然と言い放った。

彼のワイシャツのボタンが二つ外れており、その縁にキスマークが覗いていた。

彼はいつも慎重な男だった。伊織が酔ってキスしようものなら、首筋をキスされないよういつも止めていた。会議の時に部下に見られるのが恥ずかしいからという。

伊織はそれを一瞥すると、うつむいて苦笑した。

「大丈夫よ。

帰ってもいいよ。会議の時は、ボタンをちゃんと留めるのを忘れないでね」

司は少し慌てて、素早くボタンを留めた。

「伊織、考えすぎだよ。朝ゴルフしてた時に、虫に刺されたんだ」

続けて、不機嫌そうに航平を睨みつけ、眉をひそめた。

「お前が航平を呼んだのか?どうして俺を呼ばなかったんだ?」

言外に、話題をそらしつつ、暗に伊織を責めている。

伊織は顔を上げ、それでも淡々と彼を見つめた。

「呼んだわ。

あなたと真理子がお風呂に入っていたのよ」

航平が彼女の前に立ちはだかり、司を睨みすえた。

「中尾司!お前、人間か?よくもまあ真理子のところに行けるな!

伊織がどんな病気にかかっているか、知っているのか?」

彼女はそっと航平の袖を引っ張り、病状を漏らさないようにと首を振って合図した。

「病気?何の病気だ?」

司もそわそわと落ち着かない様子だった。

すると、突然の電話の着信音が会話を遮った。

「また低血糖か?

待ってろ、すぐ戻る!」

彼は電話を切った。

「伊織の面倒を見てくれ、急用ができた。

……わかってくれよな?何せ真理子は友人だ。俺が面倒を見なければ、彼女を面倒見る者はいないんだ」

彼の後ろ姿が遠ざかっていくのを見て、伊織の心はどんどん虚ろになり、そして激しく引き裂かれるように沈んでいった。

この十年間、真理子の低血糖はいつも決まって特別な時に発作を起こした。

伊織の誕生日でさえ、司はスマホを気にかけて落ち着かなかった。

誕生日の歌を歌いながら、スマホの画面を消そうともせず、真理子が低血糖で倒れはしないかと気にし、いつでも彼女のメッセージに返信できるようにしていたのだ。

「わかってるわ。

行っていいよ」

伊織はうなずいたが、心の中にはかつてのような悔しさや辛さはほとんど残っていなかった。

あの時の素麺が、ただの同情に過ぎなかったのなら――

これほど長く寄り添い、支え合ってきたのに、それでも、彼女が傷つけられた時でも、彼はかばおうとはしなかったのなら……

もう、諦めよう。

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