Masuk響音寺の境内は、読経の響きと人々の熱気で満ちあふれていた。 そんな中、望月明日香(もちづき あすか)も本堂の座布団にひざまずき、ひたすらに祈りを捧げいた。 「私、望月明日香は聖地へ向かいます。聖山を守り、二度と北嶺山地からは出ないことを誓います!」 その傍らで住職の藤原宗道(ふじわら そうどう)は質素な衣をまとう明日香を見つめた。「聖山朝霧は、最後の浄土だ。足を踏み入れるなら、執着を捨て、人の情けも欲もすべて断ち切らねばならぬ」 それを聞いて、明日香の瞳がわずかに揺れる。だがその奥にあるのは、すべてをあきらめたような静けさだった。 「はい、もう結婚も子供も望まない。すべての未練を捨てて、この身を捧げる覚悟はできているから!」 そんな彼女を見て宗道は目に憐れみの色を浮かべて言った。「聖山は空気も薄く、一年中凍えるほどの寒さだ。それだけ生活環境も厳しく、一度入れば、命尽きるまで聖地を守り続けねばならないのだ。 明日香、本当に覚悟はできているのか?」 だが、明日香は深くうなずいて言った。「はい。私は命あるかぎり一生を聖地に捧げるつもりよ!」 彼女の決意が固いのを見て、宗道もそれ以上引き止めなかった。「では3日の間、身を清めて待てなさい。その後、地元の者に聖山へ送らせよう」 明日香が向かう聖山朝霧は、仏教の聖地で、部外者が足を踏み入れることは許されていないのだ。 一旦聖地を守るために山に入れば、外の世界とは完全に切り離されてしまうことになる。 それはつまり、青木涼太(あおき りょうた)とも、もう一生、二度と会えなくなるということだった。
Lihat lebih banyakそして、明日香が亡くなって7日が過ぎた。それでも、涼太は彼女がいなくなった事実を受け入れられないでいた。これが悪夢であってほしいと、どれほど願っただろう。目が覚めれば、すべて消えてなくなるはずだと。上空を飛ぶ飛行機の窓から、涼太は真っ白な雪に覆われた北嶺山地を見下ろしていた。彼は明日香の遺言通り、遺骨を聖山に埋葬することにした。そして、聖山のふもと、彼は骨壷を地中深くへと埋めた。かじかむ手で凍った土をすくい、少しずつ明日香を埋めていったあと、涼太は墓標に一文字ずつ、彼女の名前を刻み込んだ。【妻・明日香の墓】と。耳元で風がヒューヒューと鳴く。まるで、人が泣いているような音だった。そんな中、男はそっと墓標を撫でて、最後の別れを告げようと、彼はその場に立ち尽くしたまま、長いこと動けずにいた。帰る前、涼太は響音寺に立ち寄った。宗道はずっしりと重い箱を彼に手渡した。「これは明日香の遺品で、あなたにお渡しします」それを聞いて、涼太の動きが、ピタリと止まった。箱の中身は百枚以上の自分の肖像画と、少し歪んだシンプルな指輪だった。その指輪は、付き合い始めた頃に自分が贈ったものだ。適当に選んだ安い指輪だったのに、彼女は宝物のように大切にしていたのだ。明日香が青木家を出た時、金目のものは何も持っていなかった。持っていったのは、これらの絵だけ。どの絵も、彼女が一本一本、丁寧に線を引いて描いたものだった。絵のモデルは、例外なくすべて自分だった。仕事中に考え込む姿、眠っている時のクールな横顔、酔って切なそうな顔……自分のほんの些細な表情まで、すべて線で克明に記録されていた。明日香の愛は、自分が想像していたよりもずっと熱烈なものだったのだ。5年間、自分のそばで、明日香は彼女の役割を完璧にこなしていた。毎日のスーツを整え、ネクタイを選び、腕時計のメンテナンスまで欠かさなかった。自分が好きな本をこっそり買い、お気に入りのレコードを予約し、集めている切手まで揃えてくれた。ベッドでは優しく寄り添い、毎日ささやかなサプライズを用意して、恋のときめきを忘れさせないようにしてくれた。あの時二人はキラキラとした並木道で、甘いキスを交わしたこともあった。そんな幸せな記憶が、巻き戻された映画のように、彼の脳内で鮮やか
何日かがすぎ、ついに葬儀の日が来た。涼太は深い悲しみに沈んでいた。度重なるショックに打ちのめされ、心神喪失に近い状態だった。葬儀には霞も参列し、潤も弔問に訪れていた。霞の姿を見るなり、涼太の感情が一気に爆発した。「誰が君を呼んだ!帰れ!ここは君のくる場所じゃない!」そう言われて霞の瞳は潤み、涙が滲んできた。「明日香さんのことは、本当に申し訳ないと思っているの」そう言って、彼女は拳をぎゅっと握りしめた。「どうしても、せめて最後のお見送りをさせて」だが、涼太は獣のように吠えた。「そんなの必要ない、とっとと消えろ!」そう言われ、霞は恐怖で立ちすくみ、大粒の涙をぼろぼろとこぼした。見かねた潤が割って入った。「涼太、明日香さんを一番苦しめたのはお前だろう。どの口で霞を責めるんだ?立派な葬式を出せば、明日香さんへの罪滅ぼしになるとでも思ってるのか?」それを聞いて涼太は頭がじんじんするのを感じ、胸が締め上げられるような激痛を覚えた。彼は明日香の冷たくなった手を握り、ひたすら自分の体温を分けようとした。「明日香、君の葬式を邪魔する奴がいたら、俺が絶対に許さないから」だけど、霞はおずおずと歩み寄った。「明日香さんに泥棒の濡れ衣を着せたこと、ちゃんと謝らせて欲しいの」それを聞いて涼太の瞳には、背筋が凍るような冷たい色が宿っていた。「謝ったところでもう遅い。彼女には二度と聞こえないんだ」霞の顔色はさらに蒼白になり、今にも泣き崩れそうになった。それを見た潤はたまらなくなり、急いで彼女を背にかばった。「涼太、お前の強欲さが招いた悲劇じゃないか。今さら一途な悲劇の夫を演じるなんて、滑稽すぎて笑えないぞ」失ってから気づく愛になど価値はない。それくらい、涼太だって分かっているはずだ。一方で霞が潤の袖を引っ張た。「潤、もう言わないで!」彼女はこれ以上責め立てれば、涼太が完全に発狂しかねないと恐れたのだ。だが潤の勢いは止まらない。「生きてるうちは大事にしなかったくせに、死んだ途端にお涙頂戴か?わざとらしい茶番劇を見せられても、誰も感動なんかしねえよ!」そのとき、霊柩車が到着した。涼太は棺にすがりつき、人たちを寄せ付けまいと必死に抵抗した。彼は名残惜しそうに呟く。「明日香、火葬なんてしたくない。君の体をこのま
明日香は目を固く閉ざして、眠っているように静かだった。顔は真っ白で、桜色だった唇からも色が消えている。涼太は冷たくなった彼女の頬に触れ、声を枯らして泣き叫んだ。宗道はその場で墓穴を用意し、明日香を埋葬しようとした。だが、涼太は遺体を強く抱きしめ、意地でも連れ帰ろうとした。「明日香、一緒に帰るぞ」宗道は経を読み、その魂を極楽へ送ろうとした。「青木さん、彼女はなくなったから早く供養をしてあげるのが一番です!」だが、涼太は狂ったように殺気立てて、言い返した。「俺の手で葬式を出して、ちゃんとした形で見送るんです!」彼は周りの制止も聞かずに、彼は強引に明日香の遺体を運び出そうとした。宗道はため息をついた。「生前は大事にしなかったのに、失ってから求めるとは……青木さん、なぜ自らを苦しめるのですか?」涼太は明日香の目元のほくろや、鼻筋をそっと指でなぞり、その顔を脳裏に焼き付けようとした。そして荒い息を吐き、彼は捕らわれた猛獣のように唸った。「別れ際があんな最悪でした。だから最後くらい、立派に見送らせてください!」復縁の夢は砕け、過去の思い出も幻のように消え去ってしまった。宗道は静かに言った。「明日香は静かに逝きたいと願っていましたよ。聖山朝霧の土に還れば、けがれた魂は清められ、極楽へ行けるのです」しかし、涼太は目を吊り上げて言った。「俺はずっと熱心な信者でした。なのに仏様は、俺の愛する人を助けてくれなかったじゃないですか!全部嘘ですよ!」言葉の災いを知る宗道は諌めた。「青木さん、神への不敬はいけません」だが、涼太は狂ったような形相で香炉を掴むと、思いきり床に叩きつけた。灰が舞い上がり、鋭い陶器の砕ける音が響き渡った。「仏様がいるなら、どうしてこの苦しみを無視するのでしょうか?善人が報われず、悪人が罰を受けないのはおかしいですよ」一番の罪を犯したのは自分で、死ぬべきなのも自分なのに。明日香に何の罪がある?彼女はずっと幸せに生きるはずだったんだ。涼太は全身から殺気を放ち、後先も考えずに暴れまわった。そんな彼を見ながら宗道は、全てを見透かしたように告げた。「仏様が人を救うのではなく、人が自らを救うんです。原因があって結果があります。すべては運命ですよ」涼太は飾られていた幕を引きち
涼太は震える声で尋ねた。「すごく痛いだろ?」明日香はそっとテーブルの下に手を隠し、明るく振る舞った。「見た目は酷いけど、ぜんぜん痛くないよ!」本当は痛くてたまらず、夜も眠れないのに。最初は痛み止めで、なんとかなっていた。でも長く飲み続けて体が慣れてしまい、今では薬も効かなくなっている。涼太は悲痛な面持ちで、明日香の頬を撫でた。「痛くないわけ、ないだろ?」彼は強がってみせる彼女の姿に、胸が張り裂けそうだった。それを言われ、明日香の目も潤んだ。「私のわがままで無理やり一緒になったんだから、早く諦めなきゃいけなかったのに、あなたの優しさに甘えちゃった。だから辛いのも痛いのも、全部私の自業自得」それを聞いて涼太は心臓をえぐられるような思いで、後悔と申し訳なさがあふれ出た。彼はそんな気持ちに堪えきれず叫んだ。「明日香、そんなふうに言うなよ!」明日香の声は、燃え尽きる直前の蠟燭のように弱々しかった。「ねえ、涼太。ごめんって言って。謝ってくれたら、許してあげるから」それを言われて、涼太は喉が詰まって言葉にならなくなり、ただ何度も、ごめんと繰り返すしかなかった。明日香も必死に涙をこらえたけれど、許すという言葉はどうしても言えなかった。それは、思い出すだけで辛い過去だ。心の傷が消えるはずもない。ついに涼太は嗚咽をこらえて言った。「元気になったら、N国へオーロラを見に行こう。ずっと行きたがっていただろ?だから、早く元気にならないと!」だが、明日香は力がぬけたように微笑んだ。「私はもう、行けないかもね」涼太の顔色がさっと変わった。「何言ってるんだ。国内でも一番の名医に頼んである。俺を信じてくれ。絶対に良くなるから!」明日香は胸が苦しくなった。自分の体のことは、自分が一番よくわかっている。彼女は無理に笑顔を作った。「まだちゃんとお別れを言ってないでしょ?『さよなら』って言って!」それを聞いて涼太は言葉を詰まらせた。それを言えば、本当に最後になってしまう気がしたからだ。彼はなりふり構わずその場に跪き、神の情けでも乞おうかのように祈った。自分の罪ならいくらでも償う。だからどうか神様、最愛の人を連れて行かないでくれ。宗道は静かに首を横に振った。「花が咲くのも散るのも一瞬のことです。青木さん、運
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