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神医の涅槃~夫と息子を捨てた先に~

神医の涅槃~夫と息子を捨てた先に~

By:  ウェン・ジーCompleted
Language: Japanese
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長年辺境を守っていた夫が、ようやく息子の誕生日に間に合うように帰還した。 再会に胸を躍らせながら彼の荷物を整理していた私は、そこで何百通もの手紙を見つけてしまった。それは毎月少なくとも五通は届いていた計算になる。 だが、その手紙の差出人は、私ではなかった。 私が頻繁に便りを送っても、彼から返事が来ることは一度もなかったというのに。 息子の誕生祝いの宴を取り仕切っていた最中、私は偶然にも、夫が息子を連れて姜晚(きょう ばん)という女に会いに行く場面を目撃してしまった。 夫は息子にその女を「母上」と呼ばせ、息子もまた「世界で一番きれいな母上」と懐いている。 物陰に隠れてその様子を覗き見ていた私の心は、冷え切った。 夫の心は離れ、息子にまで疎まれているなら、私は潔く身を引いて二人の望みを叶えてやろう。 しかし、私が死を偽装して姿を消すと、夫と息子は狂ったように後悔し、戻ってきてほしいと跪いて懇願した。

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Chapter 1

第1話

長年辺境を守っていた夫が、ようやく息子の誕生日に間に合うように帰還した。

再会に胸を躍らせながら彼の荷物を整理していた私は、そこで何百通もの手紙を見つけてしまった。それは毎月少なくとも五通は届いていた計算になる。

だが、その手紙の差出人は、私ではなかった。

私が頻繁に便りを送っても、彼から返事が来ることは一度もなかったというのに。

息子の誕生祝いの宴を取り仕切っていた最中、私は偶然にも、夫が息子を連れて姜晚(きょう ばん)という女に会いに行く場面を目撃してしまった。

夫は息子にその女を「母上」と呼ばせ、息子もまた「世界で一番きれいな母上」と懐いている。

物陰に隠れてその様子を覗き見ていた私の心は、冷え切った。

夫の心は離れ、息子にまで疎まれているなら、私は潔く身を引いて二人の望みを叶えてやろう。

……

私が死を偽って逃げ出してから、今日で十日が経つ。

金彩で装飾された馬車に揺られながら、向かいに座る兄弟子を見ると、彼は目に涙を浮かべ、私がここ数年いかに苦労したかを繰り返し嘆いていた。

「しかし、本当によいのか?陸則聞(りく そくぶん)と松松(しょうしょう)を捨ててしまって。

陸則聞は六年連れ添った夫、松松は手塩にかけて五年育てた実の息子だろう。

お前は昔、あれほど陸則聞を愛していたじゃないか。師匠がどれほど止めても聞かなかったのに、今になって要らないと言うなんて……松松はまだ五歳だ。ずっとお前のそばで育ってきた、一番母親を必要とする時期だろうに……」

兄弟子の言葉に、胸が締め付けられるような激痛が走った。私の心はとうに死んでいるはずなのに、口元には苦笑が浮かぶ。

「私と彼らの縁は、もう終わったのです」

私はもともと、天下一と謳われる神医の最後の愛弟子だった。それがある日、どういうわけか行方不明になっていた丞相府の令嬢だと判明し、姜家に引き取られることになったのだ。

一方、姜晚は丞相府で長年育てられてきた偽の令嬢であり、陸則聞の幼馴染でもあった。

私が実の娘として認められ戻ってくると、彼女はへそを曲げて家を出て行ってしまった。

私は陸則聞に一目惚れし、彼は勅命を受けて私と結婚した。

私はてっきり、彼と想いが通じ合っているのだと思い込み、三年の間、喜びいっぱいに夫婦としての時間を過ごした。

しかし、三年間行方不明だった姜晚が再び姿を現すと、いつも沈着冷静で感情を表に出さない夫が、酒杯も握っていられないほど動揺したのだ。

その時、私はまだ、自分を欺くことができた。彼らが一線を超えることはなかったからだ。

その後、彼は戦場へ赴いた。この三年の間に彼が出した数百通の手紙は、すべて姜晚宛てだった。細々としたことまで書き連ね、溢れんばかりの気遣いに満ちていたという。

私への手紙は、一通もなかった。屋敷で夫からの便りを待ちわびている妻がいることなど、忘れてしまったかのように。

息子の松松もまた、父親と瓜二つだった。

あの子は、陸則聞以上に姜晚を慕っていた。

屋敷を出て姜晚に会いに行くため、あの子は私への誕生日の贈り物を薪小屋に落としたと嘘をついた。

息子が成長し、母である私を気にかけてくれるようになったのかと喜び、いそいそと一緒に探しに行った私を、息子は薪小屋に閉じ込め、外から鍵をかけたのだ。

私は信じられない思いで叫んだ。

「松松、母上はまだ中にいるのよ」

直後、松松の嫌悪に満ちた声が耳に飛び込んできた。

「できることなら、姜お姉さんが僕の母上ならよかったのに!お姉さんは僕がお菓子を食べても文句を言わないし、無理に本を暗記させたりしない!それに、僕が病気の時、あんな苦い薬を飲ませたりしない!

母上なんて、本当に大嫌いだ!父上が母上を好きじゃないのも当たり前だよ、僕だって嫌いだもん!今から姜お姉さんと市場に行くから、母上はそこで一人寂しく誕生日を過ごすといいよ!」

松松のあの時の言葉が、今も耳の奥で反響している。陸家を離れ、新しい人生を始めようとしている今でさえ、その言葉は錆びた刀のように、繰り返し私の心臓を抉るのだ。

兄弟子は納得がいかない様子だ。

「師匠が言っていたぞ。『袖振り合うも多生の縁』だと。たかが姜晚一人のために、夫と子を捨てるのは割に合わないのではないか?」

私は青ざめた顔のまま、ふっと笑った。

姜晚のために身を引くわけではない。

ただ、目が覚めただけだ。これ以上、死んでも後悔しないような愚かな真似はしたくない。

「心の中に私の居場所がない二人を、どうして必要とするでしょうか」

兄弟子の瞳の色がわずかに変わり、今度は笑って私を称賛した。

「よし!あんな奴らは放っておけ!

お前は林北梔(りん ほくし)だぞ。我が師門で最も優れた妹弟子であり、その名は天下に轟いている。お前を娶りたい男など数え切れない程にいる。陸家の小僧は目が節穴で見抜けなかったようだな。お前が生きていることに気づくかどうかは知らんが、断言しよう、あいつは必ず後悔する時が来る!」

師門に戻ると、師匠は私の姿を見るなり心を痛め、いい年をして涙を浮かべていた。

神医館(しんいかん)の全員が、私の帰還に歓声を上げて喜んでくれた。

誰もが「痩せたな」「やつれた」と言い、私に美味しいものを食べさせようとしてくれた。

そこは、誰もが姜晚に同情を寄せている、丞相府とも、将軍府とも違っていた。
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第1話
長年辺境を守っていた夫が、ようやく息子の誕生日に間に合うように帰還した。再会に胸を躍らせながら彼の荷物を整理していた私は、そこで何百通もの手紙を見つけてしまった。それは毎月少なくとも五通は届いていた計算になる。だが、その手紙の差出人は、私ではなかった。私が頻繁に便りを送っても、彼から返事が来ることは一度もなかったというのに。息子の誕生祝いの宴を取り仕切っていた最中、私は偶然にも、夫が息子を連れて姜晚(きょう ばん)という女に会いに行く場面を目撃してしまった。夫は息子にその女を「母上」と呼ばせ、息子もまた「世界で一番きれいな母上」と懐いている。物陰に隠れてその様子を覗き見ていた私の心は、冷え切った。夫の心は離れ、息子にまで疎まれているなら、私は潔く身を引いて二人の望みを叶えてやろう。……私が死を偽って逃げ出してから、今日で十日が経つ。金彩で装飾された馬車に揺られながら、向かいに座る兄弟子を見ると、彼は目に涙を浮かべ、私がここ数年いかに苦労したかを繰り返し嘆いていた。「しかし、本当によいのか?陸則聞(りく そくぶん)と松松(しょうしょう)を捨ててしまって。陸則聞は六年連れ添った夫、松松は手塩にかけて五年育てた実の息子だろう。お前は昔、あれほど陸則聞を愛していたじゃないか。師匠がどれほど止めても聞かなかったのに、今になって要らないと言うなんて……松松はまだ五歳だ。ずっとお前のそばで育ってきた、一番母親を必要とする時期だろうに……」兄弟子の言葉に、胸が締め付けられるような激痛が走った。私の心はとうに死んでいるはずなのに、口元には苦笑が浮かぶ。「私と彼らの縁は、もう終わったのです」私はもともと、天下一と謳われる神医の最後の愛弟子だった。それがある日、どういうわけか行方不明になっていた丞相府の令嬢だと判明し、姜家に引き取られることになったのだ。一方、姜晚は丞相府で長年育てられてきた偽の令嬢であり、陸則聞の幼馴染でもあった。私が実の娘として認められ戻ってくると、彼女はへそを曲げて家を出て行ってしまった。私は陸則聞に一目惚れし、彼は勅命を受けて私と結婚した。私はてっきり、彼と想いが通じ合っているのだと思い込み、三年の間、喜びいっぱいに夫婦としての時間を過ごした。しかし、三年間行方不明だった姜晚が再び
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第2話
私は目に涙を浮かべながら、心の中で歓喜していた。それから半年後、神医館に一人の孤児がやってきた。不憫に思った私は彼を引き取り、その生命力が川の水のように逞しく尽きることのないよう願いを込めて、阿沛(あはい)と名付けた。阿沛はとても聞き分けの良い子で、聡明でもあり、何を教えてもすぐに覚えられる。彼は来る日も来る日も、私や兄弟子の後をついて回り、薬草の見分け方や医術を学んだ。しかも、「母上こそが僕の本当の母上です」と言って懐き、よく私の肩を揉んでくれたり、美しい花を摘んで贈ってくれたりした。日々は、このように心安らかに過ぎていった。ある日、山を下りていた兄弟子が戻り、興奮気味に私に告げた。私が崖から飛び降りて「溺死」したことになっているこの一年の間、陸則聞は息子を連れて私の遺体を捜し続け、さらにずっと喪に服しているというのだ。私は滑稽でならなかった。「私は彼の母親でもないのに、何を喪に服す必要があるの?」兄弟子がさらに何か言おうとした時、彼の幼い弟子である阿肆(あし)が伝書鳩を抱えて駆け込んできた。「師匠!辺境の軍医が不足しています。大将軍が我々に支援を求めています!」最近、辺境では再び戦が始まっており、軍医は常に人手不足だ。しかも、我々のような隠遁した医者にまで助けを求めてくるということは、よほど切迫した状況なのだろう。国家の危機に際しては、民とて責任を負うものだ。私は総大将が誰であるかなど気にも留めず、即座に兄弟子たちと共に山を下り、支援に向かった。激しい戦が終わったばかりの軍営は、苦痛に満ちた哀号で溢れかえっている。私は顔に覆い布を着け、夢中で負傷兵の治療にあたった。阿肆や阿沛も手分けして救助に回っていたが、しばらくして阿肆が私の元へ駆け寄り、大声で訴えた。「師叔(ししゅく)(自分の師匠の先輩、或いは後輩のこと)!あっちで腕を折って大出血している兵士がいるのに、軍医が骨つぎもできなくて、しかも患者を厄介者扱いしているんです。早く診てあげてください!」私は眉をひそめ、何も言わずにその負傷兵の元へ歩み寄ると、手早く彼の腕の骨を繋いだ。すると、負傷兵の隣に立っていた屈強な男が激怒し、横柄な態度をとっていた軍医を指差して怒鳴った。「お前、医宗の宗主の愛弟子じゃないのか?他の者は骨つぎが
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第3話
「軍営には子供なんて僕しかいなかったんだ。どこから来たのか聞いても答えないし、野良犬じゃなきゃ何なんだ!」松松も怒りの眼差しを彼に向け、大声で叫んだ。「母上は医宗の宗主の関門弟子だ。僕たちは助けに来てやったのに、あなたたちは酷すぎる!」阿沛は怒りで頬を膨らませていた。彼は松松を、そしてそれ以上に陸則聞を激しく嫌っているようだった。「あなたたちなんか、母上に助けてもらう資格なんてない!」陸則聞はそれまで呆然としていたが、その言葉を聞くと漆黒の瞳から疑念が消え去った。「将軍として、医宗の助力には感謝する。だが、松松は俺と妻の子だ。我が子に不当な思いをさせるわけにはいかない。医宗の顔を立てて、重罰は免じてやろう。ただ、其方の息子が我が子に謝罪すればそれでいい」彼が松松を庇うのは勝手だが、なぜ私を引き合いに出すのか。まるで私への情が深いかのように見せかけた。彼の考えは理解できないが、阿沛が理由もなく騒ぎを起こさないことはよく知っている。「うちの子は理由もなく罵倒されました。謝罪が必要なら、それは将軍の息子の方でしょう」阿沛は目を潤ませて私を見上げた。「母上……」私は彼の頭を撫で、優しく言った。「阿沛は野良犬なんかじゃない。私の大事な子よ。母上がいる限り、理不尽な目には合わせないわ」私は生涯、頭を下げ続けてきた。だが私の子供に、同じ道を歩ませる必要はない。私と阿沛の仲睦まじい様子を見て、松松の目にはなぜか嫉妬と憤りが満ちていた。「何様のつもり?たかが田舎娘の分際で、将軍の御曹司に謝れだなんて」姜晚は厚着のせいで動きが鈍く、まるで白熊のようにのっそりと歩いてきた。彼女は私を見据え、その目には深い敵意が宿っていた。「あなた、この者たちは素性が知れませんわ。さっきこの田舎娘は私に暴言を吐きましたし、今度はあなたを脅そうとしています。きっと間者に違いありません。厳しく取り調べてくださいな!」「陸将軍」阿沛が口を開いた。「母上は血まみれになって、一日中負傷兵を治療している。もし僕らが間者だというなら、立派な服を着てふらふらしているだけの、この醜い女は何なの?」姜晚は顔色を変え、言葉を詰まらせた。「なんですって!」陸則聞は冷ややかに彼を見下ろした。「彼女と俺の関係について、乳臭い小僧に
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第4話
顔に微かな涼気を感じ、私は自分の頬に手をやった。陸則聞はその場で凍りついた。松松も先ほどの傲慢さを失い、呆然と私を見つめていた。「母上……」姜晚もまた、信じられないという表情を浮かべている。阿沛の反応は早かった。すぐに覆い布を拾い上げると私に手渡し、私の前に立ちはだかった。「北梔、生きていたのか!生きていたのか!」陸則聞の声は震えており、狂気じみた歓喜に満ちていた。彼は私の手を掴もうとしたが、私は身をかわした。「将軍、自重なさいませ」松松が泣き出し、探るように声を上げた。「母上?」「松松、あなたの母上は一年前に溺れ死んだのよ。生きているはずがないわ!」姜晚は目を回し、松松の手を引いた。「きっと今日のことは全部、この母子が仕組んだことよ。この女は林北梔の顔を真似て、情報を探りに来たのよ」私は肯定も否定もしなかった。私の沈黙を見ると、陸則聞は私を凝視し、問い詰めた。「お前は本当に林北梔なのか?」姜晚が横から喚き立てる。「あなた、彼女が林北梔なわけじゃありません!忘れたのですか?私たち、林北梔の死体を見たでしょう!」陸則聞の心が明らかに揺らいでいる。死体……私は自分の死体など用意していなかった。だが、私は姜晚の言葉に合わせて答えた。「違います。林北梔などという人は知りません」陸則聞は失望の色を浮かべ、苦笑した。「そうだな、あり得ない話だ……北梔の亡骸は、俺がこの手で棺に納めたのだから。それに、あいつに医術の心得などなかった」言い終えると、彼の瞳は鋭くなり、有無を言わせぬ決断を下した。「将軍たる俺の亡き妻を偽装し、あまつさえこの小僧に俺の息子を虐げさせるとは、万死に値する!者共!この母子を地下牢にぶち込め!今後、亡き妻を偽装する者がいれば、同じ目に遭わせてやる!」陸則聞が松松の泣き叫ぶ声を無視して命令を下すと、姜晚は得意げ、かつ恨めしげな目で私を見た。「あなたはもう終わりだ」と言わんばかりに。周囲の兵士たちはこの光景を見て、陸則聞の亡き妻への想いの深さに感嘆し、口々に彼を称えた。「陸将軍はなんと情が深いのだ!」「よく大胆にも、亡くなった夫人を偽装するなんて。将軍がそういう輩を一番憎んでいると知らないのか?」「地下牢に放り込むだけでも生ぬるいくらいだ
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第5話
陸則聞は目を細めて歩み寄ると、姜晚の前に立ち、私を見下ろした。「医宗の人間だと言ったな。証拠はあるのか?」私は周囲を見回した。あちこちで囁き合っていた兵士たちは、一斉に口を閉ざした。「私が医宗の人間ではないとおっしゃる証拠は、おありですか?」私は陸則聞の後ろにいる姜晚に視線を向け、問い返した。その場にいる全員の視線が、瞬時に彼女へと集まった。姜晚は恨めしそうに私を睨みつけ、しばらく口籠っていたが、結局何もまともなことは言えなかった。彼女が言葉に詰まったのを見て、私はすぐに畳み掛けた。「医宗の宗主の関門弟子だとおっしゃいましたね。それならなぜ、さっき兵士の治療ができなかったのですか?私がいなければ、あの人の腕はなくなっていましたよ」「そうだ!さっき俺の兄弟を治してくれたのは、確かにこの御婦人だ!」「俺も見たぞ!この御婦人の手際は見事だった。一目で熟練の医者だと分かった!」野次馬の中にいた数人の兵士が私だと気づき、助け舟を出してくれた。私はさらに姜晚に重圧をかけた。「医は仁術と言うけれど、あなたはさっき『治療するに値しない』と言い放ったわね。救いたくなかったの?それとも、救えなかったの?先ほどあなたは私を脅し、自分の父は丞相で、自分は将軍の許嫁だと言ったよね。しかも、私を偽物だと言うけれど、あなた自身はどうなの?その振る舞いこそ、医宗の顔に泥を塗っているとは思わないの?」私の言葉は重く響き、先ほどまで姜晚を擁護していた数人の兵士たちも黙り込んだ。「だから、あなたが医宗の人間だという証拠は、一体どこにあるの?」私はもう一度問い詰めた。陸則聞の顔色はすでに険しくなり、その鋭い瞳は姜晚を凝視している。「証拠ならあるわよ!師匠が去り際に私に残してくださった香り袋よ。この刺繍は医宗特有の印だわ!」そう言って、姜晚は一つの香り袋を取り出した。私は一目で、彼女が手にしている物が何かを悟った。私が陸則聞に嫁ぐ際、師匠がくれた香り袋だ。中には師匠が調合した香が入っており、私の体を整えてくれる。危険な時は中の薬材を取り出せば即座に毒薬として使えるものだ。私はずっと肌身離さず持っていたのだが、三年前、姜晚に誘われて温泉に行った際、帰ってきたら香り袋が消えていたのだ。まさか彼女が盗んでいたとは。「本当だ
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第6話
言い終わると、阿肆はまた姜晚を指差した。「この女、あの時師匠を散々罵った上に、山まで送ってやった僕のことまで『痩せた猿』だなんて罵りやがったのです!そうそう、さっき傷兵の天幕でも、多くの兵士が僕に愚痴をこぼしました。『ここにヤブ医者がいる』って、自分を神医だと触れ回ってるくせに、『あなたたちは神医に診てもらう資格がない』とか言って、見殺しにしようとしたらしいです!それに、こいつが処方した薬を飲んで激しい嘔吐と下痢を起こし、病状が悪化した奴もいます。薬の残りカスを見てみましたが、処方はデタラメでした。相性の悪い薬草を一緒に煮込んでやがったのです!」言い終えると、彼は懐から証拠の薬のカスを取り出した。阿肆の容赦ない暴露に、姜晚の顔は完全に蒼白になった。彼女は阿肆を殴ろうと叫び声を上げながら、必死に陸則聞に弁明した。「あなた、私は嘘をついてません!私は本当に医宗の弟子です!」「医宗の看板に泥を塗るな!治療もできない医者がいてたまるか!」阿肆はこっそり近づき、足をかけて姜晚を転ばせた。姜晚は無様に地面に倒れ込んだ。さっきまでの誇り高い孔雀のような姿は見る影もなく、今の彼女はまるで濡れ鼠だ。彼女は陸則聞の足首にしがみつき、哀れっぽく懇願した。松松が口添えしようとしたが、陸則聞に制止された。「俺はこれまで軍を厳しく律してきた。クズを容認するわけにはいかん。姜晚は医宗の弟子を偽装し医療行為を行った。医宗に対しても軍に対しても害をなした罪、許すことはできん。この女を地下牢へ連行しろ。都へ戻った後に処分を下す」姜晚は泣き叫びながら強制的に連行されていった。先ほど彼女を庇っていた兵士たちは、すっかり意気消沈していた。陸則聞が何か言おうとしたが、私は阿沛の手を引き、重傷の兵士を治療するために背を向けた。その兵士の傷は深く、私が天幕から出てきた時には半日が過ぎていた。外に出るなり、陸則聞と松松の姿が目に入った。「北梔」陸則聞の頬は震え、その声も揺れていた。「やはり、本当に生きていたんだな」そう言うと、彼の目尻から涙がこぼれ落ちた。松松が走り寄ってきて、私に抱きついた。「母上、どうして僕を捨てたの?ずっと会いたかったよ!」彼は泣きながら問いかけてくる。父子揃って完全に私だと気づいている以上、今
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第7話
この母と子の睦まじい様子を見た松松は、堪えていた泣き声を先ほどより大きく張り上げ、阿沛の襟首を掴んで殴りかかろうとした。「お前なんか野良犬だ!僕の母上を奪ったくせに!どうして『母上』なんて呼ぶんだ?母上は僕のものだ!」阿沛はうんざりした様子で、身を翻して彼を地面に突き飛ばした。「あなたが間抜けだからだよ。他人の言うことを真に受けて、自分の母上が悪い人だと思い込んで、いつもいじめてたんだろ!大事にしなかったんだから、自業自得だ。母上は天下一の母上だ。これ以上僕を愛してくれる人はいない。字を教えてくれるし、薬草掘りにも連れて行ってくれるし、遊びにも付き合ってくれる。僕が病気になった時は、何日も寝ずに看病してくれたんだ。それなのに、あなたは母上が虐待したとか、悪い人だとか言って、こんなに良い母上を閉じ込めたんだろう。悪いのはあなたの方だ!」阿沛は私の前に立ち塞がり、軽蔑した口調で言い放った。「あなたみたいに善悪も分からない奴は、自分を一番愛してくれる人を失って当然だよ」阿沛の言葉に、松松は火がついたように泣き叫び、地面を転げ回って駄々をこねながら、阿沛を罵り続けた。私は阿沛を抱き寄せ、心からの慰めを感じた。私が注いだ真心は、ようやく報われたのだ。陸則聞は松松の泣き声に耐えられなくなり、眉をひそめて彼をつまみ上げると、もう片方の手で私の手首を掴んだ。「北梔、家に帰るぞ」阿肆が陸則聞の手首に手を添え、こっそりと力を込めて私の手を解放してくれた。彼は笑みを浮かべて言った。「陸将軍、僕の師匠は総大将への支援は承諾しましたが、将軍が僕の師叔を連れ去ることまでは承諾していませんよ」陸則聞は彼をじっと見据え、はっきりと言った。「こいつは、俺の妻だ」「とっくに離縁したでしょう」阿肆は笑ったまま返した。「僕の記憶が確かなら、離縁状を書いたのは将軍ご自身のはずですが」陸則聞は顔色を白くし、唇を引き結んだが、やがて口を開いた。「お前には関係のないことだ」「関係ないわけないでしょう。師叔は僕の師匠が一番可愛がっている妹弟子であり、僕が最も敬愛する師叔なんですから。あなたがしでかした事、僕たちが知らないとでも?今回の支援は総大将の顔を立てて来ただけで、あなたのためじゃありませんよ!陸将軍、それでも男なら
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第8話
そう言い捨てて、私は体をかわして出て行こうとすると、松松に足を抱きつかれた。彼はまた泣き出した。「母上、一口だけでいいから食べてよ!これは僕と父上の気持ちなんだ」「松松、他人にとって、不要な気遣いはただの重荷でしかないのよ」そこへ、阿沛が朝食を持って歩いてきた。「母上!今日厨房に野菜饅頭があって、二つ余分に持ってきたから、熱いうちに食べてください!」私は歩み寄って朝食を受け取ると、あの父子には目もくれずに天幕に戻った。その後、陸則聞と松松はますます張り切りだした。ちょくちょく食べ物や飲み物、あるいは防寒具を差し入れてくる。私が負傷兵を治療している時でさえ、逃げられないように後ろをついて回る始末だ。私の天幕は補強され、中の道具もすべて最高級品に取り替えられた。松松も阿沛に喧嘩を売らなくなり、友達になろうとし始めた。だが阿沛は彼を相手にせず、姿を見れば背を向けて立ち去った。私が一日中忙しく働き、天幕に戻ると、二つの影が入り口にしゃがみ込んでいた。中には入ろうとしない。私が戻ったのを見ると、二人は一斉に立ち上がったが、どこかもじもじしている。陸則聞は凍傷用の軟膏を取り出し、私に差し出した。「北梔、手に凍傷ができているだろう。この軟膏は都で大金を叩いて買ったものでな、よく効くんだ。塗るといい」松松は手あぶりを取り出した。「母上、これを持っていれば寒くないよ」この父子の最近の振る舞いを見て、私はただ嘆息するばかりだった。かつて私が陸家でどれほど辛い思いをしても、彼らは見て見ぬふりだったのに、今頃になって償おうとしている。やはり人は愚かな生き物だ。失って初めてその大切さに気づくのだから。私は軟膏を陸則聞に返し、手あぶりを松松の手に押し付けた。「その軟膏を調合したのは私です。それに、怪我人の包帯を巻いたり治療したりしているのに、手あぶりなど持っている暇がどこにありますか?見当違いの親切は、他人にとってただの迷惑でしかありません」言い捨てて、私は天幕に入った。「北梔、本当に俺たちを許してはくれないのか?」陸則聞が外で叫んだ。あの断崖から身を投げた時、私は一度死んだのだ。それ以来、二度と振り返らないと決めている。私は分厚い幕越しに、静かに告げた。「陸将軍、前を向いてください
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第9話
天幕の中は戦場から引き揚げてきたばかりの将兵で溢れかえり、彼らは陸則聞を幾重にも取り囲んでいた。私の姿を認めると、彼らはまるで救いの神でも見るかのような目を向けた。中には、陸則聞の治療を乞うてその場に跪く者さえいた。その男に見覚えがあった。陸則聞の副将だ。十数年も彼に従い、以前は屋敷にも客として来ていた男だ。「奥様……いや、神医殿!どうか将軍をお助けください!過去のことにわだかまりがおありなら、私が代わりに償います!ですから、どうか彼を救ってください!」私は少しおかしくなり、彼を助け起こした。陸則聞は顔色がどす黒く、寝台の上で人事不省に陥っていた。私はため息をつき、脈を診るために近づいた。一包みの薬を飲ませると、陸則聞の顔には血の気が戻り、毒を含んだ血も傷口から排出された。回復の兆しを見た周囲の者たちは、次々と跪いて私に感謝を捧げた。私は余計なことは何も言わず、背を向けて立ち去った。私と陸則聞の間には、貸し借りなどという言葉では片付けられないものがある。感情のもつれは計算できるものではない。もし無理に精算しようとするなら、借りが残っているのは彼の方だ。陸則聞が目を覚ましたのは翌日のことだった。彼が目覚めた時、私はすでに阿沛を連れて軍営を去っていた。手すきの兄弟子が代わりに来てくれたので、私は兄弟子の前で阿肆を褒めちぎった。阿肆はひどく照れていた。私は阿沛を連れて山に戻り、元の生活を続けた。年が明けた頃、兄弟子からの文が届いた。戦は完全に終わったが、陸則聞は死んだという。彼は目覚めた後、私が彼を救って去ったことを知り、その場で泣き崩れたらしい。その後、日に日に塞ぎ込むようになり、ようやく塞がりかけた傷口を何度も自分で切り開き、わざと化膿させたそうだ。兄弟子によれば、彼は傷が治らなければ、私がまた救いに戻ってくると信じていたらしい。その後、再び戦が起こり、陸則聞は負傷したまま出陣して捕虜となり、辺境の地で命を落とした。陸則聞は出征する前、部下に命じて姜晚に毒をあおらせていた。彼はすべての過ちを姜晚のせいにしたのだ。陸則聞の死後、松松は陸家に引き取られ、大切に育てられているという。文を読み終えたが、私の心からはとっくに怨みなど消えていた。怒りも憎しみもないが、かといって胸がすくような快感も
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