LOGIN娘の周防花奈(すおう かな)が十回目の「ママを替えたい」と口にしたとき。 私・周防霞(すおう かすみ)は怒らなかった。 ただ、妙に落ち着いた声で「じゃあ、誰にママになってほしいの」と聞いただけだった。 花奈は迷いもなく答えた。 「沙羅さん」 小田切沙羅(おだぎり さら)は、花奈の家庭教師だ。 そして、夫の周防颯真(すおう そうま)の初恋の相手でもある。 あの日の誕生日パーティーでも、花奈は皆の前で堂々と沙羅にお礼を言い、「ママみたいにずっとそばにいてくれるの」と言っていた。 その幼い顔を見ているうちに、この子は私のことが好きじゃないのだとはっきり分かってしまった。 それから私は、前みたいに花奈と颯真の世話を焼くのをきっぱりやめた。 代わりに、国の極秘プロジェクトに参加する道を選んだ。 あの二人にこれ以上時間を使うくらいなら、国の役に立つ方がずっといい。
View More実験というものには、どうしても受け止めきれない結果がつきまとう。この何年も、どれだけ慎重を重ねても、多くの人が命や身体を落としていった。生き残れた者の多くも、どこかしらを失ったままだ。だからこそ、私は文句を言う資格なんてないのだと思っている。失敗することや、途中で命を落とすことに比べれば、私はずっと恵まれている。まだ生きている。この世界をこの目で見て、この結末を確かめることができている。「かしこまりました。しっかり務めてまいります」表彰の日はあっという間にやって来て、その日まで私は何度も何度もスピーチの原稿を読み返しながら、自分の知らない新しい世界を少しでも受け入れようとしていた。十二年も世間から離れていたせいで、ついていけないことだらけで、意味の分からないものも多い。それでも、新しい技術が国の力になるという事実だけは、素直にうれしかった。そう思えるだけで、自分が差し出してきたものも、少しは報われた気がした。「周防霞さん、どうぞ壇上へ」感慨にふけっていたところを職員に支えられ、私はゆっくりと壇上へと上がった。これは紛れもない栄誉の瞬間で、私は興奮のあまり何度も涙をぬぐっているうちに、用意した言葉をすっかり頭から飛ばしてしまった。けれど、飾り立てた言葉を並べるよりも、この場でどうしても伝えたい相手がいると気づく。この瞬間、私が心から口にしたかったのは、犠牲になった一人ひとりへの感謝だった。彼らがいなければ、今日の成功はあり得なかった。彼らがいなければ、この栄誉の時間も訪れなかった。「だから、どうか彼ら一人ひとりのことを忘れないでください。歩んできた歴史を刻み、名も顔も残らなかった英雄たちの努力に、正面から向き合ってほしい。次の世代が強く賢く育てば、この国もきっと強くなれる。私たちの役目はここで一区切りですが、皆さんの時代は、いま始まったばかりです。思いきり追いかけてください。受け継いでください。新しいものを生み出してください。そして一緒に、この愛すべき土地を守っていきましょう」台本も何もない、ただ胸の内からあふれた言葉だったのに、その瞬間、会場から一番大きな拍手が沸き起こった。それが若い世代からの応えなのだと、私はすぐに分かった。私ももう退かない。あの子たちもきっと退かない。それこそが、受け継
失敗したことを悟った颯真の目から、静かに涙がこぼれ落ちた。そのとき、誰かが私の名前に気づき、そっと隣の人に耳打ちする。五分ほどして、研究所の責任者が姿を見せ、颯真をじろりと見定めた。ここで働く研究員たちの家族のことは大体頭に入っている。だから、颯真の顔にもすぐに見覚えがあった。ただ、どうにも腑に落ちない点があった。霞がここを離れてから、もう一週間は経っている。夫であるはずの男が、それを知らないとは考えにくい。「こんにちは。ここの責任者です。何か事情があるなら聞きましょう」せめて責任者としてできることはしようと、彼は颯真を応接室に通し、一通り話を聞いた。耳に入ってきたのは、どこにでもある家庭のもつれだった。とりわけ「自分が離婚を切り出した」という一言で、責任者の中ではおおよその答えが固まってしまう。「周防さん、これはあくまでご家庭の問題です。こちらから霞さんの居場所をお伝えすることはできません。それに、彼女が離婚を決めた以上、研究所としてもその選択を尊重するしかありません。どうか分かってください。そろそろお帰りください。娘さんのことを、どうか一番に考えてあげてください」それが遠回しな「お引き取りください」だということくらい、颯真にも分かっていた。それでも納得がいかない。胸の奥では、叫んで問い詰めたい衝動が渦巻いていた。だが、背後では何人もの警備員が一斉に彼を見張っている。迂闊に動けば、すぐにつまみ出されるだろう。颯真は何も言えないまま、肩を落として家路につくしかなかった。唯一の救いは、沙羅が花奈を連れて家に戻ってきていたことだった。二人は彼を避ける素振りも見せず、以前と変わらない調子で接してくれる。その光景だけ見れば、まるでどこにでもいる幸せな家族のようだった。沙羅はわざわざ花奈の手を引き、颯真の前まで連れてきて一緒に頭を下げさせた。声はとろけるように優しく、その目には隠そうともしない気持ちがにじんでいる。その意味くらい、颯真には痛いほど分かっている。だからこそ、胸の底からいきなり怒りがこみ上げ、思わずテーブルをひっくり返した。「全部お前のせいだ。あのとき、可哀そうだと思って家庭教師にしただけだろうが。見ろよ、花奈をどんな子にしたと思ってる。……それから花奈、お前の母親は霞だ。命がけでお前を産んで、ここまで育
「霞……」私が家を出て七日目、颯真は花奈を探しにも行かず、代わりに私が以前勤めていた研究所へ足を運んだ。そこは研究員だけでなく、その成果までも厳重に守られている特別区域で、そのせいで颯真は門の前で止められてしまった。彼はすっかり変わっていて、無精ひげを伸ばしたやつれた顔は、ほとんど浮浪者みたいだった。門番の警備員は何度も彼を追い払おうとし、そのうち本気で浮浪者扱いし始めた。「ここはあんたみたいなのが来る場所じゃないよ。金がほしいなら、よそへ行きな」その突き刺さるような言葉を浴びせられて、颯真は痛みに顔をゆがめた。ここ数日、彼は自分が私にしてきた態度を何度も思い返しては、そのときの私は、今の自分と同じくらい苦しかったのだろうかと考え続けていた。「聞こえないのか?さっさと行けって言ってるんだ」ぼんやり立ち尽くす颯真にいら立った警備員は、スタン警棒を取り出してスイッチを入れた。そこでようやく我に返った颯真は、ぼそっと私の名前を口にした。「俺は浮浪者じゃありません。妻を探しに来たんです。名前は霞って言って、ここで働いています。ご存じありませんか。中に入って、呼んできてもらえませんか。ただ、彼女に会いたいだけなんです」警備員は一日中いろいろな人間と顔を合わせるが、目の前の男の言うことを鵜呑みにする気はさらさらない。まして私のことなど知らないし、たとえ知っていたとしても呼ぶつもりはなかった。それがここを守るためでもある。「もう帰ってくれ。妻だって言うなら電話すればいいだろう。なんでわざわざ門まで来るんだ」隠そうともしない疑いの視線を浴びて、颯真はうなだれながらスマホを取り出した。画面には、霞にブロックされた事実がはっきりと示されていた。「俺たちは喧嘩して、あいつはもう何日も家に戻ってきてないんです。でも、ここで働いてるっていう証拠ならあります。周防霞って言います。見せます、見せますから」焦りで手が震えて、颯真はしばらく画面をうまくスクロールできずにいたが、警備員がとうとう苛立ち始めた頃になって、ようやく一枚の写真を表示させた。それは、私が研究所の制服を着て彼に送った写真で、今となっては私の身元を示せる唯一のものだった。警備員は鼻で笑った。「それで分かるのは、その人が職員だってことだけですよ。お前さんとどうい
こぼれた数滴の涙には、たしかに少しだけ本気の想いも混じっていた。颯真はどうしていいか分からず、「沙羅、これはお前のせいじゃない。霞がちょっと拗ねてるだけだ。あいつは孤児院で育ったから、昔から好き勝手にする癖があってさ。しばらく放っておけば、何日かすれば戻ってくるよ」と、彼女をなだめる。出会ったばかりのころ、颯真は私が孤児院育ちだと知って、本気で涙をこぼしていたのに。飽きてしまった今は、「孤児院で育ったやつは、どうしてもだらしなくなる」なんて平気で口にする。「じゃあ、ご飯食べよっか」沙羅はうれしそうにぱちぱちと瞬きをした。颯真が自分を慰めてくれる、それだけで十分に「大事にされている」と感じられた。ここ数日、もうひと押し頑張れば、この家の「女主人」の座も夢じゃない――沙羅の胸はそんな期待でふくらんでいた。もう一人、胸を躍らせていたのが花奈だ。自分の部屋に大事にとっておいたジュースを持ち出し、テレビで見た大人たちの真似をしてコップを掲げ、「お祝い」を始めた。「パパ、ずっとこのままだったらいいのに」花奈にとっては、パパと沙羅さんがそろっている今が、何よりの幸せだった。「花奈、その言い方はなんだ」ここ最近の出来事は、颯真の心を強く揺さぶっていた。あの人は、かつて本気で私を愛していた――だからこそ、あんな言葉を耳にした瞬間、反射的に花奈をきつく叱りつけてしまったのだ。どうあれ、彼女は私の娘だ。こんなふうに考えるようになってほしくはなかった。「パパ……」花奈はびくっと身体を固くした。それでも、花奈からすれば、沙羅のことを好きでいること自体は、何一つ悪くないと思っていた。そんなことがあったせいで、私が家を出て三日目、花奈と颯真はとうとう激しくぶつかり合った。どちらも一歩も引かない。中でも花奈は、今にも目が飛び出しそうなほど見開いていた。「間違ってないもん。私、沙羅さんが好き。ママになってほしいの。ずっと前から、ずっと沙羅さんが私のこと見てくれてたじゃない。どこがいけないの?悪いのはパパでしょ。前は沙羅さんに優しかったのに、どうしてママがいなくなった途端、急に悪いことしたみたいな顔するの?」「花奈!」颯真の怒鳴り声と同時に、平手打ちの音が部屋に響いた。叩いてしまったあと、颯真の指先が一瞬震えた。その光景に