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娘が十度目に母を拒んだ日

娘が十度目に母を拒んだ日

By:  匿名Completed
Language: Japanese
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娘の周防花奈(すおう かな)が十回目の「ママを替えたい」と口にしたとき。 私・周防霞(すおう かすみ)は怒らなかった。 ただ、妙に落ち着いた声で「じゃあ、誰にママになってほしいの」と聞いただけだった。 花奈は迷いもなく答えた。 「沙羅さん」 小田切沙羅(おだぎり さら)は、花奈の家庭教師だ。 そして、夫の周防颯真(すおう そうま)の初恋の相手でもある。 あの日の誕生日パーティーでも、花奈は皆の前で堂々と沙羅にお礼を言い、「ママみたいにずっとそばにいてくれるの」と言っていた。 その幼い顔を見ているうちに、この子は私のことが好きじゃないのだとはっきり分かってしまった。 それから私は、前みたいに花奈と颯真の世話を焼くのをきっぱりやめた。 代わりに、国の極秘プロジェクトに参加する道を選んだ。 あの二人にこれ以上時間を使うくらいなら、国の役に立つ方がずっといい。

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Chapter 1

第1話

娘の周防花奈(すおう かな)が「ママを替えたい」と言い出したのも、これで十回目だった。そのとき私・周防霞(すおう かすみ)は怒りもせず、静かに自分の部屋へ戻った。

クローゼットの奥に隠してあった極秘の契約書を取り出した。

私は政府の研究所で働く研究員で、真面目さと責任感には自信があり、能力もそれなりに評価されている。

だから、極秘プロジェクトの話が持ち上がったとき、真っ先に上層部から声をかけられ、この計画への参加を打診された。

けれど、花奈はまだ小さくて、夫の周防颯真(すおう そうま)も仕事で手一杯で、花奈の世話をする人がいなくなるのが怖かった。

それに、一度行ってしまえば十年以上は戻れない。花奈の成長を、ほとんど見届けられなくなる。

だから私は、その話をいったん断った。

でも、リーダーは何度も考え直すようにと言い、せめて目を通してほしいと、その契約書を私に持ち帰らせた。

まさか花奈が、私のことなんて少しも気にしていなかったなんて思いもしなかった。あの子の心の中には、家庭教師の小田切沙羅(おだぎり さら)しかいなかったのだ。

誕生日パーティーの席でさえ、花奈はみんなの前で堂々と沙羅にお礼を言い、「ママみたいにずっとそばにいてくれるの」と言い、ママを替えたいとまで口にした。

会場にいた全員の視線が、一斉に私へ突き刺さった。

それでも私は怒りを飲み込み、静かに花奈に、誰を新しいママにしたいのか尋ねた。

「沙羅さん」

花奈は、ためらいもなくそう答えた。

私はくるりと背を向け、その場を後にした。

その晩、私は颯真と激しく言い争った。彼は、子どもの何気ない一言なんていちいち気にするなと、私を理不尽だと言った。

私は淡々と彼を見つめ返した。

「じゃあ、私は何を気にしていればよかったの。あなたと小田切さんの関係?」

颯真は、私が彼のことを深く愛していると思っているのだろう。沙羅が、彼の初恋の相手だとしても、私は気にしないはずだと高をくくっている。

私と颯真は大学で出会い、恋人になり、そこから二人でここまで歩いてきた。

今では車も家も、それなりの貯金もある。

七年も一緒にいて、私たちは世界でいちばん幸せなものを手に入れたつもりでいた。

少なくとも、あの隠された写真を見つけるまでは。そこに写っていた沙羅は、まだ十代の少女で、ポニーテールを揺らして、場違いなほど無垢な笑顔を見せていた。

その写真を見たあとで、本当は颯真に問いただしたくてたまらなかった。けれど花奈の顔と、積み重ねてきた年月を思うと、結局私は何も言わず飲み込んだ。

きっと、もう過去のことなのだろう――そう自分に言い聞かせながら。

けれど今になってようやく、自分がどれほど見当違いだったのか思い知らされている。

私は小さくため息をつき、スマホを取り出して、親友の中谷雪乃(なかたに ゆきの)に電話をかけた。

「もしもし、雪乃。リーダーに伝えてくれる?今回のプロジェクト、私も参加するって」

そう告げると、私はペンのキャップを外し、書類に自分の名前を書き込んだ。

「え?参加しないって言ってなかった?」

雪乃と私は同じ研究所に所属し、毎日同じ実験室で顔を突き合わせている。

今回の実験計画のメンバーにも、彼女の名前は入っている。

メンバーリストが発表されたときも、真っ先に私のところへ来て、一緒に行くかどうか聞いてきた。

そのときの私は花奈のことを考えて、参加を断った。

なのに急に行くと言い出したものだから、雪乃はむしろ呆気にとられている。

私のことをよく知る人なら、私がどれほど家庭を大事にしてきたかぐらい分かっている。

私は毎日どんなに忙しくても、家族と過ごす時間だけは必ずつくってきた。

「うん、もう覚悟は決めたの」

そう言って電話を切った。

書類を封筒に戻した、その次の瞬間、理由もなくぽとりと涙が落ちて、封筒の上に丸いしみをつくった。

私は慌てて手の甲でそれを拭った。

それでも、涙は堰を切ったように止まらず、次々と頬を伝い落ちていった。

悲しくないはずがない。

花奈は、私が命がけで産んだ子だ。

妊娠初期、私は体質のせいで一日中つわりに苦しみ、何も口にできなかった。

ひどいときには気を失うことさえあった。

やっとの思いで十か月間身ごもってきたのに、いざ出産というときには逆子で、難産になった。

医師は、私の命が危ないと告げ、母体を助けるには赤ちゃんを諦めるしかないと言って、颯真に同意書を差し出した。

けれど私は、それを全部首を振って拒んだ。

幸い、最後には母子ともに無事だった。
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第1話
娘の周防花奈(すおう かな)が「ママを替えたい」と言い出したのも、これで十回目だった。そのとき私・周防霞(すおう かすみ)は怒りもせず、静かに自分の部屋へ戻った。クローゼットの奥に隠してあった極秘の契約書を取り出した。私は政府の研究所で働く研究員で、真面目さと責任感には自信があり、能力もそれなりに評価されている。だから、極秘プロジェクトの話が持ち上がったとき、真っ先に上層部から声をかけられ、この計画への参加を打診された。けれど、花奈はまだ小さくて、夫の周防颯真(すおう そうま)も仕事で手一杯で、花奈の世話をする人がいなくなるのが怖かった。それに、一度行ってしまえば十年以上は戻れない。花奈の成長を、ほとんど見届けられなくなる。だから私は、その話をいったん断った。でも、リーダーは何度も考え直すようにと言い、せめて目を通してほしいと、その契約書を私に持ち帰らせた。まさか花奈が、私のことなんて少しも気にしていなかったなんて思いもしなかった。あの子の心の中には、家庭教師の小田切沙羅(おだぎり さら)しかいなかったのだ。誕生日パーティーの席でさえ、花奈はみんなの前で堂々と沙羅にお礼を言い、「ママみたいにずっとそばにいてくれるの」と言い、ママを替えたいとまで口にした。会場にいた全員の視線が、一斉に私へ突き刺さった。それでも私は怒りを飲み込み、静かに花奈に、誰を新しいママにしたいのか尋ねた。「沙羅さん」花奈は、ためらいもなくそう答えた。私はくるりと背を向け、その場を後にした。その晩、私は颯真と激しく言い争った。彼は、子どもの何気ない一言なんていちいち気にするなと、私を理不尽だと言った。私は淡々と彼を見つめ返した。「じゃあ、私は何を気にしていればよかったの。あなたと小田切さんの関係?」颯真は、私が彼のことを深く愛していると思っているのだろう。沙羅が、彼の初恋の相手だとしても、私は気にしないはずだと高をくくっている。私と颯真は大学で出会い、恋人になり、そこから二人でここまで歩いてきた。今では車も家も、それなりの貯金もある。七年も一緒にいて、私たちは世界でいちばん幸せなものを手に入れたつもりでいた。少なくとも、あの隠された写真を見つけるまでは。そこに写っていた沙羅は、まだ十代の少女で、ポニーテールを揺
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第2話
それは、花奈がやっと授かった大切な子だからだ。花奈は小さい頃から、私と颯真に目に入れても痛くないくらいに可愛がられてきた。まさか、その幼かった子が、数年後には実の母親である私をここまであからさまにうとましく思うようになるなんて、想像もしなかった。翌日になってようやく、颯真と花奈が沙羅と一緒に帰ってきた。SNSの投稿で、三人が一緒に旅行に出かけていたことを私は知った。いつの間にか、家庭教師の沙羅の方が、周防家の「奥さん」みたいな立場になっていた。どうせ颯真も花奈も、私より沙羅の方が好きなんだろう。でも、最初から私と花奈の関係がこんなにぎくしゃくしていたわけじゃない。あの子は小さな手で私の手をぎゅっと握って、「ママ」と呼んでくれていた。ほっぺに甘えるみたいなキスをして、そのまま私の腕の中で眠ってしまうこともよくあった。それなのに、いつからあの子と私はこんなにも遠くなってしまったのだろう。海外にいた沙羅が戻ってきて、颯真が家庭教師として家に呼び寄せた頃からだろうか。それとも、私のしつけが厳しすぎて、花奈の中に反抗心が生まれたせいなのか。その本当の理由は、私にも分からない。思い返せば、沙羅という名前を初めて聞いたのは、花奈が宿題に向かっていたときだ。いい加減な字で済ませようとしていたので、私は全部書き直すようにと言った。するとそのことで一気に怒り出した花奈が、そこで初めて沙羅の名前を口にした。「ママはどうして沙羅さんみたいにしてくれないの!沙羅さんは、フライドチキンもコーラもいいよって言ってくれるし、パパに頼んで遊園地にも連れて行ってくれるの。それに沙羅さん、すっごく可愛いんだよ。ママも少しはオシャレしてみたら?ママは朝から晩まで私のことばっかり怒るし、パパが『ママって最近おばさんくさいよな』って言ってたのも当然だよ!」花奈がそう言ったとき、小さな顔には、あからさまな嫌悪の色が広がっていた。その瞬間、私は颯真の顔を思い浮かべた。結婚して何年もたつのに、最近の彼の目にも同じ色が宿っていたではないか。でも付き合い始めた頃の颯真は、私が何をしても決して苛立ちを見せることはなかった。結婚して、出産のあと、血で汚れた私の身体を見ても、彼は一度も嫌そうな顔をしなかった。今は何不自由ない生活を
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第3話
その日も、私は研究所にいた。実験に没頭しているうちに、気がつけば夜の九時を過ぎていた。同僚がまだいる私を見て、驚いたように声をかけてきた。「霞、まだ帰ってないの?今日は娘さんと一緒じゃなくていいの?」花奈と沙羅が一緒にいる光景が頭に浮かぶ。私は首を横に振った。「ううん、もういいの。これからは、わざわざ帰らなくていいから」ここ二日、実験室で徹夜続きで、ようやく欲しかったデータを手に入れた。胸の奥が満たされていくのを感じた。大事な実験を途中で切り上げてまで、わざわざ時間だけは必ずつくって家に飛んで帰らなくてもいいのだと思うと、ふいにそのことがたまらなく気楽に感じられた。外に出ると夕日が沈みかけていて、私は鼻歌まじりに家へ向かった。だが、玄関のドアを開けた途端、そこには暗い顔をした颯真がいて、腕の中には花奈を抱えていた。私の姿を見るなり、いきなり噛みついてきた。「霞、お前いい加減にしろよ。ろくに家にも帰らないで、自分が妻で母親だって自覚まだあるのか?俺が外で死ぬほど働いてるのは、お前に好き勝手させるためじゃないんだぞ!」颯真の言葉は耳を疑うほどひどくて、私はすぐ言い返した。「颯真、私だって仕事があるの。それに花奈の父親はあなただよ。面倒を見るのはあなただって同じでしょ? それに、小田切さんもいるじゃない」私は思わず眉をひそめた。「それに、あなたが死ぬほど働いて稼いだお金、私がどれだけ使ってるっていうの?私の給料だけで、自分のことくらいどうにでもなるから」そのとき、背後で玄関のドアの開く音がした。続いて、沙羅の柔らかい声が聞こえてくる。「颯真さん、霞さんとケンカしないでって言ったのに。また怒ってるの?」沙羅の姿を見るなり、花奈は待ちきれないとばかりに駆け寄って、その足にしがみつき、甘えた声を出した。「沙羅さん、やっと来てくれたね。花奈、おなかペコペコなの。一緒にご飯食べに連れてってくれる?」沙羅はその頭を優しく撫でながら、柔らかい声で言った。「もちろん花奈のこと連れてってあげたいけどね。でも……」そう言ってから、私の方を何度か見上げて、困ったように続ける。「でも、ママが怒っちゃうでしょ。外でご飯食べるの、あんまり好きじゃないみたいだし」その一言で花奈は怒りを爆発さ
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第4話
私はジョウロを持ち上げた手を、空中で固まらせた。私は一瞬何が何だか分からなかった。花奈の誕生日パーティー以来、あの子はずっと私を避けていた。そんな子が熱を出すなんて、どうして気づけるだろう。それでも、母親としての本能が働いて、気づけば私は颯真の後を追っていた。病院へ向かう道すがら、ようやく事情が見えてきた。花奈は朝ごはんの最中、急に身体が熱くなって、そのまま倒れたのだという。「違う、颯真。それ、多分アレルギーだわ」颯真の断片的な説明の中に、引っかかる言葉があった。朝のスープにピーナッツが入っていたという。花奈はピーナッツアレルギーだ。「そうなのか?」颯真が驚いたように私を見る。その肩を押しのけて、私は病院の方へ全力で駆けだした。アレルギーは、花奈に対して私がいちばん後ろめたく思っていることだ。体質は私に似てしまった。この病気は、悪化すれば命を奪う。「霞、待ってて。靴が……!」颯真はすぐに追いついてきて、息を切らしながら、私の片方の靴を手に持っていた。でもそんなものを気にしている余裕はなかった。花奈の身体には発疹が浮かび、全身真っ赤になって、か細い声でママを呼んでいた。「花奈」私は両腕を伸ばして抱きしめようとした。その瞬間、ほかのことは何もかもどうでもよくなった。誰か別の人をママだと言おうが、本気で私を嫌っていようが、今は考えたくない。ただ、自分の子どもを抱きしめたかった。ぱしん、と乾いた音がした。意識が朦朧としているはずの花奈は、それでも私だと分かったらしい。憎しみを込めた目でじっと私を見上げ、伸ばした手を思いきり叩き落とした。「あなたなんていらない」かすれきったその声が胸の真ん中に突き刺さって、息が止まりそうになった。「花奈、いい加減にしろ。ママだろ」颯真の顔色はひどく悪かった。さっき、私がどうやってここまで走ってきたかを見ているから、私がどれだけ必死だったか分かっているはずだ。沙羅もまた、裸足の私と、空気に混じるかすかな血の匂いに気づいていた。「霞さん、足ケガしてるじゃないですか。傷、ちゃんと見てもらってください。ここは私がついてますから」この二年、花奈のそばに一番いたのは沙羅だ。あの子をきつく叱ることなんてできず、気まずそうに話題をそらすしかない。私は足元に視線を落
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第5話
医者は首を横に振いただけで、それ以上は何も言わなかった。私は黙って傷の処置が終わるのを待った。明け方、ふらふらになりながら花奈の病室に戻ったときには、もうベッドは空になっていた。若い看護師が気遣うように私の肩を軽く叩いて、「奥さん、さっきの男性から伝言がありました。お子さんがなかなか落ち着かなくて、先に帰られました」と教えてくれた。「分かりました」私は泣くよりみっともない笑顔を浮かべた。まさか傷の処置をしている間に、全員いなくなっているなんて思いもしなかった。夜の風が強く吹きつける中、私は家へ向かう道を歩きながら、自分でもうまく言葉にできない気持ちを抱えていた。若い頃、颯真はとにかく私を甘やかしていた。苦労させまい、つらい思いをさせまいとして、私がどこへ行っても迎えに来てくれた。今では、隣にいるのはもう別の女で、命がけで産んだはずの子どもにさえ、私はたいして気にかけてもらえない。ここまで来てしまうと、人生って本当に侘しいものだと思う。スマホの通知音が「お電話です。お電話です」と繰り返し告げている。車を走らせている途中で颯真から電話がかかってきた。向こうはやけに賑やかで、私は思わずスマホを耳に押し当て、眉間にしわを寄せた。「霞、俺、花奈を連れてちょっと夜食食べに来てる。お前のほうが片付いたらこっちに来いよ。場所送るから」すぐにスマホがピコンと鳴り、颯真から位置情報が届いた。病院のすぐそばの店だった。どう見ても、しばらく食べてから、ふと思い出したように連絡してきたのだろう。「いいよ。そっちで食べてて」私は平然としたふりで電話を切ったが、その瞬間ぽろぽろと涙が落ちてきて、胸の奥が張り裂けそうに痛んだ。「大丈夫」なんて言葉にするのは簡単だ。でも、自分に何度そう言い聞かせたって、本当のところ大丈夫なわけがない。あの子は私の子で、あの人は私の夫なのに。それでも、もうどうしようもない。私は行くしかなかった。朝日が窓ガラスに差し込む頃、私は自分のスーツケースをまとめて、離婚協議書を枕元にそっと置いた。颯真は帰ってこなかった。昨日の明け方に一通だけメッセージが来ていて、寒いし行き来が面倒だから、三人でホテルに泊まることにした、と書いてあった。余計なことを考えられたくなかったのか、部屋を取るときには、わ
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第6話
それでいい。むしろ、その方がいい。これから先、彼は彼の人生を歩めばいい。私は、私の道をひとりで進んでいくだけだ。「教授、大丈夫ですか?」迎えに来てくれた人の方がぎょっとしていた。私は慌てて気持ちを立て直し、笑顔を作って「平気です。行きましょう」と答えた。市外行きの飛行機に乗り込んだ頃、颯真からメッセージが何通も届いた。どれもこれも、彼と花奈がいかに幸せかを見せつけるような写真ばかりだった。私は画面の中の小さな頬を、名残惜しむように指先でなぞり、「二人とも、どうか幸せに」と震える指で打ち込んだ。それが今の私に言える、ただ一つの願いだった。娘が無事でありますように。かつて愛した人が幸せでありますように。そして、私がいなくなったあとの世界でこそ、二人が本当に笑っていられますようにと。離陸のアナウンスが流れたとき、私は颯真の連絡先をすべてブロックし、スマホの電源を落とした。颯真はきっと頭に血が上ったはずだ。本当は、あの写真の山で私に焼きもちを焼かせ、家に引き戻すつもりだったのだろうに、返ってきたのは静かな祝福の言葉だけだったのだから。それがどうしても受け入れられず、颯真は花奈を言いくるめて、私にビデオ通話をかけさせた。けれど結果は同じで、私に繋がるはずの画面はすでに遮断されていて、呼び出し音すら鳴らなかった。「パパ、これどういうこと?ママは?」子供の花奈には、画面に表示された文字の意味は読み取れない。でも颯真は、昨夜の私がどれだけ焦っていたか、ケガまでしてしまったことを話して聞かせ、自分はママに謝らなきゃいけないのだと説明した。沙羅も同じように言って、素直な花奈はそれをそのまま信じて、こうして謝りに来たのだ。「なんでもないよ。花奈は沙羅さんのところに行っててくれるか」花奈の前では、颯真は必死に怒りを飲み込んでいた。あの子を怖がらせたくもないし、両親が揉めていると悟らせたくもない。「パパ、どうして歯をそんなにぎゅっとしてるの?」花奈には大人の感情は分からない。ただ、奥歯を噛みしめる音だけは聞き取ってしまって、何でも知りたがる年頃の彼女は、その場を離れたくなくなってしまう。「沙羅」追い詰められた颯真は、仕方なく大きな声で沙羅を呼んだ。あんな声を出すのは初めてで、沙羅はびくりと肩を震わせた。「颯真
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第7話
こぼれた数滴の涙には、たしかに少しだけ本気の想いも混じっていた。颯真はどうしていいか分からず、「沙羅、これはお前のせいじゃない。霞がちょっと拗ねてるだけだ。あいつは孤児院で育ったから、昔から好き勝手にする癖があってさ。しばらく放っておけば、何日かすれば戻ってくるよ」と、彼女をなだめる。出会ったばかりのころ、颯真は私が孤児院育ちだと知って、本気で涙をこぼしていたのに。飽きてしまった今は、「孤児院で育ったやつは、どうしてもだらしなくなる」なんて平気で口にする。「じゃあ、ご飯食べよっか」沙羅はうれしそうにぱちぱちと瞬きをした。颯真が自分を慰めてくれる、それだけで十分に「大事にされている」と感じられた。ここ数日、もうひと押し頑張れば、この家の「女主人」の座も夢じゃない――沙羅の胸はそんな期待でふくらんでいた。もう一人、胸を躍らせていたのが花奈だ。自分の部屋に大事にとっておいたジュースを持ち出し、テレビで見た大人たちの真似をしてコップを掲げ、「お祝い」を始めた。「パパ、ずっとこのままだったらいいのに」花奈にとっては、パパと沙羅さんがそろっている今が、何よりの幸せだった。「花奈、その言い方はなんだ」ここ最近の出来事は、颯真の心を強く揺さぶっていた。あの人は、かつて本気で私を愛していた――だからこそ、あんな言葉を耳にした瞬間、反射的に花奈をきつく叱りつけてしまったのだ。どうあれ、彼女は私の娘だ。こんなふうに考えるようになってほしくはなかった。「パパ……」花奈はびくっと身体を固くした。それでも、花奈からすれば、沙羅のことを好きでいること自体は、何一つ悪くないと思っていた。そんなことがあったせいで、私が家を出て三日目、花奈と颯真はとうとう激しくぶつかり合った。どちらも一歩も引かない。中でも花奈は、今にも目が飛び出しそうなほど見開いていた。「間違ってないもん。私、沙羅さんが好き。ママになってほしいの。ずっと前から、ずっと沙羅さんが私のこと見てくれてたじゃない。どこがいけないの?悪いのはパパでしょ。前は沙羅さんに優しかったのに、どうしてママがいなくなった途端、急に悪いことしたみたいな顔するの?」「花奈!」颯真の怒鳴り声と同時に、平手打ちの音が部屋に響いた。叩いてしまったあと、颯真の指先が一瞬震えた。その光景に
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第8話
「霞……」私が家を出て七日目、颯真は花奈を探しにも行かず、代わりに私が以前勤めていた研究所へ足を運んだ。そこは研究員だけでなく、その成果までも厳重に守られている特別区域で、そのせいで颯真は門の前で止められてしまった。彼はすっかり変わっていて、無精ひげを伸ばしたやつれた顔は、ほとんど浮浪者みたいだった。門番の警備員は何度も彼を追い払おうとし、そのうち本気で浮浪者扱いし始めた。「ここはあんたみたいなのが来る場所じゃないよ。金がほしいなら、よそへ行きな」その突き刺さるような言葉を浴びせられて、颯真は痛みに顔をゆがめた。ここ数日、彼は自分が私にしてきた態度を何度も思い返しては、そのときの私は、今の自分と同じくらい苦しかったのだろうかと考え続けていた。「聞こえないのか?さっさと行けって言ってるんだ」ぼんやり立ち尽くす颯真にいら立った警備員は、スタン警棒を取り出してスイッチを入れた。そこでようやく我に返った颯真は、ぼそっと私の名前を口にした。「俺は浮浪者じゃありません。妻を探しに来たんです。名前は霞って言って、ここで働いています。ご存じありませんか。中に入って、呼んできてもらえませんか。ただ、彼女に会いたいだけなんです」警備員は一日中いろいろな人間と顔を合わせるが、目の前の男の言うことを鵜呑みにする気はさらさらない。まして私のことなど知らないし、たとえ知っていたとしても呼ぶつもりはなかった。それがここを守るためでもある。「もう帰ってくれ。妻だって言うなら電話すればいいだろう。なんでわざわざ門まで来るんだ」隠そうともしない疑いの視線を浴びて、颯真はうなだれながらスマホを取り出した。画面には、霞にブロックされた事実がはっきりと示されていた。「俺たちは喧嘩して、あいつはもう何日も家に戻ってきてないんです。でも、ここで働いてるっていう証拠ならあります。周防霞って言います。見せます、見せますから」焦りで手が震えて、颯真はしばらく画面をうまくスクロールできずにいたが、警備員がとうとう苛立ち始めた頃になって、ようやく一枚の写真を表示させた。それは、私が研究所の制服を着て彼に送った写真で、今となっては私の身元を示せる唯一のものだった。警備員は鼻で笑った。「それで分かるのは、その人が職員だってことだけですよ。お前さんとどうい
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第9話
失敗したことを悟った颯真の目から、静かに涙がこぼれ落ちた。そのとき、誰かが私の名前に気づき、そっと隣の人に耳打ちする。五分ほどして、研究所の責任者が姿を見せ、颯真をじろりと見定めた。ここで働く研究員たちの家族のことは大体頭に入っている。だから、颯真の顔にもすぐに見覚えがあった。ただ、どうにも腑に落ちない点があった。霞がここを離れてから、もう一週間は経っている。夫であるはずの男が、それを知らないとは考えにくい。「こんにちは。ここの責任者です。何か事情があるなら聞きましょう」せめて責任者としてできることはしようと、彼は颯真を応接室に通し、一通り話を聞いた。耳に入ってきたのは、どこにでもある家庭のもつれだった。とりわけ「自分が離婚を切り出した」という一言で、責任者の中ではおおよその答えが固まってしまう。「周防さん、これはあくまでご家庭の問題です。こちらから霞さんの居場所をお伝えすることはできません。それに、彼女が離婚を決めた以上、研究所としてもその選択を尊重するしかありません。どうか分かってください。そろそろお帰りください。娘さんのことを、どうか一番に考えてあげてください」それが遠回しな「お引き取りください」だということくらい、颯真にも分かっていた。それでも納得がいかない。胸の奥では、叫んで問い詰めたい衝動が渦巻いていた。だが、背後では何人もの警備員が一斉に彼を見張っている。迂闊に動けば、すぐにつまみ出されるだろう。颯真は何も言えないまま、肩を落として家路につくしかなかった。唯一の救いは、沙羅が花奈を連れて家に戻ってきていたことだった。二人は彼を避ける素振りも見せず、以前と変わらない調子で接してくれる。その光景だけ見れば、まるでどこにでもいる幸せな家族のようだった。沙羅はわざわざ花奈の手を引き、颯真の前まで連れてきて一緒に頭を下げさせた。声はとろけるように優しく、その目には隠そうともしない気持ちがにじんでいる。その意味くらい、颯真には痛いほど分かっている。だからこそ、胸の底からいきなり怒りがこみ上げ、思わずテーブルをひっくり返した。「全部お前のせいだ。あのとき、可哀そうだと思って家庭教師にしただけだろうが。見ろよ、花奈をどんな子にしたと思ってる。……それから花奈、お前の母親は霞だ。命がけでお前を産んで、ここまで育
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第10話
実験というものには、どうしても受け止めきれない結果がつきまとう。この何年も、どれだけ慎重を重ねても、多くの人が命や身体を落としていった。生き残れた者の多くも、どこかしらを失ったままだ。だからこそ、私は文句を言う資格なんてないのだと思っている。失敗することや、途中で命を落とすことに比べれば、私はずっと恵まれている。まだ生きている。この世界をこの目で見て、この結末を確かめることができている。「かしこまりました。しっかり務めてまいります」表彰の日はあっという間にやって来て、その日まで私は何度も何度もスピーチの原稿を読み返しながら、自分の知らない新しい世界を少しでも受け入れようとしていた。十二年も世間から離れていたせいで、ついていけないことだらけで、意味の分からないものも多い。それでも、新しい技術が国の力になるという事実だけは、素直にうれしかった。そう思えるだけで、自分が差し出してきたものも、少しは報われた気がした。「周防霞さん、どうぞ壇上へ」感慨にふけっていたところを職員に支えられ、私はゆっくりと壇上へと上がった。これは紛れもない栄誉の瞬間で、私は興奮のあまり何度も涙をぬぐっているうちに、用意した言葉をすっかり頭から飛ばしてしまった。けれど、飾り立てた言葉を並べるよりも、この場でどうしても伝えたい相手がいると気づく。この瞬間、私が心から口にしたかったのは、犠牲になった一人ひとりへの感謝だった。彼らがいなければ、今日の成功はあり得なかった。彼らがいなければ、この栄誉の時間も訪れなかった。「だから、どうか彼ら一人ひとりのことを忘れないでください。歩んできた歴史を刻み、名も顔も残らなかった英雄たちの努力に、正面から向き合ってほしい。次の世代が強く賢く育てば、この国もきっと強くなれる。私たちの役目はここで一区切りですが、皆さんの時代は、いま始まったばかりです。思いきり追いかけてください。受け継いでください。新しいものを生み出してください。そして一緒に、この愛すべき土地を守っていきましょう」台本も何もない、ただ胸の内からあふれた言葉だったのに、その瞬間、会場から一番大きな拍手が沸き起こった。それが若い世代からの応えなのだと、私はすぐに分かった。私ももう退かない。あの子たちもきっと退かない。それこそが、受け継
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