毎週金曜日は、透が夕飯を食べに来る日だ。
喜んでくれそうなメニューを考えるのが楽しくて、コストパフォーマンスは度外視。そのせいで、金曜日はランチの材料も豪華で凝ったものになる。
ちゃっかり気付いているお客さんもいて、金曜は固定のランチ客が多い。普段のランチ営業はアルバイトに任せているが、金曜だけは、夕飯の下ごしらえのついでに調理は僕が担当する。今週はシュヴァインブラーテン&クロース。ドイツ人の祖母から教わった、僕の得意料理の一つだ。
——ドイツ料理は、最初に透が店に来てくれた日を思い起こさせてくれる。
あの日は涼しい風が良く通って、まるでヨーロッパの夏の森のような爽やかな日だった。苔の青い香りと野鳥の声を思い出していると、どうしてもドイツ料理が食べたくなって、昼下がりのカフェ営業のさなか、こっそり調理していたんだ。いつもはサンドウィッチなんかで簡単に済ますから、自分用に温かい料理を作ることは滅多にあることじゃない。
コロン、とベルの小気味よい音と共にドアが開いた瞬間。
まるで凛と澄んだ湖に飛び込んだような、眩しいくらい白い光を感じて。
何事かと驚いて振り向いたら、そこに遠慮がちに、でもしっかりと「あの時のキミ」が立っていて。何度でも、思い出す度に言葉にできないほどの幸運に胸が一杯になる。
クロース用に乾燥させていたパンをちぎり、オニオンを刻む。ソテーしたポークは昨夜からスープに漬けてあるから、ナイフがいらないほどジューシーに仕上がっているはずだ。
食べてくれる相手のことを想像しながらの料理の時間ほど、楽しいものはない。透は僕が作った食事をなんでも美味しいと言ってくれるが、特にヨーロッパの料理が口に合うようで、なかなか良い食べっぷりを見せてくれる。元が陸上選手だけあって代謝がいいのか、太る心配も無さそうで、食べさせ甲斐がある。
それに、お腹を空かして店に来る透は、とてもかわいい。
金曜の夜はたくさん飲むから、悪酔いしないようにしっかり食べさせないと。ランチタイムが捌けて、バータイムまでのんびりと店で過ごす。<「誕生日、おめでとう」ヒューゴが用意してくれた真っ黒なラベルのシャンパンで乾杯し、早速ケーキをつつきはじめる。「小林さんには、透のバースデーケーキを、とだけ伝えておいたんだ」溶け出しそうで溶け出さないギリギリのラインでとどまっているガトーショコラの隣には、クリスタルのようにきらきらと透明な光を反射しているフルーツのジュレ。「さっき、店まで持って来てもらっていてね、小林さんが『おまえらみたいなケーキにしといたから』って笑ってた」「このキラキラしたのはヒューゴの瞳みたいだから、ガトーショコラがおれ?」「んー?どうかな」デザートフォークにのせたケーキの上に、スプーンでジュレを掛けるとヒューゴはおれの口元に持ってきた。ほろ苦い濃厚なチョコレートは一瞬で溶けて、少し弾けるようなジュレと果物と混ざり合う。「んっっっっっま」「ジュレのシャンパンも、チョコレートもすごくいいものを使ってくれている。彼が僕らをどう解釈したかがよく分かるね?」「うん。見た目は違うけれど、一緒に食べると最高ってことだよな」少し減ったグラスにヒューゴはシャンパンを注ぎ足しながら、「それと、ありがとう透」と言う。「なにが?」「僕を好きになってくれて」「うん。これからも、よろしく」おれは照れてしまい、掲げたグラスで顔を少し隠した。好きにならないわけないと思うけどな。来年も再来年も、ずっと一緒に誕生日を祝ってほしいと強く願ってるよ。「……いいかな?僕たち、恋人同士ってことで」こそばゆい問いかけに軽く驚き、口に入れたシャンパンでむせそうになる。「ヒューゴってそういうこと言うんだ」「日本では付き合おうって最初に宣言するらしいとクリスから聞いた」「スウェーデンは違うの?」「ある程度経ってから確認するように思う。いつの間にか付き合ってる場合もある」「それ難しくない?どこからが付き合ってることになるの?」
ヒューゴのPC画面に、競技トラックの全景が映し出される。周囲はざわついていて、なにかの競技大会なのは明らかだ。カメラは徐々にズームし、何かを探すようにグラウンドをゆっくり移動し始める。見て取れるのは、走高跳、走幅跳、砲丸投、棒高跳……陸上のフィールド競技の大会らしい。そこで、「Hugo!」と突然大声が入っておれは思わず肩をすくめた。撮影者がマイクに近い位置で大声を出したせいだ。発音から、日本人でないことは明確だった。カメラが素早く右に向くと、グレーのパーカーを着た長身の男の子が着席しようとしているところだった。フードを深く被っているが、見事な金髪と、澄んだ青い瞳は隠しきれていない。「Don't」と短く制止する別の声。おれは絵に書いたような美少年っぷりをからかいたくなる衝動を抑えて、動画を静観することにした。「Don't shoot me」カメラのレンズを手で覆ったのか一瞬真っ暗になり、映像は再びトラックへと戻った。今よりも少しだけ高いトーンで端々がかすれているが、間違いなくヒューゴの声だ。画面に映し出される映像は、見る側への配慮はお構いなしにどんどん競技トラック上の各種目を映し出していく。「...there he is」撮影者がそう言ったところでカメラは止まり、徐々にピントが合わされていく。そこでは、棒高跳の競技が行われていて……ちょっと待て、この大会は……おれは突然、会場の熱気を感じるくらいありありと思い出した。たしか2回目は足がポールに微かに接触してギリギリのところで失敗したんだ。3回目は成功。映し出されている時はその3回目のはずだ。スタートラインへと向かう自分の顔から、緊張が見て取れる。カメラが再び右にパンされると、ヒューゴは顔の前で両手を組んで祈るように、トラックを見つめている。その横顔は、おれよりもずっと緊張した面持ちだ。映像はそのままヒューゴの横顔を映し出していたが、ワッと観客の歓声が上がる。
美味しいものをたっぷり食べさせてもらい、映画を見ながらうとうとしたり、近くで本を読んでいるヒューゴの雰囲気を感じたり。ゆっくりした時間が、体力面だけでなく、疲弊した気力をも徐々に回復させてくれる。心からリラックスできる週末が、やっと戻ってきた。なんて贅沢な3連休なんだ。猛烈な日差しが弱まった夕方頃、「ちょっと外で飲もうか」とバルコニーのガーデンチェアに誘われた。出されたのは赤ワインで、大きめのワイングラスに夕陽が反射してより赤々としている。「夕陽と赤ワインなんて、ヒューゴっぽい」「そう?」隣で、長い体躯をゆったりとガーデンチェアに投げ出し、全身を夕陽色に染めている男は軽くグラスを掲げた。「うん。似合う」いつもより薄いブルーの瞳が、とてもいいコントラストになっている。「さっき、ソースを作るのに赤ワインを開けたからね。残り物……あ、言うんじゃなかった」「ほんとだよ。せっかく良い方向に受け取ったのに。で、なんのソース?」おれが問うと、「シュニッツェルのイェーガーソースで」とヒューゴは居住まいを正した。詳しく説明してくれるようだ。イェーガーというのはドイツ語で狩人を指し、森で採れる野生のキノコで作るソースが元となったらしい。その他には特に決まったことはなく、生クリームを使用した白っぽいものから、デミグラスや赤ワインで作るブラウンソースまで多種類あるそうだ。ただし家庭やレストランではイェーガーアート、つまり『イェーガー風』と名付けられた料理はこのソース、と決まっていることが多いらしい。「僕は例外で、シュヴァインシュニッツェルはクリーム、リンダーなら赤ワインと、使い分けるけど」「シュヴー……ル?」よく聞き取れなかった。ははは、とヒューゴは大きく笑い、「ちがうちがう。シュヴァインのシュニッツェル、豚肉だ。リンダーは牛肉」「前に、ザッハトルテの時にも思ったんだけどドイツ語話せるの?」質問を続けるおれに、待った、と手で制止しながら目尻に涙を
リビングから差し込む明るい光は木の間仕切りで遮られ、アイボリー色のフローリングに本物の樹木のような影を作っている。せっかくの快晴だけど、さすがに今日は自転車は控えよう。暑さにやられた身体をこの連休で本調子に戻さなくては。おれは眠りについた時のままの態勢でふんわりとヒューゴに包まれて、SF映画でよく見る培養液に浸かっているクローン胎児みたいだな、なんてぬくぬくと思っていた。快適なのはおれだけで、ヒューゴの腕が痺れているかもしれないし、一回起きなきゃなあとは頭ではわかっているけど、ああ、動きたくない。眼の前で、逞しい腕が微かに金色に輝いている。その皮膚の感覚を実感したくて、腕にぐりぐりと頭をこすりつけると、「起きたのか」と耳元で囁かれる。「まだ」おれの即答に、後ろからくっくっと喉だけで笑う声。「いまなんじ?」なんだか顔を合わせにくい。いくら疲労がピークだったとは言え、さすがに甘えすぎてしまった。「んー、10時頃」そう言ってヒューゴはおれから離れて起き上がった。途端にエアコンの冷気を感じて身震いする。でもその寒さよりも、体温が消えた寂しさのほうがちょっと強い。まだ、行かないで欲しかったな。すぐにヒューゴは寝室に戻ってきてミネラルウォーターのボトルの蓋を開け、おれに手渡すと、自分はベッド脇に立ったまま水を煽った。その姿に、思わず目を剥いてしまう。「ヒューゴ、どうしたのその身体」元から筋肉があるのは知っていたが、なんだそのバキバキに締まった上体は。「なんかヘン?」本人は気付いてなさそうな素振りで、ボトルを持ったまま停止している。あ……痩せた、のか。「特に何もしてないけど」なんてとぼけているが……まさか、おれのことを心配して、食べてなかったなんてこと……「ま、おれの方が焼けていい感じだけど」薄っすらしか筋肉が見えない、た
成田空港に到着し機体から外へ出た瞬間、ねっとりとした夏の湿度が纏わりつく。気温はインドに比べると低いとはいえ、湿度の高い日本の夏は不快で、この1ヶ月で疲労がピークに達した身体に強烈すぎる。速水君は奥さんへのお土産として現地で買った純金のネックレスをしっかりと握り、空港から自宅へ直帰した。おれの方は、先に面倒な報告なんかを全て終わらせておきたく、そのまま出社することにした。どうも性格的に何か気がかりがあるときちんと休めないんだよな。携帯電話のことと、部長への報告と。「おれ、インドなめてたよ」昼すぎにオフィスに着くやいなや、おれは第一声でそう告げた。「ひゃー高屋さん日焼けしてる!あ、痩せた?」デザイナーの阿部ちゃんに指摘される。「飯は美味かったんだけど、暑いのなんの」体重の増減は分からないが頬が痩けたような自覚はあった。食ってはいたが、慣れない環境で心労もあり、身体が通常よりもエネルギーを消費したのだろう。まずは部長に帰国の報告をすると、納期が2週間延期されるのは確定で、先方からは特に苦言もなく協力してもらえたとのことだ。「高屋君、本当にごくろうさま。本番稼働したら盛大にお疲れ様会だね」とのねぎらいに安堵する。詳細についてはレポートに整理し、改めて報告すると告げて部屋を出た。その足で給湯室にお土産の紅茶を置いてから、携帯電話の手続きをするため一旦会社を出た。……今日は這ってでも店へ顔を出さなければ。話したいことがたくさんあるよ、ヒューゴ。駅前で携帯電話の手続きを終え、開通するまでの数時間は社に戻ってぼちぼちと旅費精算でもしよう。まず腹ごしらえにコンビニに立ち寄り、おにぎりを幾つか購入する。インドではホテルのルームサービスに満足できていたが、それとこれとは別だ。久しぶりの日本の米に浮かれ足ながら社屋へ戻り、エレベーターのボタンを押す。「あの……あの、すみません」ずいぶん控えめなトーンで声を掛けられた。振り向くと、なんとなく見覚えがあるような女性が少し困ったような顔をし
毎週金曜日は、透が夕飯を食べに来る日だ。喜んでくれそうなメニューを考えるのが楽しくて、コストパフォーマンスは度外視。そのせいで、金曜日はランチの材料も豪華で凝ったものになる。ちゃっかり気付いているお客さんもいて、金曜は固定のランチ客が多い。普段のランチ営業はアルバイトに任せているが、金曜だけは、夕飯の下ごしらえのついでに調理は僕が担当する。今週はシュヴァインブラーテン&クロース。ドイツ人の祖母から教わった、僕の得意料理の一つだ。——ドイツ料理は、最初に透が店に来てくれた日を思い起こさせてくれる。あの日は涼しい風が良く通って、まるでヨーロッパの夏の森のような爽やかな日だった。苔の青い香りと野鳥の声を思い出していると、どうしてもドイツ料理が食べたくなって、昼下がりのカフェ営業のさなか、こっそり調理していたんだ。いつもはサンドウィッチなんかで簡単に済ますから、自分用に温かい料理を作ることは滅多にあることじゃない。コロン、とベルの小気味よい音と共にドアが開いた瞬間。まるで凛と澄んだ湖に飛び込んだような、眩しいくらい白い光を感じて。何事かと驚いて振り向いたら、そこに遠慮がちに、でもしっかりと「あの時のキミ」が立っていて。何度でも、思い出す度に言葉にできないほどの幸運に胸が一杯になる。クロース用に乾燥させていたパンをちぎり、オニオンを刻む。ソテーしたポークは昨夜からスープに漬けてあるから、ナイフがいらないほどジューシーに仕上がっているはずだ。食べてくれる相手のことを想像しながらの料理の時間ほど、楽しいものはない。透は僕が作った食事をなんでも美味しいと言ってくれるが、特にヨーロッパの料理が口に合うようで、なかなか良い食べっぷりを見せてくれる。元が陸上選手だけあって代謝がいいのか、太る心配も無さそうで、食べさせ甲斐がある。それに、お腹を空かして店に来る透は、とてもかわいい。金曜の夜はたくさん飲むから、悪酔いしないようにしっかり食べさせないと。ランチタイムが捌けて、バータイムまでのんびりと店で過ごす。