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005話

last update publish date: 2026-10-04 16:51:36

 凌さんの声はどこまでも優しく、どこまでも甘い。

 私は凌さんの腕の中で、安心しきって目を閉じた。

 ※ ※ ※

 痴漢に遭った日から、三日経った。

 あの日、パニックになって泣きじゃくる私を、凌さんはずっと傍で支えてくれた。仕事が溜まっているはずなのに、私が眠りにつくまで、何度も背中を優しく撫でてくれたのだ。本当に申し訳ないことをしてしまった。

『案件が少し片付いたから大丈夫だ』

 あの日、顔色が悪いのにそう言って私を優先してくれた凌さん。その優しさに、私はどれほど救われただろう。

(お兄ちゃんには、感謝してもし足りないや)

 そう思いながら、私が玄関を開けると、それと全く同じタイミングで、隣の部屋のドアが開いて凌さんが出てきた。

「あ、お兄ちゃん、おはよう」

 見上げる凌さんの顔を見て、私はホッと胸を撫で下ろした。三日前と違って、今日の凌さんはすっかり顔色が良い。

「案件が、今日で片付きそうなんだ」

 そう言う凌さんの声は、どこか少し弾んでいるように聞こえた。そっか、本当によかった。お兄ちゃん、本当にお疲れ様。そう私が素直に喜ぶと、凌さんは静かに距離を詰めて、真っ直ぐに私を見つめた。

「なぁ。明日、一緒に出掛けないか? 久しぶりに、二人で夕食にでもどうだ」

 向けられたのは、射抜くような真剣な眼差し。

 いつもと違う気配を湛えた凌さんの瞳に、私は一瞬、胸がドキンと大きく跳ね上がるのを感じてしまった。けれど、明日は――。

「……ごめんね、お兄ちゃん。明日は、予定があるの」

「そうか。急だもんな」

 凌さんは分かりやすく肩を落とし、明らかに落ち込んだ様子を見せる。そんな凌さんの姿に、私は胸を痛めた。いつも私を最優先にしてくれる凌さんを、こんなふうにガッカリさせてしまうなんて。

 ――でも、ふと思った。

 凌さんの案件も片付いて、顔色も良くなった今こそ、ちゃんと話すチャンスなのではないか、と。

「あのね、お兄ちゃん! 明日の予定っていうのはね!」

「うん?」

 言い淀んだ私を急かすこともせず、凌さんはいつものように優しく微笑んで、私の言葉を待ってくれる。私は意を決して、胸の前でぎゅっと拳を握り締めた。

「わたし、彼氏ができたのっ!」

 ――その瞬間、凌さんの表情が一瞬だけ固まった。

 私はその変化を戸惑いだと解釈して、慌てて言葉を重ねた。

「お、驚いたよね。入学式の日に一目惚れしたって、声をかけられてね。健くんって言うの。……それで、明日、私の部屋で勉強をすることになって」

 凌さんは黙ったまま、私の話をじっと聞いている。その瞳の奥にあるものが、私には読み取れなかった。

 けれど、次の瞬間には、凌さんはいつもの穏やかな笑みを浮かべて、私を安心させるように優しく微笑んだ。

「そうか。……よかったじゃないか」

「うん! すごく、優しくてね。私のこと、大事にしてくれるの」

 えへへと照れ隠しに笑いながら、私たちは並んでマンションを出る。まだ驚いているかもしれないけれど、ちゃんと言えて良かった。肩の荷が下りたような気持ちで歩いていると、エントランスを出たところで、凌さんに呼び止められた。

「大学まで、送っていこうか?」

「ううん、大丈夫! もう満員電車も怖くないよ。ほら、ちゃんと痴漢に遭わないように対策したから!」

 私はバッグの持ち手に新しく取り付けた、小さな防犯ブザーを誇らしげに掲げて見せた。これがあれば、もしまた何かあってもすぐに周囲に助けを求められる。

 そんな私とブザーを交互に見つめながら、凌さんは低く、深く、呟いた。

「そうか。それなら、安心だな」

 その声の響きが、いつもと少し違う気がしたけれど、私は「うん!」と元気よく頷いた。

「それじゃあ、行ってきます!」

 凌さんに大きく手を振って、私は駅に向かってトントンと小走りで駆け出す。

 どうしてだろう。走っている最中、背中にじっとりと張り付くような、強い視線を感じる。

 振り返ろうか、と思ったその時、スマートフォンが服のポケットの中で震えた。

 画面を見ると、健くんからの『おはよ!』というメッセージ。

 その通知にすっかり気を取られてしまった私は、背後に感じる視線の正体を確かめることはなく、一度も振り向かずにそのまま駅へと吸い込まれていった。

 ※ ※ ※

 翌日。

 待ちに待った健くんとの勉強会の日。

 私は自宅近くの駅で健くんの到着を待ってから合流して、並んで私のマンションへと向かった。

「ここが私の部屋だよ」

「わ、緊張するな」

 健くんは緊張した様子で、私が玄関の鍵を開ける姿を眺めている。鍵を差し込んでカチリと開いた、丁度その時。ガチャリと不意に隣の部屋のドアが開き、仕立ての良いスーツに身を包んだ凌さんが姿を現した。

「あれ? お兄ちゃん、お仕事? 案件、昨日で片付いたんじゃ……?」

「いや……急に見直さないといけないことができてね。これから事務所へ戻るところだ」

 凌さんはいつもの穏やかな笑みを浮かべているけれど、その声はどこか冷たく、硬い響きを帯びているように感じられた。

(疲れてるのかな……)

「そっか。あまり無理しないでね」

「ああ、ありがとう。……そちらは?」

 凌さんの視線が、私の隣に立つ健くんに向けられる。私は少し照れながら、健くんの腕を引いた。

「あ、紹介するね。健くんです」

「初めまして! 彼女と付き合わせてもらっています、健です。いつも彼女からお兄さんの優しいお話を聞いています」

 健くんが緊張しながらも丁寧にお辞儀をすると、凌さんは、滑らかな微笑みを浮かべて頭を下げた。

「初めまして。凌です。彼女がいつもお世話になっているようだね。どうぞ、ゆっくりしていって」

 凌さんが私達に背中を向けて、歩き出しながら、ほんの一瞬だけ、健くんを横目に見た。

 その視線が何を意味していたのか、私には分からなかった。

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