ログイン
「
「もちろん、いいですよ。」
「ありがとう〜! 助かる〜!」
刈谷さん、横浜支部では数字の鬼って云われてたんだよね。
と、眉を下げて笑う
縮毛矯正で手に入れたというストレートヘアを揺らし、先輩が廊下の方へと小走りで向かう。
『西の
白河先輩が、その人物を一目見ようと、他の女性社員の背中で爪先立った。
総務部課長代理、
冷淡冷徹、無表情。
自分の仕事は自分の仕事、他人の仕事は他人の仕事。終わらないあなたの仕事を自分に頼まれても、それはどう足掻いてもあなたの仕事。
終われるように予定を組まなかったあなたが悪いのだと、昔先輩に楯突いたことがあるのだそう。
感情をあらわにすることなく一掃する冷めたグレーの瞳。色素の薄い髪からは、ほろほろと雪の結晶が落ちてきそう。
今憂先輩は、防災設備の点検で、フロアごとに消防署職員との検査に立ち会っているらしい。
「総務の懇親会も送別会も歓迎会も来なかったんでしょ?」
「絶対無理だって! 合同歓迎会じゃ来ないでしょ!」
秋晴れもいい後期の人事異動。私、
今日は、総務、人事、経理部合同での歓迎会があるのだ。
大勢人が集まる場所はとっても苦手だけれど、主役の立場なので出席しなければならない。
同期だけなら気兼ねなく楽しめるのに、ビジネスオンリーの飲み会は信じられないほど億劫。
私の心の壁は、なかなか他人には剥がせない。
廊下から聞こえてくるのは、憂先輩と女性社員たちの声。
恐らく今日の歓迎会のお誘いなのだろう。冷淡冷徹な憂先輩は、社交の場であっても出ないものは出ない。徹底している。
「あ、あの憂さん! 今日の合同歓迎会って、いらっしゃいます? 私達、歓迎会の幹事でして! 一応確認をとっているんです!」
「い、一応ね!」
少しの間があって。場が凍りついたように静まるのを感じた。
そして事務的に返す、先輩の冷たい声。
「ちょっと、待って。確認します。」
女性社員の間に広がる、小さなざわめき。
「え、憂さんが? いつも歓迎会すらも断るあの憂さんが??」
私も、憂先輩は一刀両断して拒否するものだと思っていたから、少し驚いた。
私は聞こえていないふりをし、社内システムの経理部共用フォルダから、今期年間スケジュール表と予算案、予算表のデータを引っ張り出してくる。
画面上で3つ窓を並べて見比べて。計算器を取ろうとすれば、そこには私を覆う影があった。
「っ……び、びっくりしたー」
「……」
私の真後ろに立ち、冷えた瞳で見下ろすのは、憂先輩。
スタイルのいい長身は、普段から体型管理を怠らない証拠なのだろうか。油物は食べないと噂で聞いたことがある。
ネイビーのスーツに縞々のネクタイは、平穏無事なオーソドックスを極めている。
無表情で、奥二重に長い睫毛から覗くグレーの瞳。憂いを帯びる、美しくも儚い顔立ち。
眼科で眼球ごと見られているかのように、私をまるごと見下す憂先輩。全身にひやりとしたものを感じ取る。
今まで離れた支部だったため、今度からきっとほぼ毎日のようにこの美麗を眺めることとなる。
小さな震えを隠しながら、なにかしら?と見つめ返してみる。
すると先輩の長い指が、私の前にゆったりと向かってきた。
「爽ちゃん。久しぶり。」
「お、お久しブリデス。」
両手を前に出し、私に低層のハイタッチを求める憂先輩。
ねえ、手を合わせてくれないの?と、目を細め首を傾ける姿がちょっと愛おしい。
私が両手を、そっと先輩の手の平に合わせる。
すると、にぎにぎと、私の指に指を絡めて憂李月なりのスキンシップを図られる。経理部の地味な暗さが、ふわりと緩和される。
「今日の歓迎会、来る? 爽ちゃん来んなら俺も行かんし。来るなら、俺も行く。」
「あ、はい。わたし、一応歓迎者なので。行きますよ?」
「そっか。えらいな。歓迎会も仕事の一貫として認識してんやな。」
そう言って、私の頭をそっと触れるように撫でる先輩。
いやいや、歓迎会行くの、当たり前やんなあ。
先輩が私へのスキンシップが激しいことは前々から知っている。でもまさか、社内でもこれだとは思わず。
かといって手を払えない私は、周りの視線に居心地の悪さを感じるばかりだ。
「初めての場所やし。緊張しよる?」
「す、少しだけ、」
「何かあったら、すぐ俺に頼ればええから。」
「は、はい。ありがとう、ございます……。」
「ん。じゃあまた夜。楽しみにしとる。」
はい。私も先輩のお陰で楽しめるようにしておきますよ。
まぶたを半分下ろす、先輩の甘い笑顔。冷淡冷徹無表情、いずこに?
刈谷爽の男事情は、おそらく唯一むに。
中学1年生の時、数学検定に臨んでみた。
羅列する数字はモノをいう。1は2より小さい。3は2より大きい。1+1=2でしかない。
正誤のゆらぎは一切許しませんよ、という冷淡無慈悲なアイツ。それが数学。
数学だって文章問題は国語力が試される。しかしながら過去問をみればパターンが分かるから、私は難なく数検一級に合格した。
でも崇められるなんてのは神様と推しだけらしい。周りにはもの珍しくも、奇怪な目を向けられていた。それが刈谷爽という人物。
ほら私、不思議ちゃんだから。
昔から可愛いものよりも、海外のホラーゲームに出てくるようなサイコ系キャラクターやブラックジョークに富んだ物語が好き。
そんな不思議ちゃんは、数学だけ飛び抜けた才能を発揮した。
だから、人からは綺麗に一線を引かれる。連絡先を知る友達は極少数。
でも一人だけ、私のミステリアスゾーンにグイグイっと割り込んで、過剰なスキンシップを求める人物がいたのだ。
それが
「憂さあん! 飲み会参加してるの珍しいですね?! ぜひビール注がせて下さい!」
「いや、俺はいいです。」
「えー、じゃあ他のお酒頼みますぅ?」
「いや、いいです。」
憂先輩の珍しい参加とあってか、周りが必死に声をかけに行っている。憂李月と距離感バグれるまたとないチャンス。
それなのに先輩は、来る者拒みすぎ。すぱんすぱんと周りをカマイタチで切っている。
そして正座も崩さず、何事もなかったかのようにお通しの鯨ベーコンとカイワレの和え物を食べているのだ。
周り、甚大な被害が出てますよ?
それにしても先輩、綺麗な食べ方してるなあ。
周りに私との親密さを伺わせてもいけないと、ずっと見ないようにしていたのに。つい見ちゃった刈谷スコープ。
憂先輩とは、予想通り目が合って。先輩は眉を下げてふわりと宴会間初の笑顔を見せた。
慌てて日本酒のおちょこを両手で持ち上げて、憂李月の酔いを覚ます。
その視線と視線に割り込んできた、6割強ハゲのおじさん。
どこかに移動したお隣さんの座布団を陣取る。
「刈谷ちゃん、日本酒いける口なの? 若いのになかなかやるね~。」
「私、日本酒大好きなんですよぉ。」
「けっこう“のん兵衛”なんだね。」
「はい。あんま酔わないんで、度数高いの好きなんです。」
確か人事部の⋯⋯誰だったかな。50代くらい?お偉いさんかな。おじさんのプラカード下さい。
「刈谷ちゃん身長低いね。150㎝ある?」
「こう見えて、147㎝なんです。」
「なんか小学生が飲んでるみたいで、違和感ありまくりだわ~。」
「ふふ。」
小学生かあ。社会人になっても中学生って言われることはあるけれど、降格しちゃったかあ。
うちのオフィスレディは皆綺麗だし、女性の魅力が反射して輝いてるもんね。
私なんて今日お座敷だって知らなかったから、チャッキーの靴下履いてきちゃったんだよ。ド派手な蛍光色のやつ。
「小学生を酔わせちゃあいかんねえ。じゃあおじさんにお酌してもらおうかな」
「あ、はい。いいですよ。」
「総務の
「え?」
「真っ先にお酌しに来てくれてさあ。気遣いができる女はモテるだろうね」
「………」
あ、これって遠回しに、ちゃんとお酌をしに行けって言われてるのかなあ。
総務の古馬都さんがどの方かは存じないけれど、ビール瓶を持ってずっとお酌しに回っている綺麗な女の人はいる。
私ってば、気が利かない子。
ちょっとズキンときちゃって。ビール瓶を取る手が震えてしまう。
「
私がビール瓶を手にした時、刈谷とおじさんの合間からふいっと憂先輩が割り込んだ。
「あ、ああ憂くん! 珍しいね君ぃ!」
「ええ、今日は可愛い後輩が主役ですから、俺も参加させていただきました。」
「そうかあ。確かにちっこくて可愛い後輩だもんなあ」
憂先輩が、さりげなく私を主役だと伝えてくれて。きっとおじさんに、刈谷は主役だからお酌の必要はないんですよって教えてくれたんだ。
ちょうどコップ一杯分のビールが瓶には残っていて、それを憂先輩がおじさんの持つコップに注ぎ入れる。
全然泡が立たない最後のビール。空になったビール瓶をおじさんに見せて、憂先輩が言った。
「きっと古馬都さんがビール持ってると思います。」
「じゃあ古馬都ちゃんの2杯目をおかわりしに行こうかな。」
おじさんが憂先輩のビールを飲み干すと、本当に古馬都さんという女性のところに行ってしまった。
ねえ先輩。予測計算したの?
刈谷も計算好きだから、先輩の方程式が見えちゃったりするんだよ。
私、ぜんぜん可愛くない後輩だよ。憂先輩。
「爽ちゃん、それって日本酒?」
私の前にある、とっくりとおちょこを見て、先輩が聞いてきた。
「はい、そうなんです。まだビールじゃなきゃ、まずかったですかね。」
「なんで?」
「皆まだビール飲んでるのに、私ってば勝手に日本酒頼んじゃって。全然空気読めなくて……。」
計算はできるのにねえ。皆に合わせたお酒を飲まないなんて、やっぱり変、ですよね。
とりあえず自分でつっこんで、罪悪感を取り除いておいた。
憂先輩がふわりと笑って、私のおちょこを手に取る。
そしてそれを一気に飲んだ。
「あー、これって。
「あ、そうです! わかるんですか?」
「フルーティーな感じで飲みやすいやんな。俺も日本酒、けっこう飲むんよ。」
「憂先輩、日本酒似合いますもんねえ。」
憂先輩が今度は私におちょこを持たせて、とっくりを手にして注いでくれる。
「今度、巡ってみる?」
「え?」
「酒蔵巡り。」
「ああ、いいですねえ!楽しそう!」
「爽ちゃんとの酒蔵デート、なんかええね。」
「で、でえと、ですか。」
「え? 嫌なん?」
とっくりを、ゆっくりと机に置いた先輩。
お隣同士で触れる腕と腕の温度。
首を傾げ、私の顔を下から覗いてくる。
長いまつ毛が綺麗に瞬いて、私も同じように瞬き返した。
先輩、ちょっと酔ってるん?
頬が少し染まっていて、悲しそうに眉を下げ、憂いの瞳で私に聞いてくる。
私はたじたじで、ちょっと予測不能関数だなあ。
すっと息を吸って、言葉よりも先に首をふるふると横に振る。嫌なわけないよって。
「爽ちゃんて、顔ちっちゃいなあ。」
「ふぇっ、」
私の頬に、人差し指を当てる先輩。
憂先輩の指の威力は神様並。親指と一緒に頬をつままれて、刈谷の脳がゆっくり溶かされ初める。
「キスする時、きっと大変やろなあ。」
「へっ、」
「あかん。今の俺の発言、有罪もん。」
「い、いえ。先輩なら、無罪放免です!」
「ほんま?でも爽ちゃんになら有罪で捕まるのも悪ない。」
「せんぱい、酔ってます?」
「可愛い後輩に酔うてます。」
う〜ん参ったなあ〜。
ほら、甚大な被害者たちが、そわそわとこちらを見てますよ、先輩。
私の頬から指を離し、その綺麗な指で、私の外ハネセミロングの髪をこっそり撫でてくる。
なんでそんなに愛おしいものを愛でるような目で見てくるの? 男の人に見られ慣れていない私は、どこに視線を置いていいやら、キョロキョロと黒目が動いてしまう。
机に肘をついて、その手の甲に顎を乗せて。こてん、と首を傾げる先輩。それだけで有名絵画を越えてくる。
お酒の力で潤いと艶をアップデートした先輩は、私からなかなか目を離してくれない。
無恥なにらめっこに困って、私が根負けして俯いてしまえば。
先輩は「無垢やなあ。」と今日一番の甘い笑顔を見せてくるから、私も「無垢やあらへんです。」と日本酒のせいにして笑い返した。
「そ、それとですね! 家煎さんの件は、元は水樹さんが言い出したことでして!」「うん。家煎が爽ちゃんを飲み会に無理やり引き込んだこと、よう分かっとるよ。でも、あれはあかんわ。」「ぅえ……?」「家煎の噂。昔、女上司と不倫しとったって話。知っとる?」 ―――思い出した。 そういえば中華ダイニングの女子会でまゆゆが言ってたっけ。人事の家煎さんが、女上司に媚び売るために不倫してたとかなんとか。「あれ、半分ほんま。不倫まではいってへんけど、上司にしつこいくらいちょっかいかけとったってのは本当。」「えぇっ」「家煎は軽い男やから。歓迎会でも家煎が爽ちゃんに近づかんようにするの、大変やった。」 「……もしかして先輩。家煎さんと、仲いいんですか?」「まさか。」「…………」 「同期。仲は良くも悪くもないな。昔一度だけ、一緒にグランピングしたってくらいやし。」 はい? グランピング? あの、有害無益そうなパリピ星の家煎さんと? それってドライな先輩にとっては、とっても仲がいいってことなんじゃないんですか? 次月の週末。 先輩には、家煎さん主催の飲み会には不参加を表明していたはずなのに。 朋政課長に、同期の小窪さんも来るからと言われて、結果的に無理やり参加させられることとなった。もちろん、憂先輩も一緒に。「朋政課長の好きなタイプってどんな子なの〜?」「どこにでも突っ走っていくような子供じみた子ですかねえ。あ、でも特に年齢にも性別にも制限は設けてないですよ?」「ええーじゃあアラフォーの私でもいけるってこと〜?!」「もちろん水樹さんのような世話好きな女性でも、表面上はドライ、中身はウェットな西の憂君でも僕は全然いけます!」「あっはは〜! 残念ながら憂君の表情は今ひとつ変わってない〜!!」 朋政課長を目の前にして、ビールのピッチャーからそのまま飲み干そうとする水樹さん。右隣の私が慌ててジョッキを手渡した。 左隣には小窪さんがいて、私にこっそりと耳打ちをしてくる。 「あれ、今日古馬都さんは来てないんですか?」「ああ。なんか用事があるらしくって。」「そうなんですね。」 やっぱり今日はお子さんとご飯を食べに行くと言っていた古馬都さん。大君と巡ちゃんが
「俺ら同期6人さ、研修から一緒に愚痴言い合って頑張ってきたメンバーじゃん。大した思い出もないけど、定年まで一緒に飲めたらいいよなあとは思う。」「6人とも飲めるしね。」「刈谷が一番ザルだけどな。」 いつも感情のぶれることのない、冷静なむがみん。6人で飲んでいても、むがみんが潰れることはほぼない。 今の台詞は彼が言うからこそ意味を持つのだ。同期と飲めなくなるのが、本当に寂しいんだろうなあって。「じゃあな。星へ気をつけて帰れ。」「うん、ブラックホールに吸い込まれないよう頑張る。」 違う路線のホームへと降りていくむがみん。別れ際になって、ようやく私に笑顔を見せてくれた。 そのレアな笑顔に励まされて、少しだけ勇気が湧く。スマホを鞄から取り出して、ホーム画面を点灯させる。 映るのは、先輩と二人で一緒に撮った晴雲酒造の煙突の中での写真。煙突内は暗いはずなのに、てっぺんから差す太陽光がいい具合に私たち二人を照らしている。 頭の中にぽわりと灯る光。白い鳩が飛び去って、大きくゆっくりと鐘が鳴る。好きになれる男の人なんて、一生できないと思っていた。 先輩と私、もしかしたら何かが食い違っているだけかもしれないのに。このままもう、りっくんとは一生話すこともできないの? 涙がこぼれない内に。情緒不安定になる前に。震える指で、先輩の番号をタップしようとした。「すみません。ちょっと、道を尋ねたいんですけど。」「え、」 私に話しかけてきた声の主を見れば、私が見下ろせるほどの男の子が一人と、女の子が一人。 どっちもはっきりとした顔立ちの、そっくりな子供だ。今先輩に連絡しようとしていたのに。すでに頭の中身は双子のホラー映画でいっぱい。「あの、おうみ倉庫っていう会社は、どの出口から出ればいいですか?」 物怖じせず、しっかりと私の目を見て話す男の子。そして男の子の影に隠れて、恥ずかしそうにしている女の子。 目測だと、私より20センチ以上は低いはず。「ええと、央海倉庫は私が働いている会社ですけど、東京本部でいいんですよね?」「はい。」「良かったら、道案内しますよ?」「え……いいんですか?」「はい。いいですよ。」 少し目を泳がせた男の子。偶然話しかけた相手が、まさか探している会社の人間だったなんて、当然戸惑うのも無理はない。 証拠になるかと、
祖父の1周忌で実家に帰れば、私に結婚を促す親戚は誰もおらず。それどころか、お決まりの『彼氏はいるんか?』なんていうおじさん等もいない。 みいんな、刈谷爽が昔から不思議ちゃんだということを知っているから。 祖父母の家の庭先でトカゲを捕まえて、首にリボンを巻こうとしていた裸足の女の子。誰も私を捕獲しには来なかった。 一人でグロッキーでトリッキーな物語をつぶやきながら登校した小学生時代。気味が悪い不思議ちゃんに近づいてくる友達はほぼいない。 一人だけ私という人間に線引をしなかったのは、あどけない笑顔の男の子だった。 不思議ちゃんが中学に上がれば、数学の威力を発揮する。 数学検定に数学オリンピック。でも他の教科は平均以下。 鞄につけているキーホルダーは、口から血を流したウサギや首のないゴーストライダー。 いつの間にか宇宙人に変貌を遂げた私は、周りからは精神的な部分を怪しまれた。 それでも信じてくれていた父と母。そして、唯一小学生の頃から仲の良かった男の子。 彼の家は教育一家で、小学校低学年から塾は当たり前。常に母親からは成績1位でいろと言われ続けていたこともあり、中学では学年首位を獲得していた。 でもその首位を、数学だけ私が奪ってしまったのだ。 椅子を蹴られて、睨まれて。それ以来彼は私を無視するようになった。 男の子という存在が怖くなり、女子校、女子大に通った私。 社会人になれば、生きていくために背に腹は変えられず。男嫌いだなんて人種差別をしてはならないと自分に言い聞かせ、心の中でジェンダーの壁をとっぱらった。 女性も男性も、みいんな可愛いピンクのゾウさんとして扱った。 でもね、一人だけ、ピンクのゾウさんになれなかった男の人がいたんだよ――――……。 週明けのど真ん中。 財務に呼ばれて経理部予算案の説明をしにいった際、非常階段で朋政課長と、パンツスーツ姿の女性が話し込む場面に遭遇する。 踊り場で課長は、何かの図表を指差しながら、女性に注意を促している模様。 邪魔をしてはいけないと、気配を消して階段を降りていく。「統計の項目をもっと広い視野で考えてみて。顧客ニーズを意識した、具体的な統計表を作れって僕は言っているんだよ。」 「は、はい。すみません!」 強めな課長の口調に、声を震わせ
「ごめんね憂君! ちょっと遅れた! 課長につかまっちゃって!」 ゆるふわなミルクティー色の髪を靡かせて、バレッタで綺麗に髪を留め直す古馬都さん。 肩の後ろへと髪をやる仕草が、とっても色香を放っていて。まばらにいる社員さんたちの視線を感じる。「いえ。大丈夫です。」 少しだけ気まずそうに視線を落とす憂先輩。私はどう見ていいのか分からず、“私なら大丈夫ですよ”と無理に平常心の笑顔を作る。 「あ、こんにちは刈谷さん!」「こんにちは。」 私に、まばゆい美しい笑顔を向ける古馬都さん。この人が未だ独身だというのが信じられない。 背は高く、身体のしなやかな作りが古馬都さんの美顔に大変見合っている。それに比べて身長147センチで胸だけ大きめの私は、あまりにも滑稽だ。 いつ見ても、どこにも勝てる要素がないことに胸の痛覚が反応する。人と比べて劣等感を感じるのは、今に始まったことじゃないのに。 なんでかな。先輩に近しい女性だと思うと、今まで感じたことないほどの絶対的敗北感を感じてしまう…。 「で、憂君、私に用事ってなんだった?仕事の話?」「いえ。」「暫くインフルで休んでたから、きっと憂君に沢山迷惑かけたよね。」「いえ、全然。」 はう。 憂先輩から誘ったという、真実はいつも一つの事実。 関節がカクカクと、角度をつけるようにしか動かない。 せっかくの貴重な二人のお昼休み。私が邪魔をしてはいけないと、素早く頭を下げてその場を後にしようとする。 でも、すぐに古馬都さんに呼び止められた。「そういえば刈谷さん! 今度|家煎《いえいり》君主催の飲み会行くんだって?」 「うぇっ!? い、いえ、私は、」「こないだの合同会じゃ全然喋れなかったし、私も行こうかなって思ってるの!よろしくね!」「い、いや。あの私は、」「家煎君、刈谷さん来るのすっごい楽しみにしてたよ? 早速狙われてるけど、あれはオススメしないなあ〜。」 このタイミングで、その話。 家煎さんって仕事が早すぎる。まだ午前中に出た話しじゃなかった? まずいよなと先輩に向けられない自分の顔がオートマチックにこわばれば。前からカタリと器がぶつかる音が鳴った。 「その飲み会って、いつ?」「え?」「その飲み会って、いつですか?」 憂先輩が、私を一瞥して
『爽ちゃん、仕事忙しいよな。次いつ夕飯一緒いける?』「ええと。そうですねえ、来月初めの金曜日はどうでしょうか?」 『そこまで二人きりになるの、待てん。今週の金曜は?』「すみません。。今週は祖父の1周忌で実家に変える予定でして。来週はりっくん、研修ですもんねえ。」『いややわ。どうにかなる。』 電話ですれ違いを確認したところで、先輩とお付き合いをして1ヶ月が経ちました。 年末調整業務がようやく終わったと思えば、すでに決算に向けた業務が波のように押し寄せる日々。 羅列する数字とにらめっこするのは嫌いじゃないけれど、やっぱり横浜支部とは比べ物にならない量。エクセルの枠だって小さくなるし、用紙もA3以上のポスター並。 目に良いブルーベリー効果を狙って、できる限り朝はパンにブルーベリージャムを塗って食べている。心ばかりの効果すら期待はできないのだけれど。 そもそも部署の数が倍になるから、取りまとめるにも相当な精神力を要する。 ということですから、私は仕事の業務でいっぱいいっぱい。平日ご飯に行こうにも、どちらかが残業で都合がつかず。 もっとうつつを抜かしたい私に、疲労ばかりがのしかかり、おうちに帰っておよそ30分で夢の中。 つまり、先輩とは酒蔵巡り以来デートは出来ていない状態です。 「来期の予算申請、もう財務に回したんだって?さっすが数字の鬼だね刈谷さん!」 経理部課長代理の水樹さんが、すれ違いざまに私の肩を叩いて言った。「早かったですかね? 消耗品の予算、去年よりも1割増で出しておいたんですけれど、」 「助かる助かる! だあれがペーパーレスするかってのよ。裏紙なんて、ペンで大きく『あ』って書いて裏紙にしてやるってのよ! ねえ?」 節約しないにしても、わざわざ無駄に『あ』って書くのは面倒な気もします。 お子さんが一人いらっしゃるという水樹さんは、いつも気さくに話しかけてくれる良き上司だ。 このまま出世街道を突き進みたい気持ちはあれど、お子さんのためにせいぜい課長止まりの心構えで定年まで頑張っていきたいと、歓迎会で話してくれた。「ねえ! それよりさ。刈谷さんこの間、朋政課長に呼び出されてたじゃん?」「あ。ああー……。そうでしたね。」「刈谷さんって朋政課長と仲いいの?」 爛々と輝かせた目で、食い入るように見つめられる。 水樹さ
松岡醸造には、酒蔵には珍しく、大吟醸のソフトクリームなんてもんもある。 爽ちゃんと半分こしようと、一つだけ買うた。 一つだけ買うて半分こて。これってどう考えても誰かさんへの当てつけやんな? 俺の性格の悪さがこんな場面でも発揮するとは。 爽ちゃんだけを一点に見つめて、彼女の目の前にソフトクリームを差し出す。 すぐにキラキラと目が輝きだして、なんや、ご飯を待ちわびたワンコのようにもみえるのは内緒にしとこ。「半分こしよか。」「え? わ、私と半分こ、ですか?」 「いややった?」「い、いえいえ! ええと、ではりっくんからお先にどうぞ!」 爽ちゃんの小さな顔が赤くなっとる。キラキラさせたり、赤くなったり忙しないなあ。 言われた通り、先に一口ぱくりとソフトクリームを頬張る。唇に冷たい感触が残って、舌で舐め取れば、爽ちゃんに穴が開くほど見られた。 「どないした?」「……りっくんの色気にやられそうです。」「なんやそれ。」 “色気”なんて俺にある? 妙に照れくさくなって、今度はソフトクリームを爽ちゃんの口元に差し出した。 小さく口を開けて、舌を出す姿に脳内が悶えかける。自分の口がニヤけているんやないかと、慌てて手の甲で隠した。「ん! ちゃんとお酒の風味がありますね。でもさっぱりしてる!」「うん。アルコール分はないらしいけど、さっぱりしてて美味いな。」 大吟醸ソフトは美味いし、爽ちゃんはそれ以上にかわいい。そんなことはずっと前から知っとる。 でも、俺が持つソフトクリームを、そのまま俺の手首を両手でつかんで食べる爽ちゃん、かわいくてたまらん。 リスとか、ハムスターとか、今までは小動物にも似たかわいさを感じていたけれど。自分の彼女となってからは、もっとそのかわいさが際立ってかわいい。 語彙力が瀕死になるな。「爽ちゃん、口、ついとる。」「あ、ハンカチ、」 爽ちゃんが鞄からハンカチを取り出そうとしたところで、その唇についた大吟醸ソフトを指で拭う。「爽ちゃんの唇の温度で、いい具合に温まっとる。」 自分の指についたソフトクリームを一舐めすれば、爽ちゃんがピクリと反応するのが分かった。 顔を赤くして、不意にうつむく。今俺から見えるのは、爽ちゃんの頭。艶のある髪が天使の輪っかを作っとる。 爽ちゃんの行動一つ一つがたまらなく愛お