INICIAR SESIÓN春加の返事を待たず、俺はそのまま立ち去った。家からそう遠くない店で昼食を取った。スマホを取り出し、家の見守りカメラの映像を開く。春加はキッチンに座り、テーブルいっぱいに並んだ料理を前にうつむいたまま、まだ俺を待っていた。その姿を見て、俺は思わず目頭が熱くなった。かつては、俺もこうだった。今は立場が逆転して、あの頃の自分が哀れに思えるだけだった。食事を終えた後、俺はショッピングモールで少し買い物をした。夜が更けてから、ようやく帰宅する。春加はすでに帰った後だった。テーブルの上には、まだ手つかずの料理が残っていた。かなりの量を作ったようで、それなりに手をかけたのだろう。俺はそれに手をつけず、家事代行を頼んで、きれいに片付けてもらった。それからしばらく、春加が現れることはなかった。俺の生活も、以前よりずっと気楽になった。……ある日の夕方、光司が家を訪ねてきた。体は痩せ細り、顔色もひどく憔悴していた。彼はよろめきながら俺に近づき、声を張り上げて叫んだ。「消えろよ!春加をたぶらかすな!彼女は僕のものだって言ったのに、どうしてまた横取りするんだ!」俺は眉をひそめ、相手にする気にもなれなかった。彼を外へ押し出そうとする。「出て行ってくれ」光司は何かに刺激されたように、突然びくりと震えた。そのまま勢いよく、俺に飛びかかってくる。「返してくれよ!彼女は僕のものだ!愛してるって言ったんだ、僕だけを愛してるって!全部、僕に話してくれたんだ。お前のことなんか、好きなわけないだろ」光司は勢いよく顔を上げた。その目は、恐ろしいほど虚ろだった。にやりと口を歪めて笑う。「そうだよ、彼女、慎吾さんより、僕と寝た回数の方が多いんだ。だから、僕と一緒になるべきなんだよ……」俺は思い切り彼を突き放し、憐れみの混じった目で見た。「頭がおかしくなったのか?」けれど光司は何も聞こえていないかのように、再び狂犬のように飛びかかってきた。その時、ドアが勢いよく開いた。春加が足を振り上げ、ハイヒールの踵で彼の胸元を蹴りつけた。彼は壁に叩きつけられ、口の端から血を流した。春加は眉をひそめ、彼を引きずって外へ連れ出そうとする。光司はなおも彼女の脚にしがみつき、大声で笑い続けた。「春加、あいつはもう君
春加はしばらく何も言わず、車の中でただ長く沈黙していた。このまま沈黙が続くのかと思い始めた頃、彼女は不意にロックを解除した。俺はドアを開けて、車を降りた。「今日は送ってくれてありがとう。今度、食事でも奢らせてくれ」俺はスーツケースを引きずり、淡々と部屋へ戻った。すぐにシャワーを浴び、髪を拭いた。ベランダから見下ろすと、春加はまだそこにいた。車の窓が下がっていて、煙草を挟んだ手を窓枠に預けている。長い間、動く気配がなかった。俺は振り返り、カーテンを引いた。……翌日、俺は昼過ぎまで眠り込んだ。午後、ゴミを出しに下へ降りると、そこに立っている春加の姿があった。少しやつれた様子で、手には食材の袋を提げている。どうやら、朝早くからそこで待っていたらしい。驚いた俺の視線に気づいて、春加の方から口を開いた。「食材、買ってきたの。ご飯、作ってもいいかな……あなたが前にやりたいって言ってたこと、これからは全部、一緒にやるから」俺は動かなかった。「もう忙しくないのか?」春加は少し気まずそうに、目を伏せた。「仕事は……今は急がなくてもいいの。私も、もう忙しくないし」俺は口の端を歪め、薄い笑みを浮かべた。以前、俺は卑屈なくらい彼女に頼み込んだことがある。少しでいいから一緒にいてほしいと。そのたびに、聞き分けがないと言われたものだ。今、俺が去った後になって、ようやく仕事なんて大したことじゃないと気づいたらしい。だが、もう遅い。今の俺には、もう必要なかった。俺は顔を上げ、静かに春加を見つめた。「もういい。仕事の方が大事だろう。早く戻った方がいい」春加の視線は行き場を失い、唇を噛んだ。「違う……私はただ、あなたのそばに、もう少しいたかっただけ」まだ彼女を愛していた頃は、彼女は何をするにも俺のことは後回しだった。今こうして見ると、なおのこと皮肉に思える。それでも俺は、それ以上取り合わなかった。春加は自分から世話を焼き始め、コンロに火をつけ、俺が昔していたように料理を始めた。けれど、彼女の作る料理は、ちっとも美味しくなかった。春加はキッチンで不慣れな手つきで作業しながら、口を開いた。「あなた、前によく海外に行きたいって言ってたでしょう?最近ちゃんと旅行の
春加のもとを離れた後、俺はあの遠く離れた街へ向かった。しばらくその街の病院に入院して療養した。退院後は、周辺の街をあてもなく旅して回った。怪我もだいぶ癒えてきたとはいえ、まだ重い荷物は持てなかった。そんな折、駅を出た途端、スーツケースのキャスターが突然外れてしまった。誰かに助けを頼もうかと迷っていたその時、手元の重さがふっと消えた。俺はほっと息をつき、振り返った。「ありがとうございます」けれど、そこに立っていたのが数ヶ月ぶりに見る春加だと気づき、俺は完全に固まった。春加は俺の代わりにスーツケースを持ちながら、声をわずかに震わせた。「……どういたしまして」一瞬の間の後、俺は気持ちを立て直し、タクシーを拾おうとした。春加は不意に俺の腕を掴み、少し戸惑うような声で言った。「私に……何も言いたいこと、ないの?」俺はただ首を振り、スマホの画面に視線を戻した。春加は慌てたように一歩踏み出すと、俺のスマホ画面を手で遮った。もう片方の手で、俺のスーツケースをそのまま持ち上げた。「どこに帰るの?車がすぐそこにあるから、送っていくわ」焦っているような彼女の後ろ姿を見つめながら、俺は小さく喉を鳴らした。それでも、結局ついていった。車の脇に立ち、俺は少し迷ってから後部座席のドアノブを引いた。ロックされていて開かない。顔を上げると、窓ガラス越しに春加と視線がぶつかった。俺はドアを指差した。「開かない」春加の美しい瞳の奥には、無数の感情が渦巻いていた。ただじっと俺を見つめ続け、しばらくして、ようやくカチャリという音が聞こえた。車内で、春加は俺を見なかった。ごく小さな声で言った。「慎吾……助手席には、まだあなたの名前のシールが貼ってあるのよ」俺は一瞬固まり、確かにもう色褪せかけたシールに目をやった。それは、春加が俺に許してくれた数少ない、少し子供っぽいことのひとつだった。けれど、俺は何も答えなかった。ただ行き先を告げ、静かに窓の外を見つめる。車内はめずらしいほど静かだった。かつては、いつも俺の方から彼女にまとわりつくように話しかけ、あれこれ尋ねていたものだ。今こうしていると、どこか落ち着かない。春加は何度か口を開きかけ、バックミラー越しに何度も俺を窺った。俺には、春加が言いたいことがおおよそ想
春加はそのまま、長い間じっと立ち尽くしていた。まるで全身が固まったかのように。やがて、春加はふと耳を澄ませた。近づいてくる足音を聞き取ったのだ。呼吸も自然と浅くなり、心臓だけが激しく脈打つ。弾かれたように振り返った。「帰ってきたのね、どこに行ってたの……」だが、相手の顔を見た瞬間、続く言葉が喉の奥で凍りついた。瞳の奥に、色濃い失望がよぎる。「なんであなたなの?ここに何しに来たのよ」鍵を開けて入ってきた光司は、笑いながら足早に歩み寄り、後ろから春加の腰に腕を回した。「会いたくなっちゃって、社長。合鍵をくれて、いつでも来ていいって言ったの、社長じゃないか」春加は全身を強張らせ、さりげなく体を離した。彼を見ようともしない。「今の時間、あなたは仕事中のはずでしょう」光司はわざとらしく唇を尖らせ、それでも春加にすり寄ったまま、甘えたような不満げな声を出した。「いつでも休んでいいって言ったの、社長だよね?僕、朝から晩まで働きたくないんだー」そう言いながら、光司はまた春加の方に視線を送り、わざと指先で、彼女の腕をゆっくりと撫でた。「社長、この服、僕に似合ってる?僕が着ても、案外いけるんじゃないか?」春加は顔を上げた瞬間、目を見開いた。彼女は咄嗟に手を伸ばし、光司の腕をきつく掴む。「誰がそれを着ていいって言った?これが慎吾のために買った服だってこと、知らないわけじゃないでしょう!」光司は大げさに眉をひそめて声を上げた。「社長、痛いですって……僕はただ、慎吾さんのために試着してみただけだよ……」彼は春加の手を強引に振りほどき、乱れた服の襟を整えた。春加は数歩後ずさりながら、その顔を見つめた。今はただ、うんざりするばかりだった。光司はそれに気づいた様子もなく、ふと目をやった先に例のウェディングフォトを見つけると、嬉しそうに歩み寄った。手に取って、満足げにうんうんと頷く。「社長、僕たちのウェディングフォト、やっぱりよく撮れてるね。壁に飾っておくべきだよ。もう少ししたら、飾り付けももっと買い足しましょうよ。これからも僕たち……」その耳障りな言葉を聞きながら、春加は呼吸がどんどん荒くなり、ついに口を挟んだ。「……いい加減にして。この家は、私と慎吾の家よ。あな
春加は足早にベッドへ駆け寄り、慌てて周囲を見渡した。胸の奥で、嫌な予感が警鐘を鳴らしていた。彼女は弾かれたように振り返ると、ナースステーションへ走り、看護師の腕を掴んだ。声は、抑えようもなく震えていた。「この病室の患者さん、どこに行ったんですか?」看護師は眉をひそめ、一歩後ずさった。「ご家族の方ですか?落ち着いてください」そして病室の方をちらりと見て、続けた。「あのお部屋の患者様なら、ご自身で退院手続きを済ませて、今朝早くに退院されましたよ」春加は息を呑み、掴んでいた手をゆっくりと離した。全身の血の気が引き、凍りついていくような感覚だった。「行った……?あんなに怪我をしていて、どうやって出て行けたっていうんですか?どこへ行ったっていうんですか……?」看護師も、どこか腑に落ちない様子だった。「私たちも何度も止めたんですけどね。無駄でした。ご本人がどうしても退院するって聞かなくて。先生も止められなかったんです」春加は喉を鳴らし、深く息を吸った。重い足取りで病室に戻り、震える手でベッドの上の離婚届を掴んだ。目の色が、暗く沈んでいく。どうして行ってしまったの?どうして、私を置いて行けるの?白く細い腕が感情の昂ぶりで小刻みに震え、握りしめた離婚届がぐしゃりと丸まった。春加は胸の奥の動揺を押し殺し、すぐさま踵を返した。よろめきながら家にたどり着き、力任せにドアを開けた。部屋の中は、がらんとしていた。慎吾に関するものが、何もかも消えていた。まるで、この家に慎吾という人間が初めから存在しなかったかのように。リビングに飾られた、自分と光司のウェディングフォトだけが、やけに目に刺さった。呼吸が浅くなり、何度も息が詰まる。春加はそこへ駆け寄り、壁から一気に引き剥がすと、力任せに床へと叩きつけた。がらんとした壁を見つめながら、春加はふと我に返った。「ここには、もともと……慎吾との写真が……」慎吾は、いつもその写真を大切にしていた。特に意味などなくても、数日おきに埃を拭き取っては、満足げな笑みを浮かべていた。春加は思わず立ち上がり、家中をくまなく探し回った。だが、どこにも見当たらない。最後に見つけたのは、キッチンのゴミ箱の中だった。ゴミ箱を凝視したまま、春加は雷に打たれたように固ま
電話の向こうで春加はしばらく黙り込み、ようやく事態の異常さに気づいたらしかった。「……どうしたの?」俺は写真を撮って春加に送った。「よく見てみろ」少しの沈黙の後、電話越しにため息が聞こえた。「業者が配達先を間違えたのよ」「へえ?間違いじゃなかったら、あいつとのウェディングフォトが届くのが正解だったってことか?」春加の声には、どこか呆れたような響きが滲んでいた。「とにかく会社に来て。説明するから」電話を切ると、俺はすぐさま会社へと向かった。胸の奥が、ずきずきと痛んだ。春加は今まで、俺を会社に入らせたことなど一度もなかった。「印象が悪くなるから」というのが、いつもの理由だった。まさか会社に入ることを許される理由が、こんな最悪な形になるとは思ってもみなかった。エレベーターに乗ろうとしたところで、社員に呼び止められた。「申し訳ありません。こちらから先は社員以外は立ち入りできませんので、応接スペースでお待ちください」俺が口を開こうとした瞬間、光司がふらりと姿を現した。社員たちに向かって、軽く手を振った。「大丈夫、僕の知り合いだから」まるでここが自分の会社であるかのように、我が物顔で振る舞っていた。俺はそのまま中へ通され、光司が紙コップに水を注いで差し出してきた。「社長は今、会議中だ。少し待ってて」俺は水を受け取らず、ゆっくりと周囲を見渡した。ソファの上には、ふたりお揃いのパジャマが置かれていた。春加のマグカップも、揃いのデザインに変わっていた。デスクの上には、ふたりで手作りしたらしい小物がいくつも並んでいる。俺は思わず、自嘲気味に口角を上げた。結婚してから、俺も何度か一緒に何か作りたいと言ったことがある。だが春加は、いつも気乗りしない様子だった。「時間がないから、また今度」そう言われて、結局いつもそれきりになっていた。今になって、ようやく理解した。春加は、俺と一緒に何かをするのが嫌だっただけなのだ。光司は気にする様子もなく、笑いながら物を片付け始めた。「誤解しないでね。僕と社長の間には、何もないから。まだ落ち込んでるのはわかってる。社長が夜の相手をしてくれないから不満なんですよね。僕からも社長にちゃんと言っておくから。まあ、社長はああ見えていろいろ試