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この先の人生に、君はいらない

この先の人生に、君はいらない

By:  桐谷Completed
Language: Japanese
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妻の津守春加(つもり はるか)は、もともと夜の営みには淡白なほうだった。時間にも、几帳面すぎるほど厳しい。 今日も、そうだった。 行為の最中、彼女のスマホが震えた。画面には、彼女が特別な愛称で登録している相手からの着信が表示されていた。見なくても、誰からなのかは分かっていた。 耳に押し当てた電話口から、彼女の秘書、永沢光司(ながさわ こうじ)のすねたような声が漏れてきた。 「社長……夢に社長が出てきたんだ。胸が、苦しくて」 その一言で、春加は迷いなく俺から体を離すと、服を身につけて起き上がった。 俺、津守慎吾(つもり しんご)は唇を噛み、とっさに彼女の腕を掴んだ。 「もうこんな時間だぞ。まだ、途中……っ」 「光司はひとりであそこにいるの。頼れる人もいないわ。私は彼の上司なんだから、放っておけないでしょう」 こちらを見もせず、春加は静かに腕を振りほどいた。そのまま鏡へ向き直り、口紅を引き直す。 「今日のノルマは、これで終わり。 足りない時間は、また今度埋め合わせるから」 俺は息を呑んだ。 そうか。俺たちの間にあったものは、彼女にとって最初から「ノルマ」でしかなかったのか。 春加が出て行ってから間もなく、光司からメッセージが届いた。 添えられた写真には、春加の肩にもたれかかる彼の姿が写っている。 【慎吾さん、本当にごめん。ただ、失うのが怖くて仕方なかったんだ。今度こそ、社長にちゃんと埋め合わせしてもらうから。 今日のところは、疲れてるだろうから、おもちゃで我慢しといて】 最後まで読んでも、俺は一言も発さなかった。 起き上がり、無言のままシャワーを浴びる。シーツを剥ぎ取り、ゴミ箱へ放り込んだ。 新しいパジャマに袖を通しながら、俺は心の奥底で静かに決めた。 春加はもう、いらない。

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Chapter 1

第1話

時計の針が何度も回った頃、ドアノブがかすかにカチャリと音を立てた。

春加が、帰ってきたのだ。

相変わらず、俺の方を見ようともしない。バッグを壁のフックにかけると、そのままベッドに倒れ込むようにして眠りに落ちた。

体には、見知らぬ男物の香水の匂いがまだ残っていた。

寝返りを打った瞬間、春加のスマホが鳴り続けていることに気づいた。手に取ると、光司からのメッセージだった。

【社長、今日は駆けつけてくれてありがとう。

慎吾さん、怒ってないよね?今度ちゃんと直接謝りに行くから】

画面を見下ろしたまま、思わず指の関節をこわばらせた。

指先をわずかに動かし、画面を上へ軽くスワイプした。

ふたりのやり取りは、あからさまに親密だった。春加の返信頻度も、普段とは比べ物にならないほど高い。俺に向ける、あの氷のような冷たさが嘘のようだった。

喉の奥が締めつけられるのを感じながら、静かに打ち込んだ。

【彼女は眠った。俺も怒っていない。

また明日、連絡してやってくれ】

画面を消し、スマホを枕元に戻す。枕を抱え、ゲストルームで眠ろうと、きびすを返した。

その時、手首を強く掴まれた。肌に伝わる体温が、やけに生々しい。

足が、止まった。

春加は目を閉じたまま、寝言のように呟く。

「光司……私、ここにいるから」

華やかで整った寝顔を見下ろし、俺は自嘲気味に口角を上げた。そのままそっと手を振りほどき、部屋を出た。

……

翌朝早く、部屋のドアが乱暴に開けられた。春加が袖をまくりながら、冷たい声で詰め寄ってくる。

「なんで光司にあんなこと言ったの?光司がまだ若くて、どれだけ繊細か、知らないわけじゃないでしょう。

そもそも、彼はただの新任秘書よ。いじめて何が楽しいの」

俺はゆっくりと瞼を上げ、怒りをにじませた春加の瞳を見つめた。

「ただの、秘書?

寝言で秘書の名前を呼ぶ上司が、この世のどこにいる?」

春加は一瞬、体を強張らせた。顔がわずかに引きつる。

「……っ。彼とは、ただの上司と部下の関係よ。

呼び慣れているだけ。夫のくせに、器の小さいこと言わないで」

俺は春加を見ないまま、ただ静かに頷いた。

「ああ、これからも好きなだけ呼べばいい」

春加は苛立った様子で、いきなり俺の腕を掴んできた。

「光司とは、やましいことなんて何もないわ。慎吾、いい加減にその嫌味な言い方やめて」

俺は目を伏せ、そっと腕を引き抜いた。指先で彼女の髪に触れながら、声のトーンは変えずに言う。

「やましいことはない、ね。よくわかった。

君はただ、部下の下着をわざわざ買ってあげる上司ってわけだ」

春加の背筋がぴくりと強張り、顔を青ざめさせた。深く息を吸い込む。

「彼は一度ここに泊まりに来たことがあるけれど、着替えを持ってきていなかったの。だから買いに行っただけで……」

俺の手が止まる。顔を上げた。

「随分と気が利くんだな。部下の下着のサイズまで把握してるとは」

実のところ、それ以外にも最近、おかしな点にはいくつも気づいていた。家には見覚えのないネクタイや髭剃り、そして片付け忘れた誰かの服まで置かれていた。ただ、俺がいちいち口に出さなかっただけだ。

春加は眉をひそめ、腕を組んで俺を一瞥した。

「慎吾、もう何度も説明したはずよ。

あなた、変わったわね。手がつけられないくらい、ひねくれちゃって」

言い終わるが早いか、春加のスマホがまた鳴った。深夜と同じ着信音だった。

俺は静かに口を開いた。

「行ってあげなよ。

行かないと、また俺のところまで押しかけてくるから」

どうせ、初めてのことでもない。

春加は口ごもり、今回だけは一瞬、躊躇いを見せた。けれど結局、背を向けて去っていった。

俺はゆっくりと息を吐き出す。視線を落とし、スマホの地図を見つめた。遠く離れた小さな街に、赤い丸が印されていた。

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第1話
時計の針が何度も回った頃、ドアノブがかすかにカチャリと音を立てた。春加が、帰ってきたのだ。相変わらず、俺の方を見ようともしない。バッグを壁のフックにかけると、そのままベッドに倒れ込むようにして眠りに落ちた。体には、見知らぬ男物の香水の匂いがまだ残っていた。寝返りを打った瞬間、春加のスマホが鳴り続けていることに気づいた。手に取ると、光司からのメッセージだった。【社長、今日は駆けつけてくれてありがとう。慎吾さん、怒ってないよね?今度ちゃんと直接謝りに行くから】画面を見下ろしたまま、思わず指の関節をこわばらせた。指先をわずかに動かし、画面を上へ軽くスワイプした。ふたりのやり取りは、あからさまに親密だった。春加の返信頻度も、普段とは比べ物にならないほど高い。俺に向ける、あの氷のような冷たさが嘘のようだった。喉の奥が締めつけられるのを感じながら、静かに打ち込んだ。【彼女は眠った。俺も怒っていない。また明日、連絡してやってくれ】画面を消し、スマホを枕元に戻す。枕を抱え、ゲストルームで眠ろうと、きびすを返した。その時、手首を強く掴まれた。肌に伝わる体温が、やけに生々しい。足が、止まった。春加は目を閉じたまま、寝言のように呟く。「光司……私、ここにいるから」華やかで整った寝顔を見下ろし、俺は自嘲気味に口角を上げた。そのままそっと手を振りほどき、部屋を出た。……翌朝早く、部屋のドアが乱暴に開けられた。春加が袖をまくりながら、冷たい声で詰め寄ってくる。「なんで光司にあんなこと言ったの?光司がまだ若くて、どれだけ繊細か、知らないわけじゃないでしょう。そもそも、彼はただの新任秘書よ。いじめて何が楽しいの」俺はゆっくりと瞼を上げ、怒りをにじませた春加の瞳を見つめた。「ただの、秘書?寝言で秘書の名前を呼ぶ上司が、この世のどこにいる?」春加は一瞬、体を強張らせた。顔がわずかに引きつる。「……っ。彼とは、ただの上司と部下の関係よ。呼び慣れているだけ。夫のくせに、器の小さいこと言わないで」俺は春加を見ないまま、ただ静かに頷いた。「ああ、これからも好きなだけ呼べばいい」春加は苛立った様子で、いきなり俺の腕を掴んできた。「光司とは、やましいことなんて何もないわ。慎吾、いい加減に
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第2話
俺と春加の間では、冷戦状態が続いていた。春加は帰らず、俺ももう何も聞かなかった。3日目の朝、彼女のアシスタントの方から連絡してきた。【社長は、この数日、ずっとお忙しくされていました。今日ちょうどS国から帰国されたところです】俺は返信した。【もういい。今後は報告してくれなくて構わない】画面を上へスクロールすると、そこにあるのは俺が一方的に春加の様子を尋ねたやり取りばかりだった。本人よりも、そのアシスタントに連絡した回数の方がずっと多い。ほどなくして、またアシスタントからメッセージが届いた。【おふたり、何かあったんですか?】俺は返さなかったが、向こうは構わず続けてくる。【社長だって、慎吾さんのことをちゃんと想っているはずです。じゃなきゃ、あの社長が自分から追いかけたりしませんよ】俺の瞼が、ぴくりと動いた。確かに、俺たちの結婚は春加の方から望んだものだった。誰もが認める美人で、氷のように冷たい性格なのに、以前は自分から俺のそばに来てくれた。いつも俺だけを見つめて、格好いいと褒めてくれた。なのに、今はすっかり変わってしまった。アシスタントからのメッセージは止まらない。【社長は今日が慎吾さんの誕生日だとご存知で、わざわざプレゼントを用意されたんです。ずっと欲しがっていらしたあの腕時計ですよ】送られてきた写真を見ると、確かにそれだった。かつて、春加の前で何度も口にしていたものだ。覚えていてくれたとは、思ってもみなかった。胸の奥が、かすかに震える。ため息をついてキッチンへ向かい、春加の好物を作り始めた。春加が帰ってきたのは、夜になってからだった。襟元を緩めながら、まっすぐ書斎へと向かっていく。俺は声をかけて呼び止めた。春加はようやく眉を寄せて振り返る。「……何?」相変わらず、突き放すような口調だった。息が詰まるのを感じながら、指先でエプロンの裾をぎゅっと握る。「今日が、何の日か知ってるか」春加の眉間に、再び皺が寄る。「何が?」胸の奥が締め付けられるのを感じながら、掠れた声で言った。「……俺の、誕生日だよ」春加はようやく頷きながら、袖を直した。「ああ、今日だったの?忘れてた」それきり、続く言葉はなかった。喉の奥が塞がる。まるで濡れた真綿で首を絞めら
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第3話
春加は、早朝に出かけて深夜に帰る生活を始めた。俺は昼間、持ち出す荷物を整理していた。顔を合わせることも、すっかりなくなっていた。荷造りを終えようとしていた時、唐突に春加から電話がかかってきた。画面に浮かぶ名前を見つめながら、俺はしばらく迷った。それでも、通話ボタンを押す。「何か用か」春加は相変わらず、事務的な口調だった。「服が濡れたの。クローゼットの一番右にある着替え用の黒いスーツ、持ってきて」俺は、返事をしなかった。何気なく、そのスーツを手に取った。ポケットの中に、何か硬いものが入っていた。息が、止まった。電話の向こうで、春加が小さく笑った。気だるげな声音だった。「ふふ……気づいた?」俺は一瞬固まってから、それを取り出した。指輪だった。強く握りしめると、手のひらに食い込むほどだった。声も、掠れていた。「君……」春加の口調は相変わらず平坦だったが、声のトーンだけが少し上がる。「気に入った?」心臓が跳ね上がり、嫌な汗がにじむ。唇を開きかけたが、すぐには言葉が出てこない。胸の底から、言いようのない感情がこみ上げてくる。「どうして、こんな……」その時、電話の向こうから声が聞こえた。「光司に感謝しなさいよ。彼のアイデアなんだから。優しい子でしょ。あなたにちゃんと謝って、許してもらったほうがいいって言ってくれたの。彼の顔を潰すわけにはいかないから」俺はその場で固まった。頭からいきなり冷水を浴びせられたような感覚が広がる。芯まで、冷え切っていく。手の中の指輪を見つめたまま、喉の奥だけが焼けるように熱かった。胸元の服をきつく握りしめ、呼吸が浅く速くなる。「春加、そこまで俺を辱める必要があるのか」しばらくの間、向こうから返事はなかった。やがて、春加のくぐもった囁き声と、光司の微かな吐息が、電話越しにかすかに届いた。春加の声は、優しかった。「ちょっと……っ。今はダメ」その声には、明らかに情欲の色が滲んでいた。全身が震え、俺は思わずきつく目を閉じる。春加にまだ期待していた自分自身が、滑稽で仕方なかった。けれど俺の知る春加は、確かに夜の営みには淡白な人間だったはずだ。しばらくして、再び春加の声が届いた。「指輪、見たでしょ。これで満足した?満足した
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第4話
電話の向こうで春加はしばらく黙り込み、ようやく事態の異常さに気づいたらしかった。「……どうしたの?」俺は写真を撮って春加に送った。「よく見てみろ」少しの沈黙の後、電話越しにため息が聞こえた。「業者が配達先を間違えたのよ」「へえ?間違いじゃなかったら、あいつとのウェディングフォトが届くのが正解だったってことか?」春加の声には、どこか呆れたような響きが滲んでいた。「とにかく会社に来て。説明するから」電話を切ると、俺はすぐさま会社へと向かった。胸の奥が、ずきずきと痛んだ。春加は今まで、俺を会社に入らせたことなど一度もなかった。「印象が悪くなるから」というのが、いつもの理由だった。まさか会社に入ることを許される理由が、こんな最悪な形になるとは思ってもみなかった。エレベーターに乗ろうとしたところで、社員に呼び止められた。「申し訳ありません。こちらから先は社員以外は立ち入りできませんので、応接スペースでお待ちください」俺が口を開こうとした瞬間、光司がふらりと姿を現した。社員たちに向かって、軽く手を振った。「大丈夫、僕の知り合いだから」まるでここが自分の会社であるかのように、我が物顔で振る舞っていた。俺はそのまま中へ通され、光司が紙コップに水を注いで差し出してきた。「社長は今、会議中だ。少し待ってて」俺は水を受け取らず、ゆっくりと周囲を見渡した。ソファの上には、ふたりお揃いのパジャマが置かれていた。春加のマグカップも、揃いのデザインに変わっていた。デスクの上には、ふたりで手作りしたらしい小物がいくつも並んでいる。俺は思わず、自嘲気味に口角を上げた。結婚してから、俺も何度か一緒に何か作りたいと言ったことがある。だが春加は、いつも気乗りしない様子だった。「時間がないから、また今度」そう言われて、結局いつもそれきりになっていた。今になって、ようやく理解した。春加は、俺と一緒に何かをするのが嫌だっただけなのだ。光司は気にする様子もなく、笑いながら物を片付け始めた。「誤解しないでね。僕と社長の間には、何もないから。まだ落ち込んでるのはわかってる。社長が夜の相手をしてくれないから不満なんですよね。僕からも社長にちゃんと言っておくから。まあ、社長はああ見えていろいろ試
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第5話
春加は足早にベッドへ駆け寄り、慌てて周囲を見渡した。胸の奥で、嫌な予感が警鐘を鳴らしていた。彼女は弾かれたように振り返ると、ナースステーションへ走り、看護師の腕を掴んだ。声は、抑えようもなく震えていた。「この病室の患者さん、どこに行ったんですか?」看護師は眉をひそめ、一歩後ずさった。「ご家族の方ですか?落ち着いてください」そして病室の方をちらりと見て、続けた。「あのお部屋の患者様なら、ご自身で退院手続きを済ませて、今朝早くに退院されましたよ」春加は息を呑み、掴んでいた手をゆっくりと離した。全身の血の気が引き、凍りついていくような感覚だった。「行った……?あんなに怪我をしていて、どうやって出て行けたっていうんですか?どこへ行ったっていうんですか……?」看護師も、どこか腑に落ちない様子だった。「私たちも何度も止めたんですけどね。無駄でした。ご本人がどうしても退院するって聞かなくて。先生も止められなかったんです」春加は喉を鳴らし、深く息を吸った。重い足取りで病室に戻り、震える手でベッドの上の離婚届を掴んだ。目の色が、暗く沈んでいく。どうして行ってしまったの?どうして、私を置いて行けるの?白く細い腕が感情の昂ぶりで小刻みに震え、握りしめた離婚届がぐしゃりと丸まった。春加は胸の奥の動揺を押し殺し、すぐさま踵を返した。よろめきながら家にたどり着き、力任せにドアを開けた。部屋の中は、がらんとしていた。慎吾に関するものが、何もかも消えていた。まるで、この家に慎吾という人間が初めから存在しなかったかのように。リビングに飾られた、自分と光司のウェディングフォトだけが、やけに目に刺さった。呼吸が浅くなり、何度も息が詰まる。春加はそこへ駆け寄り、壁から一気に引き剥がすと、力任せに床へと叩きつけた。がらんとした壁を見つめながら、春加はふと我に返った。「ここには、もともと……慎吾との写真が……」慎吾は、いつもその写真を大切にしていた。特に意味などなくても、数日おきに埃を拭き取っては、満足げな笑みを浮かべていた。春加は思わず立ち上がり、家中をくまなく探し回った。だが、どこにも見当たらない。最後に見つけたのは、キッチンのゴミ箱の中だった。ゴミ箱を凝視したまま、春加は雷に打たれたように固ま
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第6話
春加はそのまま、長い間じっと立ち尽くしていた。まるで全身が固まったかのように。やがて、春加はふと耳を澄ませた。近づいてくる足音を聞き取ったのだ。呼吸も自然と浅くなり、心臓だけが激しく脈打つ。弾かれたように振り返った。「帰ってきたのね、どこに行ってたの……」だが、相手の顔を見た瞬間、続く言葉が喉の奥で凍りついた。瞳の奥に、色濃い失望がよぎる。「なんであなたなの?ここに何しに来たのよ」鍵を開けて入ってきた光司は、笑いながら足早に歩み寄り、後ろから春加の腰に腕を回した。「会いたくなっちゃって、社長。合鍵をくれて、いつでも来ていいって言ったの、社長じゃないか」春加は全身を強張らせ、さりげなく体を離した。彼を見ようともしない。「今の時間、あなたは仕事中のはずでしょう」光司はわざとらしく唇を尖らせ、それでも春加にすり寄ったまま、甘えたような不満げな声を出した。「いつでも休んでいいって言ったの、社長だよね?僕、朝から晩まで働きたくないんだー」そう言いながら、光司はまた春加の方に視線を送り、わざと指先で、彼女の腕をゆっくりと撫でた。「社長、この服、僕に似合ってる?僕が着ても、案外いけるんじゃないか?」春加は顔を上げた瞬間、目を見開いた。彼女は咄嗟に手を伸ばし、光司の腕をきつく掴む。「誰がそれを着ていいって言った?これが慎吾のために買った服だってこと、知らないわけじゃないでしょう!」光司は大げさに眉をひそめて声を上げた。「社長、痛いですって……僕はただ、慎吾さんのために試着してみただけだよ……」彼は春加の手を強引に振りほどき、乱れた服の襟を整えた。春加は数歩後ずさりながら、その顔を見つめた。今はただ、うんざりするばかりだった。光司はそれに気づいた様子もなく、ふと目をやった先に例のウェディングフォトを見つけると、嬉しそうに歩み寄った。手に取って、満足げにうんうんと頷く。「社長、僕たちのウェディングフォト、やっぱりよく撮れてるね。壁に飾っておくべきだよ。もう少ししたら、飾り付けももっと買い足しましょうよ。これからも僕たち……」その耳障りな言葉を聞きながら、春加は呼吸がどんどん荒くなり、ついに口を挟んだ。「……いい加減にして。この家は、私と慎吾の家よ。あな
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第7話
春加のもとを離れた後、俺はあの遠く離れた街へ向かった。しばらくその街の病院に入院して療養した。退院後は、周辺の街をあてもなく旅して回った。怪我もだいぶ癒えてきたとはいえ、まだ重い荷物は持てなかった。そんな折、駅を出た途端、スーツケースのキャスターが突然外れてしまった。誰かに助けを頼もうかと迷っていたその時、手元の重さがふっと消えた。俺はほっと息をつき、振り返った。「ありがとうございます」けれど、そこに立っていたのが数ヶ月ぶりに見る春加だと気づき、俺は完全に固まった。春加は俺の代わりにスーツケースを持ちながら、声をわずかに震わせた。「……どういたしまして」一瞬の間の後、俺は気持ちを立て直し、タクシーを拾おうとした。春加は不意に俺の腕を掴み、少し戸惑うような声で言った。「私に……何も言いたいこと、ないの?」俺はただ首を振り、スマホの画面に視線を戻した。春加は慌てたように一歩踏み出すと、俺のスマホ画面を手で遮った。もう片方の手で、俺のスーツケースをそのまま持ち上げた。「どこに帰るの?車がすぐそこにあるから、送っていくわ」焦っているような彼女の後ろ姿を見つめながら、俺は小さく喉を鳴らした。それでも、結局ついていった。車の脇に立ち、俺は少し迷ってから後部座席のドアノブを引いた。ロックされていて開かない。顔を上げると、窓ガラス越しに春加と視線がぶつかった。俺はドアを指差した。「開かない」春加の美しい瞳の奥には、無数の感情が渦巻いていた。ただじっと俺を見つめ続け、しばらくして、ようやくカチャリという音が聞こえた。車内で、春加は俺を見なかった。ごく小さな声で言った。「慎吾……助手席には、まだあなたの名前のシールが貼ってあるのよ」俺は一瞬固まり、確かにもう色褪せかけたシールに目をやった。それは、春加が俺に許してくれた数少ない、少し子供っぽいことのひとつだった。けれど、俺は何も答えなかった。ただ行き先を告げ、静かに窓の外を見つめる。車内はめずらしいほど静かだった。かつては、いつも俺の方から彼女にまとわりつくように話しかけ、あれこれ尋ねていたものだ。今こうしていると、どこか落ち着かない。春加は何度か口を開きかけ、バックミラー越しに何度も俺を窺った。俺には、春加が言いたいことがおおよそ想
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第8話
春加はしばらく何も言わず、車の中でただ長く沈黙していた。このまま沈黙が続くのかと思い始めた頃、彼女は不意にロックを解除した。俺はドアを開けて、車を降りた。「今日は送ってくれてありがとう。今度、食事でも奢らせてくれ」俺はスーツケースを引きずり、淡々と部屋へ戻った。すぐにシャワーを浴び、髪を拭いた。ベランダから見下ろすと、春加はまだそこにいた。車の窓が下がっていて、煙草を挟んだ手を窓枠に預けている。長い間、動く気配がなかった。俺は振り返り、カーテンを引いた。……翌日、俺は昼過ぎまで眠り込んだ。午後、ゴミを出しに下へ降りると、そこに立っている春加の姿があった。少しやつれた様子で、手には食材の袋を提げている。どうやら、朝早くからそこで待っていたらしい。驚いた俺の視線に気づいて、春加の方から口を開いた。「食材、買ってきたの。ご飯、作ってもいいかな……あなたが前にやりたいって言ってたこと、これからは全部、一緒にやるから」俺は動かなかった。「もう忙しくないのか?」春加は少し気まずそうに、目を伏せた。「仕事は……今は急がなくてもいいの。私も、もう忙しくないし」俺は口の端を歪め、薄い笑みを浮かべた。以前、俺は卑屈なくらい彼女に頼み込んだことがある。少しでいいから一緒にいてほしいと。そのたびに、聞き分けがないと言われたものだ。今、俺が去った後になって、ようやく仕事なんて大したことじゃないと気づいたらしい。だが、もう遅い。今の俺には、もう必要なかった。俺は顔を上げ、静かに春加を見つめた。「もういい。仕事の方が大事だろう。早く戻った方がいい」春加の視線は行き場を失い、唇を噛んだ。「違う……私はただ、あなたのそばに、もう少しいたかっただけ」まだ彼女を愛していた頃は、彼女は何をするにも俺のことは後回しだった。今こうして見ると、なおのこと皮肉に思える。それでも俺は、それ以上取り合わなかった。春加は自分から世話を焼き始め、コンロに火をつけ、俺が昔していたように料理を始めた。けれど、彼女の作る料理は、ちっとも美味しくなかった。春加はキッチンで不慣れな手つきで作業しながら、口を開いた。「あなた、前によく海外に行きたいって言ってたでしょう?最近ちゃんと旅行の
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第9話
春加の返事を待たず、俺はそのまま立ち去った。家からそう遠くない店で昼食を取った。スマホを取り出し、家の見守りカメラの映像を開く。春加はキッチンに座り、テーブルいっぱいに並んだ料理を前にうつむいたまま、まだ俺を待っていた。その姿を見て、俺は思わず目頭が熱くなった。かつては、俺もこうだった。今は立場が逆転して、あの頃の自分が哀れに思えるだけだった。食事を終えた後、俺はショッピングモールで少し買い物をした。夜が更けてから、ようやく帰宅する。春加はすでに帰った後だった。テーブルの上には、まだ手つかずの料理が残っていた。かなりの量を作ったようで、それなりに手をかけたのだろう。俺はそれに手をつけず、家事代行を頼んで、きれいに片付けてもらった。それからしばらく、春加が現れることはなかった。俺の生活も、以前よりずっと気楽になった。……ある日の夕方、光司が家を訪ねてきた。体は痩せ細り、顔色もひどく憔悴していた。彼はよろめきながら俺に近づき、声を張り上げて叫んだ。「消えろよ!春加をたぶらかすな!彼女は僕のものだって言ったのに、どうしてまた横取りするんだ!」俺は眉をひそめ、相手にする気にもなれなかった。彼を外へ押し出そうとする。「出て行ってくれ」光司は何かに刺激されたように、突然びくりと震えた。そのまま勢いよく、俺に飛びかかってくる。「返してくれよ!彼女は僕のものだ!愛してるって言ったんだ、僕だけを愛してるって!全部、僕に話してくれたんだ。お前のことなんか、好きなわけないだろ」光司は勢いよく顔を上げた。その目は、恐ろしいほど虚ろだった。にやりと口を歪めて笑う。「そうだよ、彼女、慎吾さんより、僕と寝た回数の方が多いんだ。だから、僕と一緒になるべきなんだよ……」俺は思い切り彼を突き放し、憐れみの混じった目で見た。「頭がおかしくなったのか?」けれど光司は何も聞こえていないかのように、再び狂犬のように飛びかかってきた。その時、ドアが勢いよく開いた。春加が足を振り上げ、ハイヒールの踵で彼の胸元を蹴りつけた。彼は壁に叩きつけられ、口の端から血を流した。春加は眉をひそめ、彼を引きずって外へ連れ出そうとする。光司はなおも彼女の脚にしがみつき、大声で笑い続けた。「春加、あいつはもう君
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