LOGIN妻の津守春加(つもり はるか)は、もともと夜の営みには淡白なほうだった。時間にも、几帳面すぎるほど厳しい。 今日も、そうだった。 行為の最中、彼女のスマホが震えた。画面には、彼女が特別な愛称で登録している相手からの着信が表示されていた。見なくても、誰からなのかは分かっていた。 耳に押し当てた電話口から、彼女の秘書、永沢光司(ながさわ こうじ)のすねたような声が漏れてきた。 「社長……夢に社長が出てきたんだ。胸が、苦しくて」 その一言で、春加は迷いなく俺から体を離すと、服を身につけて起き上がった。 俺、津守慎吾(つもり しんご)は唇を噛み、とっさに彼女の腕を掴んだ。 「もうこんな時間だぞ。まだ、途中……っ」 「光司はひとりであそこにいるの。頼れる人もいないわ。私は彼の上司なんだから、放っておけないでしょう」 こちらを見もせず、春加は静かに腕を振りほどいた。そのまま鏡へ向き直り、口紅を引き直す。 「今日のノルマは、これで終わり。 足りない時間は、また今度埋め合わせるから」 俺は息を呑んだ。 そうか。俺たちの間にあったものは、彼女にとって最初から「ノルマ」でしかなかったのか。 春加が出て行ってから間もなく、光司からメッセージが届いた。 添えられた写真には、春加の肩にもたれかかる彼の姿が写っている。 【慎吾さん、本当にごめん。ただ、失うのが怖くて仕方なかったんだ。今度こそ、社長にちゃんと埋め合わせしてもらうから。 今日のところは、疲れてるだろうから、おもちゃで我慢しといて】 最後まで読んでも、俺は一言も発さなかった。 起き上がり、無言のままシャワーを浴びる。シーツを剥ぎ取り、ゴミ箱へ放り込んだ。 新しいパジャマに袖を通しながら、俺は心の奥底で静かに決めた。 春加はもう、いらない。
View More春加の返事を待たず、俺はそのまま立ち去った。家からそう遠くない店で昼食を取った。スマホを取り出し、家の見守りカメラの映像を開く。春加はキッチンに座り、テーブルいっぱいに並んだ料理を前にうつむいたまま、まだ俺を待っていた。その姿を見て、俺は思わず目頭が熱くなった。かつては、俺もこうだった。今は立場が逆転して、あの頃の自分が哀れに思えるだけだった。食事を終えた後、俺はショッピングモールで少し買い物をした。夜が更けてから、ようやく帰宅する。春加はすでに帰った後だった。テーブルの上には、まだ手つかずの料理が残っていた。かなりの量を作ったようで、それなりに手をかけたのだろう。俺はそれに手をつけず、家事代行を頼んで、きれいに片付けてもらった。それからしばらく、春加が現れることはなかった。俺の生活も、以前よりずっと気楽になった。……ある日の夕方、光司が家を訪ねてきた。体は痩せ細り、顔色もひどく憔悴していた。彼はよろめきながら俺に近づき、声を張り上げて叫んだ。「消えろよ!春加をたぶらかすな!彼女は僕のものだって言ったのに、どうしてまた横取りするんだ!」俺は眉をひそめ、相手にする気にもなれなかった。彼を外へ押し出そうとする。「出て行ってくれ」光司は何かに刺激されたように、突然びくりと震えた。そのまま勢いよく、俺に飛びかかってくる。「返してくれよ!彼女は僕のものだ!愛してるって言ったんだ、僕だけを愛してるって!全部、僕に話してくれたんだ。お前のことなんか、好きなわけないだろ」光司は勢いよく顔を上げた。その目は、恐ろしいほど虚ろだった。にやりと口を歪めて笑う。「そうだよ、彼女、慎吾さんより、僕と寝た回数の方が多いんだ。だから、僕と一緒になるべきなんだよ……」俺は思い切り彼を突き放し、憐れみの混じった目で見た。「頭がおかしくなったのか?」けれど光司は何も聞こえていないかのように、再び狂犬のように飛びかかってきた。その時、ドアが勢いよく開いた。春加が足を振り上げ、ハイヒールの踵で彼の胸元を蹴りつけた。彼は壁に叩きつけられ、口の端から血を流した。春加は眉をひそめ、彼を引きずって外へ連れ出そうとする。光司はなおも彼女の脚にしがみつき、大声で笑い続けた。「春加、あいつはもう君
春加はしばらく何も言わず、車の中でただ長く沈黙していた。このまま沈黙が続くのかと思い始めた頃、彼女は不意にロックを解除した。俺はドアを開けて、車を降りた。「今日は送ってくれてありがとう。今度、食事でも奢らせてくれ」俺はスーツケースを引きずり、淡々と部屋へ戻った。すぐにシャワーを浴び、髪を拭いた。ベランダから見下ろすと、春加はまだそこにいた。車の窓が下がっていて、煙草を挟んだ手を窓枠に預けている。長い間、動く気配がなかった。俺は振り返り、カーテンを引いた。……翌日、俺は昼過ぎまで眠り込んだ。午後、ゴミを出しに下へ降りると、そこに立っている春加の姿があった。少しやつれた様子で、手には食材の袋を提げている。どうやら、朝早くからそこで待っていたらしい。驚いた俺の視線に気づいて、春加の方から口を開いた。「食材、買ってきたの。ご飯、作ってもいいかな……あなたが前にやりたいって言ってたこと、これからは全部、一緒にやるから」俺は動かなかった。「もう忙しくないのか?」春加は少し気まずそうに、目を伏せた。「仕事は……今は急がなくてもいいの。私も、もう忙しくないし」俺は口の端を歪め、薄い笑みを浮かべた。以前、俺は卑屈なくらい彼女に頼み込んだことがある。少しでいいから一緒にいてほしいと。そのたびに、聞き分けがないと言われたものだ。今、俺が去った後になって、ようやく仕事なんて大したことじゃないと気づいたらしい。だが、もう遅い。今の俺には、もう必要なかった。俺は顔を上げ、静かに春加を見つめた。「もういい。仕事の方が大事だろう。早く戻った方がいい」春加の視線は行き場を失い、唇を噛んだ。「違う……私はただ、あなたのそばに、もう少しいたかっただけ」まだ彼女を愛していた頃は、彼女は何をするにも俺のことは後回しだった。今こうして見ると、なおのこと皮肉に思える。それでも俺は、それ以上取り合わなかった。春加は自分から世話を焼き始め、コンロに火をつけ、俺が昔していたように料理を始めた。けれど、彼女の作る料理は、ちっとも美味しくなかった。春加はキッチンで不慣れな手つきで作業しながら、口を開いた。「あなた、前によく海外に行きたいって言ってたでしょう?最近ちゃんと旅行の
春加のもとを離れた後、俺はあの遠く離れた街へ向かった。しばらくその街の病院に入院して療養した。退院後は、周辺の街をあてもなく旅して回った。怪我もだいぶ癒えてきたとはいえ、まだ重い荷物は持てなかった。そんな折、駅を出た途端、スーツケースのキャスターが突然外れてしまった。誰かに助けを頼もうかと迷っていたその時、手元の重さがふっと消えた。俺はほっと息をつき、振り返った。「ありがとうございます」けれど、そこに立っていたのが数ヶ月ぶりに見る春加だと気づき、俺は完全に固まった。春加は俺の代わりにスーツケースを持ちながら、声をわずかに震わせた。「……どういたしまして」一瞬の間の後、俺は気持ちを立て直し、タクシーを拾おうとした。春加は不意に俺の腕を掴み、少し戸惑うような声で言った。「私に……何も言いたいこと、ないの?」俺はただ首を振り、スマホの画面に視線を戻した。春加は慌てたように一歩踏み出すと、俺のスマホ画面を手で遮った。もう片方の手で、俺のスーツケースをそのまま持ち上げた。「どこに帰るの?車がすぐそこにあるから、送っていくわ」焦っているような彼女の後ろ姿を見つめながら、俺は小さく喉を鳴らした。それでも、結局ついていった。車の脇に立ち、俺は少し迷ってから後部座席のドアノブを引いた。ロックされていて開かない。顔を上げると、窓ガラス越しに春加と視線がぶつかった。俺はドアを指差した。「開かない」春加の美しい瞳の奥には、無数の感情が渦巻いていた。ただじっと俺を見つめ続け、しばらくして、ようやくカチャリという音が聞こえた。車内で、春加は俺を見なかった。ごく小さな声で言った。「慎吾……助手席には、まだあなたの名前のシールが貼ってあるのよ」俺は一瞬固まり、確かにもう色褪せかけたシールに目をやった。それは、春加が俺に許してくれた数少ない、少し子供っぽいことのひとつだった。けれど、俺は何も答えなかった。ただ行き先を告げ、静かに窓の外を見つめる。車内はめずらしいほど静かだった。かつては、いつも俺の方から彼女にまとわりつくように話しかけ、あれこれ尋ねていたものだ。今こうしていると、どこか落ち着かない。春加は何度か口を開きかけ、バックミラー越しに何度も俺を窺った。俺には、春加が言いたいことがおおよそ想
春加はそのまま、長い間じっと立ち尽くしていた。まるで全身が固まったかのように。やがて、春加はふと耳を澄ませた。近づいてくる足音を聞き取ったのだ。呼吸も自然と浅くなり、心臓だけが激しく脈打つ。弾かれたように振り返った。「帰ってきたのね、どこに行ってたの……」だが、相手の顔を見た瞬間、続く言葉が喉の奥で凍りついた。瞳の奥に、色濃い失望がよぎる。「なんであなたなの?ここに何しに来たのよ」鍵を開けて入ってきた光司は、笑いながら足早に歩み寄り、後ろから春加の腰に腕を回した。「会いたくなっちゃって、社長。合鍵をくれて、いつでも来ていいって言ったの、社長じゃないか」春加は全身を強張らせ、さりげなく体を離した。彼を見ようともしない。「今の時間、あなたは仕事中のはずでしょう」光司はわざとらしく唇を尖らせ、それでも春加にすり寄ったまま、甘えたような不満げな声を出した。「いつでも休んでいいって言ったの、社長だよね?僕、朝から晩まで働きたくないんだー」そう言いながら、光司はまた春加の方に視線を送り、わざと指先で、彼女の腕をゆっくりと撫でた。「社長、この服、僕に似合ってる?僕が着ても、案外いけるんじゃないか?」春加は顔を上げた瞬間、目を見開いた。彼女は咄嗟に手を伸ばし、光司の腕をきつく掴む。「誰がそれを着ていいって言った?これが慎吾のために買った服だってこと、知らないわけじゃないでしょう!」光司は大げさに眉をひそめて声を上げた。「社長、痛いですって……僕はただ、慎吾さんのために試着してみただけだよ……」彼は春加の手を強引に振りほどき、乱れた服の襟を整えた。春加は数歩後ずさりながら、その顔を見つめた。今はただ、うんざりするばかりだった。光司はそれに気づいた様子もなく、ふと目をやった先に例のウェディングフォトを見つけると、嬉しそうに歩み寄った。手に取って、満足げにうんうんと頷く。「社長、僕たちのウェディングフォト、やっぱりよく撮れてるね。壁に飾っておくべきだよ。もう少ししたら、飾り付けももっと買い足しましょうよ。これからも僕たち……」その耳障りな言葉を聞きながら、春加は呼吸がどんどん荒くなり、ついに口を挟んだ。「……いい加減にして。この家は、私と慎吾の家よ。あな