LOGIN遅めのハネムーンの荷造りをしていると、妻の谷村咲月(たにむら さつき)は目的地を、弟の瀬戸湊(せと みなと)がずっと行きたがっていた南十字島(みなみじゅうじじま)に変更した。 俺・瀬戸陸(せと りく)は手を止め、妻と娘の瀬戸芽依(せと めい)が示し合わせたように顔を見合わせるのを見た。 「パパが反対なら、多数決で決めよう」 俺と湊の意見が分かれると、彼女たちはいつも多数決で公平に決めようとする。 俺の誕生日にフレンチレストランを予約しておいた時も、健康のためにサラダを食べようという湊の提案に、彼女たちは多数決で賛成した。 芽依が初めて表彰台に上がる日、俺は丸1日ステージの下で待っていたのに、彼女たちは多数決で湊を父親の立場としてステージに上げた。 後になって知ったことだが、娘が先生に提出した家族写真でも、俺の場所はとっくに湊にすり替えられていた。 そして今回も票数は2対1で、また俺の負けだ。 俺は喉の奥がざらつくように痛むのを感じながら、静かに反論した。 「咲月、蒼音湖(あおねこ)は俺がお前にプロポーズした場所じゃないか」 咲月は顔を上げず、南十字島行きの格安航空券を共同購入している。 「どこだって海はあるでしょ?同じよ。いい大人の男がそんな細かいこと気にしないで」 そう言って彼女は注文を確定した。3人パックのチケットだ。 「3人パックしかなかったから、あなたは自分で買って」 彼女は自分と芽依、そして湊を一つのグループにまとめ、俺をそこから排除した。 そして俺は結婚指輪を外し、蒼音湖へのチケットを予約した。 辿り着きたい遠い場所へは、俺1人で行けばいい。
View Moreそれでも咲月は帰ろうとせず、石像のように俺の部屋の前に座り込み続けた。俺は撮影したデータをPCに取り込み、構想通りに仕上げた作品をコンクールへ提出した。コンクールの結果発表を待つ半月間、芽依は毎日、俺のドアの前に真新しい花束を置きに来た。咲月に至っては、莫大な金を注ぎ込み、毎晩蒼音湖の上空に打ち上げ花火を上げさせた。絢爛豪華な花火が夜空を真昼のように照らし出したが、俺と咲月の未来を明るく照らすことはない。花火のフィナーレには決まって、夜空に大きな文字が浮かび上がった。【ごめんなさい】ホテルのロビーで、女将が缶ビールをあおりながら、おつまみの枝豆を俺の前に滑らせた。「昔先生を口説き落とした時よりド派手な演出ですけど、心が揺らいだりしないんですか?」窓の外で待ちわびる女の姿を一瞥し、俺は傍らのカメラを手に取った。「微塵も。今はただ、自分自身の人生を取り戻したいです。油まみれのキッチンや、俺の居場所じゃない冷え切った家に、これ以上縛られたくないんです」窓の外にいた咲月はその言葉を耳にしたのか、がっくりと首を垂れ、苦渋に満ちた自嘲の笑みを浮かべた。芽依もこれ以降「パパ」と泣き叫ぶことはなくなった。彼女もついに、俺から完全に捨てられたという現実を受け入れたようだった。コンクールの結果発表当日、女将が祈るような顔でPCの画面を覗き込んできた。心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打ち、マウスを握る手が小刻みに震えている。受信したメールを開いた瞬間、耳元で鼓膜を劈くような歓声が爆発した。「金賞、グランプリ受賞です!月影先生、ついにやりましたね!」画面に輝く「金賞」の結果を見つめていると、目頭が熱くなった。女将は俺の肩を抱き寄せ、フロントのスタッフに「急いでSNSで受賞の告知を出して!」と指示を飛ばした。「今夜は最高級の料理で祝賀会よ!私のおごりだから!」俺はお祭り騒ぎのスタッフやファンたちに囲まれるようにして外へ向かうと、ちょうど向こうからやってきた咲月と芽依に鉢合わせた。咲月は左手にホールのケーキを提げ、右手には抱えきれないほどの深紅のバラの花束を持っていた。「陸……グランプリ受賞、本当におめでとう」芽依が手作りのケーキを差し出す。その小さな指には、不格好な絆創膏がいくつも巻かれていた。
メイクアップアーティストの熟練した手が、顔に優しくファンデーションを乗せていく。鏡の中で次第にかつての精悍さを取り戻していく自分の顔を見つめていると、不意に10年前、すっぴんのまま咲月に甘えていた記憶が蘇った。彼女は俺の唇にキスをして、「陸がどんな姿になっても、一生愛し続ける」と誓ってくれたのだ。だがその後、咲月は体型の崩れた俺の身なりを「見苦しい」と嫌悪し、オシャレに気を使う湊を「若くて爽やかだ」と褒めちぎるようになった。今回、蒼音湖でウェディングフォトを撮るために、俺は家事の合間を縫ってジムへ通い、パーソナルトレーナーからファッションのアドバイスまで受けていた。少しでもかっこいい姿に戻り、咲月の心を取り戻したかったからだ。今となっては、それも滑稽な一人相撲に過ぎなかったが。俺はカメラを構え、スタッフがネクタイを直してくれている光景をシャッターに収めた。咲月と芽依はどこで情報を聞きつけたのか、スタジオまで執拗に追いかけてきた。彼女たちがドアを開けた時、俺はちょうどセッティングされた照明の下に立っている。芽依は目を輝かせ、俺に擦り寄ってきて無邪気な声で褒めちぎった。「パパ、今日すっごくかっこいい!」なんだ、他者を素直に褒める言葉なんて、その気になればいくらでも口に出せるんじゃないか。それなのに、彼女はわざと俺に対して最も残酷な悪意をぶつけ続けていたのだ。俺は一切の反応を示すことなく、蒼音湖のロケ地へ向かう送迎車に乗り込もうとした。咲月は目を真っ赤にし、スタッフに向かって「彼が着ているタキシードに合うウェディングドレスを出して」と指示した。スタッフは困惑しつつも愛想笑いを浮かべた。「申し訳ございません。こちらのお客様はソロウェディングプランでのご予約ですので、ペアとなるドレスのご用意はございません」咲月は絶望に目を見開き、小さな声でスタッフの言葉を反芻した。「ソロ……ウェディング……」俺は彼女を置いて、冷たく車のドアを閉めた。道中、俺はひたすら最適なアングルとロケーションの構成を脳内で組み直していた。咲月は芽依を連れてタクシーに乗り、金魚のフンのように俺を尾行してきた。蒼音湖の湖畔では、ホテルの女将が俺の熱心な古参ファンを数人引き連れて待機していた。以前、ショッピングモール
咲月は目を真っ赤に腫らして俺の前に進み出ると、すがるように俺の胸に飛び込んできた。冷たい涙の雫が首筋を伝い、彼女は悲痛な顔をして擦り付けてくる。「あなた……離婚しないって言って、お願いだから……」芽依もそばに寄ってきて俺のズボンの裾を握りしめ、涙で濡れた大きな瞳で哀願してきた。「パパ、私とママを捨てないで……」蒼音湖へ向かう機内で、俺は咲月と芽依が俺の失踪に気づいた時の反応を想像していた。どうせ「また陸が拗ねて、私たちの気を引こうとしてる」という程度にしか思わないだろうと。俺は彼女たちの冷酷さを憎み、俺の苦しみを理解しようとしない傲慢さを憎み、狂ったように湊ばかりを贔屓することを憎んでいた。だから、次に彼女たちと顔を合わせた時は、烈火の如く罵声を浴びせ、「俺の人生から消え失せろ」と怒鳴りつけるだろうと思っていた。だが現実は違った。俺の心は恐ろしいほど凪いでおり、目の前で泣きじゃくる2人が、ただの滑稽な他人にしか見えなかったのだ。咲月の涙がシャツの襟を濡らすのに嫌悪感を覚え、俺は冷たく彼女を突き放した。彼女はむせび泣きながら必死に弁解を重ねた。「ごめんなさい、私があなたの気持ちを無視してた。昔、湊がうちに居候し始めた時、あなたが何度も『あいつに良くしてやってくれ』って頼んだじゃない。だから私は無意識のうちに彼を優先して……あなた以上に大切に扱わなきゃって、思い込んでたのよ」だが、そんな自己正当化の謝罪はあまりにも遅すぎた。俺はもうそれを受け入れる気もなければ、許すつもりも毛頭ない。芽依が俺の足にしがみつき、泣き腫らした顔を見上げた。「パパ、あいつなんてもういらないから。私にはパパだけがいればいいの」その言葉を聞いて、去年の芽依の誕生日の光景がフラッシュバックした。俺は丸1日かけて、彼女のために手作りケーキを焼き上げた。デザインは彼女が大好きな熊で、中には好物のマンゴーとブルーベリーをたっぷりと敷き詰めた。だが彼女はその愛情の結晶に目もくれず、湊の胸に飛び込んでいき、彼が買ってきた、箱の中で崩れてドロドロになった安物のケーキを嬉しそうに受け取ったのだ。あの時の残酷な一言を、俺は一生忘れない。「湊おじちゃんがくれた安いケーキでも、パパが作ったケーキなんかより1万倍マシだもん」手塩に
蒼音湖の空港に降り立つと、あらかじめ予約しておいたゲストハウスの女将が車で迎えに来てくれていた。彼女は俺の熱狂的な古参ファンであり、嬉しそうに俺の背後を覗き込んだ。すると、怪訝そうに口を開いた。「あれ?奥さんと娘さんはご一緒じゃないんですか?結婚10周年の記念に、ここでウェディングフォトを撮る約束だって言ってましたよね?」俺は自嘲気味に微笑み、淡々と事実を告げた。「離婚することになったんです」女将は目を丸くして「えっ」と息を呑み、食い下がるように聞いてきた。「昔、咲月さんがあんなに猛アタックして射止めたんじゃないですか。プロポーズを受けたあの月なんて、蒼音湖の夜空で毎晩ドローンを飛ばしてバラの花びらを撒いてたんですよ?それに、雪山の前で『一生あなたを裏切らない』って誓ってたのに……どうして急に?」確かに、あの頃の彼女の愛は周囲を巻き込むほど情熱的で、決して忘れられないものだった。当時ここを訪れた観光客は皆、咲月が俺に狂信的な愛情を向けていることを知っていた。「どうか末長くお幸せに」と、数え切れないほどの見知らぬ人たちから祝福されたものだ。だが、あれほど熱烈だった愛の炎が時間の経過と共に残酷に冷え切り、永遠の誓いが度重なるエコ贔屓によって砂城のように崩れ去るなど、誰が想像できただろう。俺は遠くそびえる雪山を見上げ、静かに笑って答えた。「いいんです。もう、すべて終わったことですから」女将が車に荷物を積んでくれた。車が走り出すと、開けた窓から吹き込む風が心地よかった。前髪を揺らすその風に、俺は久しく忘れていた自由の匂いを感じ取っていた。蒼音湖の湖畔を通り過ぎる際、目に飛び込んできたのは視界を覆い尽くすほどの深いサファイアブルーだった。俺はほとんど本能的にアングルを探り、カメラを取り出してシャッターを切ろうとした。だが手が虚空を切り、愛用のカメラたちはすべて芽依の手によって粉々に粉砕されたことを思い出した。あのカメラのSDカードには、芽依が産声を上げた日から現在までのすべての成長記録が収められていた。彼女が18歳になった時、サプライズで贈るつもりだったが、もはやそんな自己満足のプレゼントも必要ない。芽依は俺の愛情など微塵も気にかけていないし、俺もこれ以上、あの母娘に無駄な情をかけるつもりはな