LOGIN夫の森川恭平(もりかわ きょうへい)と口をきかなくなってから二か月目、彼が囲っている若い愛人が、とうとう妻である私、森川美緒(もりかわみお)に挑発してきた。 周囲はみんな、私が以前のように激怒し、妻としての立場を主張すると思っていたようだ。 だが私は、グループチャットに次々と投稿される恭平とその女の親密な写真を眺めながら、祝福のメッセージを送った。 【お似合いね、末永くお幸せに】 途端にグループチャットは静まり返った。そのメッセージを見た恭平は我に返ったらしく、夜中に車を飛ばして私の部屋へ押しかけてきた。 「こんなことして楽しいか?」 私は、怒りをあらわにする彼を静かに見つめた。 「ここ何年かはずっと楽しくなかったわ」
View Moreまさか恭平と再会することになるとは思ってもいなかった。しかもそれが私自身のファッション展の会場だったなんて。久しぶりに見た恭平はずいぶん痩せていた。以前の堂々とした雰囲気はすっかり失われ、どこか寂しげな姿になっていた。私を見つけた彼は、泣きそうにも笑いそうにも見える、なんとも奇妙な表情を浮かべた。一方、私の心の傷はもうすっかり癒えていた。今では再びスポットライトの下に立ち、大勢の観客を前に、自分の作品について堂々と語れるようになっていた。かつての自信も、心の余裕も取り戻していたのだ。私はもう、人生のどん底から抜け出していた。今回の展示会には、「新生」という名前をつけた。それは新たな人生を歩み始めた自分自身を祝福するためでもあった。会場に並ぶ服も、それに合わせたジュエリーも、すべて私が一から考え、丹精込めて作り上げたものだ。制作過程で描いたデザイン画もすべて公開し、ステージでは観客に向けて、作品が生まれるまでの話をしていた。そんなとき、ふと恭平の姿が目に入った。恭平はガラスケースに展示された私のデザイン画を、懐かしそうにじっと見つめていた。展示会が終わると、恭平は関係者用の控室までやってきた。「美緒、俺は……今日は、お前を迎えに来たんだ。一緒に家に帰ろう」ひどく遠慮がちなその口調に、私は呆れて笑いそうになった。「どうして私があなたと帰ると思ったの?恭平、忘れたの?私たちはもう離婚したのよ。今は何の関係もない他人なの」恭平はその言葉に耐えられないというように、苦しげな顔で両耳を塞いだ。息が荒くなり、やがてまた私の手を握ろうとした。「美緒、お前がいなくなって初めて分かったんだ。俺にはお前が必要なんだよ!家に帰っても、お前の気配がどこにもない。夜だってまともに眠れないんだ!お前が戻ってきてくれないなら、俺はもう何のために生きているのか分からない!」私は差し出された手を避けた。今では彼に触れられることさえ嫌だった。ふと見ると、恭平の手首には無数の切り傷が残されていた。新しい傷も古い傷も入り交じり、痛々しい跡がいくつも走っている。恭平は私の視線に気づくと、口を開いた。「お前がいなくなってから、思い出すたびに手首を傷つけていたんだ。痛みを感じている間だけは、少しだけ正気でいられた。そうやって自分の罪を償ってきたんだよ
翌日、私は帰りの航空券を予約した。陽菜はひどく寂しがり、空港まで見送りに来てくれた。別れ際、私たちは強く抱き合った。この数日間、私は彼女からたくさんの勇気をもらったのだと思う。自宅に戻ると、リビングで真っ先に目に入ったのは、恭平と私のウェディングフォトだった。だがそのすぐそばのテーブルには、恭平が外した結婚指輪がぽつんと置かれていた。幸せそうに笑う写真の中の二人がひどく皮肉に見えた。結婚という約束は、不誠実な男をつなぎ止めることなどできない。それなのに、愛に苦しむ女の心だけは、がんじがらめに縛りつけてしまうのだ。私は自分の薬指から結婚指輪を外し、恭平の指輪の隣に並べた。3年間つけ続けた指輪は薬指にはっきりと跡を残していた。でもきっと時間が解決してくれる。思い出も、傷跡も、いつかは薄れていくはずだ。離婚届を提出する予定の前日、恭平が大きなバラの花束を抱え、慌ただしく帰ってきた。私はその花束を彼に投げつけ、とうとう家を出た。無数の花びらが宙を舞い、辺り一面に散らばった。そういえば、最後にこんなふうにバラの花びらが床を埋め尽くしたのは、いつだっただろう。たしか、結婚したばかりの頃、二人で新居に引っ越してきたときだった。翌日、離婚の手続きを進めるはずだったが、恭平は姿を現さなかった。それどころか、彼は自分の立場を利用して、離婚の手続きを止めようとしたのだ。けれど私も頼れる人たちの力を借り、なんとか正式に離婚を成立させることができた。私は離婚届の受理証明書を恭平宛に郵送してもらい、この街を離れた。そして海外へ留学し、以前から大好きだったデザインの勉強を、もう一度本格的に始めることにした。恭平と結婚する前、私は名門大学で将来を期待される若手デザイナーだった。芸術の分野では独創性と才能を評価され、著名なデザイナーたちから、一緒に仕事をしないかと声をかけられたことも何度もあった。けれど大学卒業後、恭平から突然プロポーズされ、私は進学するという夢を諦めた。彼を支える、よき妻になろうと決めたのだ。思えば、恭平に頼りきっている結菜を見たとき、ふと昔の自分が重なった。自分の力もなく、広い世界を知らなかった私は、地位も豊かな暮らしも与えてくれる恭平に、必要以上に依存していたのだ。恭平こそが私の世界のすべてだと思い込んでいた。
目の前に置かれたブラックカードを見て、私は思わず笑みを浮かべた。恭平はこんなのは私らしくないと言った。それなら昔のように恭平の顔色をうかがい、何をされてもありがたがっていればいいとでもいうのだろうか。恭平は忘れているようだけれど、付き合う前の私は、決しておとなしい性格ではなかった。付き合い始めたばかりの頃は、ほかの女の子が恭平とLINEを交換しただけで嫉妬し、何をしているのか問い詰めたこともある。大学のサークル活動で、恭平がほかの女子学生と親しげにじゃれ合っているのを見かけたときなど、一週間も口をきかなかった。それなのに、今の私が私らしくないという。私からすれば、昔とすっかり変わってしまったのは恭平のほうだった。あの頃の彼は、私が嫉妬して傷つけば、自分からほかの女性と距離を置いてくれた。出張の際には、こちらから聞かなくても予定を教えてくれた。仕事の会食では、自分が既婚者であることをはっきり伝え、家で妻が待っているからと、必ず帰宅していた。それが今ではどうだろう。恭平はすっかり女遊びの激しい男として知られるようになり、言い寄ってくる女性をほとんど拒まなくなった。私たちは何度も喧嘩をし、そのたびに口をきかなくなった。ほかの女にキスした唇で、私に愛を誓っていたのだと思うと、何度も吐き気が込み上げ、胃の中のものをすべて吐き出したくなった。恭平は、お金さえ与えれば、私の苦しみも悲しみもすべて消えると思っているのだろう。けれど、私の記憶の中で少しずつ変わり果て、二度と昔の姿には戻れなくなったのは、ほかでもない恭平自身だった。私はブラックカードを受け取らず、代わりにクッキーの載った皿を手に取った。そしてその中身をすべてゴミ箱に捨てた。私が容赦なく背を向けると、恭平のこめかみに青筋が浮かんだ。恭平は手を伸ばし、私の手首をつかんだ。「美緒、離婚届を出すまで、あと3日しかないんだぞ。いつまで意地を張るつもりだ?」私はその手を振り払い、一言ずつはっきりと告げた。「恭平、あなたとの離婚は、これまでの人生で一番迷いのない決断よ」その言葉を聞いた恭平は、怒りを必死に抑えているのか、肩を大きく上下させた。それでも口調だけは冷静さを保っていた。「美緒、よく考えろ。俺たちは7年も一緒にいたんだぞ。何もなかった俺が、ここまで会社を大き
翌朝、朝食を済ませた私は、宿の一階でのんびりと本を読んでいた。陽菜のお母さんは用事で外出していて、今日は私と陽菜の二人で宿の留守番をすることになっていた。陽菜は甘いものが大好きだ。そこで私は本を置き、陽菜をキッチンに呼んで、得意のクッキーの作り方を教えることにした。焼きたてのクッキーがオーブンから出てくると、陽菜は目を輝かせながら、さっそく近寄ってきた。私は紅茶を淹れ、ポットを庭のテーブルへ運んだ。ちょうどそのとき、恭平が扉を開けて入ってきた。恭平は私に目を向け、一瞬、何か言いたそうな表情を浮かべた。すると、彼の後ろから若い女がひょっこり顔を出した。女はテーブルの上にあったクッキーを一枚つまみ、何の断りもなく口に運んだ。「わあ!社長、このクッキー、前にいただいたのと同じ味ですね!会社で食べてから、ずっとこの味が忘れられなかったんです!まさか、ここでも食べられるなんて!」その言葉を聞いた瞬間、紅茶を注いでいた私の手が震えた。ようやく分かった。普段は甘いものなどほとんど口にしない恭平が、どうしてあの頃、あんなにも頻繁にクッキーを焼いてほしいと頼んできたのか。いろいろな種類を作らせては、いつも会社へ持っていっていた。あれは、彼自身が食べるためではなかったのだ。珍しく自分から頼み事をしてきたと思ったら、私の手作りのお菓子で、会社の若いインターンの機嫌を取るためだったなんて。胸に針を刺されたような痛みが走ったが、私はすぐに冷静さを取り戻した。本当は私はずっと前から気づいていたのではないだろうか。恭平とはもう長い付き合いだ。彼が普段と違うことも、何かを隠していることも、見抜けないはずがなかった。ただ、以前の私は、表面上だけでも平穏な結婚生活を守りたくて、あえて深く考えないようにしていたのだ。周囲の人たちが言っていたように、見て見ぬふりをして、知らないふりをしながら一日一日をやり過ごしていた。愛人たちが私の前に現れ、妻としての立場を脅かすような真似さえしなければ、たいていのことには目をつぶっていた。けれど今になって、自分がどれほど愚かだったのか思い知った。愛情は少しずつすり減っていくものなのだ。水を与えられなくなった花が、ゆっくりと枯れていくように。恭平が私に注いでくれる愛情はもうとっくに尽きかけていた。