Share

第47話

Author: 霜晨月
last update Huling Na-update: 2026-01-03 23:34:59

声に応じるかのように、輿は静かに止まった。

家令らしき老人が一人、小走りに駆け寄ると、御簾の前で恭しく身を屈めた。

「若様、いかがなさいましたか」

「前はどうした」

「はっ。少々お待ちを」

家令は傍らを振り返り、護衛の一人に命じた。

「前方の様子を見てまいれ」

その矢先、前方の人の群れから、突如として怒号が轟いた。

目をやれば、襤褸をまとった男が、赤子を抱いた女の手を引き、騒ぎの只中から駆け出してくるところであった。

「止まれっ!」

長槍を構えた衛兵が、すぐ後から追いすがる。

夫婦とおぼしき男女は一目散に逃げ惑い、道端の露店をいくつも薙ぎ倒していく。辺りはたちまち騒然とし、収拾のつかぬ混乱に陥った。

「若様!前方は大変な騒ぎにございます。すぐにもお引き返しを!」

家令が血相を変えて言上した。

「何を慌てている」

輿の中の主は、落ち着き払っている。言うが早いか、輿の中からすっと細長い手が伸び、御簾を静かに押し上げた。やがて、その主がゆっくりと姿を現す。

周歓は、その姿を一目見て、思わず息を呑んだ。

輿より現れた男は、雲紋を刺繍した深紅の鶴氅かくしょうを羽織り、下には黒絹の衣を重ねている。広袖の長衣に身を包み、滝のように流れる黒髪は腰まで届き、朱色の細長い錦帯で緩やかに束ねられていた。

その高貴な装いに違わず、容貌もまた、凛々しくも秀麗であった。遠目には、さながら峻嶺にそびえる一本の松の如き孤高を漂わせている。

その刹那、前方で悲鳴が上がった。女を連れて駆けてきた男が、背後から放たれた長槍に背を貫かれたのである。

男は苦悶の声を漏らし、どうと地に倒れ伏した。女は恐怖に顔を蒼白にさせ、何度も夫らしき男の体を揺さぶるが、応えはない。

背後から武官が迫るのを見て取ると、女は胸に赤子を抱き直し、なりふり構わず、その貴公子の輿の前へと駆け寄った。

「若様!お助けください、若様!」

女は必死に護衛の制止を振り払おうともがく。その腕の中では、赤子が張り裂けんばかりに泣き叫んでいた。

だが、かの貴公子は表情一つ変えず、象牙の扇をゆるりと開き、口元を隠すのみ。切れ長の目をすっと細め、その瞳には氷のような冷たい光が宿る。助ける気など毛頭ない、というように。

見るに見かねた周歓は、すっくと立ち上がると、眼下の一群に向かって怒鳴りつけた。

「おい、てめえら!人が困っているのを見て見ぬふ
Patuloy na basahin ang aklat na ito nang libre
I-scan ang code upang i-download ang App
Locked Chapter

Pinakabagong kabanata

  • この男、毒花の如く   第51話

    「だが、俺には無理だ」周歓は途方に暮れた面持ちで、鏡に映る沈驚月を見つめた。「俺はもとより学のないただの庶民で、お前のような名家の若様とは違う。何の準備もなしに臨めば、どうなることか」沈驚月は微かに笑みを浮かべると、身をかがめて周歓の耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。「そうなれば、大変なことになるでしょうね」周歓は思わず身を震わせ、顔を上げて尋ねた。「大鼓書なら唄えるが……これも芸のうちに入るだろうか」※大鼓書とは、小太鼓と快板を打ち鳴らし、節に乗せて物語を語る、庶民に親しまれてきた街場の語り芸である。沈驚月は意外そうに目を瞬かせた。「もちろん入りますとも。心得があるのですか」周歓は頷き、眉根を寄せる。「子供の頃、道端で聞き覚え、見よう見まねで多少はな。だが、決して上手いものではないぞ……」ところが、沈驚月は俄かに色めき立ち、目を輝かせて周歓の腕を掴んだ。「ぜひお聴かせ願いたい!今ここで一節、ご披露いただけませんか」周歓はにわかに面映ゆくなり、鼻の頭をこすると、意を決したように言った。「わかった。お前がそこまで言うなら、恥を忍んでお聞かせしよう」善は急げとばかりに、沈驚月はすぐさま下男に命じて小太鼓一つと快板二枚を運ばせた。そして自身は小さな腰掛けを引き寄せ、卓の前に居住まいを正すと、期待に満ちた眼差しで周歓を見つめた。周歓は片手に鼓の撥、もう片方の手に快板を持ち、ひとつ咳払いをして喉を潤すと、声を張り上げて唄い始めた。それは周歓が幼い頃より馴染み深い演目であった。幾度となく耳にしたその唄は、そらで諳んじられるほどに染みついている。かつて気が向けば、近所の女衆に一節披露してやったこともあった。しかし彼は天性の音痴で、唄い出しから終わりまでまるきり調子が外れているため、いつも途中で聴衆から野次を浴び、唄を止めさせられたものだ。だが、このたびは違った。沈驚月は遮るどころか、終始一言も発さず、静かに最後まで聴き入っていた。最後の一音が消えると、周歓は長く息を吐いた。それは久しく味わうことのなかった、胸のすくような爽快感だった。パチ、パチパチ、パチパチパチ……しばしの静寂を破り、沈驚月がやおら拍手を始めた。ぷっ、とこらえきれずに吹き出すと、沈驚月は肩を震わせ、手を叩きながら声を上げて笑い出した。「愉快だ

  • この男、毒花の如く   第50話

    沈驚月は思わず一歩たじろぎ、何気なく視線を逸らした。「とはいえ、清平宴は名門貴族や上流の名士が集う場。ご参加なさるのでしたら、それなりの身なりを整えるべきかと存じます」「ほう?」周歓はきょとんと目を丸くし、己の身なりを見下ろした。「しかし、宮中でもこの格好で通してきたのだが」「それはなりません。清平宴はただの宴席にあらず。お支度を整え、念入りに装わなければ、人に侮られかねませぬ」言うが早いか、沈驚月は周歓の手を取り、「さあ、こちらへ」と促した。沈驚月は周歓を伴い、先ほどの個室に勝るとも劣らない豪奢を極めた部屋をいくつも通り抜け、やがて、精巧な装飾品や帯飾りが所狭しと並ぶ一室へと案内した。部屋に足を踏み入れるや、美しく着飾った十数人の侍女たちが一斉に二人へ向かって礼をした。そのうちの一人が紐を引くと、透かし彫りの玉簾が静々と上がり、その向こうから趣向を凝らした綾羅錦繍の衣がずらりと姿を現した。沈驚月は歩み寄り、すらりと伸びた指先で衣を一枚一枚撫でてゆく。やがてその視線が一着の紺青の衣に留まった。それを取り出して周歓の身にあてがうと、満足げにひとつ頷く。「これがよろしいでしょう。周歓殿にお召しさせなさい」わけもわからず呆然とする周歓をよそに、沈驚月の号令一下、侍女たちがわっと群がり寄った。口を挟む暇もなく、彼女たちは寄ってたかって周歓の着替えにかかる。周歓には成す術もなく、なすがままに身を任せるよりほかなかった。しかも衣替えだけでは終わらず、白粉や紅まで施される始末。そうしてあれこれと手を加えられ、気づけばたっぷり一時辰が過ぎていた。周歓は背筋をまっすぐに伸ばして座っている。とうに腰も背も痛み始めているが、微動だに許されない。やがて、彼は溜息交じりにこぼした。「なあ、良家の子息というのは、宴のたびに毎回このような派手な身支度をしなければならないのか?」沈驚月は眉筆を手に、周歓の眉を丁寧に描きながら応えた。「宴のあるなしにかかわらず、人前に出る以上、身なりを整えるのは基本中の基本でございましょう」「今まで知らなかったが、今にしてようやくわかった。男でいるというのも、なかなかに骨が折れるものだな」「私にはむしろ不思議でなりません。兄者は生まれながらにしてこれほどの美貌をお持ちでありながら、それを活かそうとなさらない。まさか、その他大勢の中

  • この男、毒花の如く   第49話

    「拙宅へようこそ」沈驚月はゆっくりと歩み寄り、卓の傍らに腰を下ろすと、手ずから席を勧めた。「周歓殿、どうぞ」周歓は事態を飲み込めぬまま、促されるがままに沈驚月の向かいへと腰を下ろした。見ると、沈驚月は酒壺を手に取り、静かに二つの杯を満たし、その一つを周歓の前にそっと差し出した。「先ほどは、当家の者が周歓殿にご無礼を。家人に代わり、私からお詫びいたします。まずは罰として、この一杯を」言うなり、沈驚月は杯をすっと掲げ、一息に飲み干した。飲み干すと、沈驚月は杯の底を相手に向けてみせる。周歓が自分を呆然と見つめていることに気づくと、杯を置き、扇子で口元を隠した。わずかに小首を傾げ、伏し目がちに囁く。「私の顔に、何か付いておりますか」「い、いや、何でもない!」周歓はようやく我に返り、慌てて手元の酒を呷ると、ばつが悪そうに笑った。「お恥ずかしい話ですが、先ほどの……」先ほど過って沈驚月に口づけてしまった一幕――その柔らかな感触が生々しく唇に残っており、周歓は珍しくも耳まで真っ赤に染め上げた。「俺は決して、わざと無礼を働いたわけではないのです!あれはただの事故でして!そう、不慮の事故です!」沈驚月は黙って周歓の様子を窺っていたが、そのあまりにしどろもどろな様に、とうとう堪えきれなくなったらしい。パチリ、と手にした象牙の扇子を閉じ、朗らかに笑い声を上げた。「家人に連れられて戻られた姿を拝見していなければ、疑ってしまいましたよ。今そこにいらっしゃる貴方と、先ほど屋根の上で凛として衆を一喝なさった貴方とが、本当に同一人物かと」周歓はきまり悪そうに頭を掻いた。「あれは、まあ、その……人を助けたい一心で、後先考えずに口走ったまでです。今思えば我ながらぞっとしますよ。もしあの時、足を滑らせて屋根から落ちていなければ、今頃は全身に矢を浴びて仏になっていたでしょう。そう考えると、沈驚月殿には命を救われたも同然ですな」その物言いがまた彼のツボに入ったのか、沈驚月は一層楽しげに笑った。「貴方を救ったのは私ではありませぬ。貴方の足を滑らせた、あの腐った瓦ですよ」二人が言葉を交わし笑い合ううち、張り詰めていた空気はすっかり和らいでいった。沈驚月が身の上を尋ねると、周歓もまた、兗州への赴任を隠す必要はないと判断し、陳皇后の勅命で監軍として洛陽からやって来た旨を、包

  • この男、毒花の如く   第48話

    けたたましい音を響かせ、軒先から転落した周歓は、とある人物の上に覆いかぶさる形となり、鈍い音を立てて地面へ叩きつけられた。地面に叩きつけられたその刹那、周歓の唇は、不意に柔らかな何かに押し当てられていた。舞い上がった土煙が収まる頃、ようやく我に返った周歓は、己が誰かを組み敷いていることに気づいた。そして、先ほどの柔らかな感触が、まさしくその人物の唇であったことにも。しばし呆然としていた周歓だったが、はっと事態を悟ると、慌ててその身を飛び退かせた。目を凝らせば、そこに衣を乱して横たわっていたのは、まさしくあの気品高く清麗な貴公子であった。彼は呆気に取られた面持ちで、ただ周歓と視線を合わせている。白磁のごとき肌には薄っすらと埃がつき、先ほど周歓の唇と触れ合ったその唇は、血が滲むほどに赤く染まっていた。「あ、いや、す……すま……」心臓が早鐘を打ち、周歓は言葉を詰まらせた。それが最後まで紡がれることはなく、鈍い衝撃と共に後頭部を凄まじい痛みが襲った。周歓は白目を剥くと、再び貴公子の上へと崩れ落ち、そのまま意識を手放した。「若様!ご無事でございますか、若様ッ!」家令らしき男が木の棒を手に、狼狽えながら周歓の背後に立っていた。周囲の護衛たちも慌てて駆け寄り、数人がかりで周歓を貴公子から引き剥がす。貴公子は秀麗な眉をひそめ、胸元を押さえながら身を起こした。幾度か咳き込んだ後、喉の奥から背筋も凍るような低い声を絞り出す。「この男の口をぐちゃぐちゃに叩き潰せ!」「はっ!」護衛たちが応じ、周歓を拘束して連れ去ろうとした、その時であった。「待て」貴公子が、不意に鋭い声を上げた。「若様……?」護衛と家令は顔を見合わせ、困惑の色を浮かべた。貴公子は立ち上がると、周歓の目前まで歩み寄り、意識を失ったその体を頭の先からつま先までしげしげと眺め、しばし沈黙した。「気が変わった。この男を、屋敷へ連れて行け」貴公子は周歓の顔を見つめ、微かに――まさしく微かに、口の端を吊り上げた。---紫煙がゆるりと立ち上り、沈香の薫りが満ちている。「すまなかった――ッ!」真紅の帳が下りた寝台の上で、周歓は弾かれたように目を見開き、叫びながら飛び起きた。その叫びは、静まり返った室内に虚しく木霊した。周歓はしばし呆然としていたが、ふと視線を落とすと、己の体には柔らかく

  • この男、毒花の如く   第47話

    声に応じるかのように、輿は静かに止まった。家令らしき老人が一人、小走りに駆け寄ると、御簾の前で恭しく身を屈めた。「若様、いかがなさいましたか」「前はどうした」「はっ。少々お待ちを」家令は傍らを振り返り、護衛の一人に命じた。「前方の様子を見てまいれ」その矢先、前方の人の群れから、突如として怒号が轟いた。目をやれば、襤褸をまとった男が、赤子を抱いた女の手を引き、騒ぎの只中から駆け出してくるところであった。「止まれっ!」長槍を構えた衛兵が、すぐ後から追いすがる。夫婦とおぼしき男女は一目散に逃げ惑い、道端の露店をいくつも薙ぎ倒していく。辺りはたちまち騒然とし、収拾のつかぬ混乱に陥った。「若様!前方は大変な騒ぎにございます。すぐにもお引き返しを!」家令が血相を変えて言上した。「何を慌てている」輿の中の主は、落ち着き払っている。言うが早いか、輿の中からすっと細長い手が伸び、御簾を静かに押し上げた。やがて、その主がゆっくりと姿を現す。周歓は、その姿を一目見て、思わず息を呑んだ。輿より現れた男は、雲紋を刺繍した深紅の鶴氅を羽織り、下には黒絹の衣を重ねている。広袖の長衣に身を包み、滝のように流れる黒髪は腰まで届き、朱色の細長い錦帯で緩やかに束ねられていた。その高貴な装いに違わず、容貌もまた、凛々しくも秀麗であった。遠目には、さながら峻嶺にそびえる一本の松の如き孤高を漂わせている。その刹那、前方で悲鳴が上がった。女を連れて駆けてきた男が、背後から放たれた長槍に背を貫かれたのである。男は苦悶の声を漏らし、どうと地に倒れ伏した。女は恐怖に顔を蒼白にさせ、何度も夫らしき男の体を揺さぶるが、応えはない。背後から武官が迫るのを見て取ると、女は胸に赤子を抱き直し、なりふり構わず、その貴公子の輿の前へと駆け寄った。「若様!お助けください、若様!」女は必死に護衛の制止を振り払おうともがく。その腕の中では、赤子が張り裂けんばかりに泣き叫んでいた。だが、かの貴公子は表情一つ変えず、象牙の扇をゆるりと開き、口元を隠すのみ。切れ長の目をすっと細め、その瞳には氷のような冷たい光が宿る。助ける気など毛頭ない、というように。見るに見かねた周歓は、すっくと立ち上がると、眼下の一群に向かって怒鳴りつけた。「おい、てめえら!人が困っているのを見て見ぬふ

  • この男、毒花の如く   第46話

    「あれ?俺の令牌は!?」周歓は血の気が引くのを感じ、慌てて懐や袖を探った。しかし、あるべきはずの小袋の感触はなく、心の内で「万事休す」と呻いた。あの小袋には、けして少なくない銀両ばかりか、朝廷より下賜された令牌、そして何より重要文書まで入っていたのだ。金はまた稼げばよい。だが、文書の紛失は、牢獄行きを免れぬ重罪であった。将校は、周歓の狼狽ぶりを目の当たりにし、侮蔑の色を隠しもせずに鼻を鳴らした。「芝居はよせ。貴様のような手合いは腐るほど見てきた。口から出まかせで官吏を騙り、関所を抜けられるとでも思ったか。無駄な足掻きはやめて、とっとと失せろ」言い放つや、無造作に腕を伸ばし、周歓を突き飛ばした。「待て!俺は本物の朝廷官吏だ!!」突き飛ばされた周歓は、しかし怯むことなく猛然と食い下がった。「令牌は盗まれただけだ!俺を斉王様のもとへ連れて行け!斉王様が俺の身分を御存じだ。嘘ではないと証言してくださる!」「その薄汚いなりで斉王様への御目通りを願うか?」将校はもはや聞く耳持たぬとばかりに刀を抜き放ち、その切っ先を周歓の喉元に突きつけた。「とっとと失せろ!さもなくば、貴様を閻魔の元へ送ってやる!」周歓は、この手の輩が強きに媚び、弱きを挫く類の人間であることを見抜いていた。ゆえに臆する色もなく、相手の鼻先を指差して罵声を浴びせた。「おい、この腐れ役人が!人のなりで判断しやがって。脅せば俺が怖気づくとでも思ったか?知ったことか、俺は斉王様にお会いするんだ!煮るなり焼くなり、斉王様にお会いしてからにしろ!俺の言葉に半

Higit pang Kabanata
Galugarin at basahin ang magagandang nobela
Libreng basahin ang magagandang nobela sa GoodNovel app. I-download ang mga librong gusto mo at basahin kahit saan at anumang oras.
Libreng basahin ang mga aklat sa app
I-scan ang code para mabasa sa App
DMCA.com Protection Status