先生や友達に玲奈のことを話すとき、陽葵の背筋はぴんと伸び、顎を高々と上げて、目の中は誇らしさでいっぱいだった。その姿に、玲奈は思わず口元をほころばせた。けれどふと隣に目をやると――愛莉は陽葵の後ろに隠れるように立ち、リュックの紐を握りしめ、うなだれて肩を震わせていた。泣いているのだと、一目でわかった。玲奈の胸はぎゅっと縮み、すぐに娘を呼びたくなった。だが、唇まで上った言葉は喉奥で固まり、どうしても出てこなかった。その間に陽葵は校門から駆け出し、玲奈の手を自然に取った。我に返った玲奈は、背後から取り出した小さな包みを差し出した。「ほら、欲しがっていたピンクの小さなヒョウのぬいぐるみ。おばさんが買ってきたわ」受け取った陽葵は飛び跳ねて喜び、声を弾ませた。「ありがとう、おばちゃん!おばちゃん大好き!」感謝を繰り返したあと、陽葵は玲奈にしゃがむようせがみ、頬ずりをし、何度も抱きついてきた。校門の内側でそれを見ていた愛莉は、リュックの紐を強く握りしめ、目を見開いて陽葵を睨みつけた。――あれは自分のママなのに。なぜ陽葵が抱きしめているのか。なぜ自分のママが、陽葵を迎えに来るのか。胸の奥が押し潰されるように苦しい。悔しくて、悲しくて......けれどママは自分を見てくれない。玲奈は陽葵の頭を撫で、髪を整えてやると優しく言った。「陽葵、先生にさよならを言って」「先生、さようなら!」陽葵は元気よく手を振った。そうして玲奈と陽葵は、大小二つの傘を並べ、雨の中を並んで歩き出した。校門の前に残された愛莉は、鉄の門をつかんで叫ぶ。「ママ!」だが、雨音と陽葵のはしゃぐ声にかき消され、玲奈の耳には届かなかった。そのときようやく宮下が駆けつけ、出て行こうとした玲奈と鉢合わせる。「奥様」変わらぬ恭しい呼びかけに、玲奈は立ち止まる。陽葵はおしゃべりを止め、顔を上げて玲奈を見た。玲奈は落ち着いた声で指示を出す。「宮下さん、悪いけど愛莉をお願い。帰ったら早めに洗面させて、ちゃんと休ませて。スマホは長く遊ばせないで」細やかな言いつけに、宮下は何度も口を開きかけたが、結局言葉を呑み込んだ。玲奈もそれ以上、耳を貸す気はなかった。「さあ、陽葵。帰りましょう」「
その瞬間――玲奈の脳裏に、ひとりで娘を育ててきた日々が蘇った。熱を出しやすい幼子を抱えて、必死に病院へ駆け込んだ夜。智也には何度連絡しても繋がらず、濡れそぼつ雨の中、ひとりで愛莉を胸に抱えて走った。病院までの道を、いったい何往復しただろう。びしょ濡れになりながらも、ただ「隣に彼がいて、大丈夫だ、俺がいると声をかけてくれたら」――その願いを胸に、必死で踏ん張ってきた。けれど、彼はいつも忙しく、手の届かないところにいた。だから玲奈は、やがて自分ひとりで全てを解決する術を覚えていったのだ。なのに、ほんのさっき、智也は玲奈の首に挟まれていた傘を取り上げて、自ら「俺が持つ」と口にした。数え切れないほど夢見た光景が、ようやく現実となった。けれど玲奈の胸に去来したのは、喜びではなく、込み上げる悔しさと哀しみだった。――もっと早く、こうしてくれていたなら。こんなにも心が荒み、死んだように冷め切ることはなかったのに。雨の中を歩く間、智也の傘はずっと玲奈のほうへ傾けられていた。けれどそれは、彼女のためではない。抱かれた愛莉のためだ。それでもいい。少なくとも、愛莉に対しては優しいのだから。正門に着くと、玲奈は愛莉を後部座席に乗せた。身をかがめる彼女の背に、智也は傘を差し続けていた。ドアを閉め、運転席に腰を下ろす。玲奈がドアを引き寄せたとき、智也はいまだ傘をさしたまま車の脇に立っていた。思わず顔を上げ、かすれた声で告げる。「......ありがとう」智也は眉を寄せ、何も言わない。だが、彼女の服がまだ濡れているのに気づくと、黙って上着を脱ぎ、玲奈の膝に置いた。「風邪をひくな」玲奈は一瞬呆気に取られ、思わず上着を返そうとした。だが、智也はもう傘をさして自分の車へと歩き去っていた。玲奈は深追いせず、上着を助手席に放り投げた。車を発進させながら、後部座席の愛莉に問いかける。「帰りに何が食べたい?」「幼稚園の門のとこにあるスープ餃子!あと、温かいヨーグルトも!」「わかったわ」玲奈が微笑んで応えると、智也は別の車の中からその様子を見届け、ようやく視線を外した。午後五時半。玲奈は仕事を切り上げ、六時ちょうどに幼稚園に到着した。雨は一日中降り続き、園門の前には先生に
雨脚が糸のように垂れ下がり、景色は一枚の帳のようになっていた。それを眺めているうちに、玲奈の心もいくらか和らいでいく。その静けさを破ったのは、突然の着信音だった。取り出した画面には、綾乃の名前。だが電話口から聞こえてきたのは、愛らしい姪の声だった。「おばちゃん、今夜は春日部家に帰ってくる?」玲奈は少し考えてから答えた。「帰るけど......少し遅くなるわ」「やった!」弾む声が耳をくすぐる。「おばちゃん、わたしネットで卵クレープの作り方を勉強したの。今朝早起きして作ったら、おじいちゃんもおばあちゃんも、パパとママも食べてくれて、美味しいって褒めてくれたの。おばちゃんの分もちゃんと残してあるんだよ。今日、放課後迎えに来てくれる?一緒に家に帰ろうよ」柔らかな声に、玲奈の胸はとろけるように甘くなった。小さな姪の無邪気な誘いを、断ることなどできるはずもない。「......ええ」承諾すると、電話の向こうでさらに歓声があがった。「やった、おばちゃんがお迎え!やった!」玲奈も思わず笑みを浮かべる。「じゃあ、おばさんはそろそろ切るわね」「おばちゃん、大好き!」「おばさんも陽葵が一番好きよ」通話を終えたあと、玲奈はしばらく画面を見つめて動けなかった。「一番好き」先ほどの言葉を思い返し、胸の奥がちくりと疼いた。もし、愛莉が以前のままだったなら、自分はそんな言葉を口にできただろうか。けれど今は――娘よりも、姪のほうが自分を慕ってくれている。その思いが胸を締めつけた。ふと視線を上げると、向かいから智也の眼差しが注がれていた。どれほどの間、見られていたのかは分からない。ただ、その瞳の奥には明らかな不満の色があった。それでも玲奈は一歩も怯まず、むしろ真っ直ぐに言い放った。「今夜はあなたが愛莉を迎えに行って。わたしは実家に戻る用事があるから」理由は告げなかった。だが、電話のやり取りを智也も耳にしていたはずだ。細められた黒い瞳に、不可解な光が揺れる。口調は淡々としていたが、そこには嘲りの色が滲んでいた。「......姪のために帰るのか?」玲奈は否定せず、静かに頷く。「そうよ。陽葵が、わたしのために料理を作ってくれたの」その一言
玲奈は、自分がどうやって部屋に戻り、いつソファに身を横たえたのかも覚えていなかった。暗い部屋で横向きに寝転び、目の前の虚空を見つめたまま、ただ茫然としていた。どれほどの時が過ぎたのか――ようやく愛莉が戻ってきた。「ママ?」暗がりの中から小さな声が響く。玲奈は我に返り、感情のない声で答えた。「......ええ」声を頼りに近づいた愛莉は、彼女のそばに腰を下ろした。「ママ、おばあちゃんは元気?」不意に母のことを口にされても、玲奈の胸に喜びはなかった。きっと先ほど沙羅が自分の母のことを話したのを聞いて、愛莉も思い出したのだろう。玲奈の返事は素っ気なかった。「ええ」愛莉はそのまま母の肩に顔を埋めた。「ママ、わたしおばあちゃんに会いに行きたい」その意図がどこにあるのか、玲奈にはわからなかった。だが即座に拒む。「だめよ。あなたは幼稚園が大事。ちゃんと通わなきゃ」愛莉は考え込み、やがて譲歩するように言った。「じゃあ冬休みになったら、ママと一緒におばあちゃんの家に行こうよ。そのときはおばあちゃんの家でお正月を過ごそう」――お正月?もしそうなれば、母の直子はきっと喜ぶに違いない。けれど、愛莉の春日部家の人たちに対する態度は良くない。彼女が行けば、春日部宅はきっと騒がしくなるだけだ。玲奈ははっきりと否定せず、ただ淡々と返した。「そのときになって考えましょう」子どもの気まぐれなど、今は行きたいと思っても、いざ時が来れば気が変わるもの。それに――愛莉の心の中では、沙羅の存在が何よりも大きいのだから。疲れたのか、愛莉は母の腕に身を横たえ、指先を握りながら問う。「ママ、おばあちゃんって美味しいもの作ってくれるの?」玲奈は一瞬、息を呑んだ。思い出すのは、愛莉を連れて春日部宅に帰ったあの夜。母が心を込めて料理を作ったのに、愛莉は口にする前から不満ばかり口にした。胸がずきりと痛み、玲奈は答えを避けた。「もう寝なさい。ママは疲れたの」「うん。ママ、おやすみ」「おやすみ」愛莉はベッドに戻り、ほどなく眠りについた。だが玲奈はソファに横たわりながら、どうしても眠れなかった。あの夜のことが頭を離れず、気づけば涙が頬を濡らしていた。その
――娘の幼稚園の行事に参加するのを、どうして拒めるだろうか。それが二度目だとはいえ、智也には信じがたかった。玲奈がそこまで突き放すとは。夕食後、玲奈は愛莉を連れて二階へ上がり、洗面を済ませた。入浴後、ピンクのパジャマに身を包み、小熊のぬいぐるみを抱えた愛莉が母に訊く。「ママ、パパのところに行ってもいい?」「ええ」玲奈が頷くと、娘は大喜びで小熊を抱え、跳ねるようにして父の部屋へ駆けていった。その背を見送りながら、玲奈は苦い笑みをこぼす。自分も風呂を終えると、ふと気づいた。――化粧水を持ってくるのを忘れていた。智也の部屋にはあるはず。取りに行こうと扉に手をかけたそのとき――中から愛莉の弾んだ声が響いた。「ララちゃん、見て!もうピカピカに洗ったんだよ。ララちゃんは?何してるの?」沙羅の声が続く。「おばさんのお母さんが入院していてね。さっき病院から戻ったところなの」「えっ......じゃあ、おばあちゃんはちゃんと元気にしなきゃだめだね。ララちゃんが心配するから」「ありがとう、愛莉」沙羅は笑った。玲奈の心臓がずしんと落ちる。秋だというのに、凍りつくような寒気に全身が覆われた。それでも意を決し、扉を押し開ける。振り返った愛莉は、気まずそうに目を瞬かせて言った。「ママ、パパの会議に付き合ってたの」玲奈は冷たい視線を落とす。嘘をつかないように――と教えてきたのに。娘はあっさりと嘘を口にするようになった。自分が大切に育てた薔薇は、とうに萎れてしまったのだ。胸は痛んだ。けれど、もう咎める気力はなかった。智也が意に介さないのに、自分だけが必死になって何になる。「......そう」智也は机に向かい、愛莉を膝に乗せたままパソコンに目をやり、仕事に没頭していた。愛莉は手にしたスマホで沙羅とビデオ通話をしていたが、母が入ってきた瞬間、画面を伏せて机に置いた。玲奈は返事をひとつすると、化粧品を探すためにドレッサーへ向かう。だが、そこにあるはずの自分のスキンケア用品はすべて姿を消していた。代わりに並んでいたのは、見慣れぬ新しいブランドの品々。指先が引きつり、思わず苦笑が漏れる。引き出しを閉じ、無言で部屋を出ていった。――忘れていた
智也が食卓につくと、愛莉が首をかしげて尋ねた。「パパ、今日は会社で残業しないの?」「しないよ」娘はスプーンでご飯を頬張り、口の端に米粒と油をつけたまま、にっこりと笑う。「よかった。パパとママと一緒にご飯を食べるなんて、すごく久しぶりだもん」智也は紙ナプキンを取り、娘の口元を拭ってやりながら微笑む。「ゆっくり食べなさい」「うん」愛莉は頷き、ちらりと玲奈に目をやった。玲奈は静かに箸を運んでいた。表情に大きな変化はなく、会話に加わることもない。――けれど記憶の中の母は、父を見るたびに微笑み、優しさを惜しみなく注いでいた。玄関まで迎えに出て、上着と鞄を受け取り、スリッパを揃え、「手を洗って。すぐにご飯よ」と楽しげに声をかけていた。今は、もうない。幼い心に疑問が湧いたが、答えは出せず、愛莉はそれ以上考えないことにした。宮下がご飯をよそい、智也の前に置きながら言った。「旦那様、今日のお料理は奥様がすべてお作りになったんですよ」智也は皿を見やり、確かに玲奈の手によるものだと悟った。一緒に暮らすことは少なくなっても、彼女の料理を食べると、いつも満ち足りて眠れた。玲奈の腕前は確かで、彼の好みも苦手も、誰よりも熟知していた。だから智也は彼女の料理が好きだったし、新垣家の誰もが彼女の食卓を楽しみにしていた。......けれど、今夜の料理はどこか違った。決して出来が悪いのではない。ただ、智也の好物がひとつもなかった。スペアリブと山芋、とうもろこしの滋味豊かなスープ、ガーリック風味のエビ炒め、青菜の炒め物に、前菜がひと品。四品あったが、どれも彼の好物ではなく、スペアリブとエビは愛莉の大好物だった。箸を持ったまま、どれに手を伸ばすべきか迷う。かつての玲奈なら――彼が箸をつける前に、彼の好きな料理をそっと取り分けていた。今はただ、自分の分を淡々と食べているだけ。智也は横目で彼女を見た。伏せたまつげの影に隠れた、静かな横顔。その落ち着きすぎた様子が、逆に居心地悪く感じられる。それでも智也は食べ終えた。好き嫌いをする男ではなかった。彼が箸を置いたとき、玲奈は椀によそったスープを口にしていた。智也は視線を娘へ移し、問いかける。「愛莉、今日は幼稚園で何を習っ