ログイン愛莉を抱えて寝室へ戻ったとき、ちょうど愛莉が目を覚ました。いまも愛莉は智也の肩に頬を寄せたまま、玲奈はその後ろをついて歩いている。目を開けた愛莉に気づいた玲奈は、にこりと笑いかけ、やさしく尋ねた。「お風呂に入ってから寝ようか?」起きたばかりの愛莉は、まだ頭がぼんやりしていた。悦園に玲奈がいるのを見て、返事をしていいのか迷うような顔をする。けれど記憶が追いつくと、愛莉は頷いた。「うん……そうする」智也が愛莉を下ろすと、玲奈は娘の体を支えた。愛莉の服はすっかり汚れている。玲奈は服を脱がせてから、浴室へ連れて行こうと思った。まだ部屋にいる智也へ、玲奈は振り向いて言う。「愛莉はもう大きい子よ。お風呂に入って着替えるときは、あなたは席を外した方がいい」智也は遅れて事情を理解し、慌てて答えた。「わかった。すぐ出る」部屋を出ながら、智也は思った。愛莉くらいの年頃は、まだ性別の意識がはっきりしていない。だからこそ父親の自分が、早めにそういう意識を伝えていく必要がある。そう考えると、玲奈の方がよほど気が回っていた。沙羅なら、たぶんここまで思い至らなかっただろう。智也が部屋を出ていくと、玲奈は愛莉の服を脱がせ始めた。脱がせ終えると、今度は浴室で湯船にお湯を張る。湯を張り終え、愛莉を抱いて浴槽に入れた。体を洗いながら、玲奈は娘のあちこちに残る青あざや赤い跡を見て、思わず口にした。「今日……転んで痛かったでしょう」言い終えるころには、声が詰まっていた。愛莉は頷く。「うん」玲奈はさらに聞く。「怖かった?」「……怖かった」玲奈の胸はきゅっと締めつけられる。涙をこぼしながら、愛莉に言った。「これからは、大人がいないときに一人で勝手に走って行かないで。お願い」愛莉は頷いて答えた。「うん」あまりに素直な返事に、玲奈は小さく笑った。髪をそっと撫で、低い声で宥める。「明日、ママが幼稚園まで送っていこうか?」愛莉は俯いたまま、何も言わない。玲奈には、愛莉が幼稚園へ行きたがらない理由がわかった。気が強くてわがままなところがあり、みんなが一緒に遊びたがらない。それで愛莉は、行きたくなくなってしまったのだ。けれど、このままではいけ
車内では、愛莉が玲奈のそばに身を寄せていた。いま沙羅はいない。寄りかかれるのは、ママだけだった。今日の出来事を思い出すと、怖い。愛莉の胸にはまだ怖さが残っている。何も言わず、ただ黙って玲奈にもたれたままだった。玲奈は顔を向けた。視線は、智也と拓海の方へ向かっていた。智也は拓海へ歩み寄ったが、手を出す気配はない。傘を差したまま雨の中に立ち、黒いコートが夜の闇に溶け込んでいく。しばらく沈黙したあと、智也は傘の縁を少し持ち上げた。黒い瞳で拓海をまっすぐ見据えながら、それでも口を開こうとしない。見つめられる拓海は落ち着かなくなり、怪訝そうに言った。「……俺を見て、どうするんだ?」智也が唐突に尋ねる。「お前、どうやって――そうした?」拓海は一瞬きょとんとした。だがすぐに意味を察し、可笑しそうに聞き返す。「何だ。恋敵の俺に、コツでも聞く気か?」智也は、拓海の得意げな顔が気に入らない。表情を冷たくして言った。「違う。何となく聞いただけだ」そう言って背を向け、車へ戻ろうとする。だがそのとき、背後から拓海が呼び止めた。「智也」智也の足は、なぜか止まった。体をわずかに横へ向け、鼻にかかった声で答える。「……ん?」拓海は急に真顔になり、智也に言った。「愛するなら、心だ。感情じゃない」その言葉を残すと、智也はそのまま車へ乗り込んだ。そこで拓海は、はっとする。――いまの、もしかして探りを入れられた?そう思った瞬間、拓海は後悔して自分の口を軽く叩いた。そして容赦なく吐き捨てる。「その口……余計なことばっか言いやがって」その小さな仕草を、玲奈は全部見ていた。その様子がおかしくて、思わず笑ってしまう。車が発進しそうになり、拓海は顔を上げて目を向けた。するとちょうど、玲奈が笑っているのが見えた。後部座席に座り、窓は少しだけ開いている。風が髪を乱し、数本の髪が頬にかかって、かすかに肌を叩いていた。その数本が、拓海の胸まで叩いた気がした。智也の車が完全に走り去ってから、拓海は雨の中を歩き、自分の車のそばへ向かった。本当は、玲奈に智也のもとへ戻ってほしくない。だが玲奈が大切にしているのは愛莉だ。玲奈を愛しているからこそ、娘を
智也は愛莉の手を握ったまま立ち上がった。傘を改めて玲奈の頭上へ差しかけると、かすれた声で言った。「もう大丈夫だ」玲奈は彼を見た。愛莉が見つかったというのに、その瞳に宿る恨みは少しも薄れていない。玲奈は何も言わず、ただ黙っていた。そこへ勝も駆けつけた。愛莉が見つかったと知り、勝はようやく息をつく。少し考えてから、勝は智也のもとへ歩み寄った。近づくと、恭しく頭を下げて声をかけた。「新垣社長」智也が愛莉の手を引き、玲奈が大きな傘の下に立つ。玲奈の視線は無意識に拓海を探していた。拓海は一本の木の下に立ち、こちらを見ている。そのまま、二人の視線が不意に空中でぶつかった。拓海は笑みを浮かべ、どこか得意げだった。玲奈はその表情を見て、彼の思惑を察した。――愛莉を見つけたことで、手柄を立てたとでも言いたいのだ。その間、傍らで智也と勝が何か話していたが、玲奈の耳には一言も入ってこなかった。ただ、会話がそろそろ終わりそうだということだけは、なんとなくわかった。玲奈が視線を戻すと、ちょうど智也と目が合った。その瞬間、慌てるはずだと思ったのに、玲奈は不思議なほど落ち着いていた。智也は、玲奈が拓海を見ていたのだろうと察し、拓海のいる方へ一度だけ目を向けた。木の下に立つ拓海に、冷たい風が吹きつける。風にあおられ、トレンチコートの裾がわずかに跳ねた。まるで部外者のようにそこに立ちながら、音も立てずに――自分の妻の心を奪っていく。その事実に、智也の胸がざわついた。以前の玲奈の目には、自分しか映っていなかった。だが今は、もう自分が見えていないように思える。雨脚が強まってきた。勝がたまらず言う。「新垣社長、まずはお嬢さまと奥さまを小燕邸へお連れした方がよろしいかと。雨も強いですし、また風邪を引かれてはいけません」智也もそれが正しいと思い、玲奈に言った。「帰ろう」玲奈は反射的に、智也が差している大きな傘の中から身を引いた。雨の中に立つと、冷たい雨が肩や髪に落ち、じわじわと体を濡らしていく。玲奈は智也を見つめ、声を低くして言った。「あなたは愛莉を連れて帰って。私は行かないわ」智也は腑に落ちない顔で尋ねる。「じゃあ、どこへ行くつもりだ」玲奈は
愛莉がいなくなったと知った瞬間、玲奈の胸にあったのはただ一つの思いだけだった。――すべてを手放してでも、娘の無事と引き換えたい。その愛莉がいま、こうして目の前にいる。張りつめていた胸が、ようやく落ち着いていった。玲奈は汚れなど気にせず、愛莉の頬に自分の頬を寄せ、震える声で言った。「無事でよかった……無事でよかった……」そう言いながら、涙がこぼれる。愛莉は少し胸が痛み、小さな手で玲奈の頬を包んで、顔の涙を拭いた。それを見て、玲奈の心はさらに乱れた。この瞬間、娘が戻ってきたように感じた。愛莉は涙を拭きながら言った。「ママ、泣かないで。かわいくなくなっちゃうよ」玲奈は嗚咽をこらえて頷いた。「うん……泣かない。泣かないわ……」傍らに立つ拓海は、母娘の一部始終を見つめていた。いまの玲奈が痛ましくてならない。雨はまだ止む気配がない。強くはないが、それでも三人を濡らしていく。玲奈も、愛莉も、拓海も、みすぼらしい姿になっていた。玲奈は愛莉をいったん下ろすと、娘の前にしゃがみ込み、腕を取って左右を確かめた。そして不安そうに尋ねる。「ママが見るね。どこかケガしてない?」愛莉は素直に体を回し、玲奈に確かめさせた。見ていくと、体には擦り傷と打ち身があった。それから足首のあたりが、何かに噛まれたようになっていた。玲奈がうつむいて確かめようとした、そのとき、愛莉が玲奈に抱きついた。そしてしゃくり上げながら言った。「ママ……ねずみに噛まれたの」その言葉に、玲奈の胸はきゅっと痛んだ。愛莉は智也の娘で、幼いころから玲奈の愛情の中で育ってきた。ねずみなど、目にしたこともないはずだ。それなのに、噛まれる日が来るなんて。そう思うほど、玲奈の罪悪感は深まっていった。そこへ、智也の車が路肩に止まった。彼は大きな傘を開いてから車を降り、雨に濡れている玲奈と愛莉を見るなり、早足で駆け寄ってくる。傘を二人の頭上へ差しかけると、智也の視線が、ふと横の拓海へ向いた。――なぜここにいる?玲奈が呼んだのか。それとも、愛莉を連れ出したのは……考えが次々に浮かぶ。だが拓海も同じ界隈の人間だ。愛莉を狙ってまで玲奈に何かするほど、そんな暇はないだろう。そう整理し
拓海は余計なことを言う余裕もなく、開口一番こう告げた。「愛莉を見つけた。位置情報を送る」そう言うとすぐ、拓海は玲奈に現在地の共有を送った。愛莉は全身が泥だらけで、鼻をつくほどの悪臭まで漂っていた。それでも拓海は一切顔をしかめない。抱きかかえたまま、ひたすら優しくあやし続ける。「もう大丈夫。大丈夫だ......」この時点でも、愛莉は自分を抱いているのが拓海だとは気づいていなかった。拓海の肩にしがみついたまま、懇願するように言う。「おじさん......愛莉、ララちゃんのところに行きたい。病院にいるの。連れてってくれる......?」愛莉は顔を拓海の首元に埋めた。今の自分はあまりにも汚い。こんな姿を人に見られたくなかった。生まれてからずっと、愛されて育ってきた。ここまでみじめで、狼狽えたことは一度もない。その言葉を聞いた瞬間、拓海の胸がきつく締めつけられる。部外者の自分でさえ耐えがたいのだ。母親の玲奈は、どれほどの思いでいるだろう。拓海は愛莉が顔を埋めたままでも構わず、突き放しもしない。責めもしない。ただ、慎重に問い返した。「ママじゃだめか?君を探して、玲奈は......気が狂いそうになってた」愛莉は答えなかった。マンホールに落ちていた数時間――最初の一時間は、愛莉は確信していた。自分が戻らないと気づけば、沙羅がきっと探しに来るはずだ、と。でも、来なかった。探したのかもしれない。けれど愛莉には分からない。時間が経つほど、失望がじわじわと覆いかぶさった。そのとき愛莉の脳裏に浮かんだのは玲奈だった。もしママがいたら、ひとりで外に出さなかった。だから拓海の言葉に、愛莉は反論できなかった。愛莉が言い返さないのを見て、拓海はわざと怖い声を作った。「じゃあ、ママにもっと優しくしろ。しないなら、また下に落とすぞ」そう言いながら、拓海は愛莉をマンホールへ近づけるふりをした。「いやあああ!」愛莉は悲鳴を上げ、拓海の首にさらにしがみつく。そこへ、雨の中を必死に走ってきた玲奈がその光景を見て、声を張り上げた。「須賀君!何してるの!」拓海は愛莉を本当に落とすつもりなどなかった。玲奈が来たのを見て、ようやく顔を上
拓海の言葉は、智也の言葉よりもずっと安心できた。どうしてなのか、玲奈自身うまく説明できない。けれど拓海が言うと、不思議な力でもあるみたいに、胸のざわめきがすっと静まっていく。しばらく黙ってから、玲奈は受話口に小さく答えた。「......うん」その「うん」を拓海が聞き取れたかどうか、玲奈には分からない。確かめる余裕もなく、玲奈はそのまま通話を切った。一方その頃、拓海は玲奈の部屋にいた。シャワーも浴びて、もう一時間近く待っていたのに、玲奈は戻ってこない。そこへ愛莉がいなくなったという話だ。胸が一気に冷えた。玲奈が心配で、取り乱して危ないことをしないか――それが怖かった。そう思うやいなや、拓海は迷わず窓から出た。道中、拓海は知り合いに次々連絡し、手分けして愛莉を探させた。病院の駐車場は満車で中に入れない。仕方なく車を路肩に止める。夜は更け、外の通りにはほとんど人影がない。なのに病院の周りだけは、人でごった返していた。車を降りた、そのとき――かすかに、消え入りそうな声が耳に届いた。「......たすけて。たすけて......」一瞬、聞き間違いかと思った。早く周辺を探さなきゃ――そう考えた直後、もう一度、声がした。「たすけて......」今度は幻聴じゃない。拓海は低い声で呼びかけた。「......愛莉か?」「......う、うん......愛莉」泣き混じりの声だった。拓海は周囲を見回したが、どこから聞こえるのか判然としない。だから問い返す。「どこだ?」愛莉は嗚咽をこらえながら答えた。「した......したにいる。おじさん、たすけて。ねずみが、あしをかじって......こわい......」声はすでに枯れ切っていた。落ちてから何時間も、愛莉はずっと助けを求め続けていた。昼間は街が騒がしく、誰にも届かなかったのだ。やっと気づいてもらえた――その事実にすがるように、愛莉は必死で声を絞った。下――その言葉で、拓海は周囲を改めて観察する。すると少し先に、マンホールの蓋が見えた。......ここか拓海は駆け寄り、蓋を叩いて確かめた。「愛莉、中にいるのか?」「いる......!ここ!ここにいる!」
振り返ると、心晴が木の下に立っていた。「まだ帰ってなかったの?」「あなたを待っていたの」心晴はそう答える。玲奈は彼女のもとへ歩み寄り、淡々とした口調で問いかける。「言いたいことがあるなら、はっきり言って」心晴は玲奈の冷たい態度を感じながらも、言葉を続ける。「さっき和真に聞いたの。あなた、彼が女の子と連絡先を交換しているところを見たんでしょう?でも玲奈、ただ交換しただけよ。それで何かが起こるってわけじゃない。なのに、あんな場面で彼に手を上げようとしたら......彼も男だもの、面子があるし、あなたは――」玲奈はその含みを悟り、素早く反論する。「つまり、私が間違
智也は、それ以上その話題を続けたくはなかった。ただ尋ねる。「......何が食べたい?」沙羅は首を振る。「なんでもいいわ」「そうか」智也は薫に沙羅の好物である焼き牡蠣を注文させた。けれど、沙羅の興味は食べ物に向いていない。彼女は椅子を引き寄せて智也の肩に身を預け、問いかける。「智也、怒ってるの?」智也は視線を向け、端正な顔に柔らかな笑みを浮かべる。「そんなことない」玲奈の言葉に少し苛立つ。だが、腹を立てるほどのことではなかった。ただ耳障りなだけだ。その答えに沙羅はほっとしたように、彼の腕に頬を寄せる。「なら、よかった」薫が注文
ワインを一口飲むと、玲奈の目から涙がこぼれ落ちた。鼓動が早い胸を押さえ、不安と混乱でいっぱいになる。そのとき、電話の着信音が鳴った。画面を見ると、表示されたのは兄の秋良の名前だった。まだ時間は早い。時刻は夜の十一時を少し過ぎたころだ。兄に気づかれまいと、玲奈は慌てて涙を拭い、気持ちを整えてから電話に出た。「兄さん」できるだけ平静を装ったつもりだったが、声にはかすかに不自然さが滲んでしまう。秋良はそれを指摘することなく、静かに言った。「もうこんな時間なのに、どうしてまだ帰ってこない?陽葵がずっと君を呼んでいるぞ」その言葉に、玲奈の胸がまた痛んだ。自
涼真は新垣家の末っ子であり、一番寵愛を受けて育ったため、性格もどうしてもわがままで横柄になりがちだった。そのせいで遠慮というものがなく、家の中で彼が恐れる相手は兄の智也ただ一人だ。だから清花に蹴られてもまるで気に留めず、顔を見ようともしなかった。おじいさんは孫の態度に眉をひそめ、杖で床を突きながら言い放った。「涼真、台所へ行って料理を運んできなさい」涼真はすぐさま言い返した。「じいちゃん、俺は召使いじゃないよ。義姉さんに運ばせればいいじゃん」「君の義姉も召使いではない!」おじいさんは声を荒げた。その剣幕に、さすがの涼真もようやく姿勢を正した。涼真は祖父が