ログイン智也は玲奈を見つめた。離婚の意思が揺らがないと分かった瞬間、胸の奥を鋭いもので突かれたようだった。しばらく黙ったあと、智也が口を開く。「離婚が成立するまでに、俺の条件を一つ飲め。そうしたら......きれいに別れてやる」その言い方が妙に改まっていて、玲奈は反射的に昨夜の「もう一度」の話を思い出した。胸の奥が冷える。それでも玲奈は、落ち着いた声で訊いた。「条件って?」煙草はまだ燃え尽きていなかった。玲奈の目が煙で赤くなっているのを見ると、智也は迷いなく煙草を地面に捨て、靴底で二度、強く踏み潰した。そして玲奈の前まで歩み寄り、低く言う。「最後の一週間、昔みたいに暮らすんだ」玲奈は反射的に断ろうとした。だが智也が続けて言葉を重ねる。「この数日だけは、前みたいな扱いはしない。普通の夫婦みたいに、夫としてやるべきことをちゃんとやる。期限が来て、それでもお前の気持ちが変わらないなら......そのときは本当に離婚する」玲奈は乾いた笑いを浮かべ、智也を見上げた。「......何を根拠に信じろっていうの?」智也は淡々と言い返す。「ここまで手続きが進んでる。何が不安なんだ」玲奈は言葉を飲み込んだ。すると智也は、さらに釘を刺すように言う。「ただし、よく考えろ。ここまで来ても、片方が嫌だって言えば、離婚は成立しない」笑っているのに、脅しが滲んでいた。玲奈は顔色を失いながら、それでも問い返す。「そこまでして......私たち、こんなにみっともなくならなきゃいけないの?」智也は視線を逸らし、目を閉じてから、硬い声で言った。「言っただろ。最後の条件を飲めば、きれいに終わらせる」玲奈は彼を見つめた。憎しみが、また一段深く沈んでいく。ここまで壊れているのに、なぜ今さら、理屈の通らないことに執着するのか。――けれど相手は智也だ。やると言ったら、やる男だ。玲奈は苦い笑みを落としてから、静かに言った。「口約束じゃ信用できないわ。......書面を作りましょう。誓約書、交わして」智也は即答した。「いいだろう」その迷いのなさが、玲奈には余計に滑稽だった。智也は続ける。「じゃあ今日から、お前は常に俺のそばにいろ。小燕邸に戻っ
大型犬の姿が完全に見えなくなってから、玲奈はようやく張り詰めていた体の力を抜いた。ゆっくり背筋を伸ばし、振り返って智也と愛莉を見る。すると智也が、どこか嬉しそうに笑って玲奈を見ていた。その笑みの意味に、玲奈は遅れて気づく。――今の玲奈の行動から「まだ俺たちのことが好きなんだ」とでも言いたいのだろう。けれど、そんなふうに思いかけた瞬間、智也は軽く笑って言った。「ほらな。お前、結局まだ俺たちのこと気にしてるじゃないか」玲奈は何食わぬ顔でバッグを肩に掛け直し、智也をまっすぐ見た。「さっきの状況なら、相手が誰でも助けてたわよ」だが智也は引かない。断言するように言った。「でも、咄嗟の行動は誤魔化せない。お前は俺のことも、愛莉のことも、まだ気にしてる」玲奈は思わず笑ってしまった。昔の自分は、どうして彼がこんなに自意識過剰な男だと気づかなかったのだろう。この話で揉める気はない。玲奈はさらりと話題を切り替える。「早く行かないと、沙羅の足、本当にまずいんじゃない?」その言葉に、智也が慌てるより先に、愛莉が顔を上げて不安そうに言った。「パパ、早くララちゃんのところ行こう」智也は愛莉の小さな手を、軽くくすぐるように撫でて笑った。「分かった。行こう」そう言って、智也は愛莉を抱いたまま車のほうへ歩き出す。その背中に向かって、玲奈がふいに声をかけた。「智也。あなたたちは行って。私は......行かないわ」本音だった。もう、あそこへ行きたくない。智也の足が止まり、振り返る。声を低くして言った。「でも、お前さっき一緒に行くって言ったよな」玲奈は二、三メートルほど距離を保ったまま、淡々と返す。「私が行ったら、あなたと沙羅の邪魔になるだけ。デートの邪魔はしたくない」智也は眉を寄せ、すぐに否定した。「デートじゃない。行って、無事か確認したらすぐ帰る」それでも玲奈は譲らない。「でも私は帰りたいの。嫌なことを無理にさせないで」その瞬間、智也の黒い瞳に陰が落ちた。春日部家に、あの男がまだいる――そう思い出したのだろう。掠れた声で、智也が刺すように訊く。「......本当に帰りたいだけか?」玲奈は頷く。「うん」智也は腕の中の愛
玲奈は直子を見て、短く説明した。「ちょっと出てくるね。すぐ戻るから」智也がいる前では言いづらいことがあるのだろう。直子は言葉にせず、視線で玲奈に合図を送った。玲奈はそれを察し、小さく頷く。「うん。すぐ戻るわ」それでも直子は心配そうで、手にしていたスマホを軽く振ってみせた。「電話、忘れないでね」「分かった」智也は直子の言葉を深読みしなかった。ただ、出際にふと思い立ったように口を開く。「義母さん、今日は時間がなくてすみません。今度ちゃんと顔を出しに来ますね。その時は、ゆっくりしましょう」そう言うと、智也はポケットから一枚のキャッシュカードを取り出し、直子の手に差し出した。「これ、ほんの気持ちです。受け取ってください」直子は戸惑い、反射的に玲奈を見た。玲奈は迷わず頷き、受け取るよう目で促した。今のこの局面で、智也から出るものを「いらない」と突っぱねる理由はない。玲奈が受け取らなければ、結局それは沙羅に回るだけだ。結婚して五年。離婚が目前なら――せめて、得るべきものは得ておく。そんな思いが、玲奈の胸の底に静かに沈んでいた。直子がカードを受け取ると、智也はようやく安堵したように息をついた。玲奈がどう思っていようと、少なくとも直子は自分の差し出したものを拒まなかった。それで少し、心が落ち着いたのだろう。最後に智也は愛莉を自分の前へ呼び寄せ、目線を落として言った。「愛莉、もう行くぞ。おばあちゃんにさようなら言って」愛莉は気乗りしない顔のまま、力のない声で言う。「......おばあちゃん、さようなら」どこか投げやりで、感情も薄い。それを聞いた玲奈は、智也に淡々と言った。「愛莉が嫌なら、無理に言わせなくていいわ」智也は怒らず、代わりに愛莉がふん、と鼻を鳴らした。「ふんっ」それだけ吐き捨てると、愛莉はさっさと春日部家の玄関を出ていった。智也は慌てて直子に向き直る。「義母さん、体にお気をつけて。今日はこれで。次は、またみんなで集まりましょう」直子は形だけ返事をした。「......うん」声は硬く、気持ちが乗っていないのが分かる。それは愛莉と同じで、どこか仕方なくの響きだった。智也の「次は」という言葉が
愛莉の言葉を聞き、そしてあれほど心配そうな顔を見て、智也は一瞬考え込んだ末、先に沙羅の様子を見に行くことに決めた。声を落として愛莉に言う。「分かった。今すぐ行こう」愛莉はこくりと頷く。「うん」そうして愛莉は、少し離れたところにいる玲奈へ視線を移した。その隣には拓海が立っている。二人の距離感は、ただの友達とは違う。愛莉にはその違いがうまく説明できない。けれど胸の奥がちくりとして、言いようのない不安が湧いた。――もし、ママにこの先ほかの子ができたら......そこまで考えかけて、愛莉は慌てて思考を止めた。怖くて、続きを想像できなかったのだ。かつて何より自分を優先してくれたあの頃のママは、もういない。その事実が、幼い胸に重くのしかかっていた。智也は考えを固めると、玲奈へ向き直った。「お前も一緒に来い」すると拓海が眉を寄せ、乾いた笑いを漏らす。「お前は愛する人に会いに行くんだろ?なら俺だって俺の愛する人のところに行く。そういう理屈じゃないのか?」智也は答えず、玲奈だけを見据えた。しばらく間を置いて、低く問いかける。「来るのか、来ないのか。どっちだ」拓海の中で、何かが弾けた。苛立ちを隠さず二歩で玲奈の前へ出て、智也に言い放つ。「消えるならさっさと消えろ。俺の愛する人を巻き込むな」だが智也は拓海を相手にしない。その無視が、拓海の怒りをさらに宙ぶらりんにした。そのとき、背後の玲奈がそっと拓海の背中をつついた。拓海が振り返り、声を潜めて訊く。「......まさか。あいつと一緒に行って、あいつの大事な女に会う気か?」玲奈は拓海を見上げ、淡々と答えた。「うん」拓海は反射的に拳を握った。けれど、すぐに奥歯を噛んでその怒りを飲み込む。玲奈は拓海の脇をすり抜け、智也の前に立った。そして短く言う。「行こう。私も一緒に行くわ」理由はひとつ。残りわずかな最後の数日をやり過ごすためだ。正式に離婚届が受理されれば、もう智也の顔色なんて見なくていい。だが今は違う。もし彼が機嫌を損ねて、土壇場で取り下げでもしたら――もうこれ以上待つなんて嫌だ。これ以上、彼と絡み続けるのは耐えられない。だから、ここは耐える
智也に腕を掴まれたまま、玲奈は力を抜いた。けれど、さっきの「人の心はあるのか」という言葉が胸に刺さって、思わず可笑しくなってしまう。玲奈はふっと笑い、首を横に振った。傷ついた目のまま、静かに言う。「あるわよ。だけど、智也......私の心は傷だらけなの」智也は玲奈を自分のほうへ引き寄せ、腰に腕を回した。そして、さらに追い打ちをかけるように問う。「昔みたいに、もう一度だけ頭を下げられないのか?」玲奈は相手にする気も起きない。手で押し返しながら言った。「智也、放して。休みたいの」しかし智也は離さない。むしろ抱き込もうとする気配さえあった。そのとき――玲奈の寝室のドアが、内側から唐突に開いた。音に反射して振り返った玲奈は、拓海の姿を見た瞬間、全身の血がすっと冷えるのを感じた。陽葵を送って戻ってきたのに、どうしてまだここにいるの――拓海はドアを開けて出てくると、止めに入るでもなく、気だるげにドア枠にもたれた。腕を組み、眉を上げて智也を見下ろす。一言も発しないのに、表情だけで嘲りが溢れている。智也も、拓海の姿を認めた途端に硬直した。寝室にいるだけでも十分なのに、拓海は薄いグレーのシルクのパジャマ姿だった。ボタンは二つ外れ、鍛えた胸元があらわになっている。髪は乱れ、眠たげな目つきで、まるで今まで寝ていたかのようだ。――偶然ここに来たわけではない。その事実を、ありありと見せつける格好だった。智也の声が低く沈む。「......なぜ、ここにいる?」拓海は眉をひょいと上げ、当然だろうと言わんばかりに返す。「ここ、俺の家だけど?いるのに理由が必要なのか?」智也はその含みを聞き取り、とうとう堪えきれなくなった。怒りに任せて玲奈へ向き直り、吐き捨てる。「玲奈、まだ離婚もしてないのに、もう男を家に上げるのか?そんなに急いで、別の男を家に入れたいのか!」玲奈は眉を寄せ、必死に言い訳をしようとする。「智也、違う。私、そんな......彼は――」最後まで言い切る前に、拓海が体を起こし、冷えた顔で智也へ向けて言った。「彼女が俺を家に入れたんじゃない。俺が自分で入ったんだ。お前が大事にしないなら、代わりに大事にしたい奴なんて山ほどいる。
陽葵を幼稚園へ送って着いたのは、ちょうど八時二十八分だった。遅いわけではないのに、陽葵は不安でたまらない様子で、門をくぐると小走りになる。遅刻したくないのだ。その背中を見て、玲奈はふっと口元を緩めた。道すがら、同じ年頃の女の子たちが陽葵と一緒に走っていく。みんな彼女の周りに集まっていて、好かれているのが一目で分かった。それに比べて愛莉は、こんなふうに友だちに囲まれているところを、玲奈は見たことがない。愛莉の傍若無人な振る舞いを思い出し、学校でも嫌われているのでは――そんな考えがよぎる。陽葵が教室へ入ったのを見届けると、玲奈は踵を返し、道端でタクシーを拾った。タクシーで春日部家へ戻る途中、玲奈は智也と愛莉はもう帰っているだろうと思っていた。ところが玄関を抜けてリビングに入った瞬間、ソファに座ったままの二人が視界に入る。玲奈が戻ってきたのを見ると、智也は軽く顔を向け、わずかに頷いて挨拶を済ませた。玲奈は腑に落ちず、近づいて問いかける。「......まだいたの?どうして帰らないの」智也は玲奈を見上げ、淡々と答える。「お前を待ってた」幼稚園から戻ってきた今、もう九時近い。その言葉に玲奈は一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに冷たく言い返した。「勝手にすれば。言うことはもう伝えたわよ」そう言い捨てて、玲奈は二階へ上がろうとした。ソファでは愛莉が毛布をかけられ、眠っている。玲奈が去ろうとすると、智也が慌てて声を投げた。「愛莉、また熱が上がった」その一言に、玲奈の足が一瞬止まる。けれどすぐに息を整え、心を硬くして言った。「智也、熱が出たなら病院に連れて行って。私が医者でも、ここには設備がない。私にできることは限られてるわ。本当にこの子のためを思うなら、今すぐ病院へ」智也はズボンの縫い目のあたりで指をきゅっと握り込んだ。何も言わない。玲奈もそれ以上は言わず、二階へ上がった。――が、二階に着くなり、智也が素早く追ってくる。玲奈が部屋へ入ろうとした、その手前で、智也が彼女の手を掴んだ。玲奈は立ち止まった。振りほどかない。怒鳴りもしない。彼を不用意に刺激する余裕はない。短い沈黙ののち、智也の低い声が落ちる。「......どうであれ
智也が帰るので、校長は立ち上がって見送った。玲奈は動かず、ただ黙々と箸を動かしていた。食事会が終わると、それぞれ帰路に着いた。玲奈と一颯の二人は学校のほうへ戻るので、二人一緒に帰った。田舎の空気は澄んでいて、夜空の月と星の光が瞬き、地上にゆらゆらと二人の影を作りだした。ちょうど10月でキンモクセイが咲き、そこらじゅう芳しい香りがしていた。玲奈はあまりたくさんしゃべらないので、帰り道はとても静かだった。暫く歩き続け、一颯のほうがその静けさに耐えられなくなり、話題を振ろうと彼女に尋ねた。「春日部さんはどこの大学だったんですか?」「久我山医科大学です」「私のある仲
玲奈は車を春日部家の前に止めず、住宅地の駐車場に止めた。最後の数百メートルを、せめて娘と二人きりで歩きたいという考えがあったのだ。たとえしゃべらなくても、彼女の願いを叶えられる。今日が終わったら、次に二人で並んで歩くのはいつのことか分からないのだ。もしかしたら、この先の一生、こんな風に一緒に歩くことはないだろう。そう考えると、玲奈の目には自然と涙が浮かんできた。普段は遠く感じる道なのに、今夜はなぜかあっという間に終わってしまった。そして10分もかからず、すでに家に着いてしまった。春日部家の玄関の前に、何人が立って待っていた。玲奈は視線を向けると、直子、綾乃と健一
愛莉がリビングで鬱憤を全部カードにぶちまけた時、ちょうど智也が邦夫じいさんの部屋からでてきた。床に散らばったカードを見て、周囲を見回したが、玲奈の姿は見当たらなかった。彼は訝しげに隣の愛莉に聞いた。「ママは?」愛莉はプンプンと怒りながら階段の方へ視線を向けた。「上に行ったよ」それを聞くと、智也は一瞬きょとんとした。娘を命よりも大切にしていた女が、今はまるで娘を全く気にかけていないようだった。数秒沈黙してから、智也は愛莉の手を取り言った。「行こう、もう寝る準備だ」愛莉は足を止めて、嫌そうに言った。「パパ、ママと一緒に寝たくない」智也は振り向き、無表情で彼女を見つめ
使用人が慌ててベッドに駆け寄り、優しく声をかけた。「お嬢様、どうなさいましたか」愛莉は来たのが使用人だと分かると、さらにわんわん泣き続けた。「パパに会いたい、パパがいいの……」シーツを叩く手にさらに力を入れ、足をバタバタさせながら激しく不満を示した。使用人は彼女を抱き上げようとした。「お嬢様、お父様は仕事に行かれましたよ。お母様が幼稚園まで送ってくださるそうですから、私が先にお支度を手伝いましょうか」愛莉は使用人の手にまだ油のような汚れがついているのを見て、全く嫌悪を隠さず、彼女を押し退けた。「触らないで!汚い手をどけて」使用人は手を引き、小さい声でなだめた。「では、お