LOGIN智也は愛莉の手を握ったまま立ち上がった。傘を改めて玲奈の頭上へ差しかけると、かすれた声で言った。「もう大丈夫だ」玲奈は彼を見た。愛莉が見つかったというのに、その瞳に宿る恨みは少しも薄れていない。玲奈は何も言わず、ただ黙っていた。そこへ勝も駆けつけた。愛莉が見つかったと知り、勝はようやく息をつく。少し考えてから、勝は智也のもとへ歩み寄った。近づくと、恭しく頭を下げて声をかけた。「新垣社長」智也が愛莉の手を引き、玲奈が大きな傘の下に立つ。玲奈の視線は無意識に拓海を探していた。拓海は一本の木の下に立ち、こちらを見ている。そのまま、二人の視線が不意に空中でぶつかった。拓海は笑みを浮かべ、どこか得意げだった。玲奈はその表情を見て、彼の思惑を察した。――愛莉を見つけたことで、手柄を立てたとでも言いたいのだ。その間、傍らで智也と勝が何か話していたが、玲奈の耳には一言も入ってこなかった。ただ、会話がそろそろ終わりそうだということだけは、なんとなくわかった。玲奈が視線を戻すと、ちょうど智也と目が合った。その瞬間、慌てるはずだと思ったのに、玲奈は不思議なほど落ち着いていた。智也は、玲奈が拓海を見ていたのだろうと察し、拓海のいる方へ一度だけ目を向けた。木の下に立つ拓海に、冷たい風が吹きつける。風にあおられ、トレンチコートの裾がわずかに跳ねた。まるで部外者のようにそこに立ちながら、音も立てずに――自分の妻の心を奪っていく。その事実に、智也の胸がざわついた。以前の玲奈の目には、自分しか映っていなかった。だが今は、もう自分が見えていないように思える。雨脚が強まってきた。勝がたまらず言う。「新垣社長、まずはお嬢さまと奥さまを小燕邸へお連れした方がよろしいかと。雨も強いですし、また風邪を引かれてはいけません」智也もそれが正しいと思い、玲奈に言った。「帰ろう」玲奈は反射的に、智也が差している大きな傘の中から身を引いた。雨の中に立つと、冷たい雨が肩や髪に落ち、じわじわと体を濡らしていく。玲奈は智也を見つめ、声を低くして言った。「あなたは愛莉を連れて帰って。私は行かないわ」智也は腑に落ちない顔で尋ねる。「じゃあ、どこへ行くつもりだ」玲奈は
愛莉がいなくなったと知った瞬間、玲奈の胸にあったのはただ一つの思いだけだった。――すべてを手放してでも、娘の無事と引き換えたい。その愛莉がいま、こうして目の前にいる。張りつめていた胸が、ようやく落ち着いていった。玲奈は汚れなど気にせず、愛莉の頬に自分の頬を寄せ、震える声で言った。「無事でよかった……無事でよかった……」そう言いながら、涙がこぼれる。愛莉は少し胸が痛み、小さな手で玲奈の頬を包んで、顔の涙を拭いた。それを見て、玲奈の心はさらに乱れた。この瞬間、娘が戻ってきたように感じた。愛莉は涙を拭きながら言った。「ママ、泣かないで。かわいくなくなっちゃうよ」玲奈は嗚咽をこらえて頷いた。「うん……泣かない。泣かないわ……」傍らに立つ拓海は、母娘の一部始終を見つめていた。いまの玲奈が痛ましくてならない。雨はまだ止む気配がない。強くはないが、それでも三人を濡らしていく。玲奈も、愛莉も、拓海も、みすぼらしい姿になっていた。玲奈は愛莉をいったん下ろすと、娘の前にしゃがみ込み、腕を取って左右を確かめた。そして不安そうに尋ねる。「ママが見るね。どこかケガしてない?」愛莉は素直に体を回し、玲奈に確かめさせた。見ていくと、体には擦り傷と打ち身があった。それから足首のあたりが、何かに噛まれたようになっていた。玲奈がうつむいて確かめようとした、そのとき、愛莉が玲奈に抱きついた。そしてしゃくり上げながら言った。「ママ……ねずみに噛まれたの」その言葉に、玲奈の胸はきゅっと痛んだ。愛莉は智也の娘で、幼いころから玲奈の愛情の中で育ってきた。ねずみなど、目にしたこともないはずだ。それなのに、噛まれる日が来るなんて。そう思うほど、玲奈の罪悪感は深まっていった。そこへ、智也の車が路肩に止まった。彼は大きな傘を開いてから車を降り、雨に濡れている玲奈と愛莉を見るなり、早足で駆け寄ってくる。傘を二人の頭上へ差しかけると、智也の視線が、ふと横の拓海へ向いた。――なぜここにいる?玲奈が呼んだのか。それとも、愛莉を連れ出したのは……考えが次々に浮かぶ。だが拓海も同じ界隈の人間だ。愛莉を狙ってまで玲奈に何かするほど、そんな暇はないだろう。そう整理し
拓海は余計なことを言う余裕もなく、開口一番こう告げた。「愛莉を見つけた。位置情報を送る」そう言うとすぐ、拓海は玲奈に現在地の共有を送った。愛莉は全身が泥だらけで、鼻をつくほどの悪臭まで漂っていた。それでも拓海は一切顔をしかめない。抱きかかえたまま、ひたすら優しくあやし続ける。「もう大丈夫。大丈夫だ......」この時点でも、愛莉は自分を抱いているのが拓海だとは気づいていなかった。拓海の肩にしがみついたまま、懇願するように言う。「おじさん......愛莉、ララちゃんのところに行きたい。病院にいるの。連れてってくれる......?」愛莉は顔を拓海の首元に埋めた。今の自分はあまりにも汚い。こんな姿を人に見られたくなかった。生まれてからずっと、愛されて育ってきた。ここまでみじめで、狼狽えたことは一度もない。その言葉を聞いた瞬間、拓海の胸がきつく締めつけられる。部外者の自分でさえ耐えがたいのだ。母親の玲奈は、どれほどの思いでいるだろう。拓海は愛莉が顔を埋めたままでも構わず、突き放しもしない。責めもしない。ただ、慎重に問い返した。「ママじゃだめか?君を探して、玲奈は......気が狂いそうになってた」愛莉は答えなかった。マンホールに落ちていた数時間――最初の一時間は、愛莉は確信していた。自分が戻らないと気づけば、沙羅がきっと探しに来るはずだ、と。でも、来なかった。探したのかもしれない。けれど愛莉には分からない。時間が経つほど、失望がじわじわと覆いかぶさった。そのとき愛莉の脳裏に浮かんだのは玲奈だった。もしママがいたら、ひとりで外に出さなかった。だから拓海の言葉に、愛莉は反論できなかった。愛莉が言い返さないのを見て、拓海はわざと怖い声を作った。「じゃあ、ママにもっと優しくしろ。しないなら、また下に落とすぞ」そう言いながら、拓海は愛莉をマンホールへ近づけるふりをした。「いやあああ!」愛莉は悲鳴を上げ、拓海の首にさらにしがみつく。そこへ、雨の中を必死に走ってきた玲奈がその光景を見て、声を張り上げた。「須賀君!何してるの!」拓海は愛莉を本当に落とすつもりなどなかった。玲奈が来たのを見て、ようやく顔を上
拓海の言葉は、智也の言葉よりもずっと安心できた。どうしてなのか、玲奈自身うまく説明できない。けれど拓海が言うと、不思議な力でもあるみたいに、胸のざわめきがすっと静まっていく。しばらく黙ってから、玲奈は受話口に小さく答えた。「......うん」その「うん」を拓海が聞き取れたかどうか、玲奈には分からない。確かめる余裕もなく、玲奈はそのまま通話を切った。一方その頃、拓海は玲奈の部屋にいた。シャワーも浴びて、もう一時間近く待っていたのに、玲奈は戻ってこない。そこへ愛莉がいなくなったという話だ。胸が一気に冷えた。玲奈が心配で、取り乱して危ないことをしないか――それが怖かった。そう思うやいなや、拓海は迷わず窓から出た。道中、拓海は知り合いに次々連絡し、手分けして愛莉を探させた。病院の駐車場は満車で中に入れない。仕方なく車を路肩に止める。夜は更け、外の通りにはほとんど人影がない。なのに病院の周りだけは、人でごった返していた。車を降りた、そのとき――かすかに、消え入りそうな声が耳に届いた。「......たすけて。たすけて......」一瞬、聞き間違いかと思った。早く周辺を探さなきゃ――そう考えた直後、もう一度、声がした。「たすけて......」今度は幻聴じゃない。拓海は低い声で呼びかけた。「......愛莉か?」「......う、うん......愛莉」泣き混じりの声だった。拓海は周囲を見回したが、どこから聞こえるのか判然としない。だから問い返す。「どこだ?」愛莉は嗚咽をこらえながら答えた。「した......したにいる。おじさん、たすけて。ねずみが、あしをかじって......こわい......」声はすでに枯れ切っていた。落ちてから何時間も、愛莉はずっと助けを求め続けていた。昼間は街が騒がしく、誰にも届かなかったのだ。やっと気づいてもらえた――その事実にすがるように、愛莉は必死で声を絞った。下――その言葉で、拓海は周囲を改めて観察する。すると少し先に、マンホールの蓋が見えた。......ここか拓海は駆け寄り、蓋を叩いて確かめた。「愛莉、中にいるのか?」「いる......!ここ!ここにいる!」
そう言い終えると、智也は玲奈が不安にならないようにと、さらに誓いまで立てた。「約束する。今日、愛莉を連れ戻せなかったら――俺はお前の目の前で自分でけじめをつける」けれど、その言葉で玲奈の心が軽くなることはなかった。玲奈は冷ややかに笑うだけで、淡々と言う。「要らない。私たちはそれぞれで探す。それでいいわ」そう言い捨てると、玲奈は智也の腕の中から一歩退いた。智也はまた抱き留めようとして前へ出かけたが、玲奈が激しく拒んだ。「来ないで。お願い......本当に、もう近づかないで」そのお願いに智也は目を細め、伸ばしかけた手を引っ込めた。そして小さく宥める。「分かった。行かない。行かないから」玲奈の服は雨でぐっしょり濡れていた。けれど寒さなんて感じていない。胸を占めるのは、愛莉が見つからない恐怖だけだった。智也がようやく近づいてこなくなったのを確認すると、玲奈は踵を返して歩き出した。智也も追いかけようとした、そのとき。携帯が鳴った。勝からだ。病室を出た直後、智也は愛莉捜索を指示していた。だからこの電話は「見つかった」という報告だと思い、すぐに出た。だが受話口から聞こえたのは、沈んだ声だった。「新垣社長......まだ、娘さんは見つかっていません」智也は一気に顔色を変え、怒鳴りつける。「何やってんだ!子ども一人見つけられないで、何ができるんだよ!」どれだけ冷静になろうとしても、見つからないの一言で胸が嫌な音を立てた。――まさか、本当に何かあったんじゃないか。その考えがよぎった瞬間、胸の奥が重く、痛んだ。一方、玲奈は病院を飛び出し、雨に濡れるのも構わず愛莉を探し回った。数分もしないうちに、今度は玲奈のスマホが鳴った。智也からの連絡だと思った。「愛莉を見つけた」――そう告げる電話だと。けれど表示された名前は、拓海だった。玲奈は出なかった。だが拓海は何度もかけてくる。しつこいほどに。ついに玲奈は堪えきれず、通話に出た。怒る暇もないまま、相手の苛立った声が飛んでくる。「玲奈、何してんだよ?なんで出ない?調子に乗ってんのか?」矢継ぎ早の詰問に、玲奈の気分も最悪になった。数秒黙ったあと、玲奈は疲れ切った声で
玲奈が入院病棟を出て、外来棟のほうへ回ったとき、外はもう雨が降り始めていた。大粒ではないが、降り出しが急で、あっという間に地面が濡れていく。玲奈はまず院内を駆け回って愛莉を探した。けれどどこにもいない。それでも諦めきれず、今度は外へ出ることにした。雨が降っているのに、考える暇すらない。玲奈はそのまま雨の中へ飛び込んだ。雨に打たれ、顔を伝うものが涙なのか雨水なのか、自分でも分からない。目を真っ赤にして、玲奈は愛莉の名前を叫び続けた。返事がなくても、何度でも、何度でも。焦りが限界を超え、通報のことすら頭から抜け落ちていた。愛莉の痕跡を見逃すのが怖くて、草むらさえ避けられない。花壇の縁をかき分け、手が泥で汚れても構わず探し続けた。そのころ智也が入院病棟から出てくると、目に入ったのは、花壇を必死に掘り返す玲奈の姿だった。同時に、途切れ途切れの小さな呟きも耳に届く。「愛莉......もうママを困らせないで......早く出てきて。見つからないと、ママ......気が狂いそう......」声は明らかに嗚咽を含んでいた。智也は胸がちくりと痛み、見ていられなくなって雨の中へ駆け込んだ。玲奈の手首を掴む。「玲奈、愛莉はここにはいない」雨で視界が滲む。智也は目を細め、玲奈の横顔を見つめた。玲奈は振り向いて智也を睨みつけた。恨みと怒りが、そのまま顔に出ている。だが玲奈が言葉を吐き出す前に、智也が掠れた声で言った。「こうしてないで、通報しよう」その瞬間、玲奈は一度まばたきをし、堰を切ったように涙をこぼした。声を張り上げ、智也に怒鳴りつける。「じゃあ、あなたがすればいいでしょ!なんで私に言うの!」智也は一歩近づき、玲奈をそっと抱き寄せた。頭を低く落として囁く。「落ち着いて。きっと大丈夫だ」「きっと?」その言葉を聞いた瞬間、玲奈の心臓が誰かに握り潰されたように痛んだ。玲奈は乱暴に智也を突き放し、怒鳴る。「きっとって何!愛莉を見つけてもいないのに、何を根拠にそんなこと言えるの?何様なの?」声を振り絞るほどに、首筋の血管が浮き、目は血が滲むみたいに赤い。智也は玲奈の涙を見て、胸がぐしゃりと痛んだ。言い返す言葉を探すより先に、玲奈
玲奈が拓海と並んで春日部家の屋敷から出てくるのを見た瞬間、昂輝の胸が針で刺されたように痛んだ。だが、こちらへ歩いてくる玲奈を前にすると、昂輝は笑顔のまま傘を掲げ、ゆっくりと迎えに出た。二人が並んだところで、彼は傘を彼女の側へ大きく傾ける。視線を落とし、やわらかく笑って呼んだ。「玲奈」玲奈は顔を上げ、微笑んで応える。「先輩」彼女は出かける前、わざわざ化粧をして、頬に残る小さな青痣もファンデーションで隠していた。昂輝の目には、何事もないように見えていた。昂輝は傘を持つ手を替え、彼女の隣に立って言った。「乗ろう」脇にいた拓海は、昂輝の振る舞いに白目をむいた
肩に掛けられていたコートが入れ替わったのを見て、玲奈が拓海に腹を立てなかったわけではない。ただ、彼に腹を立てたくなかっただけだ。彼女は責めることはせず、淡々と言った。「用事があるなら、そっちを優先して。ここには先輩がいるから、私は大丈夫」拓海は明らかに不安そうで、離れるつもりもなかった。彼は言う。「俺の用事は、おまえを守りきることだ」それを聞いて、玲奈はふっと固まった。何と言えばいいのか分からなくなった。昂輝は玲奈の困り顔に気づき、そっと彼女の肩を軽く叩いた。「行こう。中に入ろう」玲奈は拓海にはそれ以上何も言わず、昂輝と一緒に個室へ向かった。
全身に青あざを負った玲奈を見ても、明人は嫌悪感を覚えるどころか、かえって興奮を滲ませた。玲奈の身体の下に広がる鮮やかな血の色が、引き金のように、彼の中の理性を引き剥がしていく。明人は両膝を病床に乗せ、玲奈の脚を力任せに開いた。さらに片脚を差し込み、再び閉じられないよう押さえつける。同時に、彼の手は玲奈の衣服を引き裂くように掴んだ。「明人、やめて......放して......!」玲奈は必死に身をよじり、蹴り、抗った。だが、抵抗すればするほど、明人の内側では衝動が激しく燃え上がる。彼が自分のズボンのボタンに手をかけた、その瞬間。病室のドアが、外から勢いよく開いた
真実を知らされた瞬間、秋良は全身が凍りついたように動けなくなった。しばらくして我に返ると、心晴を回り込んで病室のほうへ向かおうとする。「......会ってくる」だが、心晴は再び彼の前に立ちはだかり、ほとんど懇願するような声で言った。「お兄さん......玲奈は、もう二日もまともに眠れていないんです。さっき、やっと眠ったばかりで......お願いです、起こさないであげてください。もし起きたら、また一晩中眠れなくなってしまいます」その言葉に、秋良の足が止まった。妹に会いたい気持ちは強かったが、それ以上に、彼女を思う気持ちが勝った。心晴の話には、どこか辻褄の合わな