LOGINそのときの拓海は、目に入るものすべてが癪に障った。何を見ても腹が立つ。何を見ても気分が悪い。道端を横切った猫にさえ、思わず悪態をつく。「何見てんだよ。さっさと帰れ!」怒鳴られた猫は、びくっとして一目散に走り去った。拓海は振り返り、自分の車へ戻る。ドアを乱暴に閉め、車内でひとり、拗ねた怒りを膨らませた。そのとき、スマホが短く鳴った。ラインの通知音だ。拓海は慌てて手に取り、画面を見る。案の定、玲奈からだった。通知を見た瞬間、頭上にかかっていた霧は一気に晴れた。だが内容を読んだ途端、また雲が差す。玲奈のメッセージはこうだ。【心晴に伝えて。用事ができたから先に帰る。明日またお見舞いに行くって】そこには拓海の名前も、気遣いの一言もない。彼のことには一切触れていなかった。拓海は返信しなかった。それどころか玲奈のプロフィールを開き、「連絡先を削除」の項目まで押しかけた。一瞬、本気で消してやりたいと思った。――でも、指が止まる。消して、もう二度と追加してくれなかったら?拓海は結局押せなかった。見なければいい。そう自分に言い聞かせ、画面を消してスマホを助手席に放り投げた。一方その頃、智也が車を運転し、玲奈はその隙に拓海へメッセージを送っていた。送信できたのを確認してから、彼の返信を待ち続けた。待っても待っても――返事が来ない。その瞬間、玲奈の胸の奥に、かすかな不安が芽生えた。拓海はきっと、怒っているのだろう。本当は少し説明したかった。けれどちょうどそのとき、車が交差点で停まった。赤信号だ。ブレーキがかかった瞬間、智也が横を向いて玲奈を見た。何か考え込んでいる様子に気づき、彼はふっと玲奈のスマホにも視線を落とす。だが画面を見切る前に、玲奈のスマホはちょうどスリープになった。それでも智也は探るように尋ねた。「誰にメッセージしてた?」玲奈は我に返り、無言でスマホを裏返して膝の上に置くと、答えた。「心晴よ」智也は続けて聞く。「......彼女、何かあったんだって?」「誰から聞いたの?」玲奈は驚いた。心晴の件は、知っている人はそう多くないはずだ。智也ははっきり言わず、意味ありげに言う。「世の中に、
智也は体を起こさず、なおも身をかがめたまま、玲奈を深く見つめていた。彼女は明らかに動揺しているのに、平気なふりをしている――それが可笑しくて、智也はふっと口元を緩めた。「......なんだ。俺が怖いのか?」これまで何年も、智也は玲奈の目に恐れなんて見たことがなかった。だが今夜は違う。その瞬間、智也はどこか見慣れない感覚に襲われ、ぼんやりとした眩暈のようなものまで覚えた。彼が見てきた女は多い。誰もが智也を持ち上げ、媚び、へつらった。かつての玲奈もまた、姿勢を低くして彼に合わせる側だった。智也の問いに、玲奈はゆっくり顔を正面へ戻し、堂々と視線を合わせた。声は驚くほど平静だ。「智也、あなたが怖いわけじゃない。ただ......私たちの間に、そんなことをする必要はないって思うだけ」智也は目を細め、腑に落ちない様子で追う。「......どうしてだ?」玲奈は彼を見つめながら、彼が以前よりずっと知らない人みたいに感じられた。少し間を置いてから口を開く。「前みたいに......前と同じように接してくれればいい」二人の関係を、今さら変える必要なんてない――玲奈はそう思っていた。だが智也は眉を寄せ、軽く眉を上げて言う。「俺がもっと優しくしたら、だめなのか?」玲奈の拒絶はきっぱりしている。「だめ」智也の目の光がふっと落ちた。それ以上は追及しなかったが、玲奈の艶のある唇を見た瞬間、胸の奥に小さな衝動が生まれる。――キスしたい。そう思った次の瞬間、体はもう動いていた。智也はわずかに身を寄せ、玲奈の唇へ口づけようとする。玲奈も彼の意図を察したのだろう。ちょうどいいタイミングで、静かに言った。「......早く病院に行かないと、愛莉が泣いちゃうんじゃない?」その言葉で、智也の体がぴたりと固まった。智也は玲奈を見下ろし、何も言わない。けれどその瞳は、探るように彼女を測っていた。智也が黙ったまま、なおも体を起こさないので、玲奈は可笑しそうに聞いた。「智也。私とこんなことして......沙羅は知ってるの?」そこでようやく智也は少しだけ上体を起こした。それでも彼の影が外の光を遮り、玲奈はまだ暗がりに包まれている。智也は、はっきり見えない玲奈の顔を見
玲奈は、智也が怒っているのを肌で感じていた。離婚したいなら、今はまだ彼を宥めておくしかない。もし彼が機嫌を損ねて、離婚届の申請が明ける日に「やっぱり離婚しない」と言い出したら――そのとき玲奈はどうすればいい?玲奈の言葉を聞いた拓海は、呆然と彼女を見た。目には驚きと、信じられないという色が混ざっている。玲奈はその視線を受け止めず、きっぱりと言い放った。「これは私の問題。あなたが口を出すことじゃない」拓海の怒りは頭まで一気に駆け上がった。彼は玲奈を睨み、噛みつくように言う。「そんなにあいつが好きか?あいつがああでも、まだ庇うのか?」拓海が怒っているのを見るのは、玲奈だってつらかった。けれど今この場で智也を怒らせるほうが、よほど致命的だ。だから玲奈は、あえて拓海の言葉に乗った。「そうよ。どれだけ嫌でも、彼は夫なの。夫を庇わないで、あなたを庇えっていうの?」その瞬間、拓海は智也の襟首を放した。自嘲するように笑って吐き捨てる。「......だよな。俺ってほんと、クソみたいな馬鹿だ。馬鹿だよ」そう言うと、拓海は乱暴に背を向けて歩き出した。だが何か思い出したように、すぐ振り返る。玲奈の肩に掛けた自分の上着を取り返そうと手を伸ばした。けれど、薄い肩にそのコートが掛かっているのを見た瞬間、手が止まる。頭の中では「俺に関係ない」と言っているのに、指が言うことを聞かない。結局、伸ばした手を無理やり引っ込めた。拓海は苛立ちを隠せず、短く鼻を鳴らすと、そのまま背を向けて去っていった。玲奈は思わず呼び止めかけた。けれど喉まで出た声は、結局詰まって消えた。今、一番気にするべきは智也だ。正式に離婚が成立してしまえば、そのときはもう何もかもどうでもよくなる。でも今は、まだ終わっていない。拓海が智也を刺激して、智也が本気で「離婚しない」と意地を張ったら、元も子もない。拓海の姿が消えてから、玲奈は振り返って智也に言った。「......行こう。病院に一緒に行く」智也は玲奈を見つめ、声を落として言った。「ずいぶん見送ってたな。......残惜しいのか?」玲奈は智也と喧嘩したくなかった。車へ歩き出しながら、淡々と言う。「名残惜しくない。
智也が車を飛ばして映画館へ着いたとき、ちょうど上映が終わったところだった。館内からは次々とカップルが出てくる。どの若い恋人たちも手を繋ぎ、甘く親密で、度胸のある連中は外に出てもまだキスをしている。その光景を見て、智也の頭には勝手な想像が浮かんだ。――玲奈も拓海と、映画館の中でキスしていたんじゃないか?上映回からして、二人が観たのはホラー映画のはずだ。わざわざホラーを選ぶあたり、誘った側は下心があるに決まっている。智也は道端に立ったまま、考えれば考えるほど腹が立ってきた。人の流れがようやく落ち着いたころ、智也は玲奈と拓海が並んでロビーから出てくるのを見つけた。夜風は刺すように冷たい。拓海は外へ出るなり、自分の上着を玲奈の肩に掛けた。玲奈が「ありがとう」と言うより早く、智也が苛立ちを露わにして詰め寄った。冷えた顔。細めた瞳には危うい光が宿り、視線は刃のように鋭い。「愛莉が病気で入院してるのに、よく他の男と映画なんか行けるな?」口を開けば、非難そのものだった。玲奈は智也を見て、可笑しそうに言い返す。「愛莉は私のこと、母親だって認めようともしないのに。どうして私が映画に行っちゃいけないの?」智也は顔を強張らせ、声を荒げた。「もう一度だけチャンスをやる。俺と病院へ来て、愛莉に会え」玲奈の拒絶は迷いがなかった。「行かない」その強い拒絶に、智也は一歩踏み込み、彼女の手を掴もうとした。だが智也の手が伸びた瞬間、拓海がそれを叩き落とした。同時に拓海は玲奈を背中にかばい、冷たい目で智也を見た。「また何する気だ?」智也はそこでようやく拓海を正面から見て、鼻で笑った。「忘れたのか?彼女はまだ俺の妻だ」拓海も同じように嘲る。「お前の奥さんって、深津沙羅じゃなかったっけ?」智也の顔は陰り、珍しく怒りが滲んだ。声を落として拓海に言う。「必要なら戸籍謄本、見せてやろうか?」だが拓海はまるで動じない。落ち着き払っていて、智也の怒りすら、むしろ痛快そうに受け止めている。そして嘲弄を含んだ声で言った。「それは結構。でも離婚届のほうなら、俺は別に見せてもらってもいいぜ」拓海の挑発に、智也は逆に静かになった。口元を薄く上げ、見下すように問う。
拓海は、玲奈がスクリーンに見入っているのを見て、邪魔はしなかった。この瞬間、映画が面白いかどうかなんて、もう二の次だ。大事なのは――今、玲奈が隣にいること。Xに投稿してから間もなく、その話題はすぐにトップに上がった。コメントも転載も殺到し、さまざまな声が飛び交う。その頃、洋と一緒に飲んでいた薫も、その投稿を目にした。拓海とのツーショットの相手が玲奈だと分かった瞬間、薫は苛立って吐き捨てる。「......面の皮が厚いな」薫が汚い言葉を吐いたので、洋は思わず振り返り、尋ねた。「どうした?」薫はすぐスマホを差し出した。「見ろよ」洋は受け取って画面を見た。ツーショットだ。だが一目見ただけで薫に返し、笑いながら言った。「いいじゃん。お似合いだろ」それを聞いた薫は怒鳴った。「お似合いなわけあるか!」洋は面白がって聞き返す。「どこが気に入らねえんだよ」薫は苛立ったまま、洋を睨んだ。「お前、どっちの味方だよ?」洋はため息をつき、首を振る。「俺は事実を言っただけだ」薫はこれ以上揉めたくなくて、投げやりに言った。「もういい。お前と争う気はない。どうせ智也は沙羅さんのもんだ。玲奈が誰と仲良くしようが、俺には関係ねえ」そう言うと薫はその写真を保存し、ラインを開いて智也へ送った。こうすれば智也も、玲奈がどういう女なのかを思い知る。そうなれば、智也は沙羅にもっと心酔するはずだ――薫はそう踏んでいる。洋は横目でそれを見て、眉をひそめた。「余計なもん、智也に送るなよ」薫はスマホをしまい、洋に白い目を向ける。「口出すな」……病院。愛莉の高熱は下がり、眠りについた。智也は病床のそばに座り、娘の青白い顔を見下ろして胸が締めつけられる。そのとき、スマホの画面がふっと光った。智也は反射的に顔を向ける。この時間の通知なら、きっと玲奈からだろうと思った。何だかんだ言っても、愛莉は彼女の娘だ。母親が放っておくはずがない。そう思ってスマホを手に取り、画面を見た。――だが映っていたのは、玲奈と拓海の距離の近いツーショットだった。智也は堪えきれなくなり、スマホを握り潰すほど強く掴んだ。指先まで震える。画面を消すと、智也はもう一
玲奈は、拓海のならず者めいた顔を見つめたまま、返事をしなかった。彼は笑っているはずなのに、玲奈にはその笑みがどこか作りものに見える。玲奈が黙っていると、拓海は少し不機嫌そうに身を寄せ、彼女の肩にそっと頬を擦りつけるようにして甘えた。「ねえ。そう思わないか?結婚写真っぽかっただろ?」玲奈は顔を背けた。見ると、すでに映画館の入場が始められていた。そこで玲奈は立ち上がり、拓海に言った。「行こう。もう入場開始してる」拓海もようやく入場口へ目を向ける。案の定、もう何組ものカップルが中へ入っていた。玲奈が急いで入ろうとするのを見て、拓海は渋々立ち上がった。拓海はポップコーンとコーラを持ち、玲奈はチケットを持つ。入場を済ませると二人は指定のホールへ向かい、座席番号を探して席に着いた。座ってから拓海は気づく。前も後ろも隣も、人がいる。しかもどこも、二人連れ――カップルばかりだ。それに気づいた途端、拓海の口元が思わず緩んだ。上映が始まると、場内は静まり返った。チケットを買ったのは拓海だ。ネットのおすすめを鵜呑みにして、わざわざホラー映画を選んでいた。彼は内心こう思っていた。――このあと玲奈が怖がったら、きっと俺の胸に飛び込んでくる。――そしたら抱きしめて、堂々と好き放題できる。そんな想像が膨らみ、拓海は期待でたまらなくなり、思わず「へへっ」と笑い声まで漏らした。玲奈はその笑いに首をかしげ、横目で見て小声で尋ねる。「......どうしたの?」拓海は悪い笑みを向けた。「そのうち分かる」玲奈は妙に秘密めいた様子に、それ以上は聞かなかった。広告が終わり、映画が本編に入った。数分もしないうちに、血が出るような恐ろしい場面が次々と映る。拓海は映画を見る気になれず、ずっと玲奈の反応を盗み見ていた。だが玲奈は、どんな血なまぐさい場面でも、恐ろしい演出でも、異様なほど落ち着いている。怖かったとしても、ただ目を閉じるだけで、取り乱して拓海にすがってくることはない。前の席では、女の子が怖さで男の子にぴったりと身を寄せていた。男の子はその隙に抱き寄せ、何度も宥めている。「大丈夫、大丈夫」横の席でも、別の女の子が怯えて男の子の胸に潜り込み、男の子は抱き
おそらく足を捻ってしまったのだろう。玲奈は暫く経っても起き上がることができなかった。誰かが彼女の腕を掴んできた時、彼女はおどろいて後ろを振り返った。そこにいたのは昂輝だった。玲奈はその瞬間目を真っ赤にさせて、鼻の奥をツンとさせた。彼女が伏し目がちにすると、瞳から涙が零れてきた。「どうしてまだこんなところに?」昂輝は彼女の傍に屈んで、満面の笑みで尋ねた。「何も問題なんてないのに、俺に銀行カードをくれてどうしようって?」玲奈はまだ顔を下に向けたまま、後悔したような口調で言った。「実は、私のせいであなたが……」彼女が話し終わる前に昂輝がこう言った。「分かってるよ」それを聞
角を曲がって玲奈たちの姿が見えなくなるまで、拓海の笑い声は聞こえていた。昂輝もその足を止め、玲奈のほうを向いて尋ねた。「玲奈、君は俺のことが信じられない?」薫たちは絶対に昂輝に病院に戻ってきてほしいと言ってくると彼女には何度も伝えていたのに。しかし、彼のその言葉を玲奈は信じてくれていないらしい。玲奈は昂輝の瞳に映る失望に気づき、不安になってこう言った。「いいえ、私はただ、こうなったのは私のせいだから、それで……」彼女が話し終わるのを待たず、昂輝は軽く彼女の肩に両手を置き、とても真剣な顔をして彼女に言った。「玲奈、今回は俺を信じてくれ。自分でどうにかするから」昂輝がこのよ
実は彼女はすでに医務室に行っていたが、処置を受けようとした時考え直し、結局受けなかったのだ。智也にこれを見せた方がもっと効果があると思ったからだ。智也は慌てて言った。「今すぐ病院に連れて行くよ」沙羅を連れて病院で傷の手当てを終えた後、智也は二人を連れて小燕邸に戻った。宮下は彼らを見て、出迎えて来た。「智也様、深津お嬢さん、お嬢様、お帰りなさいませ」智也は宮下に命令した。「今夜の晩ご飯はお粥にしよう。沙羅が手に怪我をしたから、脂っこいものや辛いものは避けてくれ」宮下は聞いてから、微笑みながら言った。「かしこまりました、智也様」二人はリビングに入ると、宮下は続いて尋ねた
玲奈は薫を凝視していた。その瞳は正直だった。「だったら、教えてよ。一体何が違うわけ?」薫はどう答えたら良いのか分からず、黙ってしまった。それに対して玲奈は堪らずすぐにまた尋ねた。「彼が深津沙羅と仲良さそうにして、彼女をいろんなところに連れて行ってみんなに紹介している時、この男は春日部玲奈の夫だってこと考えたことあんの?」薫はそう迫られて打つ手がなくなってしまった。「お前、そりゃあ、ただのこじつけだろうが」それを聞いた玲奈はただ苦笑するしかなかった。「なに?立場を変えて考えてみたら、そんな言い逃れをしだすわけ?」この時、玄関先でずっと立って全てを見ていた智也がようやく口を開い