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第3話

Author: 豹ちゃん
真希はひとり池の中に立ち尽くし、言葉にできない寂寥感が胸の奥から込み上げてきた。

身をかがめ、一晩中探し続けた末、ようやくそのブレスレットを見つけた。

夜が明けるころ、震える体を引きずるようにして立ち上がった。

全身が凍え切っていたが、そんなことを気にする余裕はなかった。

ブレスレットを握りしめると、急いで会社へ向かった。

社長室にいた京香は、それを受け取ると、汚らわしそうに一瞥しただけで吐き捨てるように言った。

「泥だらけじゃない。こんなの、いらないわ」

そう言いながら、ブレスレットを無造作に引きちぎり、ごみ箱に放り投げた。

万尋もただ一瞥しただけで、冷淡に言った。

「気に入らないなら捨てればいい。新しいのを買ってやるよ」

京香は嬉しそうに微笑んだ。

「優しいのね」

真希は惨めな姿のまま、社長室を後にした。

秘書室の同僚たちは彼女の姿を見ても、特に驚くことはなかった。

何年もの間、真希がどれほど辛酸を舐めてきたか、誰もが知っていたからだ。

それでも彼女がここに留まり続ける理由は、誰にも分からなかった。

休みも取らず、ただ風邪薬を二錠飲み込んだまま、万尋と一緒に工場の視察へ向かった。

すべてが終わる頃には、夕暮れ時に差し掛かっていた。その頃、京香が万尋を訪れ、食事に誘った。

真希を見ると、親しげな笑顔で言った。

「真希さんも一緒にどう?」と、

しかし、料理が運ばれてきて、真希はその企みを悟った。

ほとんどが辛いものばかり。

唯一のデザートはマンゴーアイス――だが、マンゴーアレルギーだった。

かつては、料理にほんの少しでも唐辛子が入ったと、万尋はわざわざ取り除いてくれたものだった。

だが今は、まるでそんなことなどなかったかのように、真希を一瞥すらなく、ずっと京香に注意を向けていた。

京香がわざとらしく尋ねた。

「真希さん、どうして食べないの?」

万尋も冷ややかな視線を向け、眉をわずかに寄せて言った。

「食べないなら、出て行け」

真希は仕方なく箸を取り、激辛唐揚げを一口噛み締めた。

食事が終わると、万尋は京香を連れて帰っていった。

真希はひとり帰路についた。

辛さに汗が噴き出し、胃を締めつけるような痛みが襲っていた。

しかし、家に着いてベッドに横たわりながら、どんなに痛くても、一滴の涙すら流れなかった。

自業自得だろう。

この数年の苦しみは、江茉への償いのつもりだった。

痛みが増すほど、その罪悪感がわずかに軽くなるような気がした。

意識が朦朧とするなか、淡い笑みが浮かんだ。

それから数日後。

治療を受けることもなく、酒で胃を痛め続けたせいで、病状はますます悪化していた。

それでも真希は、ただ薬を数錠飲んでその場をしのいでいた。

週末。

真希はソファに横たわり、あまりの痛みに身動きすら取れなかった。

そんな時、万尋から電話がかかってきた。

「京香が保祥楼の海老ワンタンを食べたいそうだ。買ってこい」

万尋の秘書である以上、彼女に休みなどなかった。

彼が必要とする限り、いつでも働かなければならない。

しかし、今日ばかりは、体が言うことを聞かなかった。

「今日は……田中さんに頼んでいただけませんか?私は……」

だが、言い終わる前に、冷たく遮られた。

「お前に選択権があるとでも思ってるのか?」

息が詰まるほどの威圧感に、言葉を失った。

「行くか、二度と俺の前に現れるな」

そう言い残し、彼は一方的に電話を切った。

真希は痛みに耐えながら、ふらつく足で家を出た。

海老ワンタンが名物の保祥楼は裏通りにあるが、人気が高く、並ぶこと三時間。ようやく一つ手に入れた。

急いで万尋の家に向かい、それを差し出すと――

京香は不機嫌そうに顔をしかめた。

「どうして唐辛子を入れたの?」

真希は息も絶え絶えに答えた。

「辛いものが好きだったでしょう……?」

「今は好きじゃないの」

そう言い捨て、京香は海老ワンタンをゴミ箱に投げ捨てた。

万尋は真希を冷たく見据え、淡々と言った。

「もう一度、買ってこい」

真希は再び買いに走った。

だが、次に持ってきたものは「ネギが入ってる」と拒否された。

万尋は、京香の意地悪を見ても、何の反応も示さずただ言うだけだった。

「もう一度、買ってこい」

何度も何度も買い直し、最後に戻ってきた時には、空はすっかり暗くなっていた。

胃の激痛に足元はおぼつかず、意識も朦朧としていた。

目の前の道すら、よく見えなくなっていた――

突然、耳元で響くクラクションの音。

――轟音とともに、バンが猛スピードで彼女に突っ込んできた。

どんっ!!

強烈な衝撃に、彼女の体は宙を舞い、地面に叩きつけられた。

口の中から鮮血が溢れ出し、鼻先には落ちたワンタンの香りが漂っていた。

視界は次第に白く霞んでいく。

ようやく……終われるのだろうか?

ようやく……江茉に会えるのだろうか?

今回、目尻に一筋の涙が伝い、意識は闇に沈んだ。

病院にて。

救急車から運び込まれる真希を見た瞬間、祐人の顔が凍りついた。

「真希さん!真希さん!」

何度呼びかけても、彼女は反応せず、血を吐き続けていた。

救急科部長・東文蔵(あづま ふみぞう)が驚愕の声を上げた。

「まさか……内臓が破裂してるのか?」

祐人は恐怖に震えながら叫んだ。

「彼女、胃がんです!」

文蔵の顔色が一変し、すぐさま彼女を手術室へと運び込んだ。

数時間後、手術は終了した。

だが、外傷の止血を施すことしかできなかった。

全ての機械に映るバイタルは、次第に下がっていく――

祐人は慌てふためいて言った。

「東教授、彼女はどうしたんですか?」

文蔵は静かに首を振った。

「末期の胃がんだ。もともと体が非常に弱かった上、事故が引き金となって、臓器の機能が急激に衰えてしまった。」

真希は意識を取り戻さず、血を咳き込みながら、無意識に何度も同じ名前を呼んでいた。

「万尋……万尋……」

今にも息が途絶えそうだった。

祐人は震える手で、彼女の冷たい指を握り締めた。

「真希さん……お願いだから、生きてくれ。持ちこたえてくれ……」

彼は涙をこらえながら、彼女のスマホを取り出し、万尋の番号を押した。

電話が繋がると、冷たい声が響いた。

「ワンタンも買ったのに?どれだけ時間がかかるんだ?」

祐人は拳を握り締め、言った。

「俺だ、宮野祐人」

万尋が沈黙し、数秒後に低い声で問いかけた。

「なぜ真希のスマホを持ってんだ」

祐人は心電図のモニターで、次第にゼロに近づいていく心拍数を見つめながら、一言ずつ噛み締めるように言った。

「今すぐ病院に来い。彼女に会えるのは、これが最後だ」
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