ログイン早朝の市場で野菜を買って帰ると、私は休む間もなく洗って切って料理の準備をする。 ちょうど作り終えたところで、夫がドアを開けて入ってきた。 「晴海(はるみ)んちの水道管が破裂したんだ。手伝ってやってくれよ。あいつ、シングルマザーで大変なんだから」 私はエプロンを外して、須藤晴海(すどう はるみ)の家へ向かい、排水溝のつまりを直し、床の水を拭き、怯えている花奈(はな)を宥めた。 ぐったりした身体を引きずって家に戻ると、唐澤志真(からさわ しま)が、私の娘のあのセーターを手に取り、晴海に差し出していた。 「晴海、気にすんなよ。璃々(りり)ももう着られねぇし、花奈にちょうどいいだろ」 そのセーターを見た瞬間、私は思わず声を出した。 「志真、私たち、離婚しよう」 彼は目を見開いた。 「離婚?たかが古いセーター一枚で?」 「そう、たかが古いセーター一枚で」
もっと見るある日の午後、発送前の注文を梱包していたら、チャイムが鳴った。ドアを開けると、志真が立っていた。杖をつき、白髪まじりの頭で、果物かごを提げ、所在なさげに戸口に立っている。「雪乃……」彼はおそるおそる口を開いた。「あの……中に入ってもいいか」私は家に入れず、ドア枠に寄りかかって淡々と彼を見つめた。「何の用」「俺……」彼はうつむき、悪さをした子どものような声になった。「ただ、お前の顔が見たくて」一度言葉を止め、また顔を上げる。瞳には乞うような色。「……あの、新しく編んだセーター……できたか?」私は一瞬きょとんとした。墓地で璃々に話した、あのセーターのことだと気づくまで、少し時間がかかった。「できたよ」「見せてもらえないか……?」声が震えていた。「璃々に燃やしてあげたい。……ちゃんと、謝りたいんだ」彼の卑屈な姿を見ても、私の胸には恨みも同情もなかった。残っていたのは、ただの空白だった。私は背を向け、作業部屋からそのセーターを持ってくる。そして――彼の目の前で、ハサミを手に取った。チョキン――乾いた音とともに、柔らかなカシミヤの糸がひと筋ずつ切れていく。きれいなセーターは、一瞬でただの断片になった。志真の目が大きく見開き、顔から血の気が引いていく。「な……なにしてるんだよ!」私は碎いた毛糸をゴミ箱に捨て、静かに彼を見つめた。「志真。あなたには、璃々に謝る資格なんてない。このセーターは、私が自分のために編いだもの。死んだ娘を……忘れないためのもの。あなたはね、これに触れる資格すらないの」私はドアを閉め、その絶望した顔を、私の世界から締め出した。これで終わり。もう二度と会うことはない。ネット店の売上はどんどん伸びて、ひとりでは手が回らなくなった。だから近所の器用なシニアの奥さんたちに手伝ってもらうことにした。私たちは毎日、小さな作業部屋で、世間話をしながら手仕事をして過ごす。窓から射し込む日差しが、色とりどりの毛糸玉に落ちて、あたたかくて穏やかだった。生活が軌道に乗った頃、私は一つの決断をした。志真からの賠償金の一部で、小さな基金を立ち上げた。重い腎臓病を抱える、経済的に苦しい子どもたちを支援するための基金。名前は――「璃々基金
開廷の日、私は志真と晴海を目にした。たった一か月なのに、志真は十歳は老けたようで、以前の成功者らしい輝きはもうどこにもなかった。晴海もやつれ果て、私を見る目には恨みがぎっしりと詰まっていた。法廷では、大山弁護士が示した一連の証拠に、二人は何一つ反論できなかった。志真はずっと俯いたまま、なんの言葉も発さなかった。最後の陳述の時になって、ようやく顔を上げ、遠くから私を見た。その目には複雑な色が宿っていた。「雪乃……」声は掠れていた。「俺が悪かった。許してくれなんて言わない。ただ……行かないでほしい。頼む。この家は、そんな簡単に壊しちゃいけないだろ。璃々だって、パパとママが別れるなんて望んでない。後悔してるんだ、雪乃。ほんとに……後悔してる……」私は冷えた目で彼を見た。もう気力すら残っていなかった。「志真、この家は璃々が死んだ時点で、もうとっくに壊れてたよ。あなたは璃々の最期の顔すら見てない。彼女が何を言い残したか、何一つ知らない」娘の最後の瞬間、泣き崩れる私を慰めたのは、逆に璃々の方だった。「『ママ、パパはもう私たちのこと、好きじゃないって分かってる。だから……ママはこれから幸せになってね。璃々は先に天国に行くだけ。あんな悪いパパなんて、もういらないよ!』って」志真の肩ががくりと落ち、口をぱくぱくさせながら言葉にならなかった。裁判官が木槌を鳴らし、その場で判決が下された。婚姻中に志真が晴海へ贈与した不動産と現金は「無効な贈与」と認定され、判決確定から三十日以内に全額返還するよう命じられた。私たち名義のもう一軒の家と全ての預金、資産については、志真の重大な過失と、私による家庭・病児のケアへの大きな負担を考慮し、私の取り分は七割とされた。志真は、ほぼ丸裸で放り出される形になった。裁判所を出ると、陽射しが少し眩しかった。私は深く息を吐いた。何年も胸を押し潰していた石が、ようやく取り除かれたようだった。離婚後、私はあの古い団地の近くにある小さな中古の部屋を買った。広くはないけど、陽当たりがとても良かった。一部屋を作業部屋に改装し、色とりどりの毛糸を並べた。私はネットで手編みの注文を受け始めた。最初は暇つぶしのつもりだったのに、私の手仕事が丁寧で素材も良かったせいか、依
大山弁護士から、志真の状態が相当ひどいと聞かされた。会社では、私が提出した訴訟資料を受けて内部調査が始まり、彼はすべての業務から外された。志真はようやく焦り始めた。彼は大山弁護士に電話をかけ、「財産は全部諦めるから、どうか訴えを取り下げてほしい。一度だけ会ってほしい」と言ってきたらしい。大山弁護士が私の意向を尋ねてきた。私は少し考えてから答えた。「じゃあ、彼にあの古いセーターを持ってきさせなさい。私は無傷で欲しいのです」私は確かめたかった。彼の中で、私と璃々への最後の思いが、いったいどれほどの重さだったのか。三日後、大山弁護士から電話がきた。声の調子がどこか複雑だった。「深澤さん、唐澤さんが……そのセーター、もう戻せないって言ってます」「なぜですか?」「取り戻そうとして須藤さんのところへ行ったら、須藤さんが『花奈が気に入って何度か着て、汚してしまって、壊れたから捨てた』と」私はゆっくり息を吸った。その軽い言葉が、胸の奥に鋭く突き刺さった。電話の向こうで、大山弁護士が続ける。「その件で、唐澤さんと須藤さんは大喧嘩したようで……二人、もうすぐ関係が壊れそうです」私は電話を握りしめ、震えるほど笑った。「大山弁護士、彼に伝えてください。訴訟は続けるって。それと、晴海にも伝えてください。あのセーターは最高級の輸入カシミヤで編んだもので、市価は少なくとも六万円です。なくしたなら、相応の金額を弁償してもらいます。その弁償金は、璃々の名義で小児重症監護センターに全額寄付します」私は彼の悔恨も、彼女の謝罪もいらない。必要なのは――自分たちの行為に見合う、確かな代償だけ。裁判の進行は、思った以上に順調だった。志真が晴海に買い与えたマンションの送金記録、毎月の生活費の振込証明。すべてが、婚姻中の不貞と共同財産の横流しを示す確固たる証拠になった。一方の晴海は、裁判所からの呼び出し状と私の賠償請求を受け、完全にうろたえた。彼女から何度も電話が来たが、私は一度も出なかった。その後、長文のメッセージが届いた。文面には、被害者ぶった言い訳と憤りが並んでいた。【雪乃さん、あのセーターがそんな大事なものだなんて知らなかったの。花奈はまだ子どもで、服を汚すのも仕方ないし、私も気づかなかったの。本当
電話を切ったあと、私は椅子に沈み込み、全身の力が抜けていくのを感じた。腰の痛みが波のようにぶり返し、墓地で起きたことを何度も思い出させる。目を閉じると、小さな璃々が病に倒れた時の光景が頭をよぎり続けた。あの頃、璃々はもうとても弱っていて、ほとんど眠ったままだった。一度だけ、うとうとした状態から目を開け、私の手を握ってかすれる声で言った。「ママ……パパ、私のこと……嫌いになったの……?なんで会いに来ないの……?」私は彼女を抱きしめ、泣きそうになるのを必死でこらえながら答えた。「そんなわけないよ。パパはね、璃々のために外で一生懸命働いてるの。パパは璃々のこと、大好きなんだから」璃々はよく分かってないように小さく頷き、また深い眠りに落ちた。でも私は知っていた。あれは嘘だって。本当は、彼女がいちばん父親を必要としていた最後の時間に――彼は、ちょうど離婚したばかりで生活がぐちゃぐちゃになった初恋相手を慰めるのに必死だった。璃々が亡くなる三日前、病状が急に悪化して、医者は「今日が峠かもしれない」と言った。私は狂ったように志真へ電話をかけ、娘に最後に会いに来てほしいと懇願した。電話の向こうで彼は言った。「晴海が離婚したばかりで、情緒不安定なんだ。自殺しそうな勢いで、俺が離れられない。雪乃、人命がかかってるんだよ!璃々のことは医者がいるだろ?そっちは任せてくれ。こっちが片付いたらすぐ帰る」彼にとって晴海は、空に浮かぶ月だった。その光に酔い、すべての熱を注ぎ込む。誰にも邪魔させない。たとえ自分の実の娘でも。三日後、彼は帰ってきた。手には、晴海のために買った栄養剤やメンタルケアの本を抱えて。その頃には、璃々はもう死体安置所に横たわり、二度と「パパ」と呼ぶことはなかった。私は顔を覆い、長年押し込めてきた悔しさと痛みが、堰を切ったようにあふれ出した。目の奥が熱くなり、嗚咽が喉を突き破って、誰もいない部屋に響いた。突然、ドアのチャイムが鳴り、私の悲しみを断ち切った。涙を拭き、ドアスコープから覗くと、ホテルのルームサービスだった。ドアを開けると、スタッフは袋を差し出した。「お客様、ロビーにいらっしゃる唐澤様がお渡しくださいと」袋を受け取ると、中には新しいセーターが入っていた。安物だと
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