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第13話

Auteur: 吉祥天
一臣はプライベートサロンを後にすると、自宅ではなく、かつて希和と暮らしていたマンションへと向かった。

玄関のドアを開けた瞬間、一臣は立ち尽くした。

視界の先に広がっていたのは、がらんと空っぽになった部屋。

脳裏に浮かんだのは、希和がここを家にするために、ひとつひとつ家具や小物を丁寧に選んで揃えていた光景だった。

込み上げてくる涙を堪えきれない。

ここを家にするために、二人は三年をかけた。だが、それをすべて消し去るのに、ほんの数日しかかからなかった。

最後にこの部屋で希和に会ったとき、自分は希和に命令していたっけ。ひよりにバレないように、この部屋の物は全部片付けておけと。

しかし、いざ空っぽの部屋を前にすると、一臣は呼吸すら辛いと感じた。

ここ数日、頭の中では「希和」と「ひより」、ふたつの選択肢が絶え間なくぶつかり合っていた。

その答えを見ようとせず、一臣は酒に逃げた。

けれど、今こうしてぽっかりと空いた部屋の中に立ち尽くしていると、一臣はようやく気づいた。

希和は、もういないと。

そして、その「選択」の答えが、ようやくくっきりと輪郭を持って浮かび上がった。

自分にとっての正解は、最初からずっと希和しかなかった。

リビングのテーブルには、ひとつだけ彼女の痕跡が残されている。

それは、希和が使っていた合鍵だ。彼女が選んだペアのキーホルダーが付いたままだった。

一臣は自分の鍵を取り出し、そっと並べる。ふたつのチャームが寄り添って、ひとつのハートを形作る。

でも隣に、もう彼女はいない。

震える手で鍵を胸に抱きしめると、一臣は新しいSIMカードをスマホに差し込み、希和の番号を押した。

呼び出し音が鳴る間、心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響いた。そして、聞き慣れた声が、困惑気味に答える。

「……もしもし?」

「……希和、俺だ。一臣だ」

次の瞬間、無情にも電話は切られた。

スマホを握りしめたまま、一臣は声にならない嗚咽をこぼした。

本気で自分との関係を断ち切ろうとしているから、希和は迷いもせずに電話を切ったのだ。

それでも、引き下がるわけにはいかない。

希和を傷つけたのは間違いなく自分だ。彼女にどれだけ嫌われても、罵倒されても、殴られても構わない。彼女が戻ってきてくれるなら、何をされてもいい。

涙で滲む視界の中、再び番号を押す。何度も
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