ログイン幼馴染の久我一臣(くが かずおみ)がまた喧嘩騒ぎで警察に連行されたと聞き、桐谷希和(きりたに きわ)は彼を迎えに警察署へ向かった。 そこで、彼女は警察の口から思いもよらぬ事実を知らされる。 今回の喧嘩は、一臣の「彼女」が不良に絡まれていたのを助けたことで起きたのだという。しかし、そんな一臣は、昨夜まで希和と体を重ねていた。 衝撃と混乱の中、希和は一臣を問い詰める。だが返ってきたのは、冷ややかな笑みと突き刺すような言葉だった。 「希和、この三年間、俺はずっとお前を体の相性がいいだけのセフレとしか思ってなかったよ。まさか、自分が俺の彼女だなんて思ってないよな?」
もっと見る希和は、かねてより友人たちにこう言い渡していた。一臣に関することは、もう絶対に自分に知らせないでと。そのため、一臣が吐血して入院したという事実も、彼女の耳には届かなかった。たとえ知っていたとしても、きっと何も感じなかっただろう。二人はすでに、交わることのない線の上にいた。静かに、互いの世界から消えていくのが、一番いい終わり方だった。希和は今の自分の人生に満足していた。だからこそ、もう一臣の名前すら聞きたくない。それを理解している文陽と秀子も、一度たりとも彼の話題を娘の前に出すことはなかった。希和は前に進んだ。ただ、一臣だけが罪悪感と後悔に縛られ、身動きもできないまま、日々を彷徨っていた。退院後の彼は、さらに仕事にのめり込んで、希和の名前を口にすることは、二度となかった。その時、健一郎と静江はようやく理解した。一臣は希和を忘れたわけではない、ただ、彼女を心の奥深くに押し込めているだけだと。どうすれば彼を救えるのか、一臣の両親にはわからなかった。しかし久我家には、一臣ただ一人しか跡継ぎがいない。彼が子を成さねば、家は断絶してしまう。一臣の心が希和に深く傾いていたことは周知の事実。そんな彼に嫁ごうとする女性など、現れるはずもなかった。そこで久我家は、家柄にこだわるのをやめ、ごく普通の家庭の娘を選ぶことにした。反発されるのを覚悟していたが、一臣は何も言わなかった。ただ希和の情報を集めながらも、淡々と家の決めた見知らぬ女性との婚姻届にサインした、まるで感情を失った人形のように。そのころ、遠く離れた海外では、希和と湊の婚約が発表された。一方、結婚後も、一臣は実家に戻らず、妻とともに暮らすこともなかった。見かねた静江は、ついに体外受精させる決断を下した。それから丸二年。一臣の妻はようやく双子を授かった。その知らせを聞いたとき、一臣はまるで使命を果たしたかのようにふっと肩の力を抜いた。その姿は、彼の父よりもずっと老け込んで見えた。罪悪感、後悔、執着、未練……あらゆる感情が、彼の命を少しずつ蝕んでいく。それでも彼は、誰にも告げず、ひそかに国外へと旅立った。もう一度、希和に会いたくて。弱った身体を引きずり、彼がたどり着いたのは、希和と湊の結婚式だった。純白のドレスを纏った彼女は、まばゆいほど
市内中心部では速度制限が厳しく定められていたが、それでも、ひよりが受けた衝撃は深刻だった。病院に運ばれたとき、ひよりはまだ意識があり、医師の手を必死に握って叫んでいた。「お願い……赤ちゃんだけは……どうか助けて……!」その必死の祈りも虚しく、お腹の赤ちゃんは助からなかった。ひよりが意識を取り戻したとき、彼女はその現実を受け入れることができなかった。何度も取り乱し、精神的に錯乱状態となり、鎮静剤を使わなければ落ち着かないほどだった。病室の外からその叫びを聞きながら、希和は静かに目を伏せる。そして冷たい声で一臣に言い放つ。「確かに、ひよりは何度も私を陥れようとした。彼女のことが嫌いよ。でもね……あの人も、私も、結局はあなたに巻き込まれた被害者なの。一番罪深いのは、あなたなのよ。一臣、これが最後の警告。もう二度と私の前に現れないで。次に付きまとったら、警察に通報するから」それだけを言い残して、希和は背を向けて去っていった。一臣は追いかけようとはしなかった。ようやく理解したのだ。何をしたところで、もう希和は自分を許すことはない。自分だけを見ていた彼女を、自分が失くしたのだ。病室の前で、彼はその場に膝をつき、両手で顔を覆って、声をあげて泣いた。その日を境に、希和は一臣に会ったことがなかった。一方のひよりは、混乱と絶望の中で何度も意識を失いながら、病室のベッドに横たわっていた。そんな彼女を一臣は本国へ連れ帰り、入院させた。だが、警察もひよりの帰国を把握していた。彼女の体調が回復しても、その後に待っているのは自由ではなく、裁きだ。もちろん、本人はその事実をまだ知らない。帰国後、一臣は希和の両親、文陽と秀子の前で深々と頭を下げ、土下座して謝罪した。もう希和には顔向けできないから、せめて彼女の両親には謝ろう。全てが終わったあと、一臣は長い時間ふさぎ込んでいた。そんな息子の様子を見ていられなくなった静江は、ついに希和へ電話をかける。しかし、電話は無言のまま切られた。この件を知り、完全に希望を見失った一臣は掠れた声で呟いた。「……もういいよ。母さん、もう希和に連絡しないで。全部俺のせいなんだ。どんな結果になっても、それが俺への罰なんだよ」心から息子を案じていた静江も、やがて心身
いつもは穏やかで冷静な湊が、ここまで感情をあらわにしたのを希和は初めて見た。しかも、その原因は他ならぬ自分だった。車が街の喧騒を離れても、希和の心は先ほどの出来事に囚われたままだった。胸の奥から、じわりと苦しさが広がっていく。そんな彼女を見て、湊が優しく口を開く。「……びっくりした?さっきのは一臣を黙らせるためだけに言ったんじゃない。本気だよ。ただ、急いで返事をくれなくてもいい。ゆっくりでいいから、一緒に前へ進もう」そう言って、彼は片手を伸ばし、そっと希和の頭を撫でた。湊は視力が悪いわけではない。眼鏡は、本来強い目力を和らげるためのものだった。「ゆっくりでいいから、一緒に前へ進もう」、その言葉を噛みしめるうちに、希和の目がじわりと涙で滲んだ。かつて一臣と付き合っていた日々を思い返す。あの頃の「関係」と比べたとき、湊の言葉がどれほど誠実で、どれほど貴重かがよくわかった。一臣は「気持ちを見せていく」、「ずっと前から好きだった」と言っていたけれど、彼が正式に告白してくれたことは、一度もなかった。すべてが曖昧で、なんとなく――流れのまま始まった関係だった。「……湊さん。もし、私と一臣の過去を気にしていないなら……お付き合いさせてください」希和にとって、過去の恋愛を恥じる理由はなかったが、一臣との過去は、今もなお悔しさと怒りが染みついた傷だった。その言葉を聞いた瞬間、湊はブレーキを踏み、車を路肩に停めた。そしてシートベルトを外すと、静かに彼女を抱きしめた。「……キキちゃん」湊は彼女のニックネームを愛おしそうに呼ぶと、希和の顔が一瞬にして赤く染まった。その日を境に、ふたりの空気は確かに変わり始めた。希和を会社に送ると、湊は念を押すように言う。「今日、僕が迎えに来るから。一緒に晩ごはんを食べに行こう」けれど、その日の夕方、会社の前で先に彼女を待っていたのは、湊ではなく一臣だった。「また?」うんざりした表情の希和に、一臣は懸命に機嫌を取ろうと話し始めた。「希和、すごく有名な皮膚科の先生に予約が取れたんだ。お前の胸の傷、綺麗にしてくれるって。予約するの、大変だったんだぞ」希和は呆れたように彼を見つめた。――この人はこんなにも偽善的な人だったんだ。ちょっと何かをしてやると、「俺はこんなに
一臣と再び顔を合わせた瞬間、希和はすぐに気づいた。彼の顔はひと月前よりも痩せこけていた。離れていた間も、一臣の噂はたびたび耳にしていた——自暴自棄になり、酒に溺れていると。けれど、そんな話を聞いても、心がざわめくことはなかった。むしろ、苛立ちが募るばかりだった。距離を取ろうと決めたのは、あの人の方だった。何度も自分を傷つけ、裏切ったのも彼だった。海を越えて、遠く離れてもなお、こうして追いかけてくる。遅れてくる愛はゴミ以下。昔は理解できなかったその言葉の意味が、今は痛いほど胸に沁みた。一臣は、希和が簡単に許してくれるはずがないことくらい、最初からわかっていた。それでも、実際に拒絶の言葉を耳にした瞬間、胸が締めつけられて、息が止まりそうになった。苦笑を浮かべながら、一臣は静かに口を開いた。「俺はお前をたくさん傷つけた。だから、今すぐ許してくれなんて言わない……俺の気持ち、ちゃんと見せていくから」だが希和は鼻で笑い、冷たく目を細めて彼を見下ろした。「ひより、うちに来たよ。あなたの子を妊娠してるって。……自分の気持ちを見せるって、つまりは彼女の気持ちを踏みにじるってこと?私の許しがほしいからって、他人を平気で傷つけるなんて……あなた、本当に最低ね」一臣は思わず口を開きかけた。自分はそんな人間じゃないと、そう言いたかった。けれど何一つ言葉が出てこなかった。なぜなら、希和の言うことは、すべて事実だったからだ。なんとか希和を引き止めたくて、一臣は動揺のまま、勢いで言葉を並べた。「希和……俺は、ひよりに子どもを産んでほしいなんて思ってない。俺が欲しいのは、お前だけなんだよ。ずっと俺のこと、好きだっただろ?その気持ちが全部消えたなんて、俺には信じられない。お前が許してくれるまで、何年でも待つよ……」一臣の言葉を希和の氷のような声が切り裂いた。彼女は、まるで汚れたゴミでも見るような目で一臣を見つめ、冷たく言い放つ。「その日は来ない。あなたが死なない限り、絶対に」そのまま、希和は踵を返して家の中へ入っていった。彼女の背後で静かに閉まる扉の音は、二人の関係の終わりを告げる鐘のように響いた。一臣は打ちのめされ、ふらつきながらホテルへ戻った。そのままベッドに沈み込み、しばらく動けなかった。