All Chapters of さようならは蜜の味: Chapter 1 - Chapter 10

25 Chapters

第1話

警察署。久我一臣(くが かずおみ)の体に残るあざを見て、桐谷希和(きりたに きわ)は思わず眉をひそめ、心配な眼差しを向ける。「またケンカ?もう衝動的にならないって、ちゃんと約束したよね?」一臣が答える前に、隣の警察官がふっと笑って口を挟んだ。「ふふ。彼、なかなかすごかったですよ。彼女が不良に絡まれてるのを見て、たった一人で五人に立ち向かってね。結果、その五人、全員病院送りです。一人はまだ意識が戻ってないらしくて……」その話に、希和の体がピクリと強ばる。声には戸惑いがにじんでいた。「……彼女?」警察官が何か続きを言おうとした瞬間、一臣は希和の肩を抱き、彼女を署の外へ連れ出した。そして何事もなかったかのように話し出す。「俺の彼女、綾瀬ひより。可愛いだろ?今度、希和にも紹介するよ」突き出されるように見せられた写真を見つめながら、希和の喉の奥に、ぎゅっと締めつけられるような痛みが走った。昨夜まで、二人は激しく抱き合っていた。ベッドにも、バスルームにも、ソファにも愛し合った痕跡が残るほどに。しかしたった一日、顔を見なかっただけで……希和の目が一瞬で赤く染まり、指先に力が入り、爪が掌に食い込む。「その子があなたの彼女なら……私は何?」一臣は肩から手を離し、顎を少し上げて希和を見下ろした。嘲るような視線が、真っ直ぐ彼女の胸を射抜く。「セフレに決まってるだろ?なあ、希和。俺たちはただの友達だ。まさか、本気だったわけじゃないよな?」三年も夜を重ねてきたのに――「ただの友達」だと、その一言で切り捨てられた。体の芯がどんどん冷えていく。それでも希和は諦めきれず、一臣の薄ら笑いを見つめながら問いかける。「じゃ……どうして、その彼女に迎えに来てもらわなかったの?」「ひよりは体が弱いし、怖がりなんだ。こんな大雨の中、来させたら可哀想だろ」あまりにもあっさりとした口調に、希和の喉から苦いものが込み上げてくる。「可哀想」だから、無理はさせられない。でも希和なら、当然のように呼びつけていい。「怖がり」だから、嫌な思いはさせられない。でも希和は、こんな状況を何度も経験してきた……今日、希和が食あたりで体調を崩していたことを、一臣は知っていた。それなのに、無理して迎えに来た彼女に、労いの言葉ひとつもなかった。
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第2話

希和は、自分がどんな気持ちで電話を切ったのか、もうよく思い出せなかった。物音を聞きつけて、両親の秀子(ひでこ)と文陽(ふみお)が寝室から出てくる。ずぶ濡れの希和を見て、秀子は目を見開いた。「ちょっと、どうしたのよ!何かあったの?」希和は母の胸元に顔を埋めると、ぽつりと呟いた。「父さん、母さん……私、海外に行きたい。新しい会社で経験を積みたいの」涙混じりの声の中に、確かな決意がにじんでいた。そうだ。できるだけ遠くへ行こう。一臣と離れて、もう二度と顔を合わせない場所へ。希和の願いに、両親も最終的にはうなずいた。出発は、二週間後に決まった。その夜、希和は温かい生姜湯を飲み、熱めの湯船にゆっくりと浸かってからベッドに入った。翌日の昼過ぎまで寝ていた希和は、母のノックで目を覚ます。「希和、一臣くんから何度も電話が来てたよ。あんたが出ないからって、うちにかけてきて……何か急ぎの用があるみたい」スマホを確認すると、マナーモードのまま、十数件もの不在着信が並んでいた。「会う予定があるなら行ってきなさい。海外に行くこともちゃんと伝えるのよ。もう、しばらく会えなくなるんだから」そう言い残して、秀子はそっとドアを閉めた。その直後、また一臣からの着信が鳴る。切るとすぐに、次のコールが鳴った。仕方なく通話をつなぐと、すぐさま苛立った声が飛び込んできた。「希和、まだ来ないなら、今すぐ家まで引きずりに行くぞ」体調はまだ優れなかったが、希和はゆっくりとベッドから体を起こした。――今日で、全部終わらせよう。そしたら、もう彼と関わらなくて済む。一臣から送られてきた住所は、会員制のプライベートサロンだった。希和が着いた時、個室の扉は少し開いていて、中からにぎやかな声が漏れてくる。「ってか一臣さん、そんなにひよりさんが好きなんっすか?まだ付き合って二日とかじゃなかったっけ?それでもう紹介って、さすがに早いっすね」足が止まる。でも、そのまま耳を澄ませた。彼女も、その答えを知りたいと思ったから。「そりゃ必死で口説いたんだよ。やっとオーケーもらえたんだし、ちゃんとケジメつけなきゃって思ってさ」「……でも希和さんは?お二人、随分前から関係を持ったし、子どもの頃から婚約してたんじゃ?」「あんなの親同士の冗談だろ?真に
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第3話

希和は一人で病院へ向かった。到着すると、ちょうど廊下の向こうで、一臣がひよりの手に薬を塗っている姿が目に入った。その手つきは、驚くほど丁寧で、優しかった。「一臣……私だけ連れてきちゃって、希和……怒ってないかな?」ひよりが不安そうに尋ねると、一臣はあっさりと肩をすくめた。「平気だよ。あいつ、子どもの頃から打たれ強いからさ。熱湯くらい、どうってことないって。昔なんか、ケンカで腕を折られたのに、泣きもせずにケロッとしてたんだぞ」その話にひよりがくすっと笑うと、一臣も目元を和ませた。「でも……お前は違う。もし痕でも残ったら……俺、耐えられないから」階段の陰からその様子を見ていた希和の胸に、冷たい苦さがじわじわと広がっていく。彼女は当時のことを思い返した。不意打ちを受けた一臣を、真っ先に庇ったのは希和だった。腕の骨を折っても泣かなかったわけじゃない。痛すぎて、声すら出なかったのだ。それから、もし声を出したら、一臣の気が逸れると思って、我慢した。そんな彼女のそばに、一臣はずっとついていてくれた。あれがふたりの関係が近づいたきっかけだった。あの頃は、痛いと言わなくても、一臣が希和を気にかけてくれていた。けど今は違う。さっきあんな話ができるのは、彼の心にもう希和がいないからだ。希和の肌は白くて、少し擦れただけでも痕が残る。そのことを、一臣は誰よりもよく知っていたし、彼女自身よりも早く痕に気づいてくれていた。そして、その痕に気づくたびに、彼は今ひよりに注いでいるのと同じような優しさと心配を見せていた。胸元にできた大きな水ぶくれが痛み、肌を刺すような感覚が希和の理性を削る。――誰にも見つからずに処置だけして帰ろう。そう思っていたのに、ひよりに見つかってしまった。「……希和?やっぱり来てたんだね。一臣が持ってきた薬、まだあるから貸してあげるよ」足が止まりかけたが、傷を見られたくなくて、希和は顔を伏せたまま歩き続けた。「ありがとう。でもいらない」冷たく返すと、ひよりの声が少し沈んだ。「……怒るのも無理ないよね。私が悪いんだから」その瞬間、一臣の表情が険しくなり、希和の手首をつかんで壁際へ押しつけていた。「ひよりが気を遣って薬貸そうとしてんだろ?なんなんだよ、その態度!」――もう限界だっ
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第4話

「……一臣、なんでここに?」希和は少し間を置いてから、彼の問いには答えずに逆にそう聞いた。――この時間なら、ひよりのそばにいるはずだ。質問をはぐらかされた一臣は、特に追及することもなく、黙ってウォークインクローゼットに入っていった。しばらくして、彼が何かを手にして戻ってきた。それは例のドレスと、それに合わせたアクセサリーだった。それらを見た瞬間、希和は目を見開いた。一ヶ月ほど前、酔った一臣が彼女を抱き寄せながら、一枚一枚スケッチを描いていた。計るふりをして身体をなぞる手つきが妙に楽しげで、彼の言葉には照れ隠しのような甘さがあった。「じいさんの誕生日パーティーのとき、みんなの前で付き合ってるって正式に報告したいんだ」そう言われて、希和は密かに喜んでいた。一臣がやっと、自分のことを家族に紹介してくれるのだと思ったから。仕立て上がったドレスは数日後、このマンションに届けられた。そして今、そのドレスが一臣の手の中にある。頭で理解するより先に、体が反応していた。希和は咄嗟にドレス裾をつかみ、指先がかすかに震える。「……これ、どこに持っていくの?」ドレスの生地をぎゅっと握ったせいで、布に皺が寄った。その瞬間、一臣の顔が曇る。「離せ」驚いた希和の表情を見て、彼はふっと鼻で笑った。「まさか、これがお前のために作ったドレスだと思ってたのか?」――違うの?反射的にそう思った自分に気づいて、希和は内心で慌てて打ち消した。たしかに、このドレスを一度だけ試着したことはある。けれど微妙にサイズが合わず、それ以来、希和はダイエットを続けていた。だが今になって、一臣は言った。これは最初から、彼女のためのものではなかったのだと。胸の奥に沈んでいた痛みが、また激しく疼き出す。「ここに届けさせたのは、ひよりがまだ俺の告白を受け入れてなかったからだ。そうでもなきゃ、このドレスも、世界で一番いいものも、全部最初から彼女に渡してたよ。分かるか?この俺がデザインしたドレスにふさわしいのは、ひよりだけなんだ」容赦ない彼の言葉を聞き、希和はなんとか気持ちを押さえ込んだが、心が悲しみに包まれていた。かつて一臣は、彼女に同じようなことを言った。「お前には、最高のものがふさわしい」って。「落ち込むなよ。家族に紹
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第5話

翌日、一臣の祖父・昭二(しょうじ)の誕生日パーティーが盛大に開催された。希和が会場に到着した時、一臣はひよりの手を取りながら、友人たち一人ひとりに彼女を紹介していた。ひよりが身にまとっていたのは、昨夜のあのドレス。ダイエットなどせずとも、完璧に彼女の身体にフィットしていた。元の清楚な印象に、上品で華やかなオーラが加わったのだ。一臣もまた、ドレスと同系色のタキシードを着ていた。まるでペアルックのように。希和は思い返していた。一臣がペアルックをしてくれたのは、旅行のときくらいだった。でも、ほんとうに好きな相手ができると、人は変わるのかもしれない。誰に言われなくても、自分から相手に安心を与えようとするのだ。希和は一臣の祖父への誕生日祝いを手渡すと、両親の後ろに隠れるようにして、静かにその場に立っていた。それでも、親同士の会話から逃れることはできなかった。一臣の母・静江(しずえ)が、希和の手を取ってしみじみと言った。「一臣に恋人ができたって聞いて、本当にびっくりしたのよ。てっきり、あんたがうちの嫁になると思ってたから……子どもの頃に婚約の話もあったでしょ?あの子、何でも勝手に決めちゃうから……本当、希和さんには悪いことをしたね」まるで世間話のような口調で、静江は遠慮もなく話を続ける。その言葉に、ひよりの表情がわずかに曇り、一臣は苛立ったように顔をしかめた。「母さん、ひよりの前でそんなこと言うなよ。俺と希和はただの幼なじみだ。そんな約束なんか、最初からないだろ」自分との関わりを断ち切ろうとする一臣を見た希和は、口元を引き締める。――ここまで彼が否定するなら、私ももう未練なんて持たなくていい。そう決めた瞬間、希和は穏やかな笑みを浮かべながら口を開いた。「一臣の言う通りです。私たちはただの幼なじみ。変な誤解を生まないように、この話は今回限りにしましょう」その一言に、一臣はほっと胸を撫でおろす。静江も「そうね、私が悪かったわ」と笑って、その話を終わらせた。パーティーの途中、希和は胸の奥にどこか引っかかる感覚を覚えて、一人で庭へ出た。まさか、そこへひよりが後を追ってきたとは思わなかった。目が合った瞬間、希和は息を呑んだ。たった一日で、ひよりはまるで別人のように変わっていた。完璧なメイクに高
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第6話

あれから一週間。一臣から希和に連絡が来ることはなかった。希和はひとりでマンションに戻り、静かに荷物を片付けていた。大きな家電と家具を除けば、部屋にはもう何も残っていない。このマンションは一臣名義で、彼が購入したものだった。すべてを片付けたあと、希和はリビングのテーブルに鍵を置き、ドアを静かに閉めて立ち去った。もう二度と、この小さな部屋で彼と過ごした、あの荒唐無稽な三年間を知る人はいない。実家に戻った翌日、一臣が姿を現した。その日は週末。文陽と秀子は家にいたが、張り詰めた空気にすぐ何かを察したらしい。希和にきちんと話し合ってもらおうと思い、夫婦はリビングを出ようとしたが、その前に、文陽が穏やかに言った。「小さい頃から一緒だったんだ。ちゃんと話せば、分かり合えるはずだろ。くだらないケンカはやめておきなさい」二人きりになったとたん、希和は冷え切った声で口を開いた。「……何の用?」その一言で、一臣の中にくすぶっていた怒りが一気に爆発した。彼は立ち上がり、勢いよく希和を押し返した。その手が、偶然にも彼女の胸の火傷に触れた。薬こそ塗っているが、まだ完治していない傷に強い衝撃が走り、裂けるような痛みが全身を突き抜けた。だが一臣は、彼女がまだ傷を抱えていることなど、全く思い出さなかった様子だった。「何の用って?お前が勝手に一週間も連絡絶ったくせに、俺が来てやったらその態度か?ひよりが優しいからさ、昔からの縁を壊さないでって言うからこうして来たんだ。じゃなきゃ顔も見たくないよ」彼の話を聞き、希和の堪忍袋の緒がついに切れた。火傷の痛みに頭が真っ白になり、思わず彼を突き飛ばす。「一臣。あなたにはもう彼女がいるんでしょ?ならもう私に関わらないで。私は忙しいの。あなたたちの暇つぶしになんて付き合ってられないのよ!」「は?お前なんか、忙しいわけないだろ」一臣は眉をひそめ、あからさまに不満を滲ませた。「……何をしてようが、もうあなたには関係ないでしょ」「もうすぐ海外に行く」という事実を言いそうになったが、ギリギリのところで我慢した。一臣はお構いなしに彼女の手首を乱暴に掴み、無理やり引っ張ろうとした。「いいから来いよ。今日は一緒に山登り行くぞ。ひよりがさ、この間の件はもういいって言ってくれたんだ。今
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第7話

「この子、もうすぐ……」海外に行くことがバレる直前、希和が慌てて母を止めた。「……山、行かないなら早く帰って」話題を逸らされた一臣は、希和の手を引いて玄関へ向かう。「行くに決まってんだろ」彼の背中に、秀子が心配そうに声をかけた。「一臣くん、希和の火傷はまだ治ってないから、無理させないでね」「安心して、おばさん。俺と一緒に出かけて、何かあったことなんて一度もないですから」ふたりが玄関から出て行くと、秀子と文陽は顔を見合わせ、深いため息をついた。「希和が海外に行くって決めたの、やっぱり一臣くんが彼女を作ったからかもしれないわね」「まあ、恋愛なんてのはどっちか一方が頑張ってもだめだからな。離れてみりゃ、見えることもあるだろ。希和には、きっともっといい人が現れるよ」その頃。家を出るなり、一臣は希和を車の後部座席に押し込んだ。「助手席なんかに乗せたら、ひよりまたヤキモチ焼くからな」希和は黙っていたが、視線は助手席の飾りに引き寄せられた。そこには少女趣味全開な置き物が並べられていた。一臣は、自分の車を極端に大事にする人間だ。希和にすら飾り付けを許さなかったのに、ひよりには、何をしても怒らないらしい。こんな光景を見て、自分が落ち込むと希和が思っていたが、不思議なことに、その悲しさは心に浮かんだそばから、霧のようにすぐ消えていった。一臣がふと思い出したように言った。「さっき、おばさんが会う機会が減るって言ってたけど、あれ何のこと?」希和は平然を装いながら、さらりと答える。「会社の仕事を手伝うことになったから、忙しくなるの」「ふーん」一臣は何か言いたげだったが、そのときタイミングよくひよりから電話がかかってきた。「どこにいるの?あと何分?」甘ったるい声に気を取られ、希和の話はあっという間に忘れ去られた。やがて、ひよりを拾った一臣の車は、山へと向かった。この山は険しさで知られており、一臣が好む「スリル」を味わうため、希和も何度か連れて来られたことがある。けれど今回、一臣とひよりが一緒に登っている姿を見て、希和は初めて気づいた。一臣にも優しい一面があったと。ふたりは手をつなぎ、顔を寄せ合いながらひそひそと話していた。まるでその仲の良さを希和に見せつけるために登山に来たよ
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第8話

血がにじんで視界がぼやける中、希和は地面を這いながら、どこかへ飛ばされたスマホを手探りで探していた。ようやく手に取ったその瞬間、空が怒りをぶつけるように雷を鳴らす。すでに日は落ち、あたりは暗くなっていた。一臣が戻ってくるなら、もうとっくに戻ってきてるはず。だけど彼は、来なかった……雨と血が頬を伝い、スマホの画面すらよく見えない。それでも希和は、かすかな感覚だけを頼りに、登録済みの緊急連絡先をタップした。それは一臣の番号だった。だが何度かけても応答はない。その事実に、希和は自分の惨めさを思い知らされる。二十年以上の付き合いがある自分よりも、出会って半年のひよりのほうが、彼にとっては大事だったのだ。ふと、足元に鋭い痛みが走る。見ると、一匹の蛇が彼女の身体の脇をすばやく通り過ぎていった。絶望が冷水のように胸の奥から込み上げる。涙が止まらなかった。意識を失う直前、希和は最後の力を振り絞って別の相手に電話をかけ、自分の現在地を伝えた。目を覚ましたとき、最初に感じたのは消毒液のツンとした匂いだった。ぼんやりと目を開けると、ベッドのそばには目を真っ赤にした秀子が座っていた。彼女の表情に、ぱっと光が差す。「希和……!やっと目が覚めたのね。お医者さまが、もう少しで植物状態になるって……!一臣くんと一緒に登山に行ったんじゃなかったの?どうしてあなただけこんなひどい怪我を?失血がひどかったし、毒蛇にも噛まれてたのよ!あと一歩遅れてたら……!」希和は天井を見つめたまま、何も言わなかった。命が助かったことに安堵がいっぱいで、一臣への愛も憎しみも、もう何も残っていなかった。母の言葉を聞き流しながら、かすれた声で問いかける。「……父さん、母さん。私、どれくらい寝てたの?」秀子が涙を拭きながら答える。「もうすぐ一週間になるわよ」「一週間……ってことは、私のフライト、明日?」その言葉に、秀子の目からまた涙がこぼれ落ちた。「こんな身体で、まだ海外に行こうっていうの?」けれど、希和の目に迷いはなかった。「……父さん、母さん。もう、ここにはいたくないの」涙をこぼしながらも、その声はまっすぐだった。その決意に、文陽も秀子も何も言えなくなる。そのとき、一臣の両親――健一郎(けんいちろう)と静
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第9話

一臣の頭の中に、耳鳴りのような轟音が響いていた。目の前の真司に向かって、驚きの声を上げる。真司は一歩下がりながら、口ごもった。「希和さん……今日の昼、12時の便で出国するって……今ごろもう空港にいるはずです」「なんでそれをもっと早く言わないんだ!」怒声が響く。こめかみには血管が浮き上がり、一臣の顔には険しさがにじんでいた。「てっきり、一臣さんは知ってるんだと思って……」体から血の気が引いていくのを感じながら、胸の奥から言いようのない焦りと不安がこみ上げてくる。そのとき、会場に華やかな音楽が流れ出し、色とりどりのテープが宙を舞った。ひよりがゆっくりと彼の方へ歩いてくる。この瞬間を楽しみにしていたはずだったのに、今の一臣には、ひよりを気遣う余裕すらなかった。頭の中を占めているのは、希和が何も言わずに国外へ旅立とうとしているという事実だけだった。一臣の異変に、周囲がざわつき始める。彼に近づいたひよりは希和の名を耳にして、不安げに彼の袖を掴んだ。「……一臣?」我に返った一臣は、会場を飛び出そうとしたが、一回足を止めてひよりを見た。「……ひより。婚約パーティー、ちょっとだけ延期してもいい?急ぎの用事ができてさ」「その用事って……希和と関係があるの?大丈夫よ、私のことは気にしないで。今日が中止になったって、ちょっと噂になるだけだから。早く行ってあげて」今までなら、物分かりのいい女を演じれば、一臣は自分のそばに残ってくれた。けれど、今日は違った。一臣は安心したように言う。「ありがとうな、ひより。やっぱり、お前は優しいな」それだけを言い残し、一臣は会場を後にした。ひよりは奥歯を噛みしめた。これまで優しい女を演じ続けてきたが、まさか自分が自分の首を締めたとは。その場に残った人々は驚き、一臣が去った方向を見つめながら、ひそひそと話し始める。パーティー会場から空港までは、通常なら40分かかる。しかし一臣は、信号も無視しかねない勢いで、わずか20分で到着した。時間を確認する余裕すらなく、ただひたすらに空港内を駆け抜ける。離陸する飛行機のエンジン音が響き渡り、その音が心臓を締めつけてくる。出発ロビーで、一臣は文陽と秀子の姿を見つけた。だが、希和の姿は見当たらない。「おじさん、おばさん…
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第10話

一臣の頭の中はぐちゃぐちゃだった、自分でも自分の気持ちがまるで整理できなかった。ひよりがヤキモチしないよう、自分から離れて欲しいと希和に言ったのは自分だ。なのに、いざ希和が海外へ旅立ったと知った瞬間、胸の奥がざわつき、不安が止めどなく広がっていく。希和と過ごした時間が次々に脳裏に浮かび、一臣は思わず頭を抱えて、その場にしゃがみ込んだ。――希和を取り戻すんだ。その想いが頭の中を駆け抜ける。彼女に会えば、全ての答えが見えるはずだ。「おじさん、お願いします!希和がどこへ行ったのか教えてください。どうしても今すぐ話したいんです!」必死の形相で訴える一臣に、文陽はわずかに眉をひそめた。彼には分かっていた。娘が海外へ行った理由は自立などという建前ではなく、一臣から離れるためだ。それに、ここ数ヶ月、一臣が希和にどれほど冷たく接していたか、すべて見てきた。「一臣くん。君は今、感情に飲まれている。まずは自分の気持ちをちゃんと整理してみなさい。話はそれからでも遅くないよ」そう言われても、一臣は文陽の袖を掴んで離さなかった。そのとき、ちょうど後ろから健一郎と静江、そしてひよりが慌ただしく駆けつけてくる。結局、一臣は希和の行き先を聞き出せぬまま、両親に無理やり連れ戻されてしまった。久我家。一臣は生気を失ったような目をしていた。その姿に、健一郎の怒声が飛ぶ。「お前な……ふざけるなよ!あれだけ盛大に婚約パーティーを開いたのに、途中で抜け出すなんてどういうつもりだ?久我家がどれだけ世間の笑い者になったと思ってる!」「あなた、やめて。一臣は希和さんに急な用事があったのかもしれないじゃない」静江が息子をかばうようにして、健一郎をなだめる。「希和さんに急用?それなら、昨日希和さんが目を覚ましたときに見舞いに行ってるはずだろ」冷ややかに言い放つと、健一郎は静江に押されるようにして自室へ戻っていった。その前に、静江がそっとひよりに声をかける。「ごめんなさいね、ひよりさん。ちょっと、一臣のこと見ていてくれる?」リビングには、一臣とひよりの二人きりが残された。耐えていた感情がこぼれるように、ひよりの瞳から静かに涙が流れた。彼女はもうとっくに気づいていた。一臣の心が希和に向いていることを。でも、こんなに条件のいい男を
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