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第7話

Author: むつき
紗月はずっと、月影邸だけは自分に残された最後の安らぎの場所だと思っていた。

けれど、二度目の抗がん剤治療を終えて病院から戻り、リビングにいる琴葉の姿を目にした瞬間、結婚生活に残されていた最後の居場所さえ失われたのだと悟った。

「この家具は全部、新しいものに替えて」琴葉が引っ越し業者に指示を出していた。

「何も動かさないで」

玄関に立った紗月が、冷たい声で制した。

琴葉は振り返ると、勝ち誇ったような笑みを口元に浮かべた。「お姉ちゃん、これからここは私と征士郎さんの家になるの。どう模様替えしようと私の自由よ。お姉ちゃんに口を出す権利はないわ」

こんなにも早く、自分のものだと主張し始めた琴葉を見て、紗月は皮肉を込めて言い返した。「今のあなたはまだ征士郎と結婚していないでしょう?征士郎の妻は私よ。愛人のあなたに、私の家で好き勝手に振る舞う資格があるの?」

その言葉を聞いた引っ越し業者たちは、何とも言えない表情で琴葉へ視線を向けた。

琴葉の顔がさっと青ざめる。「どうせ時間の問題よ」

「そこまで断言しないほうがいいんじゃない?あとで恥をかくことになるかもしれないわよ」

紗月が嘲るように言うと、琴葉の口元に突然、ぞっとするような笑みが浮かんだ。「そう?だったら、賭けてみましょうか」

紗月には、その言葉の意味が分からなかった。

次の瞬間、琴葉はテーブルの上に置かれていたフルーツナイフを手に取り、紗月の手をつかむと、ナイフをその手に握らせ、自分の手首を勢いよく切りつけた。

紗月は信じられないものを見るように彼女を見つめた。「……あなた、正気なの!?」

琴葉はナイフから手を離すと、傷ついた手首を持ち上げ、笑みを浮かべながら紗月を見た。「征士郎さんはもうすぐ帰ってくるわ。どっちを先に心配するか、見てみましょうよ」

案の定、ほどなくして背後から足音が聞こえてきた。

ガタン、と音を立てて琴葉がナイフを床へ落とした。それと同時に自らも床へ崩れ落ち、大粒の涙を次々とこぼした。「お姉ちゃん……痛い、すごく痛い……」

紗月は呆然とその場に立ち尽くしたまま、冷ややかに琴葉の芝居を眺めていた。その瞳には、微かな軽蔑さえ浮かんでいる。

自分は雨宮家のお嬢様として育った人間だ。たとえ濡れ衣を着せられようとも、こんな卑劣な真似をするような人間ではなかった。

「琴葉!大丈夫か?」

琴葉の泣き声を聞いた征士郎は、ほとんど駆け込むようにリビングへ入ってきて、すぐさま彼女を抱き起こした。

最初から最後まで、紗月には一度も目を向けなかった。

胸の奥から血が流れ続けているような痛みを感じながら、紗月は愛する男が別の女を抱きしめている姿を静かに見つめた。自分が今どんな気持ちなのか、もはや言葉にすることさえできなかった。

「紗月、覚えてろよ」

征士郎は琴葉を抱き上げ、立ち去る間際に冷たく言い残した。

慌ただしく遠ざかっていく男の背中を見つめながら、紗月は突然、声の限りに叫びたくなった。

――征士郎、あなたはいったいいつまで目を曇らせたままでいるつもりなの?

……

数日後。

紗月は会社で引き継ぎの準備を進めていた。自分が死んだあと、征士郎が会社を引き継ぐ際に余計な苦労をしないよう、できることはすべて済ませておきたかったのだ。

そこへ、慌てた様子のアシスタントが駆け込んできた。「社長、大変です!昨夜から今朝にかけて、進行中のプロジェクトが次々と契約を打ち切られています。取締役会も緊急会議を開いており、社長にもすぐ出席してほしいとのことです」

それを聞いた紗月は、手元の仕事を放り出し、大会議室へ急いだ。

ようやくたどり着いた頃には、室内はすでに大勢の人で埋め尽くされていた。

紗月は壁に手をつき、息苦しさに耐えながら議長席に座る男へ目を向けた途端、胸に鋭い痛みが走った。

征士郎は両手を組んでテーブルの上に置き、冷淡な眼差しで彼女を見ていた。

会議が始まると、紗月はすぐにすべてを理解した。

プロジェクトの危機など、ただの口実だった。

すべては征士郎が自分に離婚を迫るために仕組んだことなのだ。

彼は雨宮グループを人質に取れば自分が屈すると考えている。

けれど、自分がすでに雨宮グループの全株式を彼に譲っていることを、征士郎はまだ知らなかった。

「紗月が不倫を認めて離婚に応じさえすれば、雨宮家は何事もなく済むのよ」

口を開いたのは、琴葉の母親――紗月の叔母だった。

「紗月、雨宮グループがここまで持ちこたえられたのも清野社長のおかげだ。恩を忘れてはいけない。お前が不倫を認めれば、清野社長と琴葉の評判にも傷がつかずに済むんだ」叔父もそう続けた。

紗月の体がぐらりと揺れる。

彼女は議長席に座る男へ視線を向けた。「私に不倫を認めろって……あなたが決めたことなの?」

征士郎はわずかに眉を寄せた。

琴葉の名誉を守るためには、そうするしかない。

「お前が認めさえすれば、雨宮グループには何も起こらないと約束する」

一言一言が、刃となって紗月の胸に突き刺さった。

心の底にかろうじて残っていた彼への愛が、今まさに消えようとしていた。

ここまで非情になれる人だとは思ってもみなかった。

離婚を迫るだけでは飽き足らず、存在もしない不貞まででっち上げ、自分に認めさせようとしている。

これが、自分が命をかけて愛した男なのか。

「不倫を認めろというのなら、清野社長にお聞きします。私はいつ、誰と不倫したんですか?」紗月の声には、隠しようのない悲しみが滲んでいた。

「そこまで俺の口から言わせたいのか?」

征士郎は手にしていた写真の束を、会議室のテーブルへばら撒いた。

そこに写っていたのは、紗月と朔弥だった。

けれど、どの写真を見ても二人はごく普通の友人同士にしか見えず、不適切な関係を示すようなものは何一つない。

それでも、この場に紗月を庇う者は誰一人としていなかった。

「もう認めなさい、紗月。まさか、ご両親が一から築き上げた会社を自分の手で潰すつもりなの?」

「もともと琴葉の結婚相手を奪ったのはお前だろう。今こそ返すべきじゃないのか」

「ここにいる株主たちのことも少しは考えてくれ」

四方八方から浴びせられる圧力が、紗月の心を容赦なく押し潰していった。

とうとう耐えきれなくなり、彼女の頬を涙が伝った。

これが、自分の家族なのだ。

利益を前にすれば、血のつながりも情も、すべて無意味になる。

「分かった……認めるわ。認めればいいんでしょう――!」

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