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元カノ仕様の結婚式、花嫁は降ります

元カノ仕様の結婚式、花嫁は降ります

Por:  沢井歓Completo
Idioma: Japanese
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2000万円以上もの大金をかけて用意された華やかな式場で、いちばん場違いな笑いものになっていたのは、花嫁になるはずの私、浅木初音(あさき はつね)だった。 私は薔薇の花粉にひどいアレルギーがある。それなのに会場は、わざわざ空輸した真紅の薔薇が一面に敷き詰められていたのだ。 私に合わせて念入りに採寸したはずのドレスも、いざ本番前に試着すると、ドレスの背中のファスナーは引っかかったまま、半月前に抜糸したばかりの腹部の傷口は、きついドレスに圧迫されていた。 扉を開けて入ってきた広元亜佐子(ひろもと あさこ)は、中臣啓司(なかとみ けいじ)の元恋人であるはずなのに、まるでこの式場の女主人であるかのように振る舞っていた。 彼女は手近にあった薔薇の花束を無造作に抱えると、真紅の花に覆い尽くされた柱へとゆったりと背を預ける。 「この薔薇、たしかにいい香り。嗅いでいるだけで気分が良くなるもの」 啓司が笑って応じた。 「そりゃそうさ。花は全部、亜佐ちゃんの好みで選んだんだから」 棒立ちのままの私に気づき、彼が歩み寄ってくる。少し冷えた私の手が、彼の大きな掌にすっぽりと包み込まれた。 「このところ休みなく働きづめだっただろ。見ているこっちが辛くなるくらいでさ。ちょうど亜佐ちゃんの手が空いていたから、代わりに走り回ってもらっただけだよ。 取り越し苦労はやめてくれ。何もせず、用意された式で花嫁になればいい。それで何が不満なんだ?」 そうか。胸を躍らせて準備してきたこの美しい式は、はじめから別の誰かのために誂えられた舞台だったのだ。 私の口から、苦い笑いがこぼれた。 だったら、この式は挙げない。 この婚約者も、もういらない。

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Capítulo 1

第1話

「取り越し苦労はやめてくれ。何もせず、用意された式で花嫁になればいい。それで何が不満なんだ?」

啓司の声は穏やかで、いつもどおりの余裕を含んでいた。

私は静かに俯いて、握り合った手を見つめた。

彼の掌はひどく熱いのに、私の指先は痺れるほどに冷たい。

「啓司さん、そんな言い方しないで」

亜佐子が手にしていた赤い薔薇をそっと置き、少しこちらへ近づいてくる。

「もともと、花材を勝手に変えたのは私なのよ。赤い薔薇のほうが結婚式らしい雰囲気になると思って」

そして、申し訳なさそうに私を見つめた。

「初音さん、怒ってないよね?」

襟元に付いた一枚の薔薇の花びらを見つめているうちに、喉の奥がじわじわとむず痒くなってきた。

「もし気に入らないなら、明日にでも別の色の花に替えさせるから」

啓司が小さくため息をつく。その声音には、気づかれないほどのかすかな疲れが混じっていた。

「数百万円もの空輸費が無駄になるのは、大した問題じゃない。ただ、亜佐ちゃんはこの2日、会場に張りついてろくに眠っていないんだ。

初音、自分の好みばかり優先するな。人の苦労もわかってやれ」

私は口を開きかけた。決して、赤い薔薇が嫌いなわけじゃないのだと言いたかった。

アレルギーなのだ。

それも、重度の花粉アレルギー。

3年前、付き合いはじめたばかりの頃、彼に連れられてあるパーティーに出たことがある。

会場の隅に、小さな百合のフラワーウォールが飾られていた。

ただそばを通り過ぎただけで、全身に赤い発疹が広がり、喘息の発作を起こしたのだ。

あの日、啓司は冷たい表情のまま、その場でパーティーを中断させた。

そして険しい顔つきで、主催者に百合をすべて、その夜のうちに撤去させたのだ。

そして病院のベッドの脇で、ひと晩中私に付き添っていてくれた。

強く手を握って、彼は言った。これから俺のいる場所では、花粉のある花は花びら一枚だって触らせない、と。

それなのに、今はどうだろう。

広い披露宴会場を埋め尽くしているのは、血のように赤い、ゆうに3万本の薔薇だ。

呼吸はどんどん苦しくなり、息をするたびに胸が痛んだ。

露出している首筋と腕には、すでに細かな赤い発疹が広がりはじめている。

ドレスの背中のファスナーは引っかかったまま、半月前に抜糸したばかりの腹部の傷口は、きついドレスに圧迫されていた。

彼の会社の窮地を救うため、接待で無理に酒を引き受け続け、胃穿孔を起こして手術した、その生々しい痕だった。

「ファスナー、引っかかってるの?」

亜佐子がふいに近づき、背中のファスナーへ無遠慮に手を伸ばして引いた。

「……っ!」

力任せに引かれたファスナーの、ざらついた金属の歯が、まだ脆い傷跡を直接こすった。

突き刺さるような鋭い痛みに、私は反射的にびくりと身を縮めた。

「どうしてそんなに大げさなんだ」

啓司が不快そうに眉を寄せる。

痛みで蒼白になった私の顔を見ようともせず、彼がとっさに支えたのは、勢い余って1歩後ろへよろけた亜佐子のほうだった。

「気をつけて。足をひねるよ」

亜佐子はそのまま彼の腕に甘えるようにもたれ、ぺろりと舌を出す。

「ごめんね、初音さん。まさかファスナーも上がらないなんて思わなくて。最近、太った?」

啓司が小さく笑い声をこぼした。

「こいつは普段から運動不足なんだ。結婚したら、ちゃんとジムに通わせないとな」

私はその場に立ったまま、ふたりが私など存在しないかのようにやりとりするのを、ただ見ていた。

喉の痒みは、とうとう抑えが利かなくなった。

口を押さえた瞬間、激しく咳き込んでしまい、息もできないほどだった。

啓司の眉間の皺が一段と深くなった。

「初音、いったい何を拗ねているんだ?

亜佐ちゃんが厚意でやってくれたことだろう。ありがたく思わないのは勝手だが、誰に向かって悲劇のヒロインを気取ってるんだ?」

咳のせいで涙が滲み、ぼやけた視界の向こうに彼を見た。

「拗ねてない。少し息苦しいだけ」

私は背を向け、傷口に引っかかっていたドレスのファスナーを、自分で少しずつ下ろしていった。

豪奢なオーダーメイドのドレスを脱ぎ捨て、自分の普段着に着替える。

「ごゆっくりどうぞ。私は先に失礼します」

啓司が一瞬、虚を突かれたように固まった。反射的に1歩踏み出してくる。

「どこへ行くんだ?会場の段取りがまだいくつか残ってる」

「詰めなくていい」

重いガラス扉を押し開けると、冷たく新鮮な空気が流れ込んできて、窒息しかけていた息苦しさがわずかに和らいだ。

「亜佐子さんの好みに合わせればいいでしょう」

振り返ることはせず、私はそのまま暗い夜の中へと歩き出した。

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しょう
しょう
クズ男がわざわざ雨ざらしになって同情を誘おうとするのを短編じゃよく見るけど、あれ本当にイラッとするんだよね。自分可哀想な段ボール箱の捨てられワンコです拾ってワン~みたいな? あざと女みたいでオェ~。クズなら潔くクズらしく散れって思う
2026-10-26 19:44:10
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松坂 美枝
松坂 美枝
アレだけ元カノ仕様に変更させた結婚式なんざ誰が出るかよ(笑) 出てたらアレルギーで死んでたわ 主人公もよく三年もこんなモラ男に耐えたもんだ トドメ刺して完璧(笑)
2026-10-26 10:06:22
5
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ノンスケ
ノンスケ
元カノの意見を優先して結婚式を変えられるって話はよく有るけど、よくぞ逃げ切った!新幹線で知らない街に行った彼女は本屋で働きながら、縛られない生活に豊かさを見出していくんだね。クズ男女には相応の制裁を。
2026-10-26 21:52:06
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8 Capítulos
第1話
「取り越し苦労はやめてくれ。何もせず、用意された式で花嫁になればいい。それで何が不満なんだ?」啓司の声は穏やかで、いつもどおりの余裕を含んでいた。私は静かに俯いて、握り合った手を見つめた。彼の掌はひどく熱いのに、私の指先は痺れるほどに冷たい。「啓司さん、そんな言い方しないで」亜佐子が手にしていた赤い薔薇をそっと置き、少しこちらへ近づいてくる。「もともと、花材を勝手に変えたのは私なのよ。赤い薔薇のほうが結婚式らしい雰囲気になると思って」そして、申し訳なさそうに私を見つめた。「初音さん、怒ってないよね?」襟元に付いた一枚の薔薇の花びらを見つめているうちに、喉の奥がじわじわとむず痒くなってきた。「もし気に入らないなら、明日にでも別の色の花に替えさせるから」啓司が小さくため息をつく。その声音には、気づかれないほどのかすかな疲れが混じっていた。「数百万円もの空輸費が無駄になるのは、大した問題じゃない。ただ、亜佐ちゃんはこの2日、会場に張りついてろくに眠っていないんだ。初音、自分の好みばかり優先するな。人の苦労もわかってやれ」私は口を開きかけた。決して、赤い薔薇が嫌いなわけじゃないのだと言いたかった。アレルギーなのだ。それも、重度の花粉アレルギー。3年前、付き合いはじめたばかりの頃、彼に連れられてあるパーティーに出たことがある。会場の隅に、小さな百合のフラワーウォールが飾られていた。ただそばを通り過ぎただけで、全身に赤い発疹が広がり、喘息の発作を起こしたのだ。あの日、啓司は冷たい表情のまま、その場でパーティーを中断させた。そして険しい顔つきで、主催者に百合をすべて、その夜のうちに撤去させたのだ。そして病院のベッドの脇で、ひと晩中私に付き添っていてくれた。強く手を握って、彼は言った。これから俺のいる場所では、花粉のある花は花びら一枚だって触らせない、と。それなのに、今はどうだろう。広い披露宴会場を埋め尽くしているのは、血のように赤い、ゆうに3万本の薔薇だ。呼吸はどんどん苦しくなり、息をするたびに胸が痛んだ。露出している首筋と腕には、すでに細かな赤い発疹が広がりはじめている。ドレスの背中のファスナーは引っかかったまま、半月前に抜糸したばかりの腹部の傷口は、きついドレスに圧
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第2話
市立中央病院の救急外来には、鼻を刺すような消毒薬の匂いが満ちていた。「どうしたらこうなるんですか?花粉アレルギーがこれだけ重いのに、花の山みたいな場所へ自分から飛び込むなんて」首筋一面にびっしりと広がった赤い発疹を見た当直医の声は、厳しかった。「あと30分遅かったら、喉頭浮腫で命を落としていましたよ」私はじっと俯いたまま、看護師が冷たい綿棒で手の甲の血管を探すのに身を任せていた。「すみません。油断していました」「最近の若い人は、本当に自分の体を大事にしませんね」医師は手早く処方箋を書き終えると、次の患者のほうへと行ってしまった。私は背もたれに身を預け、スマホを取り出した。画面には何の通知もなかった。不在着信もなければ、新しいメッセージもない。あの会場を出てから、もう3時間が経っている。啓司は、私を探そうとしなかった。彼にしてみれば、これは私の稚拙な抗議の仕方でしかないのだろう。外で冷たい風に当たって気が済めば、おとなしく戻ってきて謝るはずだ、と。実際、この3年間、先に折れてきたのはいつだって私の方だった。午前2時、ようやく長い点滴が終わった。タクシーを拾い、啓司と暮らすはずの新居へと帰る。半年前にふたりで買った、高層階にある広い部屋。内装にこだわるため、私はあちこちを走り回り、数えきれないほど徹夜して準備したのだ。エレベーターの扉が開く。玄関の前に立ち、いつもの手つきで暗証番号を打ち込んだ。「ピーッ。暗証番号が違います」静まり返った深夜の廊下に、冷たい機械の女声がやけに耳障りに響いた。私は一瞬、その場に固まった。番号は出会った記念日のままで、これまで一度も変えたことがない。息を大きく吸い込み、もう一度だけ丁寧に入力し直す。「ピーッ。暗証番号が違います」その場に立ったまま、赤く点滅するエラーランプを眺めていると、ふいに、なぜか滑稽に思えてきた。そのとき、不意に扉が内側から開いた。私を見た啓司の顔に、驚きが一瞬だけよぎる。「帰ってたのか?インターホンを鳴らせばいいのに」私は彼を見たまま何も言い返さず、その広い肩越しに、ただ玄関のたたきへと視線を落とした。そこには、ピンク色の女性用スリッパが1足だけ増えていた。サイズは明らかに、私のじゃない。傍ら
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第3話
翌朝、啓司は本当に亜佐子を連れてこなかった。彼の運転する車で向かった先は、街の中心部でいちばん格式の高いオーダージュエリーのサロンだった。「中臣様、浅木様。ご注文いただいておりました結婚指輪、仕上がっております」箱が開かれると、ふたつの輝くダイヤの指輪が静かに並んで収まっていた。啓司が女性ものを取り上げ、私の手を引き寄せる。「はめてみろ。合わなければ直させる」冷たい金属の輪が、薬指を通っていく。けれど、第2関節のところでつかえてしまった。押し込もうとしても、それ以上は入らない。啓司が少し力を込めると、私の指が締めつけられて赤くなる。「どういうことだ?」不快そうに眉をひそめ、彼は店長へ目を向けた。「サイズが違うんじゃないのか?」店長は少しうろたえた様子で、手元のタブレットで注文記録をたどった。「中臣様、こちらの指輪は9号でございます。先月、お電話でサイズ変更のご指示をいただいておりまして」9号。私のサイズは11号だ。啓司がふと何かを思い出したように、その目の奥に、ひどく不自然な感情がよぎった。「俺は……っ」彼が口を開きかけたそのとき、店舗の扉のベルが鳴った。亜佐子が扉を押して入ってきたのだ。その手には、テイクアウトのコーヒーを2つ持っていた。「啓司さん、初音さん。こんなところにいたのね」笑いながら歩み寄り、コーヒーをテーブルに置く。「たまたま通りかかったら、外に啓司さんの車が停まっていたから、ご挨拶だけでもと思って」啓司は彼女を見て、それから私の指に引っかかったままの指輪をじっと見た。「亜佐ちゃん、こっちに来てこの指輪をはめてみてくれ」私も店長も、一瞬言葉を失った。亜佐子も少し驚いた顔をしたが、それでもおとなしく近づいてくる。啓司は9号の指輪を、私の指から無造作に引き抜いた。きつく食い込んでいたせいで、私の関節には赤い跡が残った。彼はその手を見ようともせず、指輪を亜佐子の薬指へと通した。ぴたりと収まった。それはまるで、初めから彼女のために誂えられたかのように、ぴったりだった。「はぁ……やっぱりか」啓司は短く息をつき、私のほうを振り向いた。「先月、亜佐ちゃんが気に入った指輪があってな。サイズを伝えに電話したとき、店側で取り違えたんだ
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第4話
式まで、あと3日。式場側の手配で、式のリハーサルと、料理の試食会が行われることになった。私は長テーブルの上座に着き、スタッフが差し出した最終版の席次表を受け取った。視線は、最前列の親族席へ落ちた。本来なら、私の両親と啓司の両親のために用意されていた席だった。ところが、そこにあったはずの私の両親の名前は消え、代わりに亜佐子の両親の名前が記されている。私の両親の席は、さらに会場の隅にある別のテーブルへ移されていた。配膳スタッフが頻繁に行き来する通路のすぐそばで、披露宴会場の中でもっとも騒がしく、高砂もほとんど見えない、最悪と言っていい席だった。「これはどういうこと?」表を指さして、私はプランナーに尋ねた。プランナーは気まずそうに、少し離れて立つ啓司のほうを窺った。啓司が歩いてきて表に目を落とすと、事もなげに言う。「俺が替えさせた」私の隣に腰を下ろし、白湯を注いで差し出してくる。「亜佐ちゃんのご両親は、式のためにわざわざ海外から飛んで帰ってきてくださるんだ。目上の方だし、世間体を気にする方でもある。後ろの席に座らせるわけにはいかないだろう」「じゃあ、うちの両親は?」私は彼を真っ直ぐに見た。「初音のご両親は大らかな人だ。そういう形式には昔からこだわらない」啓司はそれが当然のことであるかのように言う。「それに、高砂から少し離れてるほうが静かでいいだろ。ゆっくりできるし。初音、全体のことを考えてくれ。こんな些細なことで目くじらを立てるな」全体のことを考えてくれ。この言葉を、彼は最近、私に言う回数が増えた。彼の言う「全体」には、亜佐子の顔を立てることも、亜佐子の両親の見栄も、そして何より、彼自身が周囲からどう見られるかということも含まれていた。私の尊厳だけが、ぽっかりと抜け落ちているのだ。私は席次表を手にしたまま、以前のように理を尽くして言い争うことはしなかった。「わかった。啓司の言うとおりにするわ」啓司は満足そうに笑い、手を伸ばして私の髪をくしゃりと撫でた。「それでいい。お前はいつも物分かりがいい。俺がいちばん気に入っているところだ」物分かりがいい。私は口の端をわずかに引き上げただけで、何も言わなかった。やがてリハーサルが始まった。傷がまだ完全には治り
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第5話
車が走り出した瞬間、窓の外を流れるネオンが、長年私を閉じ込めていた城を、遠く後ろへと置き去りにしていった。息苦しい探り合いも、幾度となく重ねてきた妥協も、すべて昨夜に置いていこう。3人で演じてきたこの歪な芝居の舞台は、まるごとあのふたりに譲ってやる。新幹線が暗い夜の中を真っ直ぐに駆けていく。窓の外の景色は滲んだ光の帯になり、次々と後ろへ流れ去っていった。スマホの電源は、もう切ってある。私が消えたと知ったとき、啓司がどんな顔をするかなど想像する必要はない。それはもう、私とは一切関わりのないことだから。2日後。本来なら、式を挙げているはずの日だった。南の海沿いの町のカフェで、私は予備のスマホを取り出し、仕事用のアカウントにログインした。ログインした途端、おびただしい数のメッセージが一気に流れ込んでくる。大半は会社の同僚や、事情を知らない取引先からの結婚祝いだった。だがその中に紛れて、啓司の秘書から大量のボイスメッセージがずらりと並んでいる。1件目を再生した。「浅木様、どちらにいらっしゃるんですか?社長が控室で、激怒しています」2件目。「浅木様、式場から、一方的にすべての進行を中止されたと連絡が。装花スタッフまで撤収してしまって、現場はもう大混乱です!」3件目。「浅木様、電話に出ていただけませんか。社長は、今すぐ戻ってくるなら今回のわがままは水に流してやる、と」焦りきった秘書の声を聞いていると、そのときの啓司の表情までありありと目に浮かぶようだった。彼はきっと、私が正気を失ったと思っている。完璧に閉じた彼の理屈の中では、私は式を人質にして彼を折れさせようとしているだけなのだ。そのうえで、水に流してやる、と安全な高みから言っている。私は秘書に返信することなく、そのままトーク画面を閉じた。SNSのタイムラインを開く。10分前、亜佐子が新しい投稿をしていた。1枚の写真だった。オーダーメイドのスーツを着た啓司が、がらんとした宴会場の椅子に座っている。彼の顔色は恐ろしいほどに暗く沈み、彼の周りには無残に引きちぎられた赤い薔薇が散らばっていた。【愛されていることにあぐらをかく人がいる。人の優しさを、わがままの免罪符だと思ってるなんて。「啓司さん、落ち込まないで。
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第6話
啓司は、すっかり人のいなくなった宴会場の中央に立ち、スマホから流れる通話終了の電子音を聞いていた。画面を睨みつける彼の胸は、激しく上下していた。「啓司さん……っ」亜佐子がおそるおそる近づき、彼の袖に手を伸ばそうとする。「初音さん、本当に怒っちゃったのかな?私が説明しに行こうか?全部私が悪いの。私があんなこと……」「消えろ」振り向きもせず、啓司は低い声で言った。亜佐子はぴたりと固まり、みるみる目を赤くした。「啓司さん、そんな言い方……」啓司が勢いよく振り返る。その目は氷のように冷たかった。「消えろと言ったんだ。分からないのか」その目に心底怯えた亜佐子は少しあとずさり、顔を覆って宴会場を駆け出していった。啓司は彼女に構いもしなかった。大股でホテルを出ると、車の鍵を秘書に投げ渡す。黒塗りのマイバッハが夜の市街地を疾走していく。後部座席にもたれ、啓司はネクタイを乱暴に外した。それでも啓司は、初音が本当に去ったとは信じていなかった。3年間、初音は彼の生活における空気のようなものだった。どこにでもあって、あって当たり前のもの。彼の身の回りの雑事はすべて初音が引き受け、彼の好みはすべて初音が完璧に覚えていた。3日もわざと放っておいたのだから、もう気も済んだ頃だろう。きっとふたりで新生活のために買ったあの広い部屋に閉じこもり、泣き腫らした目で、自分が頭を下げて機嫌を取りに来るのを待っている。啓司は、そう決めつけるようにマンションへ向かった。車がマンションの下に停まる。エレベーターを降りると、啓司は合鍵で扉を開けた。「初音、駄々をこねるにも限度があるだろう。全体のことを考えろと言った意味が分からないのか?」叱責の言葉が、喉の途中で止まった。部屋の中は静まり返り、明かりもなく、人の気配が消えた冷えきった空気が満ちていた。彼は明かりをつけ、リビングを見渡す。ソファもテレビも白い防塵カバーにすっぽりと覆われ、玄関の靴箱は完全に空っぽだった。この部屋は、すでにもぬけの殻だった。啓司の鼓動が、一拍飛んだ。今まで味わったことのない動揺が、背筋を這い上がってくる。部屋に駆け込んだ彼は、不意に足を止めた。リビングの中央、何も載っていないローテーブルの上に、箱がひとつと、
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第7話
半年後。南の海沿いの町の雨季は、いつも長く、まとわりつくように湿っている。傘をさしてスーパーから出てきた私の手には、新鮮な野菜と、カットスイカの入った袋が提げられていた。あの世界から離れてから、私の暮らしは規則正しく、そして簡素になった。終わりのない残業もなく、顔色をうかがうべき婚約者もなく、私を押し潰す『全体』とやらに振り回されることもない。自宅の下まで来て、傘をたたむ。階段の照明がセンサーで灯った。薄暗い光の中、背の高い男の影が壁にもたれている。服は雨で大半が濡れ、髪が乱れたまま額にべったりと張りついていた。足元には、高級そうな保温ボックスが置かれている。啓司だった。私は足を止め、彼を見た。心は凪いだままだった。部屋を間違えた見知らぬ他人を眺めているのと同じだった。足音に気づき、彼がはっと顔を上げる。かつては常に余裕と優越を湛えていたその目は、今はひどく血走り、底に深い疲れだけを溜め込んでいた。「初音……っ」1歩踏み出し、私が手にした袋を受け取ろうとして、けれど私の静かな目に気づくと、彼は無理やり足を止めた。「ずっと、探していた」俯いたその声には、わずかに懇願の色があった。「実家にも行った。大学の同級生にも全員あたった。最後は、退職時の社会保険の移転記録まで調べて、やっとここが分かったんだ」私は彼を見て、淡々と言った。「何か用?」啓司の身体がこわばる。彼は慌てて身をかがめ、足元の保温ボックスを拾い上げた。「これ……塩キャラメルのケーキだ。前はあの店のがいちばん好きだっただろう。2時間並んで……」不器用に蓋を開け、私に見せようとする。「もう好きじゃないの」私は彼を遮った。啓司の手が宙で止まる。ケーキの甘い香りが、湿った空気の中に広がった。「……亜佐ちゃんのせいなのか?」彼は急いた口調で説明する。「あいつはもう海外へ送り返した。二度と俺たちの前に現れさせない。約束する。初音、俺が間違っていた。独りよがりで、お前の気持ちをちっとも分かっていなかった。あの赤い薔薇も、あんなに重いアレルギーだとは本当に知らなかったんだ……ただ嫌いなだけだと思っていた。指輪も、11号で作り直させた……」言葉を必死に継ぎ接ぎしながら、遅すぎる埋め合わせで
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第8話
あの日を境に、啓司も引き際を悟るだろうと思っていた。けれど私は、彼の異常な執着心を見くびっていた。翌日の昼、本屋を出て昼食に行こうとしたときだった。赤いスポーツカーが急ブレーキをかけ、私の目の前に停まった。扉が開き、ハイヒールを履いた亜佐子が飛び降りてくる。以前よりずいぶんやつれていた。何より妙だったのは、細かったはずの腰まわりが、わずかにむくんでいることだった。「浅木初音!」彼女は詰め寄ってきた。その目は、私を食い殺しかねないほどの憎悪に濁っている。「これで満足?啓司さんをあんなふうにして、私まで追い詰めて、満足なんでしょう!」私は冷ややかに、その錯乱を眺めていた。「あの人はあなたを探すために、私のカードを全部止めた。目をつけていたタワーマンションの一室まで取り上げられたのよ!」亜佐子は私の鼻先を指さし、甲高い声を上げる。「死んでもいないくせに、被害者ぶってあの人を苦しめて、何のつもり?さっさと戻って、許すって言ってあげなさいよ!」私が口を開く前に、街角から血走った目の男が飛び出してきた。啓司だった。亜佐子を見た瞬間、その顔が底なしに暗くなる。駆け寄るなり、彼は容赦のない平手で亜佐子を地面に打ち倒した。「誰が初音に会いに来ていいと言った!」頬を押さえ、亜佐子が痛みに声を上げる。「啓司さん、どうして私を殴るの?お腹には……」「黙れ!この恥知らずが!」啓司は怒りに目を見開き、彼女の嘘を容赦なく暴き立てた。「まだ俺が、お前に踊らされる間抜けだと思っているのか?夜ごと遊び歩いて、金持ちの放蕩息子どもと好き勝手やって、どこの馬の骨とも知れない男の子供を身ごもった。行き場をなくして、俺に押しつけようと帰国してきたんだろう!初音に勘づかれるのが怖くて、俺の負い目につけ込んで、ドレスの試着でも式のリハーサルでもふたりの間を引っ掻き回した。果ては初音の両親の席まで替えさせた。全部、初音を追い出して自分がその座に収まるためだ」亜佐子の顔から血の気が引き、震えながら首を振り続ける。「違う、そうじゃないの……っ」啓司は彼女を振り払い、私のほうを向いた。その目は、おそるおそる私を窺っていた。「初音、全部調べがついた。ずっとこいつが俺たちを嵌めていたんだ。俺は目が曇っていた。今、お
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