FAZER LOGIN2000万円以上もの大金をかけて用意された華やかな式場で、いちばん場違いな笑いものになっていたのは、花嫁になるはずの私、浅木初音(あさき はつね)だった。 私は薔薇の花粉にひどいアレルギーがある。それなのに会場は、わざわざ空輸した真紅の薔薇が一面に敷き詰められていたのだ。 私に合わせて念入りに採寸したはずのドレスも、いざ本番前に試着すると、ドレスの背中のファスナーは引っかかったまま、半月前に抜糸したばかりの腹部の傷口は、きついドレスに圧迫されていた。 扉を開けて入ってきた広元亜佐子(ひろもと あさこ)は、中臣啓司(なかとみ けいじ)の元恋人であるはずなのに、まるでこの式場の女主人であるかのように振る舞っていた。 彼女は手近にあった薔薇の花束を無造作に抱えると、真紅の花に覆い尽くされた柱へとゆったりと背を預ける。 「この薔薇、たしかにいい香り。嗅いでいるだけで気分が良くなるもの」 啓司が笑って応じた。 「そりゃそうさ。花は全部、亜佐ちゃんの好みで選んだんだから」 棒立ちのままの私に気づき、彼が歩み寄ってくる。少し冷えた私の手が、彼の大きな掌にすっぽりと包み込まれた。 「このところ休みなく働きづめだっただろ。見ているこっちが辛くなるくらいでさ。ちょうど亜佐ちゃんの手が空いていたから、代わりに走り回ってもらっただけだよ。 取り越し苦労はやめてくれ。何もせず、用意された式で花嫁になればいい。それで何が不満なんだ?」 そうか。胸を躍らせて準備してきたこの美しい式は、はじめから別の誰かのために誂えられた舞台だったのだ。 私の口から、苦い笑いがこぼれた。 だったら、この式は挙げない。 この婚約者も、もういらない。
Ver maisあの日を境に、啓司も引き際を悟るだろうと思っていた。けれど私は、彼の異常な執着心を見くびっていた。翌日の昼、本屋を出て昼食に行こうとしたときだった。赤いスポーツカーが急ブレーキをかけ、私の目の前に停まった。扉が開き、ハイヒールを履いた亜佐子が飛び降りてくる。以前よりずいぶんやつれていた。何より妙だったのは、細かったはずの腰まわりが、わずかにむくんでいることだった。「浅木初音!」彼女は詰め寄ってきた。その目は、私を食い殺しかねないほどの憎悪に濁っている。「これで満足?啓司さんをあんなふうにして、私まで追い詰めて、満足なんでしょう!」私は冷ややかに、その錯乱を眺めていた。「あの人はあなたを探すために、私のカードを全部止めた。目をつけていたタワーマンションの一室まで取り上げられたのよ!」亜佐子は私の鼻先を指さし、甲高い声を上げる。「死んでもいないくせに、被害者ぶってあの人を苦しめて、何のつもり?さっさと戻って、許すって言ってあげなさいよ!」私が口を開く前に、街角から血走った目の男が飛び出してきた。啓司だった。亜佐子を見た瞬間、その顔が底なしに暗くなる。駆け寄るなり、彼は容赦のない平手で亜佐子を地面に打ち倒した。「誰が初音に会いに来ていいと言った!」頬を押さえ、亜佐子が痛みに声を上げる。「啓司さん、どうして私を殴るの?お腹には……」「黙れ!この恥知らずが!」啓司は怒りに目を見開き、彼女の嘘を容赦なく暴き立てた。「まだ俺が、お前に踊らされる間抜けだと思っているのか?夜ごと遊び歩いて、金持ちの放蕩息子どもと好き勝手やって、どこの馬の骨とも知れない男の子供を身ごもった。行き場をなくして、俺に押しつけようと帰国してきたんだろう!初音に勘づかれるのが怖くて、俺の負い目につけ込んで、ドレスの試着でも式のリハーサルでもふたりの間を引っ掻き回した。果ては初音の両親の席まで替えさせた。全部、初音を追い出して自分がその座に収まるためだ」亜佐子の顔から血の気が引き、震えながら首を振り続ける。「違う、そうじゃないの……っ」啓司は彼女を振り払い、私のほうを向いた。その目は、おそるおそる私を窺っていた。「初音、全部調べがついた。ずっとこいつが俺たちを嵌めていたんだ。俺は目が曇っていた。今、お
半年後。南の海沿いの町の雨季は、いつも長く、まとわりつくように湿っている。傘をさしてスーパーから出てきた私の手には、新鮮な野菜と、カットスイカの入った袋が提げられていた。あの世界から離れてから、私の暮らしは規則正しく、そして簡素になった。終わりのない残業もなく、顔色をうかがうべき婚約者もなく、私を押し潰す『全体』とやらに振り回されることもない。自宅の下まで来て、傘をたたむ。階段の照明がセンサーで灯った。薄暗い光の中、背の高い男の影が壁にもたれている。服は雨で大半が濡れ、髪が乱れたまま額にべったりと張りついていた。足元には、高級そうな保温ボックスが置かれている。啓司だった。私は足を止め、彼を見た。心は凪いだままだった。部屋を間違えた見知らぬ他人を眺めているのと同じだった。足音に気づき、彼がはっと顔を上げる。かつては常に余裕と優越を湛えていたその目は、今はひどく血走り、底に深い疲れだけを溜め込んでいた。「初音……っ」1歩踏み出し、私が手にした袋を受け取ろうとして、けれど私の静かな目に気づくと、彼は無理やり足を止めた。「ずっと、探していた」俯いたその声には、わずかに懇願の色があった。「実家にも行った。大学の同級生にも全員あたった。最後は、退職時の社会保険の移転記録まで調べて、やっとここが分かったんだ」私は彼を見て、淡々と言った。「何か用?」啓司の身体がこわばる。彼は慌てて身をかがめ、足元の保温ボックスを拾い上げた。「これ……塩キャラメルのケーキだ。前はあの店のがいちばん好きだっただろう。2時間並んで……」不器用に蓋を開け、私に見せようとする。「もう好きじゃないの」私は彼を遮った。啓司の手が宙で止まる。ケーキの甘い香りが、湿った空気の中に広がった。「……亜佐ちゃんのせいなのか?」彼は急いた口調で説明する。「あいつはもう海外へ送り返した。二度と俺たちの前に現れさせない。約束する。初音、俺が間違っていた。独りよがりで、お前の気持ちをちっとも分かっていなかった。あの赤い薔薇も、あんなに重いアレルギーだとは本当に知らなかったんだ……ただ嫌いなだけだと思っていた。指輪も、11号で作り直させた……」言葉を必死に継ぎ接ぎしながら、遅すぎる埋め合わせで
啓司は、すっかり人のいなくなった宴会場の中央に立ち、スマホから流れる通話終了の電子音を聞いていた。画面を睨みつける彼の胸は、激しく上下していた。「啓司さん……っ」亜佐子がおそるおそる近づき、彼の袖に手を伸ばそうとする。「初音さん、本当に怒っちゃったのかな?私が説明しに行こうか?全部私が悪いの。私があんなこと……」「消えろ」振り向きもせず、啓司は低い声で言った。亜佐子はぴたりと固まり、みるみる目を赤くした。「啓司さん、そんな言い方……」啓司が勢いよく振り返る。その目は氷のように冷たかった。「消えろと言ったんだ。分からないのか」その目に心底怯えた亜佐子は少しあとずさり、顔を覆って宴会場を駆け出していった。啓司は彼女に構いもしなかった。大股でホテルを出ると、車の鍵を秘書に投げ渡す。黒塗りのマイバッハが夜の市街地を疾走していく。後部座席にもたれ、啓司はネクタイを乱暴に外した。それでも啓司は、初音が本当に去ったとは信じていなかった。3年間、初音は彼の生活における空気のようなものだった。どこにでもあって、あって当たり前のもの。彼の身の回りの雑事はすべて初音が引き受け、彼の好みはすべて初音が完璧に覚えていた。3日もわざと放っておいたのだから、もう気も済んだ頃だろう。きっとふたりで新生活のために買ったあの広い部屋に閉じこもり、泣き腫らした目で、自分が頭を下げて機嫌を取りに来るのを待っている。啓司は、そう決めつけるようにマンションへ向かった。車がマンションの下に停まる。エレベーターを降りると、啓司は合鍵で扉を開けた。「初音、駄々をこねるにも限度があるだろう。全体のことを考えろと言った意味が分からないのか?」叱責の言葉が、喉の途中で止まった。部屋の中は静まり返り、明かりもなく、人の気配が消えた冷えきった空気が満ちていた。彼は明かりをつけ、リビングを見渡す。ソファもテレビも白い防塵カバーにすっぽりと覆われ、玄関の靴箱は完全に空っぽだった。この部屋は、すでにもぬけの殻だった。啓司の鼓動が、一拍飛んだ。今まで味わったことのない動揺が、背筋を這い上がってくる。部屋に駆け込んだ彼は、不意に足を止めた。リビングの中央、何も載っていないローテーブルの上に、箱がひとつと、
車が走り出した瞬間、窓の外を流れるネオンが、長年私を閉じ込めていた城を、遠く後ろへと置き去りにしていった。息苦しい探り合いも、幾度となく重ねてきた妥協も、すべて昨夜に置いていこう。3人で演じてきたこの歪な芝居の舞台は、まるごとあのふたりに譲ってやる。新幹線が暗い夜の中を真っ直ぐに駆けていく。窓の外の景色は滲んだ光の帯になり、次々と後ろへ流れ去っていった。スマホの電源は、もう切ってある。私が消えたと知ったとき、啓司がどんな顔をするかなど想像する必要はない。それはもう、私とは一切関わりのないことだから。2日後。本来なら、式を挙げているはずの日だった。南の海沿いの町のカフェで、私は予備のスマホを取り出し、仕事用のアカウントにログインした。ログインした途端、おびただしい数のメッセージが一気に流れ込んでくる。大半は会社の同僚や、事情を知らない取引先からの結婚祝いだった。だがその中に紛れて、啓司の秘書から大量のボイスメッセージがずらりと並んでいる。1件目を再生した。「浅木様、どちらにいらっしゃるんですか?社長が控室で、激怒しています」2件目。「浅木様、式場から、一方的にすべての進行を中止されたと連絡が。装花スタッフまで撤収してしまって、現場はもう大混乱です!」3件目。「浅木様、電話に出ていただけませんか。社長は、今すぐ戻ってくるなら今回のわがままは水に流してやる、と」焦りきった秘書の声を聞いていると、そのときの啓司の表情までありありと目に浮かぶようだった。彼はきっと、私が正気を失ったと思っている。完璧に閉じた彼の理屈の中では、私は式を人質にして彼を折れさせようとしているだけなのだ。そのうえで、水に流してやる、と安全な高みから言っている。私は秘書に返信することなく、そのままトーク画面を閉じた。SNSのタイムラインを開く。10分前、亜佐子が新しい投稿をしていた。1枚の写真だった。オーダーメイドのスーツを着た啓司が、がらんとした宴会場の椅子に座っている。彼の顔色は恐ろしいほどに暗く沈み、彼の周りには無残に引きちぎられた赤い薔薇が散らばっていた。【愛されていることにあぐらをかく人がいる。人の優しさを、わがままの免罪符だと思ってるなんて。「啓司さん、落ち込まないで。
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