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第4話

Author: 千両箱
司朗は、私の学費を稼ぐために、泥にまみれて工事現場で働き、時には誰かの舎弟として危ない橋を渡ることさえ厭わなかった。

あの頃の彼は傷が絶えず、ボロボロになっていく姿を見るのが辛くて、私は「もう学校なんていい。一緒に働きたい」と泣いてすがった。

そんな私を、彼は初めて激しい声で怒鳴りつけ、半月もの間、口をきいてくれなかった。

それ以来、私は二度とそんな弱音は吐かないと誓い、死に物狂いで勉強して、常に学年トップの成績を維持し続けた。

司朗も泥水をすするような下積みから這い上がり、ついには頂点へと昇り詰めた。

彼は私を大切に守ってくれた。彼なしでは生きていけないと思い込んでしまうほどに。

二十年。そのあまりに長い月日のせいで、私たちが入籍もしていなければ、式さえ挙げていなかったことを、私はすっかり忘れてしまっていた。手元にあるのは、たった一つの、飾りのないシンプルな指輪だけ。

そして今、その指輪はもう、何一つ繋ぎ止めることはできない。

私は弁護士を雇い、財産分与合意書を作成した。司朗が起業した際、ずっと隣で支え続けてきたのは私だ。

接待の席で無理に酒を煽り、胃を壊してまで契約を勝ち取ってきた。

この財産は、私が命を削って手に入れた、当然の対価だ。

合意書は整ったが、司朗とは連絡がつかなかった。

人づてに探りを入れると、彼は佳雪を連れて旅行に出かけているという。

【琉叶さん、兄貴と何かあったのか?旅行、琉叶さんを置いてったってマジかよ?

一緒にいるあの女、誰なんだ?まさか愛人か?琉叶さん、一体どうしちまったんだよ。計画してたあのプロポーズ、本当にこのまま進めるのか?】

田中拓海(たなか たくみ)は、かつての司朗の舎弟だ。司朗が事業を成功させた後は、彼のホテルの切り盛りを任されている。

拓海は、私と司朗がここまで歩んできた道のりを一番近くで見守ってきた男だった。

そしてあの逆プロポーズは、司朗の三十二歳の誕生日に私が贈るはずだった、とっておきのサプライズだった。

【もういいの。全部中止にして】

拓海から、困惑を隠しきれないメッセージが届く。

【どうしてだよ?やっぱりあの女のせいか?

琉叶さん、兄貴がどれだけ君を愛してるか、俺たちが一番よく分かってる。入籍しなかったのは、まだ経営が不安定で、君に苦労をかけたくなかったからだ。彼は君の人生を縛りたくないってずっと言ってたんだぞ。

あの女のことは、絶対に何かの間違いだ。頼むから、もう一度だけ兄貴にチャンスをやってくれよ】

昔の司朗は、確かに恐れていた。私に不自由のない暮らしをさせてやれない、この自分の不甲斐なさを。だから、私が結婚を切り出す際、あの指輪を贈ることで私をなだめていた。

けれど今や、彼の心にはもう、私以外の誰かが住み着いている。

業務の引き継ぎのために会社へ向かうと、司朗が戻っているという話が耳に入った。

人事に退職届を叩きつけた後、私はそのまま社長室へと向かった。

エレベーターを降りた瞬間、数人の女たちの下世話な噂話が聞こえてきた。

「ねえ佳雪、琉叶さんと社長、本当に入籍してないの?だって、社長が彼女のことを『うちの奥さん』として紹介してるの、私、確かに聞いたことがあるんだけど……」

「嘘をついて何の得があるの?司朗の口から直接聞いたんだから間違いないわよ。それに、私のお腹にはもう司朗の子がいるの。彼、私にプロポーズまでしてくれたわ」

佳雪はこれ見よがしに手を掲げ、薬指に嵌まったまばゆいばかりの大粒のダイヤの指輪を自慢げに見せつけた。

周囲から、羨望の入り混じった感嘆の声が上がる。

「すごーい!じゃあ佳雪、あなたもうすぐ『社長夫人』ってわけ?まさに玉の輿ね!」

「本当、佳雪は運がいいわよね。私、前から気づいてたわ。社長が本当に大切に思ってるのは、あなただって」

「本当よね。あの琉叶って人もいい年して、籍も入れてないくせに『社長夫人』気取りだなんて。本当に図々しい」

佳雪は満面の笑みを絶やさず、女たちのおべっかを悦に入った様子で受け取っていた。

私に気づくと、彼女はわざとらしく薬指のダイヤの指輪をこちらへ向け、勝ち誇った顔で言った。「ねえ、琉叶さん。司朗は今、誰にも邪魔されたくないって言ってるんだ。だから、あなたは……」

「目障りよ。失せなさい」

佳雪は一瞬で顔を白くさせ、屈辱に震えながら下唇を噛んだ。

社長室に入り、差し出した合意書を一瞥した司朗は、不快そうに眉を寄せた。

「……サインはしないぞ」

「いいわ。なら、私の持ち株はすべて競合他社に売り払うだけよ」

司朗は重いため息をついた。「琉叶、俺は本当は……」

「司朗!お腹が、お腹が痛いの……今、琉叶さんに突き飛ばされて……赤ちゃんに何かあったらどうしよう!」

司朗の顔色が変わり、反射的に彼女へ駆け寄ろうとする。

私はその腕を掴み、無理やりペンを握らせた。

「サインして」

司朗は無表情に私を射抜いた。その瞳には、隠しきれない失望の色が滲んでいる。

彼は殴り書きのような筆致で署名を済ませると、その合意書を私の顔に叩きつけるようにして放り出した。

「これで満足か?琉叶。いい加減、いつまでそうやって被害者ぶって騒ぎ立てるつもりだ」

そう言い捨てると、彼は佳雪を横抱きにすると、私を一瞥もせず、足早に部屋を去っていった。

書類の端で切れた頬の痛みを、指先でそっとなぞる。頭の中は、彼が最後に見せたあの冷え切った眼差しで埋め尽くされ、胸の奥が張り裂けそうなほど疼いた。

その時、スマホの着信音が鳴り響いた。

「琉叶、何時に着く予定かな。空港まで迎えに行くよ」

……

私は名義にしていた家も車もすべて売りに出し、不動産業者に早急な現金化を頼んだ。

司朗との二十年の歳月が染み付いたこの街に、私が戻ることは二度とないだろう。

司朗の心をすっかり奪い去った佳雪は、もはや隠そうともせずに自らの「勝利」を誇示し始めていた。

【琉叶さん、司朗は私のものよ。どうせ入籍もしてなかったんだし、いい加減、彼の前から消えてくれない?

この子には、ちゃんとした温かい家庭が必要なの。

司朗が施設育ちだってことは、あなたも知ってるでしょ?本当に彼のためを想うなら、これ以上付きまとわないで】

司朗がいかにその子を愛しんでいるかを思い知らせるように、彼女は何枚もの写真を送りつけてきた。そこには、彼女のお腹にそっと顔を寄せ、胎児の鼓動に耳を澄ませる司朗の姿が写っていた。

三年前、私の妊娠がわかったあの日、司朗は狂喜乱舞した。

彼は壊れ物を扱うような手つきで、私のお腹に耳を寄せ、まだ見ぬ命の鼓動を聴こうとしていた。

「まだ胎芽の状態よ。形にすらなってないんだから」私が彼の耳を弄ぶと、彼はとろけるような優しい眼差しで私を見上げ、私たちの未来に想いを馳せ始めた。

「琉叶。俺もようやく、君を幸せにできる自信がついた。経営も安定したし、正式に籍を入れよう。

名前は何がいいかな。琉叶の名前から一文字もらって、何かいい組み合わせはないか?」

「まだ男の子か女の子かもわからないじゃない。それに、無理に私の名前を入れなくてもいいのよ」私は笑って、彼をからかった。

「だめだ。二人の愛の結晶なんだから、絶対に意味のある名前にしたいんだ」

司朗が一晩中悩み抜いた末に、二つの名前を決めた。

男の子なら、長谷亮叶(はせ あきと)。

女の子なら、長谷琉奈(はせ るな)。

けれど、あの子は運命に恵まれなかった。

妊娠三ヶ月の頃、司朗が競合他社の男たちに拉致された。

知らせを受けた私は、居ても立ってもいられず、相手が要求した契約書を掴んで無我夢中で車を走らせた。彼を救いたい一心だった。けれど、その道中で凄惨な交通事故に遭い――あの子の命は、その場で失われた。

私たちは、子供が生まれたら籍を入れる約束をしていた。

けれど司朗は「君が狙われるのが怖い」と言い、入籍を先延ばしにするようになった。

私は、彼は本気で私の身を案じているのだと信じ込んでいた。けれど、彼が佳雪にプロポーズしたことを知り、ようやく悟った。彼はただ、私と結婚する気がなくなっただけなのだ。

震え続けるスマホを操作し、佳雪の連絡先を拒否リストに放り込む。

機内には、離陸を告げるアナウンスが流れ始めた。

電源を切ろうとしたその時、一本の電話が入った。私は無意識に通話ボタンを押していた。

「……今どこだ。今夜、少し話そう」

スピーカーから聞こえてくる司朗の疲れ切った声が、機内のアナウンスと重なる。

私は淡々と事実を告げた。「飛行機の中よ。司朗、私たち、もう終わりにしましょう」

二十年というあまりに長い月日に、せめて最後くらい、綺麗な幕引きをさせてあげたかった。

電話の向こうは、しんと静まり返った。ちょうどその時、客室乗務員がこちらへ歩み寄り、スマホの電源を切るよう促した。

私は「さよなら」とだけ告げて、彼の声を待たずに通話を切った。そして、迷わず機内モードに切り替えた。
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