LOGIN諏訪美優(すわ みゆ)が諏訪琉生(すわ るい)と結婚した年、琉生は市内の時代広場の大型ビジョンを貸し切り、3日間ずっと二人の馴れ初めを綴ったシルエット映像を流し続けた。その時集まった999万ものお祝いのコメントが、美優にとっての「絶対に揺るがない愛の証」となったのだ。 しかし、その愛の証は、結婚5年目にして静かに崩れ去った。 この時美優はふらつく体を引きずり、産婦人科から帰宅した。そしてピアノのトロフィーが並ぶ壁を空虚な瞳で見つめながら、健診結果の用紙を握りしめたままの手をまだ下ろせずにいると、琉生から着信があった。 「ここんとこ、ピアノの練習で忙しいんだ。健診には一緒に行けないから、とりあえず家でゆっくり休んでいてくれ」 電話に出ると、琉生の穏やかな声が聞こえてきた。返事をする間もなく、通話はすぐに切れた。 しかし昨日、琉生の予定を確認していた。本来なら、練習など入っていないはずの時間だ。 美優がすぐにかけ直すと、相手の電源は切られていた。琉生にここまで拒絶され、生活に踏み込まれたくないのだと察し、彼女の胸はひどく痛んだ。 自分はただ、二人の子供が流産してしまったことを伝えたかっただけなのに。 美優は深く息を吸い込み、健診結果の用紙を写真に撮って琉生に送った。その後、アドレス帳からある番号を探し出して電話をかけた。 「離婚の手続きをお願い。もう、琉生とは別れるから。 子供は……もう亡くなったの。私にはもう、何も思い残すものはないから」
View More洋子は数か月前にA市へ転勤となり、美優の名義のマンションで暮らしていた。だから、そんなに待たずして、洋子が前方から走ってきたのが見えた。そして、洋子は駆け寄るなり美優を力いっぱい抱きしめた。「美優、やっと帰ってきたね。会いたかったよ!今回はどのくらいいるの?」洋子はスーツケースを受け取ると、興奮気味に聞いた。「少しだけ。1週間くらいかな」美優は洋子の肩に頭を預け、疲れ切った声で答えた。「それなら私が最高のプランを組んであげる。ゆっくりくつろげるようにね」洋子は胸を叩いて自信満々に言った。美優は活き活きとした洋子の姿に思わず笑みがこぼれ、二人はそのまま帰路についた。「琉生さんのことは聞いた?」道中、洋子はルームミラー越しに尋ねた。美優は小さく頷いた。「琉生だけじゃなく、凪が除名されたことも知っているわ。でも、私には関係ないこと。琉生との関係はもう終わったの。いつまでも相手のことにこだわっている暇なんてないもの」それを聞いて、先ほどまで心配そうだった洋子は、ホッと胸をなでおろした。帰宅後、美優は身支度を済ませると、深く眠りに落ちた。再び目を覚ますと、洋子が手料理を作って待っていた。食後、洋子は美優を仕事現場まで車で送った。ところが、バックヤードで準備をしていると、そこに琉生の姿があった。しばらく会わないうちに、琉生はひどく痩せ細り、年齢よりも老けて見えた。黒々としていた髪には白いものが混じっているのだった。こうして、二人は見つめ合ったまま、どちらからも言葉を紡ぐことはなかった。そして、スタッフから催促の声がかかり、美優は琉生に会釈をしてその場を去った。一方、琉生はテイクアウトの袋を手にしたまま、そこに立ち尽くしていた。乾いた目を瞬かせながら、彼は美優が遠ざかっていく姿を必死に追いかけた。自分と別れた後の美優は、信じられないほど美しくなっていた。5年前よりも表情は大人びて、落ち着いた雰囲気がある。だから、離れたほうが、美優は幸せになれるのかもしれない。そう思いながら、琉生は隅っこに身を隠し、ステージでメディアと交流する美優の姿を静かに見守っていた。昔は美優が、こうして舞台の下から自分を見つめていたものだ。まさに立場が逆転したということか。自信に満ちた美優の顔を見ながら、琉生はかつての日
そして琉生が出てくると、別人のようになっていた。美優にまつわる品々を丁寧に片付け、一番目立つ場所に飾ったのだ。寝室にあった二人のウェディングフォトもリビングへと移し、壁一面を飾っていた数々のトロフィーと置き換えた。最後に、琉生は壁に飾ってあったトロフィーを一つずつ箱に入れ、その後、物置へと放り込んだ。自分の気持ちに気づくのが遅すぎた。失って初めて、全てを悟ったのだ。自分にとって本当に価値があるものはトロフィーではなく、美優との家庭なのだ。しかし、気づいたときにはもう遅い。美優はもう去ってしまった。すべてを終えると、琉生はかつて美優のために用意した999万の言葉が書き留められたメモを、結婚式の動画とともにUSBに入れた。それから、彼はプロジェクターのある部屋でそのデータを開き、ソファにもたれかかっては、結婚した当時の姿を何度も繰り返し見た。再び美優が屈託なく微笑み、自分を見つめる時の潤んだ瞳を見るたびに、彼の胸が締め付けられるようだった。そして誓いを立てる美優の姿を見て、琉生の目尻が赤く染まり、悔恨の涙が零れ落ちた。その豆のような涙のしずくが手の上へ滴り落ち、そして胸の奥へと染みこんでいくのだった。「誓います。順境であれ逆境であれ、貧しきときも富めるときも、いつまでも添い遂げます……」幸福に満ちた、期待あふれる美優の声が、琉生の耳に繰り返し響いた。「誓います。順境であれ逆境であれ。貧しきときも富めるときも、いつまでも添い遂げます……」その言葉が、今となっては鋭いナイフのように琉生の心に刺さった。荒ぶる心は、痛みを抱えながらも思い出の中に逃げ込み、彼はひたすら美優が去った現実を認めないようにした。そうやって思い出という名のシェルターの中に隠れ、沈み込んでいった。その日以来、琉生はその部屋にこもり、昼夜を問わず酒をあおるようになった。数日後、アルコール中毒で集中治療室へと運ばれ、2週間近く意識が戻らなかった。退院後、やつれきった琉生の姿を見て、哲平は息を飲んだ。白いシャツに覆われた骨張った体は、かつての凛とした姿が全く見当たらないのだ。まるで骸骨のようだ。それはまさに生死をさまよってきたからこそ、そんな変わりようを見せたのだろう。「旦那様、体が大事です。どうか、お酒を控えられてください
哲平に指示を出し終えた琉生は、スタジオでかつて美優と凪の間に起きた諍いを思い出し、そのままスタジオへと向かった。スタジオの扉を開けると、琉生は当時、美優が凪を妬んでいたと証言した数人の受講生を問い詰めた。そして尋問の末、ついに真相を知った。今回の一件も、やはり凪が美優を陥れたのだった。「なぜあの時、本当のことを言わなかった!」琉生は抑えきれない怒りをぶつけた。「ご存知の通り、諏訪さんはいつも奥さんと武田さんの間で、武田さんを贔屓していました。武田さんに睨まれたくなくて、そう言わざるを得なかったんです。どうかお許しください。もう二度と嘘はつきません」「全部、武田さんに脅されていたんです!話さなければスタジオから追い出すと。本当に仕方がなかったんです。諏訪さん、今回だけ見逃してください」と言って、受講生たちは次々と凪の悪事を暴露した。琉生が問い詰めていると、晴人がスタジオから不正に消去されていた防犯カメラのデータを復元し、琉生に差し出した。画面には、美優が物置に閉じ込められた後、琉生のいない隙を突いて凪が受講生の飼っていた蛇を放り込む姿が映っていた。その光景を目にした琉生は目を大きく見開き、モニタから聞こえる「せいぜい楽しんでね、この蛇は毒がないから」という凪の冷酷な言葉に愕然とした。そして彼は背筋に冷たいものが走るのを感じた。美優は小さい頃から蛇が苦手なのに、凪はそんなことまでしていたのか?あの時、自分は何をしていたんだ?美優がただ自分に構ってほしくて倒れたフリをしていると思い込み、病院にも送らず、適当なタクシーに乗せて家に返しただけだった。そこまで考え、琉生は苦しみに耐えかねてデスクの上のグラスを払いのけた。「凪はどこにいる?」彼は喉を締め付けるような声で問い詰めた。「もう数日もスタジオに来ていません」勤怠管理をしていた人が震えながら答えた。琉生はすぐさま凪に電話をかけたが、電源は切れていた。胸騒ぎを覚えながらも、彼は苛立ちに任せて受講生たちを追い出した。「探せ。何としてでも居場所を突き止めろ」琉生はタバコを取り出して火を点け、冷酷な口調で隣の晴人に命じた。そして晴人の手により、凪の隠れ場所はすぐに見つかった。凪はZ国から戻ると荷物をまとめ、琉生のスタジオから高価な備品を持ち出し、そのまま人里離れた
美優が初めて花を贈ってくれた時、花の中にそっと手紙を忍ばせていた。自分はそれを快く受け取った。次に、美優が映画に誘ってきた時、わざわざカップル席を予約したのに、それを恥ずかしがって内緒にしようとした。それも本当は気がついていたのだが、彼はあえて黙っていた。そして3度目のデートでは、美優がマフラーを編んで贈ってきた。「両親に編むために練習用に編んだの」と言いつつ、補習をしてもらったお礼だと渡してくれた。それは自分だけのために編まれたものだった。……こうして、これまでの出来事が、次から次へと琉生の脳裏に浮かぶ。美優の言った通りだ。自分には彼女を許してもらう資格も、やり直しを願う資格もない。あの生まれてこなかった子供たちが、二人にとって永遠に埋まらない溝となるだろう。今の自分には、死を選ぶ資格さえない。ただ生きて、残りの人生で罪を償うしかない。そう思って、琉生はもう美優の電話にかけたり、声優事務所へ待ち伏せに行ったりするのをやめ、病院で療養に専念することにした。1週間後、美優が参加したプロジェクトが賞を獲得したと聞き、琉生はあれこれ悩み抜いた末に、彼女のお気に入りの洋菓子店でケーキを注文したあと、空港へ向かった。「諏訪さん、どうしてご本人に直接渡さないのですか?」送迎の晴人が尋ねる。琉生は街を過ぎ去る景色を見て、首を振った。「自分が行けば美優は絶対に受け取らないが、これなら受け取ってくれるかもしれない」それを聞いて、晴人はルームミラーで疲弊した琉生を見やり、何も言わずにアクセルを踏み込んだ。一方、打ち上げで飲み終えた美優は、佐野雅也(さの まさや)に連れられて声優界の重鎮たちと挨拶を交わしていた。「伊藤さん、いつも期待を超えてくれるんですね。私の最新作のヒロインがこれでようやく見つかりそうですよ」と、国際的な映画監督が嬉しそうにグラスを掲げた。その直後、監督が何かに気づいたようで表情を曇らせた。美優は瞬時にその訳を察し、笑顔で気まずい場を和らげた。そして、美優の返事を待たずに相手は問いかけてきた。「実は本作にはI国語ができることが必要なんですが、伊藤さんはできますか?」そういわれ美優は少し驚いたが、頷いて答えた。「学んだことがあります。I国語だけでなく、L国語やS国語も日常会話程度なら大丈夫です」
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