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第2話

Author: リンゴ
楓が承諾すると、1ヶ月後にリヴィエール行きのプライベートジェットの搭乗案内がすぐにスマホに届いた。

ネットにあふれていたAI画像も、父の手によって全部消された。

でも、楓は知っていた。自分が受けた傷はもう一生消えないってことを。

気持ちを整理して、散歩に出かけた。

けれど道端では、知らない人たちが楓を指さしてひそひそ話している。

「あの人が、最近ネットで話題のあの女じゃない?」

「本人、けっこう可愛いな。いくらくらいで遊べるんだろ」

「やめとけって。ああいう女、タダでも要らないわ」

楓の胸が苦しくなり、うつむいたまま早足でその場を離れた。

会社の前まで来て、ちょっと休憩がてら夜になるまで中で過ごそうと思った。

でも、不思議なことに、広いオフィスには誰の姿もない。

エレベーターで最上階の社長室へ直行すると、ドアの向こうから人の声が聞こえてきた。

パーン!

クラッカーが頭上で鳴った。

律がケーキを押して入ってきて、後ろの社員たちは色とりどりのプレゼントを持っていた。

オフィスの中はまるでおとぎ話の城みたいに飾り付けられている。

楓が入ってきた瞬間、全員がぴたりと静まり返る。律の顔がみるみる不機嫌になる。「なんでお前なんだよ」

楓が何も言わないうちに、もうひとつのエレベーターが開いた。

美波が嬉しそうに飛び出してきた。「わぁ、全部私のため?」

律の顔は一瞬で優しくなった。「そうだよ。うちの可愛いお姫様の誕生日だからな」

みんなが祝福の言葉をかけ、美波にプレゼントを手渡していく。

その楽しげな光景を見ながら、楓はふと思い出した。結婚一年目、律は仕事で家にいない日が続いた。

楓は毎日、手作り弁当と果物を会社に届けては、夜遅くまで律に付き添っていた。自分の誕生日ですら例外じゃなかった。

友達が0時にケーキを届けてくれたが、律はそれを無造作にゴミ箱へ。「ここは会社だ。誕生日祝いしたいなら家でやれ」

突然、オフィスの照明が落ちた。

みんながハッピーバースデーを歌う中で、美波は目を閉じて願いごとをしている。

その隣で、律の目はとろけるような優しさに満ちていた。楓を見る目とはまるで別人のようだった。

楓は誰にも声をかけず、冷たく笑ってその場を後にした。

タクシーで桜庭家へ向かう。

家には明かりがついていたけれど、自分のために灯されたものは一つもなかった。

にぎやかな話し声も、楓がドアを開けた瞬間にピタリと止まる。みんなが楓を見て黙り込む。

悠真が咳払いをして沈黙を破った。「楓、どうしたんだ」

楓はみんなの視線を無視して言った。「前に、全部終わったら一つだけお願いを聞いてくれるって言ってたよね。まだ有効?」

「もちろんだよ」悠真は眉をひそめる。「でも、無理なことはダメだぞ」

言わなくても、楓には悠真が何を気にしているのかわかっていた。どうせ自分がこれを口実に、無理やり結婚を迫るとでも思っているんだろう。

自分が、彼にとってどれだけ安っぽい存在なのか、よくわかっていた。

「名前を滝川楓に戻したい。それから、新しい戸籍を作りたい」

名前を変える手続きは自分だけでできる。でも、戸籍を移すには色々と面倒な手続きがいる。楓はどうしても悠真に相談するしかなかった。

悠真は一瞬驚いたが、すぐに頷いた。

家を出ると、部屋の中でひそひそ声が聞こえてきた。

「結局、楓は家を出て悠真と正式に一緒になりたいだけなんじゃないの?」

「ほっとけよ。俺は絶対、あいつとは結婚しない」

楓は自嘲気味に口元を上げて微笑んだ。どうでもいい。もう興味もなかった。

家に戻ると、律が黒いレザーソファに足を組んで座っていた。ドアの音に気づくと、だるそうに顔を上げた。

「こんな夜中にどこ行ってた?」

律は楓がどこで何をしてたかなんて興味もない。楓は適当にごまかした。「実家に寄っただけ」

律は目を細めたが、追及しなかった。「明日のコンサート、美波も出たいって」

楓はプロのチェリストで、学生時代から有名だった。明日のコンサートは、自分が準備してきた「お別れ会」でもある。

これが終わったら、名前も人生も新しくやり直すつもりだった。

もう一人くらい伴奏が増えてもいい。どうせもう終わりだし、これ以上ややこしいことを増やしたくなかった。そう自分に言い聞かせて、うなずいた。

律は少し意外そうにした。こんなに素直に承諾するとは思っていなかったのだろう。

律は今日の午後、友人から言われた言葉を思い出す。

「律、本当に羨ましいよ。家には何でもしてくれる奥さんがいて、外には初恋の人がいる。

初恋は世の中にたくさんいるけど、楓みたいな女は世界に一人しかいないよ」

友達が羨ましがるのが普通なら嬉しいはずなのに、楓のことをそう言われると、どうしても胸がざわつく。

帰宅したばかりの楓が、休む間もなく夕飯の支度をしている姿を見て、律はふっと眉を上げた。

もし、美波が自分の命の恩人じゃなかったら、自分は楓に夢中になっていたかもしれない――そんなことを、何度も考えた。

でも、そんな「もしも」はこの世にない。

律は、美波に渡すはずだったプレゼントを楓に差し出した。「これ、お前にやるよ。明日のコンサート、恥だけはかかせるなよ」

律は楓の目の前で、彼女の首にネックレスをかけてやる。二人の間に、一瞬だけ甘い空気が漂った。

楓が驚いて何か言いかけた時、美波専用に設定された着信音が突然鳴り響いた。

「律くん、酔っちゃった。会いたいよ」

電話の向こうから甘えた声が響く。律は無意識に喉を鳴らし、そのまま部屋を出ていった。

楓は、ドアが閉まる音を聞くと、無表情で包丁を置き、書斎に向かった。明日の演奏の練習を始めるためだ。

ふと、本棚の一角にある「機密書類」が目についた。

今までなら律に関する物なんて見向きもしなかったのに、今日はなぜか手が伸びる。

書類を開いた瞬間、思わず笑ってしまった。

律が美波に何年も執着してきたのは、彼女を命の恩人だと勘違いしていたからだった。

でも同じ日、同じ場所で自分も人を助けていた。その証拠の感謝状は、今も引き出しの中にある。

今日はなぜか、律がこの真実を知る日が楽しみで仕方なかった。

楓は三年前に交わした契約書と感謝状を手に取り、笑いながら宅配センターに預けた。「これ、1ヶ月後に神宮寺律に届けてください」

その契約書には、【乙・神宮寺楓は、桜庭悠真への恩返しのため、神宮寺律と1000日間の結婚生活を自ら望んで契約する】とはっきり書かれていた。
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