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さよならを手紙にかえて

さよならを手紙にかえて

By:  リンゴCompleted
Language: Japanese
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Synopsis

切ない恋

逆転

愛人

ひいき/自己中

冷酷

カウントダウン

ただ神宮寺楓(じんぐうじ かえで)(旧姓:桜庭)がSNSに投稿した写真に、たまたま月城美波(つきしろ みなみ)のペットの犬が発情している様子が映っていただけで、楓はAIで誰でも抱ける女のように加工された画像をネット中にばらまかれた。 楓は警察に通報し、相手のデマを訴えたが、「現在対応中です」と何度も返されるだけだった。 絶望した楓は、三年間結婚している夫・神宮寺律(じんぐうじ りつ)に電話をかけた。「それ、AIだろ。お前じゃないなら何を焦ってる」律の声は冷たかった。 だがその後、律はわざわざ記者会見を開き、美波の犬についてだけはしっかりと弁解した。 同じ頃、義兄の桜庭悠真(さくらば ゆうま)からメッセージが届いた。【あと一ヶ月で、俺たちの約束は終わる。一ヶ月後、どうするか自分で決めてくれ】 【出ていく】今回、楓は一切迷わずそう返した。 【三年も結婚して、本当に律に少しも感情がないのか?】悠真は驚きながらも、どこかほっとしたようだった。 みんなは楓が律に底なしに尽くしていると思っていた。 【うん、彼を愛していない】……悠真、あなたのことも。

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Chapter 1

第1話

ただ神宮寺楓(じんぐうじ かえで)(旧姓:桜庭)がSNSに投稿した写真に、たまたま月城美波(つきしろ みなみ)のペットの犬が発情している様子が映っていただけで、楓はAIで誰でも抱ける女のように加工された画像をネット中にばらまかれた。

楓は警察に通報し、相手のデマを訴えたが、「現在対応中です」と何度も返されるだけだった。

絶望した楓は、三年間結婚している夫・神宮寺律(じんぐうじ りつ)に電話をかけた。「それ、AIだろ。お前じゃないなら何を焦ってる」律の声は冷たかった。

だがその後、律はわざわざ記者会見を開き、美波の犬についてだけはしっかりと弁解した。

同じ頃、義兄の桜庭悠真(さくらば ゆうま)からメッセージが届いた。【あと一ヶ月で、俺たちの約束は終わる。一ヶ月後、どうするか自分で決めてくれ】

【出ていく】今回、楓は一切迷わずそう返した。

【三年も結婚して、本当に律に少しも感情がないのか?】悠真は驚きながらも、どこかほっとしたようだった。

みんなは楓が律に底なしに尽くしていると思っていた。

【うん、彼を愛していない】……悠真、あなたのことも、もう愛していない。その後半の言葉は口に出さなかった。

空には渡り鳥の群れが南へ飛んでいく。楓は顔を上げて、ほっとしたように笑った。

やっと離れられる。律からも、悠真からも。

三年前、桜庭家の資金繰りが行き詰まり、破産寸前だった。唯一の打開策は、星ヶ丘市で一番の名家・神宮寺家と縁談を結ぶことだった。

悠真が楓のもとにやってきて、片膝をついた。「楓、頼む、今回だけでいい。桜庭家を助けてくれ。兄として頼む」

楓は心が痛んだ。「でも、悠真、私が好きなのはあなただって知ってるのに、どうして他の男に嫁げって言うの?」

悠真は目をそらした。「俺たちは兄妹だ。無理なんだ。律は金も権力もある。楓なら幸せになれるよ」

楓は冷たく笑いながら、どうしようもなく涙が頬を伝った。

そう、律は金も権力もある。しかもまるで人を惑わすような美しい顔をしている。けれど、誰もが知っている。律の心には、ずっと「初恋の人」がいる。

律と美波は幼なじみで、誰もが二人は結婚すると思っていた。だが美波の家は一晩で破産し、【私は、ただの籠の鳥にはなりたくない】それだけを置き手紙に残して、彼女は彼の世界から消えた。

美波がいなくなってから、律は毎日酒浸りになった。神宮寺家はそんな律を心配し、楓との縁談を決めた。

だが、結婚してからも律は美波の「替え玉」を探し続け、楓を見ようともしなかった。新婚初夜ですら、律は彼女を無視して、替え玉の女を寝室に連れ込んだ。

律が楓を見てくれなければ、桜庭家が立ち直るはずもなかった。

悠真は何度も楓の前に来ては頼み込んだ。楓はプライドを捨て、必死に美波の真似をして律の好みに合わせた。

美波が好きなスカイダイビング――楓は高所恐怖症を押して飛んだ。

美波が好きな酒――酒アレルギーなのに、体中に抗アレルギー薬を注射して律に付き合った。

美波が好きな料理――フランスまで修行に行った。

努力の甲斐あって、律はようやく他の「替え玉」を全て切り捨て、楓のそばにいるようになった。

一度だけ、律は楓の唇にキスして言った。「お前はお前のままでいいんだ」

周囲は「律もようやく過去を乗り越えた、二人はきっと幸せになる」と思った。

だが、美波が戻ってきた。

律は楓をやたらと連れ回し、周囲には「夫婦仲がいい」と思わせていたが、実際は美波に焼きもちを焼かせるためだった。

楓を会員制クラブに一人で残し、律は美波とトイレで抱き合っていた。新作のドレスを全部買い与え、試着室では美波と関係を持っていた。楓の誕生日会ですら、律にとっては美波に会う口実でしかなかった。

楓はすぐに「ただの道具」になった。でも、気にしていない。

なぜなら、楓は最初から律を愛したことがなかったからだ。

十年前、母が再婚し楓は桜庭家に来たが、母はすぐに病で亡くなった。桜庭家は楓を厄介者として見ていた。唯一優しくしてくれたのは、義兄の悠真だけだった。

悠真はまるで父であり、母であり、兄でもあり……初めて生理が来た日も、顔を赤くして教えてくれ、濡れた下着も洗ってくれた。

タブーに苦しみながらも、どうしても悠真を好きになってしまった。

悠真のためなら、何でも捨てる覚悟だった。

つらい970日間、悠真の優しさだけが楓の支えだった。

あの日、楓は悠真の大好きなおにぎりを握って、家の外から様子をうかがっていた。

「みんな楓が律に夢中だと思ってるけど、本当に好きなのはお前だろ」

悠真の声は、いつもの優しさとはまるで違って軽薄だった。「ちょっと優しくしただけなのに、ここまで執着されるとは思わなかった」

「もうすぐ千日の約束が終わるけど、もし楓が本気で離婚したら、悠真、お前が引き取るのか?どうせあいつがこんなにボロボロになったのは全部お前のせいだろ」

「ありえないよ。あんなふうに使い古された女、欲しいならくれてやる」

手の中の温かいおにぎりが、ぽろりと落ちた。楓は全身の血の気が引いた。

――全部、ただの茶番だったんだ。

「じゃあ、なんでずっと誰とも付き合ってないの?」

その場がしんとなる。楓は呼吸を止めて様子をうかがった。

しばらくして、悠真はぽつりと言った。「……いい人がいなかっただけ」

楓はまるで死刑宣告された囚人みたいに、肩で大きく息をしていた。

その時、電話が鳴った。

「もしもし、楓さんでいらっしゃいますか?実のお父さまが、今ちょっと危険な状態でして……ほかにご家族がいらっしゃらないので、相続人は楓さんだけです。遺産はおよそ四千億円になります。ただ、条件として戸籍とお名前を元に戻していただく必要があるんです」
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第1話
ただ神宮寺楓(じんぐうじ かえで)(旧姓:桜庭)がSNSに投稿した写真に、たまたま月城美波(つきしろ みなみ)のペットの犬が発情している様子が映っていただけで、楓はAIで誰でも抱ける女のように加工された画像をネット中にばらまかれた。楓は警察に通報し、相手のデマを訴えたが、「現在対応中です」と何度も返されるだけだった。絶望した楓は、三年間結婚している夫・神宮寺律(じんぐうじ りつ)に電話をかけた。「それ、AIだろ。お前じゃないなら何を焦ってる」律の声は冷たかった。だがその後、律はわざわざ記者会見を開き、美波の犬についてだけはしっかりと弁解した。同じ頃、義兄の桜庭悠真(さくらば ゆうま)からメッセージが届いた。【あと一ヶ月で、俺たちの約束は終わる。一ヶ月後、どうするか自分で決めてくれ】【出ていく】今回、楓は一切迷わずそう返した。【三年も結婚して、本当に律に少しも感情がないのか?】悠真は驚きながらも、どこかほっとしたようだった。みんなは楓が律に底なしに尽くしていると思っていた。【うん、彼を愛していない】……悠真、あなたのことも、もう愛していない。その後半の言葉は口に出さなかった。空には渡り鳥の群れが南へ飛んでいく。楓は顔を上げて、ほっとしたように笑った。やっと離れられる。律からも、悠真からも。三年前、桜庭家の資金繰りが行き詰まり、破産寸前だった。唯一の打開策は、星ヶ丘市で一番の名家・神宮寺家と縁談を結ぶことだった。悠真が楓のもとにやってきて、片膝をついた。「楓、頼む、今回だけでいい。桜庭家を助けてくれ。兄として頼む」楓は心が痛んだ。「でも、悠真、私が好きなのはあなただって知ってるのに、どうして他の男に嫁げって言うの?」悠真は目をそらした。「俺たちは兄妹だ。無理なんだ。律は金も権力もある。楓なら幸せになれるよ」楓は冷たく笑いながら、どうしようもなく涙が頬を伝った。そう、律は金も権力もある。しかもまるで人を惑わすような美しい顔をしている。けれど、誰もが知っている。律の心には、ずっと「初恋の人」がいる。律と美波は幼なじみで、誰もが二人は結婚すると思っていた。だが美波の家は一晩で破産し、【私は、ただの籠の鳥にはなりたくない】それだけを置き手紙に残して、彼女は彼の世界から消えた。美波がいなくなってから、律は毎日
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第2話
楓が承諾すると、1ヶ月後にリヴィエール行きのプライベートジェットの搭乗案内がすぐにスマホに届いた。ネットにあふれていたAI画像も、父の手によって全部消された。でも、楓は知っていた。自分が受けた傷はもう一生消えないってことを。気持ちを整理して、散歩に出かけた。けれど道端では、知らない人たちが楓を指さしてひそひそ話している。「あの人が、最近ネットで話題のあの女じゃない?」「本人、けっこう可愛いな。いくらくらいで遊べるんだろ」「やめとけって。ああいう女、タダでも要らないわ」楓の胸が苦しくなり、うつむいたまま早足でその場を離れた。会社の前まで来て、ちょっと休憩がてら夜になるまで中で過ごそうと思った。でも、不思議なことに、広いオフィスには誰の姿もない。エレベーターで最上階の社長室へ直行すると、ドアの向こうから人の声が聞こえてきた。パーン!クラッカーが頭上で鳴った。律がケーキを押して入ってきて、後ろの社員たちは色とりどりのプレゼントを持っていた。オフィスの中はまるでおとぎ話の城みたいに飾り付けられている。楓が入ってきた瞬間、全員がぴたりと静まり返る。律の顔がみるみる不機嫌になる。「なんでお前なんだよ」楓が何も言わないうちに、もうひとつのエレベーターが開いた。美波が嬉しそうに飛び出してきた。「わぁ、全部私のため?」律の顔は一瞬で優しくなった。「そうだよ。うちの可愛いお姫様の誕生日だからな」みんなが祝福の言葉をかけ、美波にプレゼントを手渡していく。その楽しげな光景を見ながら、楓はふと思い出した。結婚一年目、律は仕事で家にいない日が続いた。楓は毎日、手作り弁当と果物を会社に届けては、夜遅くまで律に付き添っていた。自分の誕生日ですら例外じゃなかった。友達が0時にケーキを届けてくれたが、律はそれを無造作にゴミ箱へ。「ここは会社だ。誕生日祝いしたいなら家でやれ」突然、オフィスの照明が落ちた。みんながハッピーバースデーを歌う中で、美波は目を閉じて願いごとをしている。その隣で、律の目はとろけるような優しさに満ちていた。楓を見る目とはまるで別人のようだった。楓は誰にも声をかけず、冷たく笑ってその場を後にした。タクシーで桜庭家へ向かう。家には明かりがついていたけれど、自分のために灯さ
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第3話
翌日の夕方、楓は予定通り音楽ホールに到着した。舞台のいちばん目立つ場所には、美波のピアノがすでに置かれている。最初はリハーサルのためかと思い、特に気にしなかった。自分の演奏会なのに、美波がそこまで目立とうとするとは思っていなかった。ところが、そのピアノは開演しても片付けられなかった。楓が美波に問いただそうとした瞬間、スタッフに連れられて楽屋に閉じ込められてしまう。やっと解放されたときには、演奏会はすでに終わりかけていた。急いでスタッフに自分のチェロをステージまで運ばせると、舞台に立った瞬間、観客席から怒号が飛んできた。「返金しろ!返金しろ!」怒号とブーイングの嵐が矢のように楓の心を貫く。ふと見ると、律のために用意していた特別席は、すでに誰もいなかった。何ヶ月も準備してきた演奏会は、あっけなくめちゃくちゃにされた。楓はただ、ファンに申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。警備員に守られながら、なんとか暴徒と化した観客の中を抜けて帰宅した。玄関のドアを開けると、家の中は真っ暗で、空気がひどく冷えきっていた。律はソファに深く腰掛けて、目の奥は真っ暗で何も見えなかった。律をよく知る人間なら、今この人が本気で怒っているのがわかる。賢い人なら絶対に近づかないはずだ。「お前、俺の書類を動かしたか?」楓は一歩も引かず、素直にうなずいた。律は一瞬驚き、そして皮肉な笑みを浮かべた。「知ってもどうせ無駄だ。お前はただの政略結婚の道具、死んでも美波には勝てない」楓は静かに律を見つめ返して、何も言わなかった。律は一瞬だけ戸惑いを見せたが、その時、主寝室のドアが勢いよく開いた。美波が楓のパジャマを着て、眠そうに目をこすりながら出てきた。楓はふと思い出した。律は小さい頃から、何もかも手に入れてきた人間で、他人の気持ちなんて気にしたことがなかった。だから、楓が重い病で寝込んでいたときでさえ、律は平気で家でパーティーを開いていた。「頭が痛い」と訴えても、律はただ一言――「俺には関係ない」それなのに今は、美波が寝ているからと家中の電気を全部消し、誰にも声を出すなと命じている。律は面倒くさそうに手で合図し、楓に命じた。その顔には、楓が悔しそうに表情を歪めるのを期待している色が浮かんでいた。「今夜は美波がここで夕飯を食べていく
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第4話
律は楓の言うことを聞かなかった罰として、一晩で桜庭家と手を組んでいたすべての契約を打ち切った。楓は激しいスマホの着信音に叩き起こされた。痛む体を押さえながら電話に出ると、悠真の声が聞こえた。「楓……お前が頼んだ戸籍の手続き、もう提出した。でも、また問題を起こせば撤回する」楓の体中の血が一瞬で凍りついた。「やめて。そんなのひどいよ。約束したじゃない……!」あと一歩で全部終わるのに。ここで全てが無駄になるなんて絶対に許せない。電話の向こうで、悠真は疲れきった声で言った。「なら、最後の一ヶ月は大人しくしていろ。律にちゃんと従え」電話が切れると同時に、部屋のドアが突然開いた。律が冷たく命じる。「美波がお前と仲直りしたいってさ。今からバンジージャンプに行くぞ。五分で支度しろ」そう言い捨てて、ドアをバタンと閉めた。本当はバンジージャンプなんて嫌いだし、美波と関係を修復したいとも思っていない。でも、また逆らえばどうなるか分かっている。楓は無表情でそっと目を閉じた。返事をする間もなく、五分後、ボディーガードがドアを蹴破り、楓を無理やり車に乗らせた。リムジンの窓際で、楓は一人腕を抱えて目を閉じていた。今日はまだ傷の手当てもできていない。痛みを我慢しながら、眠ればマシになると自分に言い聞かせ、やがて車の揺れの中で眠りに落ちた。反対側の席では、律と美波がまるで他に誰もいないかのように親しげに寄り添っている。前の座席で、運転手と秘書がひそひそと話していた。「奥さま、かわいそうだな。あんなことされても怒りもしないなんて……」「奥さまは律さまのことが好きなんだよ。離婚さえしなきゃ何でも我慢できるって聞いたことあって」律はぼんやりと楓を見つめる。窓辺で縮こまる楓は、小さな猫のように従順だった。彼も人間だ。この何年も、楓の思いやりや尽くし方を見ていなかったわけじゃない。ずっとこうしてくれるなら、彼女に妻という立場を与え続けてもいい――ふと、そんなことまで思ってしまう。でも、その陰で美波の目は鋭く光っていた。どれくらい時間が経っただろう。車がようやく停まった。どこまでも深く落ちていきそうな崖を見下ろし、楓は思わず歯を噛みしめ、震える自分を必死に抑えた。美波が大きな目をぱちぱちさせて律に甘える。「律くん、久
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第5話
楓が次に目を覚ましたとき、そこはもう病院だった。ベッドの横では、律がみっともないほど乱れた姿で楓の脚元に突っ伏していた。額に走る激しい痛みに、楓は思わず小さくうめいた。その声に、眠っていた律が飛び起きる。赤く血走った目はひどく疲れている。律は楓の手を強く握りしめた。「楓、どうだ。どこか痛むところは?」楓は痛みをこらえて小さく首を振った。ただ、律の不安そうな目を見た瞬間、動きが止まる。律の髪は乱れ、無精ひげが薄く伸びていた。ここで長い時間、ずっと看病していたのだとわかった。楓はためらいながら聞いた。「……ずっと、ここにいたの?」律は一瞬だけ硬直し、気まずそうに顔をそらした。「誤解するな。これは美波の代わりに、お前の面倒を見てやってるだけだ。今回の件は……俺たちがバンジーに誘ったせいだしな」その答えを聞いた瞬間、楓は胸の奥でほっと息を吐いた。――よかった。律が情を持ったわけじゃない。もう三角関係に巻き込まれるつもりはない。だが律は、楓から目を離さなかった。楓が高所恐怖症なのを知っている。それでも、美波を喜ばせるために命を投げ出した。律は思わず、美波の愛と楓の愛を比べてしまう。どんなに自分をごまかしても、結論だけは出せなかった。――もし楓が、自分の命の恩人だったなら。従順に眠る楓の横顔を見ていると、律は無意識に手を伸ばし、その白い頬に触れようとした。その瞬間、病室の扉が勢いよく開いた。悠真が入ってくる。律はハッと我に返り、慌てて手を引っ込めて眉間を押さえた。――俺は何を考えてるんだ。律は楓を見ないまま、足早に病室を出ていった。悠真は楓の頭の傷など一切見向きもせず、真っ先にこう言った。「楓、今回よくやったな。律が罪悪感を持ったおかげで、桜庭家への投資が増えた」楓は黙って聞いていた。「それと、お前の改名の手続きも俺が通しておいた。あと数日で完了する」そのとき、扉が乱暴に開いた。律が立っていて、声は氷のように冷たい。「つまり……全部お前が仕組んだってことだな」悠真は青ざめて立ち上がる。「違う……!ちがうんだ、これは……」ちらりと楓を見て、逃げるように言った。「もう帰る。あとは楓が話してくれるから」律は足元の点滴スタンドを勢いよく蹴り倒した。点滴の針が楓の腕を引き、血が
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第6話
楓の手がかすかに震えながら、離婚届に自分の名前を書いた。ペン先が止まった瞬間、ぽたりと涙が書類に落ちた。涼子は鼻で笑う。「本当に哀れだわね。あれほど律を愛してるくせに、一度も振り向いてもらえないなんて」雅人は、さすがに気の毒そうに楓を見た。「結局、うちはお前に負い目がある。何か償いが欲しいなら言いなさい」楓は涙を拭いながら、かすれた声で言った。「……最後に、律と一週間だけ一緒に過ごさせてください。この離婚届は、一週間後に渡してほしいんです」「いいだろう」部屋を出た瞬間、楓は堪えきれず泣き崩れた。胸が熱くなり、全身が興奮で赤く染まっていく。三年耐え続けて、ようやく手に入れた「離婚届」だった。もっと苦戦すると思っていたのに――涙は途切れず流れ、心臓が痛いほど跳ねる。――神さまが、あまりにも惨めな私を哀れんでくれたのかもしれない。悠真との約束まで、あと一週間。一週間後、すべてが終わる。楓は深呼吸して、徐々に気持ちを落ち着かせた。その時、隣の部屋から甘い声が漏れてきた。「律くん……ダメ……声、大きい……誰かに聞かれちゃう……」美波の半分抗うような甘え声が、壁越しに生々しく響いてくる。「聞こえても構わないだろ。誰に文句が言える」律の低い声と荒い息づかいが、耳に刺さった。やがて女の喘ぎ声は大きくなり、ベッドが壁にぶつかる音が規則的に続いた。ここは本来、楓のための寝室だった。それを二人は、ためらいもなく密会の場所にしていた。楓は乾いた笑いをもらし、帰ろうと扉に向かった。その瞬間――扉が勢いよく開いた。律は、不倫を見られてもまるで動じない。むしろ邪魔されたと言わんばかりに眉をひそめた。「……なんでお前がここにいる」中から、美波のとろけた声が響く。「家政婦さん?ねぇ律くん、服持ってきてもらって?」律が返答しようとした瞬間、楓が口を挟んだ。「持ってきます。美波さん」律の視線を避け、楓は奥へ入った。ベッドは乱れ、まだ乾ききっていない痕跡が残っている。楓は見なかったことにしてクローゼットを開け、ドレスを一着取り出して美波に渡した。そのドレスを見た瞬間、律の呼吸が止まった。それは、結婚三周年を忘れた律が「罪滅ぼし」に楓へ贈ったものだった。楓はそれさえも、ためらわず美波に差し出したのだ。律は
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第7話
美波は、最初から窓の外が一面の芝生だと知っていた。だから少し擦り傷を負っただけで済んだ。それでも律は、片時も美波のそばを離れず、ずっと付き添っていた。自分でスープを作り、ウサギの形にリンゴを切り、体を拭くのも律の役目だった。「羨ましいよね、あの美波さん。あんなにイケメンで優しい旦那さんがいてさ」「だよね。この前の楓さんなんて、あれだけひどい怪我したのに、数日経ったら誰も見舞いに来ないって」「でもそれも自業自得だよ、見る目がなかっただけ。クズ男と結婚したんだから」ドアの外で聞こえてくる看護師たちの会話に、律の顔が一気に険しくなった。バンとドアを開け、鋭い声で言い放つ。「また陰口叩いてるの聞いたら、ただじゃおかないぞ」看護師たちは驚いて慌ててその場を離れた。律は、あの日楓が見せた強い目を思い出していた。どうしても心が落ち着かなかった。眉間を押さえてイライラと呟く。「美波……あの日、本当は何があった?どうして窓から落ちたんだ?」美波は一瞬で涙を浮かべ、潤んだ目で律を見上げる。「何度も言ったよ、律くん。楓さんが、私たちが関係を持ってるのを見て怒って、私を突き落としたの。信じてくれないの?」愛する女の涙で、律の苛立ちは一気に消えた。そっと美波の涙を拭いながら、優しく言う。「もちろん信じてるよ、美波」美波は涙ぐんだまま上目遣いで言う。「少しだけでいいから、楓さんに罰を与えたいの。手伝ってくれるよね?」律はしばらく黙った後、静かにうなずいた。その頃、別荘で楓の携帯に【戸籍・改名手続き完了】のメッセージが届いた。楓は勢いよく立ち上がり、家の荷物をまとめ始めた。「家」と言っても、最初からここを出るつもりで物を増やさなかったので、持ち物は最小限。小さなキャリーバッグすら埋まらなかった。三年過ごしたこの家に、ほとんど思い出も未練もなかった。必要最低限だけを詰めて、虚しく笑う。三年いても、こんなに荷物が少ないなんて、自分でも呆れるくらいだ。ドアの外で物音がして、荷物を隠す暇もなく律に手首をつかまれた。律の顔は不機嫌で怒りを隠そうともしなかった。「美波はまだ病院にいるのに、お前は旅行か?少しは思いやりってもんがないのか」楓は律が「旅行」だと誤解したことに、内心ほっとした。静かに手を引き抜く。「……私が突き
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第8話
律は海辺の別荘、二階のバルコニーで、美波が砂浜で水遊びしている姿を優しく見つめていた。潮風に混じって、美波の澄んだ笑い声が彼の耳に届く。今、こうして海外にいれば楓に邪魔されることもない。本来なら、今までで一番穏やかなはずだった。けれど、律の胸はなぜかざわついて、無性に落ち着かなかった。「株価が不安定だからだ」と自分に言い聞かせる。その不安を振り払うように、空が暗くなると、律はハンガーからショールを取って外へ向かった。砂浜にいる美波の後ろにそっと近づくと、彼女は誰かと電話中だった。「もう出ていってくれたし、これで手間も省ける」美波の声には憎しみが滲んでいた。「もっとスキャンダルを流してやればいい。今度こそ株価は戻らないはず」電話の向こうが切れると、彼女は一度深呼吸して気持ちを落ち着かせ、スマホを置こうとした。そのとき、視界の端に律の姿が映った。さっきまでの怒りのこもった声色はすっかり消え、彼女は甘ったるい声に切り替える。「はい、その品は海辺の別荘に届けて。今夜は律くんにサプライズを用意してあるの」くるりと振り返って作り笑いを見せる。「律くん、いつ来たの?」律は美波の最後の一言しか聞き取れなかったが、その笑顔に思わず口元がほころぶ。手に持ったショールを美波の肩に優しくかけた。「美波はどんなサプライズを用意してくれたの?」美波は照れくさそうに律の胸を軽く叩いた。「内緒。知ったらサプライズにならないでしょ」そのやりとりをしながらも、律の胸には得体の知れない違和感が広がっていく。眉をひそめて胸に手を当て、無理やりそれを「今夜の期待感」のせいだと納得させる。夜、シャワーを浴びた後、律は窓辺に立ち、スマホをじっと見つめていた。画面には、自分が何度もメッセージを送ったまま、返信がないチャット欄が映っている。楓がこんなに長く自分の連絡を無視するのは、これが初めてだった。これまでは、いつも楓が即座に返信をくれて、自分は平気で何日も未読のままにしていたのに。――今回は本気で怒っているらしい。律は小さくため息をつき、「帰国したら、何かお土産でも買って機嫌を直してもらうか」とぼんやり思った。律は妙な不安に駆られ、ぎゅっと拳を握る。その手にふいに、細く柔らかい指が重なる。振り向くと、美波が黒いシースルーのド
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第9話
律は勢いよくドアを開け、目を細めて中に鋭い視線を投げた。「どういう意味だ、それは」ビジネスの世界で場数を踏んだ悠真でさえ、律のただならぬ雰囲気に息を呑んだ。律が一歩ずつ詰め寄る。声は氷のように冷たかった。「三年の約束って何だ?本当に好きなのはお前って、どういうことだ?」悠真は全身をビクッと震わせ、おどけたように愛想笑いを浮かべた。「いやいや、誤解だよ律さん。家族の間の話さ。俺たち兄妹で三年って期限で賭けをしてただけ」律の顔から険しい色が消え、こわばった体もやや緩んだ。「楓がいなくなったって?前に荷物まとめてたし、旅行にでも行ったんだろ」悠真は安堵の息をついた。「そうか、それならよかった」話が終わると、律は家には戻らず、そのまま会社へ向かった。深夜三時まで仕事を続け、疲れ果てて椅子にもたれながら思わず口にした。「……楓、水を持ってきてくれ」しかし、広いオフィスには自分の声だけが響くだけだった。律は苦笑した。こんな大変な時に、楓は家にも戻らず、外で遊び歩いて、メッセージにすら返事もしない。甘やかしすぎたのかもしれない。妻の座を一生与えてやろうとまで思っていたのに、楓はそれでも自分の言うことを聞かずに、際限なく自分の我慢を試している。――言うことを聞かない妻は、ちゃんと罰を与えて調教するべきだ。律は顔を険しくして、電話をかけた。「……澤村(さわむら)先生ですか?離婚届を用意してくれ」向こうでキーボードの音が響く。「適当でいい、ただ妻をちょっと脅してやりたいだけだから」あれだけ自分を愛してた楓だ、少し脅してやるくらいがちょうどいい。小さな罰だ、反省したらまた許してやればいい。待つ間、律はぼんやりと、結婚したばかりの楓を思い出していた。あの頃はどう喜ばせればいいかも分からず、ドジばかりだった。初めて料理を作ったときは、しょうゆを油と間違えて使い、律はむせ返りそうになった。初めて一緒に寝た夜は、顔を真っ赤にして唇を噛みしめ、必死に彼を受け入れていた。美波が戻るまでは、自分だって楓に優しかった――律の目が陰る。けれど、美波が帰ってきてから、楓はどんどん変わった。昔の素直で可愛い子は消え、嫉妬深くて意地悪な女になっただけだった。そのとき、電話の向こうから声がした。「律さん、離婚届は作れません」
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第10話
律はドアを蹴り開けて家に入ったが、室内は静まり返り誰もいなかった。律は鼻で笑い、あまりの苛立ちで頭が真っ白になっていた。楓がまだ旅行から帰っていないことさえ、すっかり忘れていた。スマホを取り出し、冷たい声で命じる。「……妻を必ず連れ戻せ」だが、数日たっても楓の消息はまったくつかめなかった。律は暗い表情で寝室に立ち尽くす。家の中の家具はすべて揃っている。けれど、楓の日用品だけがいくつか消えていた。家中を探し回り、やっとベッドの下から楓のキャリーケースを見つける。足りない持ち物はすべてそこに詰められていた。律は荷物の中の服を握りしめ、息が詰まりそうになる。――楓は、こんなにも急いで自分の元を去ったのか。何ひとつ惜しまず、全てを置いて。この家にも、自分にも、もう何の未練もなかったのだ。そのときスマホが鳴った。「律さん、スパイが見つかりました」律の顔にかすかな安堵がよぎる。誰かが自分に歯向かってくるなら、今こそ怒りを晴らす時だ。車の鍵を掴み、郊外へと向かう。郊外の廃工場では、スパイが袋をかぶせられ、高いところに吊るされていた。数発の鞭打ちで、男はすぐにすべてを白状した。「全部、美波さんの指示です。会社の機密を渡せば、将来一生面倒を見ると約束されて……律さんと美波さんは仲が良いし、彼女が次の奥さんかもって。まさか会社に害をなすなんて思わなくて……」律の瞳が細くなり、全身が凍りつく。「美波が……?バカな。死ぬ間際になって、まだ嘘をつく気か」スパイは震えながらも訴える。「本当です!証拠もあります!」証拠が目の前に突きつけられた瞬間、律はこの残酷な現実を認めざるを得なかった。自分の幼なじみであり、初恋の人であり、この世界で一番愛した女性――美波が、まさか自分を裏切っていたなんて。分厚い書類の束が、すぐに秘書から律の手に渡された。こめかみが不安に脈打つ。まるでこれから自分に死刑宣告が下されるかのような感覚だ。しばらく目を閉じて深呼吸し、ついに書類を開く。一枚目にはこう書かれていた――美波は帰国して最初に、律の競合会社に連絡を取り、取引を成立させた。その後は律の会社の機密情報を次々と売り渡していた。律は思わず息が詰まり、怒りで血管が浮かび上がるほどだった。どうにか冷静を保とうとしながら、さらにペ
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