LOGINただ神宮寺楓(じんぐうじ かえで)(旧姓:桜庭)がSNSに投稿した写真に、たまたま月城美波(つきしろ みなみ)のペットの犬が発情している様子が映っていただけで、楓はAIで誰でも抱ける女のように加工された画像をネット中にばらまかれた。 楓は警察に通報し、相手のデマを訴えたが、「現在対応中です」と何度も返されるだけだった。 絶望した楓は、三年間結婚している夫・神宮寺律(じんぐうじ りつ)に電話をかけた。「それ、AIだろ。お前じゃないなら何を焦ってる」律の声は冷たかった。 だがその後、律はわざわざ記者会見を開き、美波の犬についてだけはしっかりと弁解した。 同じ頃、義兄の桜庭悠真(さくらば ゆうま)からメッセージが届いた。【あと一ヶ月で、俺たちの約束は終わる。一ヶ月後、どうするか自分で決めてくれ】 【出ていく】今回、楓は一切迷わずそう返した。 【三年も結婚して、本当に律に少しも感情がないのか?】悠真は驚きながらも、どこかほっとしたようだった。 みんなは楓が律に底なしに尽くしていると思っていた。 【うん、彼を愛していない】……悠真、あなたのことも。
View More半月の約束はあっという間に訪れた。だが、律は遥を帰す気などまったくなかった。遥の忍耐はとっくに尽きていた。もうこの狂った男の「やり直しごっこ」に付き合う気力など残っていない。15日目の零時ちょうど。遥は待ちきれないように律の寝室のドアを開けた。室内では、律が遥の写真を手に、溺れるような声でつぶやいていた。「……楓」もう片方の手は、盛り上がった下腹部を激しく動かしている。遥が立っていることに気づいた瞬間、律の目が異様なほど輝いた。「遥……許してくれたのか?」しかし遥は、表情ひとつ動かさず言った。「十五日が終わった。約束どおり、帰して」律の動きが止まった。瞳の光が急速にしぼんでいく。「……この十五日間……少しも俺に心を動かさなかったのか?」心を動かす?遥は鼻で笑いながら答える。「あなたが私を傷つけた時、一度でも心を痛めたことある?」律はうつむき、乱れた前髪が徐々に狂気を帯びていく表情を隠していた。「……そうか。もう寝よう。明日、ここを出よう」翌朝。律は約束どおり、遥を飛行機に乗せ、来たときと同じように、静かに島を離れた。滝川家の庭に足を踏み入れるまで、遥は信じられない気持ちだった。つい昨日まであれほど狂気に満ちていた律が、まるで別人のように穏やかだったからだ。屋敷に入る前、遥はふと足を止め、振り返った。「……もう二度と会わないで。あなたの幸せを祈ってる」律は静かに笑った。「楓、お前を手放せるわけがない」してやったりというように飛行機の後部ドアを開けた。中には――びっしりと、時限爆弾が並んでいた。律の瞳に宿るのは、狂気と執着の混ざった光。「楓……俺と一緒にいてくれないなら……一緒に死のう。お前のいない世界なんて、俺には無理だ」遥はその場で固まった。その背後から、恒一と海斗が駆け寄ってきた。今度こそ二人とも、遥を見捨てて逃げることはなかった。恒一と海斗は遥の手を左右から握った。「大丈夫だ。一緒だからな」でも遥は、自分のせいで父が死ぬなんて、とても耐えられなかった。胸が引き裂かれるような痛みの中で、ふいに笑みがこぼれる。きっと、これが自分の運命なのだ。幸せになんてなれない、そう決まっているのだろう。彼女はすべてを受け入れた。父の手を振り払うと、律のもとへと駆けだした。こ
遥は、目の前で血まみれになっている律から視線をそらした。自分の声が、驚くほど平静なのがわかった。「……でも、私が受けた傷は、あなたが自分を傷つけたところで消えないよ」律の身体からは絶えず血が流れ、床は真っ赤に染まっていた。それでも彼は、まるで痛みを感じないかのように低く言う。「どうしたら、許してくれる?」遥は淡々と答えた。「……きれいに終わりにしましょう。律」その日を境に、律はまるで何もなかったかのように――いや、それ以上に狂ったように遥へ尽くし始めた。かつて遥は、律のために自分の嫌いなことまで必死に覚え、努力し続けていた。だが今、立場は完全に逆転していた。遥は静かな時間を好む。律は何十億のプロジェクトをも投げ捨て、一日中何もせず、ただ遥の横で黙って海を眺めた。遥はお茶を好む。彼は毎朝、山に登って自分で新芽を摘み、丁寧に煎れた。遥は魚を好む。律は炎天下の海で、黙々と釣り続けた。その姿を見て遥は、胸が痛くなるような気持ちになった。昔の私は、こんなふうに見えていたのか。可哀想で、哀れで、ひたすら自分をすり減らして。そして今、遥ははっきり理解した。こんな関係では、永遠にうまくいかない。恋愛は「対等」でなければ成立しない。どちらか片方だけが尽くし続ければ、残るのは崩壊だけだ。律の傷が少し良くなった頃、彼は遥を海辺へ連れ出し、一本のロープを手渡した。深くて、切ないほど真剣な目で遥を見つめながら言う。「前に俺は……お前が高所恐怖症だと知りながら、無理やり屋上に吊るして、丸一日苦しめた。だから今度は、俺の命をお前に預ける。それに……この命はもともとお前がくれたものだしね」言い終えるやいなや、遥が止める暇もなく、律は自分の身体に大きな石を縛りつけ、海へ飛び込んだ。重りは凄まじい勢いで律の身体を海底へ引きずり込む。十五年前――遥が救った少年。その少年が律だったからこそ、彼がどれほど水を恐れているか遥は知っていた。三年の結婚生活の間、一度たりとも律が海に近づくところを見たことがない。そんな律が、いま自ら海へ飛び込んだ。時間が一秒、また一秒と過ぎていく。静まり返った海面に、ぽつりと波紋が広がった。律が水中で必死にもがいている証だった。氷のように冷たい海水が、律の耳、鼻、口……から容赦なく流れ込み、幼い頃に溺れた記
床に倒れた男は、もう以前のような穏やかで優しい雰囲気など微塵もなかった。いや、あれはもともと作り物だったのだ。ただあの頃の遥は幼く、人の二面性を見抜けなかっただけ。遥は、震え上がる悠真を見下ろしながら、不思議なほど心が静かだった。――なんだ。悠真なんて、ただの普通の人間だったんだ。自分が勝手に、愛という幻想で彼を神格化していただけ。今振り返れば、なんて滑稽だったのだろう。遥は深く息を吸った。「いいよ。あなたと一緒に行く。ただし……半月だけ。半月経ったら、私を元の場所に戻して」会場中が一斉に息を呑んだ。律は目を細めて、歯を食いしばりながら低く言った。「……そんなに、あいつが好きなのか」海斗が素早く遥の腕をつかむ。「遥、行くな。僕が君を守る」遥は彼の腕をそっとたたき、微笑んでみせた。だが海斗に背を向けた瞬間、その微笑みはすっと消え、冷たさだけが残る。「いいえ。あの人はもう好きじゃない。だから私は海外に来てるし、今日だって別の人と結婚しようとしてる」遥は冷静に続けた。「ただね……今日私が行かなかったら、あなたは何をしでかすか分からない。だったら、早く終わらせるだけ」遥は父に安心するよう声をかけ、海斗を振り返り、その唇は無言のメッセージを形作っていた――お父さんをお願い。すぐ戻るから。海斗は葛藤しながら遥を見つめていたが、結局は彼女の決意を尊重するしかなかった。遥はゆっくり階段を降り、律が構えた銃口に手を伸ばし、下へ押し下げた。「行こう」……律は自ら操縦するプライベートジェットで遥を連れ出し、人気のない孤島へ降り立った。飛行機から降りた瞬間、律は濡れた子犬のように遥を抱きしめた。まるで、恋に狂った恋人同士のように見えた。だが二人だけが、この間に横たわる深い溝を知っていた。「これでようやく、誰にも邪魔されずにいられる。ここは……お前と俺だけしか知らない場所だ」遥は顔をこわばらせ、律を引き剥がそうともがく。しかし律は必死に抱き締め、逃がす隙を与えない。「あなた、半月経ったら私を戻すって約束したよね」律はその腕にさらに力を込めた。遥を自分の中に埋め込むような強さで。「楓……行かないで。お願いだ」こんなに卑屈な律の声を、遥は初めて聞いた。だが、彼女の心は微動だにしなかった。「ここにはもう、私
家に帰ろう?遥は、その言葉に一瞬ぼうっとした。この十年間、遥には「家」と呼べる場所なんてなかった。桜庭家も、神宮寺家も――どこも、彼女を温かく迎え入れてくれる本当の家ではなかった。家族を名乗る人間たちは、むしろ「家族」の名のもとに彼女を傷つけてきた。会場がざわつき始める。「今のって、神宮寺家の律さん?今は神宮寺グループの社長で、遥さんの元夫」「まさか、これって結婚式を乗っ取るつもりじゃ……?」海斗の表情から、初めて笑みが消えた。彼は一歩前に出て、遥の前に立ちはだかる。「警備員、この男を外へ」警備員たちが一斉に会場へなだれ込んで、律を取り囲んだ。律は鋭い目で海斗を睨みつける。その一瞬で、無言の火花が二人の間を走る。遥はようやく我に返り、ボロボロの律を見て、心の奥で言葉にできない切なさが広がった。「律、何しに来たの?あなたに渡した書類を読んだなら、もう全部分かったはず。私は……あなたを愛したことなんて、一度もない」律はすべてを知っていたはずなのに、その事実を遥の口から聞いた瞬間、ひときわ大きく肩を震わせた。何度も夢に見た相手が目の前にいる。律は衝動的に一歩踏み出し、かすれた声で言う。「信じるもんか。たとえお前が俺を愛していなくても、俺はお前を愛してる」「……何度言えば分かるの。私は、あなたを愛したことなんてないし、これからも絶対に愛することはない」遥は律の目をまっすぐ見て、ひとことひとこと、はっきりと突き刺した。「でも、お前は俺の命の恩人なんだ。恩返しすらさせてくれないのか?」律の声は、今にも壊れそうなほど弱々しかった。でも、遥はただ静かに言った。「律、あなたは人違いの恩返しのために、私にたくさん残酷なことをしてきた。今度は私に恩返しするって言って、また誰かを傷つけようとするの?そんな恩返し、私は望んでいない」律の顔色はさらに真っ青になり、必死に言葉を重ねた。「違うんだ、楓、全部美波……いや、あの女のせいなんだ!全部あの女に騙されてた。でも、今日はちゃんと連れてきた。過去の苦しみも、全部復讐できるようにした」その言葉の直後、美波が引きずられて会場中央に投げ出された。これまでの気の強さは消え失せ、腕を抱えて震えている。「私、もう悪いことしないから、ごめんなさい、本当にごめんなさい…