LOGIN晴臣がノートパソコンに指を滑らせながら、最後のスライドを確認していたときだった。会議室の扉が静かに開き、ほんのわずかな空気の流れが、部屋の中の湿度を変えた。
誰かが入ってきた。気配だけで、空間の輪郭が変わったのがわかった。
視線を上げた瞬間、時間が一瞬だけ止まったように感じた。
岡田だった。
だが、いつもの岡田ではなかった。
グレーの三つ揃いスーツ。肩のラインがぴたりと合ったジャケットは、立っているだけで輪郭を引き締め、存在感を際立たせる。シャツは清潔な白、その首元を締めるのは深い藍色――限りなく黒に近い、光を吸い込むような艶のあるネクタイだった。
目元にかかっていた髪は丁寧にセットされ、雨で濡れても崩れないように軽くスタイリングがされている。寝癖どころか、一本の乱れもない。眉のラインも整えられていて、額の輪郭がわずかに見えることで、顔全体が引き締まって見えた。
晴臣は、言葉を失った。
「……誰」
思わず零れた声は、喉の奥に吸い込まれて、音にならなかった。
廊下の天井照明が、岡田のスーツの布地に柔らかく反射する。濃い影が立体的に彼の輪郭を縁取り、その背筋はまっすぐに伸びていた。無駄のない歩幅で、まるで空気を切るように歩いてくる。
晴臣はその場に立ち尽くしたまま、視線を逸らせなかった。
まず目に入ったのは、胸元。ネクタイの結び目は、左右均等なディンプルを作り、シャツの襟元にきっちりと収まっている。あれだけ苦手そうにしていたネクタイが、今日は一分の隙もなかった。
その視線は、喉元に移る。細く張った鎖骨のライン。喉仏が、呼吸に合わせて静かに上下しているのが見える。その動きに、視線が吸い寄せられる。
「……あれが、課長…?」
胸の奥に、ひやりと冷たいものが落ちた。雨ではない。なのに、濡れたように身体の芯に染みていく。見慣れたはずの岡田のはずなのに、晴臣の目には、まったくの別人に映っていた。
周囲のざわめきが、ほんのわずかに耳に入る。
「え、あれ…岡田課
雨音が、夜を優しく叩いていた。窓の向こうでは、街灯が淡く滲んでいる。薄いカーテンを通してぼんやりと浮かぶオレンジ色の光が、寝室の壁に柔らかな陰を落としていた。時折、風に揺れるカーテンの影が壁を撫で、まるでこの静けさすらも何かを許しているようだった。ベッドの上、岡田と晴臣は毛布の上に並んで座っていた。肩と肩が触れるか触れないかの距離。エアコンの風が肌を撫でていくのに、部屋の空気はどこか緊張に満ちていた。岡田の視線は、まっすぐに晴臣の目を見ていた。けれど、その奥にはまだ残る戸惑いと、逃げ場を探すような色が薄く浮かんでいた。晴臣もまた、息を浅く整えながら、黙って岡田を見つめていた。どちらからも言葉は出なかった。いや、言葉にしてしまえば壊れそうで、互いの気持ちが手のひらから零れ落ちそうで…ただ黙っていることしかできなかった。岡田の喉が、小さく鳴った。そのわずかな音が、雨音の中ではっきりと響いた。晴臣のまぶたが、ほんの少しだけ落ちる。それから、ごく自然な動きで、指先を岡田の前髪に滑らせた。しっとりとしたその髪の感触は、ほんの少し前まで雨の中にいた名残を思わせた。晴臣の指は、前髪をそっとかきあげるだけで、すぐに離れた。触れたのはほんの一瞬だったのに、岡田の肩が小さく揺れた。「…もう逃げへん」岡田が、ぽつりと呟いた。その声は小さかったが、きっぱりとした響きを持っていた。「たぶん、また不安になることもある思う。勝手に塞ぎ込んだり、ややこしいこと考えたり…でも、それでも、逃げへんて決めた」晴臣の喉が、かすかに鳴った。一度目を伏せ、それからそっと笑った。「逃げるなら、今のうちですよ」その言葉に、岡田はかすかに口角を動かした。「遅いな」「…じゃあ、もう手遅れですね」晴臣は、静かに体を傾けた。岡田の胸元に手を伸ばす。ワイシャツの第一ボタン、そのすぐ下に結ばれたままのネクタイの結び目へ
雨の音は、途切れることなく窓を叩いていた。細かく規則的なその音は、まるで遠い記憶の断片を呼び起こすように、静かに部屋の隅々へと染み渡っていく。時計の針は深夜を越えていたが、岡田の部屋には眠気の気配すらなかった。ただ、沈黙だけが、長く、深く、そこにあった。晴臣は、まだ岡田の隣に座っていた。ソファの端と端を使っていたはずの距離は、気づけばぴたりと寄り添っていた。互いの肩がわずかに触れ合うその距離。体温が交差するたび、息の仕方さえも静かに変わっていく。岡田はずっと黙っていた。晴臣の手を握ったまま、ゆっくりと、言葉を選んでいた。小さな呼吸の合間に、肩が少しだけ動く。やがて岡田は、晴臣の肩へとそっと手を伸ばした。躊躇いがちに触れたその手は、ほんのわずかに震えていたが、それでも確かに触れていた。「…俺も、好きなんや」岡田の声は低く、かすれていた。けれど、その一言には迷いがなかった。過去に縛られてきた自分を、今、ほんの少しだけ前に進ませるような…そんな勇気が滲んでいた。「…あんたのこと、ほんまに、好きや」その言葉に、晴臣は何も答えなかった。ただ、肩に置かれた岡田の手に、自分の指をそっと重ねた。それは会話でも約束でもなかった。ただそこに、静かに触れるという選択だった。触れられた岡田の指が、ほんの少しだけ、強く晴臣の手を握り返す。ふたりの手のひらに伝わる温度は、熱すぎず、冷たすぎず、ただ優しくそこにあった。過去の傷も、恐れも、不安も、その一瞬だけはすべて静まっていた。外では、まだ雨が降り続いている。窓を叩く雨粒の音が、ゆっくりとしたリズムを刻み、室内の静けさに柔らかく溶け込んでいた。まるでふたりを包み込むように、どこまでも穏やかに。岡田は、まっすぐ前を見つめたまま、ぽつりと呟いた。「俺な…たぶん、これからも臆病なままやと思う。過去のことも、きっと完全には割り切れへんし、自信なんてすぐには持たれへん」「…」「でも、それでも&he
岡田はソファに沈むように身を投げ出し、背もたれに頭を預けていた。吐く息は浅く、胸の奥に残る熱が抜けきらずにいる。言葉をぶつけ合ったあとの空白が、部屋の空気にじっとりと沈殿していた。さっきまでの雨は弱まり、窓の向こうでは水の粒が静かにガラスを滑り落ちていく。けれど、外の世界が静かになればなるほど、室内の音がいやに耳に残った。時計の秒針が一秒ごとに空気を割って、はっきりと響く。岡田は手のひらで顔を覆い、そのまましばらく動かなかった。肩はほんのわずかに揺れていたが、それが呼吸の乱れなのか、感情の波なのかは分からなかった。ただ、その姿には、男の弱さと脆さが凝縮されていた。晴臣は何も言わず、そっと岡田の隣に腰を下ろした。ソファのクッションがわずかに沈む。距離は触れられそうで触れない、けれど逃げられないほどには近い。そのまま、何秒か、あるいは何分か、ふたりは何も言わなかった。沈黙が会話の続きを催促するように、部屋にじんわりと広がっていた。「…俺」晴臣の声が、深く低く、部屋の空気に溶けた。「課長の過去ごと、好きです」岡田の肩がわずかに揺れた。顔を覆っていた手がゆっくりと降りていき、岡田は無言のまま視線を前に落とした。涙の跡が頬に一筋残っている。けれどその表情には、もう拒絶の色はなかった。「お前、ほんまにアホやな…」そう呟いた岡田の声は、掠れていた。喉が乾いているような、かすかに震える響きだった。「なんでそんな、丸ごと好きになんねん」「好きになった人の一部だけ好きなんて、俺にはできません」晴臣は横を向いた。「だって、それじゃ“人”じゃなくて、理想しか愛せないじゃないですか」岡田は、言葉の意味を噛みしめるように目を伏せた。「俺、前にも言いましたけど…あんたを抱いた責任を取りたいだけじゃないんです」晴臣の声は、決して強くはなかった。けれど、それはまっすぐに岡田の胸の奥へ届いた。「俺があ
給湯器の低い唸りが、沈黙の部屋にぼんやりと響いていた。窓の外では、まだ雨が細く降り続いている。空気はぬるく湿って、梅雨の夜特有の重たさを含んでいた。リビングのソファには岡田が、対するようにダイニングテーブルの椅子に晴臣が腰を下ろしている。互いの距離は、まるで踏み込めない境界線のように、不自然にあいたままだった。岡田は煙草を咥えようとして、けれど途中で思い直したのか、ライターを握ったまま手を膝に置いた。その拳がわずかに震えていた。「…だからな」沈黙を破った岡田の声は低く、掠れていた。「俺は、お前を幸せにする資格なんてあらへんのや」「資格?」晴臣の声が、それにすぐ返る。「そんなもの、誰が決めるんですか」「決まってる。俺自身や」晴臣は顔を上げた。湿った空気に息を吸い込み、少しの間、言葉を選ぶように唇を閉じる。「またそれですか。逃げる言い訳に、自分を下げるのは」「ちゃう、逃げてへん。俺はただ…分かってんねん。俺と一緒におっても、お前は損するだけやって」「損得で人を好きになるわけじゃないです」岡田の顔がぴくりと動いた。「…お前は若い。まだなんぼでも可能性ある。もっとええ男も、ええ人生もある。こんな冴えへん課長の隣で止まるな」「止まってるのは課長の方です」返ってきたその言葉は、刃物のように鋭く静かだった。岡田は口を開きかけたが、何も言えずに俯いた。こめかみを押さえるように片手を額にやり、もう片方の手の拳は膝の上で震え続けていた。膝に力が入り、テーブルの上にぽたりと一滴、水が落ちる。さっきまで髪に残っていた雨のしずく。それが晴臣には、岡田の涙のように見えた。「…なんで、そんなに俺に食らいついてくんねん」岡田がぽつりとこぼした。「傷つくのが怖ないんか。俺はお前に痛い思いさせるかもしれんのに」「それでもいいと思えるほど、好きなんです」その言葉に岡
街灯の明かりが滲むほどの、濡れた空気だった。午後十時を回ったばかりの夜、会社帰りの人々が通り過ぎていく中で、晴臣はただひとり、動かずに立っていた。スーツの肩には水滴がいくつも浮かび、髪は額に張りついている。雨は容赦なく降り続き、背広の生地を重く染めていたが、彼は傘を持たなかった。ポケットに手を入れるでもなく、スマートフォンを取り出すこともせず、ただマンションの入り口に身じろぎもせず立ち尽くしていた。湿ったアスファルトから立ち上る匂いが鼻を刺す。遠くで車のクラクションが鳴ったが、晴臣の目は、ただエントランスの奥をまっすぐに見据えていた。ようやく足音が聞こえたのは、日付が変わる少し前のことだった。マンションの角を曲がったその人影を、晴臣はすぐに見分けた。岡田だった。駅からの帰り道、肩を少しすぼめて歩いてくるその姿は、いつもと同じようにスーツのジャケットがよれていた。ネクタイは緩められ、革靴の音はどこか疲れた調子で、急ぐ様子もないまま雨に濡れながら近づいてくる。だが、玄関前に立つ晴臣に気づいた瞬間、岡田の足が止まった。「…は?」声にならないつぶやきが、唇から零れた。傘も差さず、ずぶ濡れのまま彼を見上げる晴臣の姿に、岡田は明らかに面食らった表情を浮かべた。慌てたように鞄から折りたたみ傘を取り出しかけて、けれど途中でその動きを止める。「おま…なんで、こんなとこで…」声が、どこか揺れていた。晴臣は、なにも言わなかった。ただ視線を逸らさず、じっと岡田を見ていた。額に張りついた前髪の下、睫毛には雨粒がいくつも残っている。その瞳は冷たくもなく、ただ静かで、どこまでも真っ直ぐだった。岡田は眉をひそめ、困ったように笑う。「何してんねん…風邪ひくで。アホちゃうか」近づいてきた彼は、自分の傘を差し出そうとするが、そこで指がわずかに震えているのに気づいた。晴臣の前に立った瞬間、その震えは少し大きくなった。「傘くらい…持って来いや…」
夜風が吹き抜けるたびに、街の色が少しずつ滲んで見えた。電車を降りた晴臣は、駅前の歩道を歩きながら、ポケットの中の指先を握りしめていた。スーツの上着では風を防ぎきれず、肌の奥にまで冷たさが染みてくる。ひと駅分、ふたりで並んで帰るはずだった道。あの給湯室の会話のあと、岡田は何も言わず背を向けて歩き出し、晴臣も追うことはできなかった。黙ったままエレベーターに乗った岡田の背中を、遠くから見ているしかなかった自分が、今も胸の奥で引っかかっていた。足は自然に、職場近くの小さなコンビニへ向かっていた。理由はなかった。何かが欲しかったわけでもない。ただ、何かをするふりをしていたかっただけだった。自動ドアが開くと、店内の暖かさが一瞬で頬を撫でた。明るすぎる蛍光灯と、静かに流れる店内音楽。誰もいない時間帯のせいか、店員はレジ奥で何かを仕分けていた。晴臣はコーヒーの冷蔵棚の前に立ち、手を伸ばす。指先が缶の金属に触れる。ひんやりとした冷たさが、今の気持ちと重なった。棚から取り出した缶をそのまま持ってレジに向かい、無言で会計を済ませる。外に出ると、風が一層冷たくなっていた。自販機の横にある木のベンチは、雨の名残を吸い込んで、どこか暗く沈んでいる。その脇に立ち、缶を開けた。プルタブの開く音が、思ったよりも乾いて響いた。ひと口飲むと、甘さが喉に絡んだ。いつもなら仕事の合間に飲んでいる味のはずなのに、今夜はただ、胸の奥を鈍く刺激するだけだった。ポケットに入れていたもう一方の手が、無意識に傘の取っ手を探して空振りする。そうだ、と小さく思う。傘は岡田に預けたままだった。それがなんだ、と自分に言い聞かせる。返してもらう必要はない。そんなもの、ただの荷物だ。けれど、岡田がその傘を今、どこに置いているのか。ちゃんと家まで持って帰ったのか。そんなことばかりが頭に浮かんで、捨てられていたらどうしよう、なんてくだらない想像すらしてしまう。缶を持つ指先に、じわりと冷たさが滲む。ひと口、またひ