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その後、残されたのは沈黙だけ
その後、残されたのは沈黙だけ
Author: 苺タルト

第1話

Author: 苺タルト
婚姻届を提出したその日――

久遠澪奈(くおん れいな)が婚姻届を黒瀬颯真(くろせ そうま)に差し出した瞬間、彼のスマートフォンが鳴り響いた。

通話を終えたときには、颯真の笑みは跡形もなく消えていた。

電話を切った彼は、申し訳なさそうに澪奈の手を握りしめる。

「澪奈……待っていてくれ。今度こそ、俺たちの両親を殺した奴らを見つけ出し、必ず血の報いを受けさせてやる」

澪奈は、こんな言葉のあとに待ち受けている運命を、想像すらしていなかった。

三か月後、彼女のもとを訪ねてきたのは颯真の上司だった。

差し出されたのは、弔慰金と「殉職」の通知書。

「久遠さん……颯真は任務中に襲撃を受け、殉職しました。遺体は……確認されていませんでした」

鷲尾剛司(わしお たけし)隊長の声は、押し殺すように重かった。

通知書に貼られた写真の中で、颯真はまだ少年のように笑っていた。

その日を境に、澪奈の世界は音を立てて崩れ去った。

重度の鬱は蔦のように絡みつき、昼は目を開ける力すらなく、夜になれば悪夢に引きずり込まれる。

夢の中、全身血まみれの颯真が手を差し伸べる。

「澪奈……もう、待つな」

ある朝、澪奈はソファに横たわり、再び手首に傷を刻んだ。

血の気が引く意識の中、テレビの画面に映ったのは――見間違えるはずのない人影。

彼女は目を大きく見開き、息をすることさえ忘れていた。

市民祭り「百組カップルイベント」のニュース。

群衆の片隅を映すカメラの先に、白いシャツを着た颯真がいた。

彼は、白いワンピースの少女の裾についた落ち葉を、穏やかに払い落としていた。

刃物が「カラン」と床に落ちる。

澪奈は血の滴る手首も構わず、よろめきながら外へ飛び出し、警察署へ駆け込んだ。

「彼……生きてるんですよね?」

鷲尾の袖を掴み、震える声で叫ぶ。

「見たんです!颯真を!あの女と一緒に!」

鷲尾は目を逸らし、深く息を吐いた。

「颯真は確かに生きている。任務中に敵に捕らわれ、救出されたときは重傷だった。目を覚ますなり、警察を辞めると願い出て……お前には黙っておけと。理由は……言わなかった」

澪奈は胃の奥がひっくり返るような吐き気に襲われ、署を飛び出した。

気づけば、両親の墓前に立っていた。

墓碑に刻まれた笑顔を見つめ、長く堪えてきた嗚咽が一気にこぼれ出る。

胸元のペアネックレスが外れ、パリンと石段に落ち、真っ二つに砕けた。

中からこぼれたのは、一枚の写真。

十八歳の夏、皇都大学の合格通知を掲げ、澪奈と颯真が笑い合う姿だった。

その記憶は、容赦なく蘇る。

あの年、颯真の両親は麻薬捜査官だった。

身元が漏れ、報復に遭い、祝賀の席へ向かう途中に待ち伏せされ、澪奈の両親も共に命を落とした。

犯人の写真が報道された瞬間、颯真は涙で顔を歪め、その場で皇都大学の合格通知を引き裂いた。

「もう一度受験して警察官になる。必ず俺の手で奴らを捕まえる」

その日から、颯真は澪奈を命のように守る存在となった。

生理痛で返信できなかったとき、彼は夜通し飛行機で灯川市から皇都まで駆けつけ、学寮の下で真っ赤な目をして立ち尽くしていた。

「澪奈……俺にはもう、お前しかいない」

だが今、彼は生きていて、仇の娘の傍らにいる。

「殉職」という嘘で澪奈を三年も地獄に縛りつけて。

澪奈は手首に重なる傷跡を見下ろし、笑みをこぼす。

涙は止まらないまま。

――黒瀬颯真。そんな別れを望むなら、私たちはもう、完全に終わりだ。

彼女は携帯を取り出し、海外へ電話をかけた。

父から存在だけを聞かされていた叔父、桐原仁嵩(きりはら たかし)へ。

「叔父さん……私、そちらへ行きたい。ビザを手配してくれる?それと……戸籍も抹消したい」

それは三度目の連絡だった。

一度目は大学一年のとき、仁嵩が迎えを提案した。

二度目は颯真が「殉職」した年、「海外でやり直せる」と誘われた。

どちらも澪奈は颯真のために拒んだ。

――だが、もうここにはいたくない。

「分かった。荷物をまとめておけ。一週間以内に迎えに行く」

電話を切った直後、スマホに見慣れた番号が表示された。

黒瀬颯真――

澪奈の心臓は強く跳ねた。

彼は生きていて、番号さえ変えていなかった。

繋がらなかったのは――彼が応じなかった、それだけのこと。

彼女は目を真っ赤にして通話ボタンを押した。受話器の向こうは、ただ静寂だけが広がっていた。

数秒後、あちらからひとつため息が漏れ、かつてと変わらぬ声が響いた――

「澪奈。会おう」

彼女が拒もうとした矢先、相手が先に口を開いた。

久しく聞かなかった弱気な響きを帯びた声で――

「澪奈……会いたかった」

その一言は針のように、彼女の張り巡らせた仮面をすべて突き破った。

記憶の中――

颯真が初めて任務で怪我を負ったとき、澪奈は拗ねて口をきかなかった。

すると彼は彼女を抱きしめ、声を和らげて宥めた。

「澪奈、怒るなよ。もう二度とお前を困らせたりしないから」

澪奈は唇を血がにじむほど噛みしめ、結局は小さく「うん」と応じた。

「澪奈、今どこにいる?迎えに行く」

彼女は墓碑に刻まれた両親の笑顔を見つめ、かすかに声を落とした。

「両親のお墓にいるの」

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