INICIAR SESIÓN嗅ぎ慣れない甘い匂いに意識を揺さぶられて目が覚めた。
目を開くと、今までの人生で縁のなかった華やかな照明。 感じたことがない寝心地に、すぐにベッドだと気付かなかった。藁ではない柔らかさ。清潔そうな白いシーツ。 掛けられていた布団を捲ろうとして、走った痛みに舌を噛んだ。 腹の傷は手当されていた。何か貼られていると、頬に手を当てる。治療用のガーゼだった。 自分の身を確認していると、声がかけられた。 「起きたのね」 長い金髪に緑の瞳。お貴族様にしてはシンプルなドレス。天使のような見た目。 「まだ傷が塞がってないから、寝てた方がいいわよ」 部屋の奥から現れたその女は、あまりに普通に俺と目を合わせた。 「水は飲む?」 「あ、ああ」 怯える様子もなく淡々と聞かれ、つい頷いてしまう。 女は頷くと俺に背を向けた。 腹の痛みは焼けるように痛かったが、状況が気になって身を起こす。 屋敷のリビングのようだった。 重そうなカーテンを脇に控えさせた大きな窓から、暖かな日差しが差し込んでいる。 真ん中には大きなテーブルがあって、さらに向こうにキッチンがあった。 金髪の女は俺に背を向けてキッチンに立っている。 俺が寝るベッドの近くには壁側に寄せられたソファ。 不釣り合いにベッドがリビングにあるのは、俺のためだろうか。 キッチンから振り向いた女が、コップを持って来た。 「どうぞ」 「すまない」 差し出されたコップに手を伸ばす。僅かに触れてしまった女の指先は冷たかった。 状況も女の目的も何も分からない。 それでも毒も警戒せず水を飲んだのは、この場の主導権が俺にないからだ。体は痛くてろくに動けない。 冷たい水に体中の細胞が生き返った。 飲み干したコップを俺から受け取ると、緑の目が俺を見た。 「あの日から三日間眠っていたのよ」 「あの日」 反射的な復唱。朧げな記憶を遡る。 「あの日よ」 葉の茂る木々の向こう。青い空。 「血まみれのあなたを助けた、あの日」 ──天使かと思った、あの金髪。 「言うことを聞くから助けてくれって言ってたじゃない」 悪魔みたいなあの言葉。 思い出せばあの日の邂逅が鮮やかに蘇った。 「捏造してるだろ」 俺が異議を唱えると、女は小さく笑った。 「あ、バレた?」 なんだよこの女は。 瀕死だったとはいえ、男を連れ込んで危ないと思わないのか。 「わからねぇのか、俺がどんなやつかって」 ご立派な家に小綺麗なおべべ。争いや怪我とは無縁だっただろう。だからわかんねぇだろ。 ただそれにしては、あの日あまりにも血まみれの俺に躊躇いなく手を伸ばしてきた。 髪の毛と同じ金色のまつ毛で縁取られた緑の目が俺を見た。 「分かるわよ、山賊でしょ」 「……分かってて、なんで」 なんで俺を助けた。 俺の言葉を理解して、女は笑った。 「言うことを聞いてくれるって約束だったでしょ」 了承なんかしてない。 憮然と押し黙る俺に、女はおもむろに手鏡を渡してきた。 受け取って映し出された自分の姿に、間抜けに口が開いた。 「…………は?」 そこに映る俺は、金髪だった。 慌てて自分の髪を触る。癖のあるよく知った固く荒れた髪の感触じゃない。手櫛が通る、見知らぬ感触。 灰色の瞳はそのままに、傷は記憶通りに。 ただ髪色と髪型を変えられて、まるで別人のような印象になった俺が映っていた。 なんで。 「よく似合ってるわ」 「……俺を匿うためか?」 鏡から顔を上げて女に聞いた。 俺の言葉に、まるでバレたとばかりに目を見開いた。 「山賊で、しかも殺されかけてた俺の身を隠すためか?」 それしか考えられなかった。 草花や鉱石を使った染料で、髪を染める技術があるのは知っていた。だが高価で、俺のような庶民……いや、その日暮らしの貧民なんて関係ない話だと思っていた。こんなことまでして。 「……お前の目的はなんだ?」 興味が湧いた。 死にかけの俺を救って治療を施し、リビングにベッドを用意して看病をした女に。 俺の身元を隠すように、勝手に俺の髪まで染めた女に。 「言ったじゃない。言うことを聞いてほしい、って」 俺と女は二人きり。 屋敷に他の息遣いは感じない。召使がいないのは訳ありなのか。 怪訝な俺に対して、女は真剣だった。 「私の傍に、いてほしいの」「心配いたしました!」 屋敷の外にでると、数人の男たちが駆け寄ってきた。 ああと頷いて体に付いた煤を払う。 「大丈夫だったか?」 歩み寄ってきたのは父だった。 「ほら、ジャケット」 渡されたのは、自分のものではないジャケット。 「え?」 渡してきたの顔を見ると、お前のだろうと言ってきた。 「ロイ。お前が渡してきたんじゃないか」 そんな心当たりはない。 「我々が外に出たのを見て──彼女はどこだと言ってジャケットを脱いで屋敷の方に飛び出したじゃないか」 一体どうやって、二階の窓から飛び込んだのだろう。──僕と同じ顔をしたあの男は。 「そのあとまたお前が現れて、同じことを聞いてきた時には火事の恐怖で狂ったのかとおもったぞ」 「は」 笑ってしまう。 僕のものではない、薄汚れたジャケットを見て笑ってしまった。僕のふりをして会場に入ろうとしていたのか? もう分からない。 「はははは!」 同じ顔でも、中身はまったく違うと思った。 笑ってしまう。笑いが止まらない。 「どうした? ロイ? ……イースは?」 ずっと笑い続ける僕を見て、悲しみで狂ったのだと誰も彼女のことを聞いてこなかった。 笑い続けると喉が渇いた。 炎の中に消える彼女の姿は、今までで一番美しい姿だった。 fin.
正式な婚約披露パーティーというわけではないが、客人は多く、華やかなパーティーになった。 私の視線の先では楽団が音楽を奏で、広間の中央では煌びやかなドレスを纏った客人たちが踊っている。 ドリンクをテーブルに置いて、隣に立つロイの顔を見上げた。 私の視線に気付いたロイが、口を付けていたグラスを離す。「どうしたんだい?」 灰色の瞳から目を背ける。広間で踊る人たちは花のようだ。「少し、踊りたくなってしまって」「イース」 どうしたんだい、と彼が眉を下げた。「今までだって、僕はこうしていたじゃないか」 そうね。そうよ。 私はどんな場所でも、ロイの横に立っているだけで幸せだったのに。 なのに、その声のせいで、どうしても望みを言いたくなってしまう。 その声は、望みを叶えてくれると思ってるから。「……戻ってきてからの、きみは少し変わったね」「え?」「一体、きみは僕みたいな男と、どんな風に過ごして、何を言わせていたんだい?」 声に不穏があった。嫌な空気になると思って、緊張で肌がピリついた。 顎を引いた私に、ロイは穏やかさを取り戻して笑いかけた。「きみはあんまり、家から離れてた時のとこを話さないから」「……あなたと離れていた時期のことなんて、忘れてしまったから」 嘘よ。忘れてなんかいない。 目の前の顔を見る限り、忘れられるわけがない。 パーティーの喧騒が、どこか遠く聞こえる。 分かったよ、とロイが頷いた。「……たまには、踊るのも悪くないかな?」 そう言ったロイが、私に手を伸ばした。 伸ばされた手に、私が──。 その瞬間、いくつもの混じった悲鳴が、パーティー会場を切り裂いた。「なんだ!?」 悲鳴は広間の奥からだった。他の空間に続くその扉の奥から転がるように現れたメイドが会場中に叫んだ。 その服の裾には、煤《すす》がついていた。「お逃げください!」 尋常でないその様子に、音楽が止まり人々が騒然とする。「火が! 火が上がっております──火事です!」 途端に会場中はパニックになった。 緊張が伝播して悲鳴が飛び交い、食器が割れる音がする。 そんな客人たちを前に、ロイが高らかに言った。「落ち着いてください。出口はすぐ、あちらです!」 この場全員の命を慮るその言葉の横で、私はたった一つの命のことしか考えられなかった。「
「奪ってほしいと言ってくれ」 言ってくれたらその通りにするつもりだった。 俺に願いを叶えさせてほしかった。 俺の言葉に笑ってくれると思ったのに、彼女は傷ついた顔をした。「言えないわ」 その言葉に耳を疑った。「行けないわ、私……」「イース」「あなたとは、行けない」「イース……!」 断られてしまえば、名前を呼ぶしかできなかった。 俺が呼ぶたびに、泣きそうな顔をするのに──どうして。どうしてお前は。「私はあなたの傍にいる資格がないわ」「そんなの」 そんなの俺が悩まなかったと思うのか。 どんな思いでここに来たと思ってる。 どうしてお前がそんなことを言うんだ。 彼女の金髪は蝋燭の弱い明かりでも光って見えた。「……あなたと彼が違うことを、私はよく分かったの」「…………それは」 それはどういうことだと、聞こうとして飲み込んだ。 拒絶の後では、もう聞きたくはなかった。 拳を握りしめた俺に、彼女はゆっくりと言った。「けれど、願いを叶えてくれるなら、一つだけ」 お願いさせてと俺に言った。 いくらだって叶えるのに。「あ?」 言われれば何個だって、叶えてやるのに。「ふふ……ねえ、やっぱり私、寂しいの」 なら俺に、出会ったときと同じことを言えばいいのに。 彼女は俺の目を見ずにこう言った。「だから、今更だけどグリンを引き取ってもいい?」「勝手だな」「そうね」 俺の嫌味などまったく刺さっていなさそうだった。彼女に撫でられて、グリンが喉を鳴らしている。「けどいつも、付き合ってくれたわね」「言われたからな。言ったのはお前だろ」 傍にいてと。俺に望んだのはお前だろ。 俺の言葉に、悲しい顔で笑った。「ごめんなさい」 悲しいなら泣いてくれたらいいのに、涙の一滴も流しやしなかった。「謝られたら、俺が許さないわけがないだろ」 彼女は、許しも、俺のことも求めなかった。「どうか私みたいな女は忘れて、自由に生きて。縛り付けて、ごめんなさい」 俺を見上げて彼女が言った。「エル。あなたは私の光よ」 眩しさで目をくらませて、そのまま奪って窓の外に飛び出してしまいたかった。「あなたが作ってくれた影の中で、私は生きていくわ」
私とロイの婚約を祝って開催されるパーティーはもう明日に迫っている。 隅々まで管理の行き届いたロイの家の庭は、あの屋敷の咲きっぱなしの花たちとは全然違う。「父がお気に入りのワインを取り寄せてたよ」「まあ、そうなの」 隣を歩くロイのエスコートは紳士的だ。「ねえ……ロイ」「ん?」 聞き返す時だって、ガラの悪い言葉はない。「どうしたんだい?」 眼差しは柔らかで、口調には貴族らしい品がある。「パーティーに備えて、ダンスの練習とかしなくていいかしら?」 そう聞くと、ああと相槌をして視線を逸らされる。「僕たちは主役なんだし、むしろ座って見ている方がいいだろう」「踊らないの?」「それより挨拶回りとかの方が大事だ」 とても彼らしい返事だった。「そうね……」「そうとも」 ロイが頷く。「事業に集中して家名を大きくしたいんだ」 わかってくれるね? とロイは言った。「わかってくれるだろう? 僕をずっと、見てきてくれたきみなら」 ええそうよ。 私はずっとあなたを見てきた。 だから間違えてしまったの。もう間違えない。 次に手を取る相手を、私はきっと間違えない。 月がない夜。明日はパーティーだというのにまったく眠れなかった。 招待しているという客人のリストを父から渡されていた。蝋燭の明かりでそれを眺める。 殆どが姉の繋がりと、ロイの事業に興味がある客人ばかりのようだ。 私は誰の名を呼ぶでもなく、壁の花であればいいのだろう。 それを望んでいたはずだ。 ロイと結ばれることだけを、願っていたはずだ。 蝋燭の明かりに手元の紙を眺めていると、窓の方からカタンと物音がして顔を上げた。 閉めていたはずなカーテンが夜の風に静かに揺れている。 変だな、と立ち上がったその時。それが聞こえた。「不用心だな」 昼間に聞いた声と同じ。 なのに──闇と共に窓から現れたその声は、まったく違う。 エル。 今日同じ顔を見た。いや、全然違う。ロイはそんな表情《カオ》をしない。「なん、エ」「静かにしろ」 現れたその窓から室内に押し入ると、私の肩を掴んだ。 その手が熱くて強くて、痛い。「俺は山賊だ」 エルが私の顎を持ち上げた。 山の中で蝋燭の明かりに照らされて、その髪色は赤く見えた。「奪いにきたんだ」 エルが続けた。「俺は俺らしく──お
一人でのんびりと月を眺める余裕もなかった。「……おい」 ずっと聞こえるその声に、さすがに抱き寄せることを決める。「鳴くなよ」 見送りもさせてもらえなかったなんて。 みゃあみゃあと、ずっと聞こえるその声はグリンだった。いつも彼女が座ってた椅子の上に座って鳴いている。 昼間は彼女の部屋にいて、馬車の走り去る音を聞いてからもうずっと、彼女を求めるように鳴いていた。 抱き寄せると俺の顔を見上げた子猫の目は緑色。彼女と同じ目の色。 昨日の出来事を思い出す。突然の来訪。彼女の父親と、共に現れた俺と同じ顔をした男。 俺は、純粋な金髪のあの男の代わりだった。 似ていたから、俺を傍にいさせただけ。彼女が俺に言った願いは一つだった。 ──私の傍にいてほしいの。 あの願いは、本当はあの男に言いたかった言葉なのだ。 俺ではないあの男に、叶えられたかった願いなのだ。 その願いが叶えられた今、俺の役目は終わった。 愛されていたと思うほど、おめでたいわけじゃない。自分が今までしてきたことを忘れているわけじゃない。 彼女と俺がしていたのは、愛の真似事。 なるほど。「詩をつくるようなヤツの気持ちがわかった気がするな」 けれどなにも、歌えない。 燻った想いの名前を知らないから、俺は何も歌えない。「お前ももう一人前なんだろ、泣くなよ」 俺はそう言ってグリンを撫でて、そのままソファで眠った。 商店の賑わう広場に出ると、いつもフルーツを買っている店のやつから声をかけられた。「今日は一人? 買って行かないの?」 どちらも返事は同じだ。「……ああ」 うるせえ。 どいつもこいつも。彼女と過ごしたこの町が、俺を一人だと思い知らせる。 揺れる木々の葉一枚でさえ、俺に彼女を思い出させる。緑の目は若葉の色をしていた。 何も買わずに屋敷に戻る。 庭は花が咲いていて、その匂いに彼女の髪を思い出したから、もうどうしようもない。 屋敷に入ってソファに座る。 今更一人で、どうやって過ごせばいいのか分からない。 足元でグリンが鳴いて俺を呼んだ。「あ?」 見ると、そこには捕まえたであろうネズミの体があった。「ははは」 元気出せってことか? これを俺に? いや。「あいつにか? もう、ここには居ないんだ」 だから分かれよ。諦めろよ。「山賊が与えられてど
「イース」 私の名前を呼ぶ声は、愛した男の声。 月明かりのせいでその顔がよく見える。──愛した男の顔だ。 顎を掴まれているせいで、その顔から目が背けられない。 名前を呼ばれてるのに、呼び返せない。「グリン」 足元に現れた存在のおかげで手が離されて、起きちゃったの、と声をかけた。 腕を伸ばすとグリンはすぐに飛び込んできた。 境界線を飛び越える気持ちで彼の元に来たのに、その顔を見たら何もかも分からなくなってしまった。 話そうと思ったのに。「起きちゃったの?」 猫に話すしかできなくなってしまった。「部屋に戻るか?」「え?」 彼の言葉の意味を考えて、それが思いやりだと気がついた。「もうちょっと」 私はあなたと。「ここにいる」「そうかよ」 日付と体の輪郭の境界線を越えたかった。けれど本を捲り始めた彼に、もうその気はなさそうだった。 もう一度彼の傷に触れたかった。 触れた指先を今度こそ離さず、ここまでの経緯すべてを話したかった。 私とあなたが出会う前の。 そしてあなたに手を伸ばした理由と、今もあなたを手放せないその理由を。 聞いてくれたらいいのに。 出会ったばかりの頃、訳ありかと聞かれて頷いただけだった。それが退路を塞いだ気がする。 話したい。話せない。 離したくない。「眠いか?」「そうね、ちょっと」 嘘をついて目を閉じた。「俺もだ」 彼の言葉が、嘘か本当かわからない。 彼は本を置くと、私を背中から抱きしめた。 それにグリンが驚いて、私の膝から飛び降りた。「よく眠れそうだ」「そうなのね」 背中から心臓の鼓動が伝わる。耳元にかかった息のせいで私の心臓が跳ねた。「私もよ」 嘘ばっかりだった。 出会った時から、隠匿と欺瞞しかない。 このまま夜よ明けないで。 姿を見なければ、彼を彼だと思わずに済む。 朝よ来ないでと思うのに、明日も明後日もあることが希望だった。 だからゆっくり伝えていけばいいと決めて、腕の中で眠った。 窓から差し込む太陽の光で明るい部屋の中で、彼の顔が間近にあった。「起きてたの」「起きてたよ」 ソファの上で横たわる私の身体は、彼の腕の中に閉じ込められていた。「起こしてよ」「言わなかっただろ」 鼻先が触れそうな位置で言われる。もう、と息を吐くと、耳元に手が伸びた。 私