正式な婚約披露パーティーというわけではないが、客人は多く、華やかなパーティーになった。
私の視線の先では楽団が音楽を奏で、広間の中央では煌びやかなドレスを纏った客人たちが踊っている。 ドリンクをテーブルに置いて、隣に立つロイの顔を見上げた。 私の視線に気付いたロイが、口を付けていたグラスを離す。 「どうしたんだい?」 灰色の瞳から目を背ける。広間で踊る人たちは花のようだ。 「少し、踊りたくなってしまって」 「イース」 どうしたんだい、と彼が眉を下げた。 「今までだって、僕はこうしていたじゃないか」 そうね。そうよ。 私はどんな場所でも、ロイの横に立っているだけで幸せだったのに。 なのに、その声のせいで、どうしても望みを言いたくなってしまう。 その声は、望みを叶えてくれると思ってるから。 「……戻ってきてからの、きみは少し変わったね」 「え?」 「一体、きみは僕みたいな男と、どんな風に過ごして、何を言わせていたんだい?」 声に不穏があった。嫌な空気になると思って、緊張で肌がピリついた。 顎を引いた私に、ロイは穏やかさを取り戻して笑いかけた。 「きみはあんまり、家から離れてた時のとこを話さないから」 「……あなたと離れていた時期のことなんて、忘れてしまったから」 嘘よ。忘れてなんかいない。 目の前の顔を見る限り、忘れられるわけがない。 パーティーの喧騒が、どこか遠く聞こえる。 分かったよ、とロイが頷いた。 「……たまには、踊るのも悪くないかな?」 そう言ったロイが、私に手を伸ばした。 伸ばされた手に、私が──。 その瞬間、いくつもの混じった悲鳴が、パーティー会場を切り裂いた。 「なんだ!?」 悲鳴は広間の奥からだった。他の空間に続くその扉の奥から転がるように現れたメイドが会場中に叫んだ。 その服の裾には、煤《すす》がついていた。 「お逃げください!」 尋常でないその様子に、音楽が止まり人々が騒然とする。 「火が! 火が上がっております──火事です!」 途端に会場中はパニックになった。 緊張が伝播して悲鳴が飛び交い、食器が割れる音がする。 そんな客人たちを前に、ロイが高らかに言った。 「落ち着いてください。出口はすぐ、あちらです!」 この場全員の命を慮るその言葉の横で、私はたった一つの命のことしか考えられなかった。 「グリン」 私の猫。私と彼の猫。 すん、と吸い込んだ空気に知らない匂いがした。 「火元!?」 「に、二階の奥の部屋からです」 ロイの言葉に、避難してきたメイドが答えた。気が付いて火を消そうと試みたが火の回りが早く間に合わなかったと。 グリン。 広間の奥から階段を登った二階の部屋で、私はグリンを待たせている。 「イース! 僕たちも外に行こう」 移動を始めた人たちを見て、ロイが私の腕を掴んだ。 「先に行って」 私はその手を振り払う。 「私、行かなきゃ」 「イース! どこへ──」 淑女らしさを捨て置いて、メイドが出てきた奥の扉に向かった。 「そっちは危ないだろう!」 後ろから掛けられた声に、一度振り向く。 「すぐに戻るわ!」 ──その顔のところに。 広間から飛び出して、メイドたちが避難してきた奥へ進む。奥の方から聞こえた弾くような音は、火の粉の飛ぶ音なのか。 階段の先が気味の悪いほど明るい。──それでも階段を駆け上がる。持ち上げるドレスの裾が重い。 階段を上がりきると、奥に見たことのない大きさの炎が見えた。形がないそれは屋敷の壁や床を食べるようだった。 額に汗が伝ったのは、熱さだけのせいじゃない。 まだ階段《ここ》と部屋からは遠い。大丈夫だ。 閉めていたはずの部屋の扉は開いていた。 出てきちゃだめよとグリンに言いきかせていた、私の部屋の扉。中に入って部屋の中に呼びかけた。 「グリン! グリンー!」 いくら呼んでも出てきてくれない。こんな時に。 慣れない場所で傍にいることもできず一人にさせてしまった。怖がって隠れているのかとベッドの布団を捲る。いない。ベッドの下にもいない。カーテンの向こう。いない。机の下。いない。 ドアが開いていたから、この部屋から抜け出してしまっている可能性もある。──まさかもう既に。最悪の可能性を想像して目眩がした。 お願い早く姿を見せて。一階に降りてもう外に逃げている? 部屋の中でまだ探していないところは? 「グリン」 クローゼットの扉を開けた。足元を見ると、そこには見慣れたその姿があった。 「ここにいたの」 にゃあ、と鳴いたその声は、悪戯をした時と同じ声。 「隠れんぼなんてしてる場合じゃないのよ。おいで」 呼び寄せるとすぐに腕の中に飛び込んできた。抱き締めて柔らかな体の奥の心臓の鼓動を確認する。よかった。 すぐにここから離れなきゃ。 部屋の外へ出ると、感じたことのない熱気を浴びた。火の手はもうすぐそこに迫っていた。禍々しいほどの明るさに、頭の中まで白く照らされた。 こんなに熱いのに体の奥から凍りつく。 怖い。 グリンを抱くために奮った勇気はもう尽き掛けている。動かなきゃ。そう思うのに火はまるで大きな生き物だった。睨まれれば動けない。 「イース!」 聞こえた声が、誰のものか分からなかった。それでもその声に再び体が動いた。 「早く! こっちだよ!」 「……ロイ」 階下に来ていた見慣れた金髪は、急かすように叫んだ。 「そうだよ! 早く!」 私が行くべき声の先。 腕の中の柔らかな体温を確かめる。足よ動け、行かなきゃ。戻らなきゃ。 足を動かしたその時、いっそう強い爆ぜるような音が聞こえた。 「ひ」 同時に炎が視界に飛び込んでくる。音を立てて勢いを増した火は、階段の手すりと足場を燃やし、そこから壁を伝って侵食した。 「早く! イース!」 熱い。火が揺れている。 火が空気を飲み込む音に、思考が飲み込まれる。 「イース! 来るんだ!」 ロイが火の粉を払いながら階段を登り私に手を伸ばす。 私の後ろの部屋の奥で、火の手のせいかガラスが割れるような音がした。もう後ろにも逃げられないのか。 「イース」 別に大きなわけではなかったその声が、はっきりと聞こえた。背後からかかった声の主が、今度はすぐに誰か分かる。 「エル」 振り向くとそこには、手を伸ばしてくれるロイと同じ顔があった。それでもまったく違うその姿が、ガラスを割って入ってきたのだと、足元に煌めく破片で分かった。 「この馬鹿」 火に照らされて、その髪は赤く見えた。──そんな髪色など、今更どうでもいい。 階段を登ってきたロイが、私の背後の姿を見て息を呑んだ。 「きみは……!」 「早く来い」 音を立てて燃え始める私の部屋の中で、エルが私に手を伸ばした。彼の足がガラスを踏む音がした。 「イース! 僕はこっちだ!」 ロイが手を伸ばして私を呼ぶ。 私を前と後ろから呼ぶ顔は同じで、声も同じ。 それでももう、はっきりと違いが分かる。 ──だから、手を伸ばすことを躊躇う。 通り過ぎた過去を炎の中に見て逡巡した。 私が行きたいのは──生きていきたいのは。 「イース!」 眼前が赤く染まった。と思ったら白く染まった。 熱い。眩しい。 天井まで覆った炎が、私を飲み込むように音を立てて迫った。 目を瞑って腕の中のグリンを強く抱き締めた。 私の体を包んだのは、覚悟していた熱さじゃなかった。 「馬鹿はお前だ」 激しい衝撃音がした。爆風と木が割れる音。同時に体の中にその衝撃が伝わった。 何が起きたのかと、ゆっくり目を開ける。 「……エル」 「あ?」 いつもと同じ感じの悪い返事。 私を庇うように抱き締めた目の前のその顔から、血が流れていた。顎を伝った血が落ちる。 「怪我を」 頭から顔にかけて傷を受けたようだった。足元に血の付いた木片が落ちていた。 「ひどい顔か?」 赤い炎に照らされて、血はいっそう赤黒く、その髪は金より鮮やかに光って見える。 「お前はこの顔だから好きになったのにな」 「馬鹿ね」 分からずや。 目の前の男の顔に額を擦り付けた。 「今の方が男前じゃない」 命を奪い尽くそうとする凄まじい音がする。 全てを飲み込もうと炎が舌を伸ばしている。 彼の髪が、顔が、赤く照らされている。 その輝きの中で答えは出ている。 「私が好きなのは、あなたの魂よ」 どんな見目でも関係ない。 赤く輝くあなたが誰より、美しい。 「イース!」 「ごめんなさい」 好きだったその顔に私は告げる。 「ありがとう」 ロイが眼前の火の粉を振り払った。 「その男と、行くのか?」 「ええ」 この男となら、死んでもいい。 業火に焼かれても、灰になって混ざり合えるのならそれでよかった。 「分かった」 ロイが頷いた。 「僕は、遅かったみたいだね」 私の人生で誰より早く出会った男が、そう言った。 「行くぞ」 腕の中のグリンごと、エルが私を抱き上げた。 「もう離してやらないからな」 エルの頭から流れる血が私のドレスに染みを作る。 血に塗れても、それでもいい。 「ずっと傍にいて」 「あ? ……今更だな」 そしてそのまま──炎が広がりゆく部屋の窓に向けて駆け出した。「心配いたしました!」 屋敷の外にでると、数人の男たちが駆け寄ってきた。 ああと頷いて体に付いた煤を払う。 「大丈夫だったか?」 歩み寄ってきたのは父だった。 「ほら、ジャケット」 渡されたのは、自分のものではないジャケット。 「え?」 渡してきたの顔を見ると、お前のだろうと言ってきた。 「ロイ。お前が渡してきたんじゃないか」 そんな心当たりはない。 「我々が外に出たのを見て──彼女はどこだと言ってジャケットを脱いで屋敷の方に飛び出したじゃないか」 一体どうやって、二階の窓から飛び込んだのだろう。──僕と同じ顔をしたあの男は。 「そのあとまたお前が現れて、同じことを聞いてきた時には火事の恐怖で狂ったのかとおもったぞ」 「は」 笑ってしまう。 僕のものではない、薄汚れたジャケットを見て笑ってしまった。僕のふりをして会場に入ろうとしていたのか? もう分からない。 「はははは!」 同じ顔でも、中身はまったく違うと思った。 笑ってしまう。笑いが止まらない。 「どうした? ロイ? ……イースは?」 ずっと笑い続ける僕を見て、悲しみで狂ったのだと誰も彼女のことを聞いてこなかった。 笑い続けると喉が渇いた。 炎の中に消える彼女の姿は、今までで一番美しい姿だった。 fin.
正式な婚約披露パーティーというわけではないが、客人は多く、華やかなパーティーになった。 私の視線の先では楽団が音楽を奏で、広間の中央では煌びやかなドレスを纏った客人たちが踊っている。 ドリンクをテーブルに置いて、隣に立つロイの顔を見上げた。 私の視線に気付いたロイが、口を付けていたグラスを離す。「どうしたんだい?」 灰色の瞳から目を背ける。広間で踊る人たちは花のようだ。「少し、踊りたくなってしまって」「イース」 どうしたんだい、と彼が眉を下げた。「今までだって、僕はこうしていたじゃないか」 そうね。そうよ。 私はどんな場所でも、ロイの横に立っているだけで幸せだったのに。 なのに、その声のせいで、どうしても望みを言いたくなってしまう。 その声は、望みを叶えてくれると思ってるから。「……戻ってきてからの、きみは少し変わったね」「え?」「一体、きみは僕みたいな男と、どんな風に過ごして、何を言わせていたんだい?」 声に不穏があった。嫌な空気になると思って、緊張で肌がピリついた。 顎を引いた私に、ロイは穏やかさを取り戻して笑いかけた。「きみはあんまり、家から離れてた時のとこを話さないから」「……あなたと離れていた時期のことなんて、忘れてしまったから」 嘘よ。忘れてなんかいない。 目の前の顔を見る限り、忘れられるわけがない。 パーティーの喧騒が、どこか遠く聞こえる。 分かったよ、とロイが頷いた。「……たまには、踊るのも悪くないかな?」 そう言ったロイが、私に手を伸ばした。 伸ばされた手に、私が──。 その瞬間、いくつもの混じった悲鳴が、パーティー会場を切り裂いた。「なんだ!?」 悲鳴は広間の奥からだった。他の空間に続くその扉の奥から転がるように現れたメイドが会場中に叫んだ。 その服の裾には、煤《すす》がついていた。「お逃げください!」 尋常でないその様子に、音楽が止まり人々が騒然とする。「火が! 火が上がっております──火事です!」 途端に会場中はパニックになった。 緊張が伝播して悲鳴が飛び交い、食器が割れる音がする。 そんな客人たちを前に、ロイが高らかに言った。「落ち着いてください。出口はすぐ、あちらです!」 この場全員の命を慮るその言葉の横で、私はたった一つの命のことしか考えられなかった。「
「奪ってほしいと言ってくれ」 言ってくれたらその通りにするつもりだった。 俺に願いを叶えさせてほしかった。 俺の言葉に笑ってくれると思ったのに、彼女は傷ついた顔をした。「言えないわ」 その言葉に耳を疑った。「行けないわ、私……」「イース」「あなたとは、行けない」「イース……!」 断られてしまえば、名前を呼ぶしかできなかった。 俺が呼ぶたびに、泣きそうな顔をするのに──どうして。どうしてお前は。「私はあなたの傍にいる資格がないわ」「そんなの」 そんなの俺が悩まなかったと思うのか。 どんな思いでここに来たと思ってる。 どうしてお前がそんなことを言うんだ。 彼女の金髪は蝋燭の弱い明かりでも光って見えた。「……あなたと彼が違うことを、私はよく分かったの」「…………それは」 それはどういうことだと、聞こうとして飲み込んだ。 拒絶の後では、もう聞きたくはなかった。 拳を握りしめた俺に、彼女はゆっくりと言った。「けれど、願いを叶えてくれるなら、一つだけ」 お願いさせてと俺に言った。 いくらだって叶えるのに。「あ?」 言われれば何個だって、叶えてやるのに。「ふふ……ねえ、やっぱり私、寂しいの」 なら俺に、出会ったときと同じことを言えばいいのに。 彼女は俺の目を見ずにこう言った。「だから、今更だけどグリンを引き取ってもいい?」「勝手だな」「そうね」 俺の嫌味などまったく刺さっていなさそうだった。彼女に撫でられて、グリンが喉を鳴らしている。「けどいつも、付き合ってくれたわね」「言われたからな。言ったのはお前だろ」 傍にいてと。俺に望んだのはお前だろ。 俺の言葉に、悲しい顔で笑った。「ごめんなさい」 悲しいなら泣いてくれたらいいのに、涙の一滴も流しやしなかった。「謝られたら、俺が許さないわけがないだろ」 彼女は、許しも、俺のことも求めなかった。「どうか私みたいな女は忘れて、自由に生きて。縛り付けて、ごめんなさい」 俺を見上げて彼女が言った。「エル。あなたは私の光よ」 眩しさで目をくらませて、そのまま奪って窓の外に飛び出してしまいたかった。「あなたが作ってくれた影の中で、私は生きていくわ」
私とロイの婚約を祝って開催されるパーティーはもう明日に迫っている。 隅々まで管理の行き届いたロイの家の庭は、あの屋敷の咲きっぱなしの花たちとは全然違う。「父がお気に入りのワインを取り寄せてたよ」「まあ、そうなの」 隣を歩くロイのエスコートは紳士的だ。「ねえ……ロイ」「ん?」 聞き返す時だって、ガラの悪い言葉はない。「どうしたんだい?」 眼差しは柔らかで、口調には貴族らしい品がある。「パーティーに備えて、ダンスの練習とかしなくていいかしら?」 そう聞くと、ああと相槌をして視線を逸らされる。「僕たちは主役なんだし、むしろ座って見ている方がいいだろう」「踊らないの?」「それより挨拶回りとかの方が大事だ」 とても彼らしい返事だった。「そうね……」「そうとも」 ロイが頷く。「事業に集中して家名を大きくしたいんだ」 わかってくれるね? とロイは言った。「わかってくれるだろう? 僕をずっと、見てきてくれたきみなら」 ええそうよ。 私はずっとあなたを見てきた。 だから間違えてしまったの。もう間違えない。 次に手を取る相手を、私はきっと間違えない。 月がない夜。明日はパーティーだというのにまったく眠れなかった。 招待しているという客人のリストを父から渡されていた。蝋燭の明かりでそれを眺める。 殆どが姉の繋がりと、ロイの事業に興味がある客人ばかりのようだ。 私は誰の名を呼ぶでもなく、壁の花であればいいのだろう。 それを望んでいたはずだ。 ロイと結ばれることだけを、願っていたはずだ。 蝋燭の明かりに手元の紙を眺めていると、窓の方からカタンと物音がして顔を上げた。 閉めていたはずなカーテンが夜の風に静かに揺れている。 変だな、と立ち上がったその時。それが聞こえた。「不用心だな」 昼間に聞いた声と同じ。 なのに──闇と共に窓から現れたその声は、まったく違う。 エル。 今日同じ顔を見た。いや、全然違う。ロイはそんな表情《カオ》をしない。「なん、エ」「静かにしろ」 現れたその窓から室内に押し入ると、私の肩を掴んだ。 その手が熱くて強くて、痛い。「俺は山賊だ」 エルが私の顎を持ち上げた。 山の中で蝋燭の明かりに照らされて、その髪色は赤く見えた。「奪いにきたんだ」 エルが続けた。「俺は俺らしく──お
一人でのんびりと月を眺める余裕もなかった。「……おい」 ずっと聞こえるその声に、さすがに抱き寄せることを決める。「鳴くなよ」 見送りもさせてもらえなかったなんて。 みゃあみゃあと、ずっと聞こえるその声はグリンだった。いつも彼女が座ってた椅子の上に座って鳴いている。 昼間は彼女の部屋にいて、馬車の走り去る音を聞いてからもうずっと、彼女を求めるように鳴いていた。 抱き寄せると俺の顔を見上げた子猫の目は緑色。彼女と同じ目の色。 昨日の出来事を思い出す。突然の来訪。彼女の父親と、共に現れた俺と同じ顔をした男。 俺は、純粋な金髪のあの男の代わりだった。 似ていたから、俺を傍にいさせただけ。彼女が俺に言った願いは一つだった。 ──私の傍にいてほしいの。 あの願いは、本当はあの男に言いたかった言葉なのだ。 俺ではないあの男に、叶えられたかった願いなのだ。 その願いが叶えられた今、俺の役目は終わった。 愛されていたと思うほど、おめでたいわけじゃない。自分が今までしてきたことを忘れているわけじゃない。 彼女と俺がしていたのは、愛の真似事。 なるほど。「詩をつくるようなヤツの気持ちがわかった気がするな」 けれどなにも、歌えない。 燻った想いの名前を知らないから、俺は何も歌えない。「お前ももう一人前なんだろ、泣くなよ」 俺はそう言ってグリンを撫でて、そのままソファで眠った。 商店の賑わう広場に出ると、いつもフルーツを買っている店のやつから声をかけられた。「今日は一人? 買って行かないの?」 どちらも返事は同じだ。「……ああ」 うるせえ。 どいつもこいつも。彼女と過ごしたこの町が、俺を一人だと思い知らせる。 揺れる木々の葉一枚でさえ、俺に彼女を思い出させる。緑の目は若葉の色をしていた。 何も買わずに屋敷に戻る。 庭は花が咲いていて、その匂いに彼女の髪を思い出したから、もうどうしようもない。 屋敷に入ってソファに座る。 今更一人で、どうやって過ごせばいいのか分からない。 足元でグリンが鳴いて俺を呼んだ。「あ?」 見ると、そこには捕まえたであろうネズミの体があった。「ははは」 元気出せってことか? これを俺に? いや。「あいつにか? もう、ここには居ないんだ」 だから分かれよ。諦めろよ。「山賊が与えられてど
「イース」 私の名前を呼ぶ声は、愛した男の声。 月明かりのせいでその顔がよく見える。──愛した男の顔だ。 顎を掴まれているせいで、その顔から目が背けられない。 名前を呼ばれてるのに、呼び返せない。「グリン」 足元に現れた存在のおかげで手が離されて、起きちゃったの、と声をかけた。 腕を伸ばすとグリンはすぐに飛び込んできた。 境界線を飛び越える気持ちで彼の元に来たのに、その顔を見たら何もかも分からなくなってしまった。 話そうと思ったのに。「起きちゃったの?」 猫に話すしかできなくなってしまった。「部屋に戻るか?」「え?」 彼の言葉の意味を考えて、それが思いやりだと気がついた。「もうちょっと」 私はあなたと。「ここにいる」「そうかよ」 日付と体の輪郭の境界線を越えたかった。けれど本を捲り始めた彼に、もうその気はなさそうだった。 もう一度彼の傷に触れたかった。 触れた指先を今度こそ離さず、ここまでの経緯すべてを話したかった。 私とあなたが出会う前の。 そしてあなたに手を伸ばした理由と、今もあなたを手放せないその理由を。 聞いてくれたらいいのに。 出会ったばかりの頃、訳ありかと聞かれて頷いただけだった。それが退路を塞いだ気がする。 話したい。話せない。 離したくない。「眠いか?」「そうね、ちょっと」 嘘をついて目を閉じた。「俺もだ」 彼の言葉が、嘘か本当かわからない。 彼は本を置くと、私を背中から抱きしめた。 それにグリンが驚いて、私の膝から飛び降りた。「よく眠れそうだ」「そうなのね」 背中から心臓の鼓動が伝わる。耳元にかかった息のせいで私の心臓が跳ねた。「私もよ」 嘘ばっかりだった。 出会った時から、隠匿と欺瞞しかない。 このまま夜よ明けないで。 姿を見なければ、彼を彼だと思わずに済む。 朝よ来ないでと思うのに、明日も明後日もあることが希望だった。 だからゆっくり伝えていけばいいと決めて、腕の中で眠った。 窓から差し込む太陽の光で明るい部屋の中で、彼の顔が間近にあった。「起きてたの」「起きてたよ」 ソファの上で横たわる私の身体は、彼の腕の中に閉じ込められていた。「起こしてよ」「言わなかっただろ」 鼻先が触れそうな位置で言われる。もう、と息を吐くと、耳元に手が伸びた。 私