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女の話

Author: すずき
last update Last Updated: 2025-07-20 21:16:07

「イース」

 私の名前を呼ぶ声は、愛した男の声。

 月明かりのせいでその顔がよく見える。──愛した男の顔だ。

 顎を掴まれているせいで、その顔から目が背けられない。

 名前を呼ばれてるのに、呼び返せない。

「グリン」

 足元に現れた存在のおかげで手が離されて、起きちゃったの、と声をかけた。

 腕を伸ばすとグリンはすぐに飛び込んできた。

 境界線を飛び越える気持ちで彼の元に来たのに、その顔を見たら何もかも分からなくなってしまった。

 話そうと思ったのに。

「起きちゃったの?」

 猫に話すしかできなくなってしまった。

「部屋に戻るか?」

「え?」

 彼の言葉の意味を考えて、それが思いやりだと気がついた。

「もうちょっと」

 私はあなたと。

「ここにいる」

「そうかよ」

 日付と体の輪郭の境界線を越えたかった。けれど本を捲り始めた彼に、もうその気はなさそうだった。

 もう一度彼の傷に触れたかった。

 触れた指先を今度こそ離さず、ここまでの経緯すべてを話したかった。

 私とあなたが出会う前の。

 そしてあなたに手を伸ばした理由と、今もあなたを手放せないその理由を。

 聞いてくれたらいいのに。

 出会ったばかりの頃、訳ありかと聞かれて頷いただけだった。それが退路を塞いだ気がする。

 話したい。話せない。

 離したくない。

「眠いか?」

「そうね、ちょっと」

 嘘をついて目を閉じた。

「俺もだ」

 彼の言葉が、嘘か本当かわからない。

 彼は本を置くと、私を背中から抱きしめた。

 それにグリンが驚いて、私の膝から飛び降りた。

「よく眠れそうだ」

「そうなのね」

 背中から心臓の鼓動が伝わる。耳元にかかった息のせいで私の心臓が跳ねた。

「私もよ」

 嘘ばっかりだった。

 出会った時から、隠匿と欺瞞しかない。

 このまま夜よ明けないで。

 姿を見なければ、彼を彼だと思わずに済む。

 朝よ来ないでと思うのに、明日も明後日もあることが希望だった。

 だからゆっくり伝えていけばいいと決めて、腕の中で眠った。

 窓から差し込む太陽の光で明るい部屋の中で、彼の顔が間近にあった。

「起きてたの」

「起きてたよ」

 ソファの上で横たわる私の身体は、彼の腕の中に閉じ込められていた。

「起こしてよ」

「言わなかっただろ」

 鼻先が触れそうな位置で言われる。もう、と息を吐くと、耳元に手が伸びた。

 私の髪を一房手に取って耳にかけて、囁く。

「眩しい」

 ──そんな触れられ方を、私はずっと前からされたかった。

「……エル」

 名前を呼んだ。朝の光の中で呼ぶ名前を、私はもう間違わない。

「イース」

 彼の腕の中は熱い。

 見つめ合って、ここから先は彼の指先に任せようと、もう何も言わなかった。

 秒針のリズムと心臓のリズムが離れていく。

 あのキスの先に、今ならいける。

 そう思ったそのとき、窓の外から大きな硬い音が聞こえた。馬の蹄の音と、地面を転がる車輪の響き。

 小石が車輪に弾かれた音がして、彼が呟いた。

「馬車か」

 屋敷に近づくその音は商人の荷車の音としては速く、客人にしては重いし、そもそも客人がくる予定なんてない。

「待っとけ」

 エルは立ち上がり、訪問者を確かめに行った。

 駆ける馬車の音は止まり、開かれた扉からその声が聞こえた。

「驚いたな」

 一体、何に?

 よく知ったその声に非日常を感じて、ソファから足を下ろした。

 玄関の扉の外に、その姿があった。馬車から降りてきた金髪の人影を、私はよく知っている。

「イース」

 その姿のせいで、声がどちらから聞こえたのかわからなかった。

「……まさかと思ったよ」

 今度の声は確実に馬車から降りてきたその姿からだった。

「本当に僕に似ているじゃないか」

 ロイ。

 綺麗な金髪に、灰色の目。品のいい高い鼻。

 奇しくも今日エルが来ている服と、よく似ている服を着ている。

 違う、エルが似せているのだ。──私はロイがよく着ていた服を選んでいるから。

 驚きを隠さないロイの後ろから、もう一つ人影が降りてきた。

「いや本当に、同じ顔じゃないか」

 年嵩のある声の、低くて重い呟き。

「お父様」

 どうしてここに、お父様が。それにどうして、ロイが一緒なの。

 見られたくなかった。知られるはずがないのに。

 何も言えない私に、父が瞳を伏せて話し始める。

「昨日街に来た楽団がな、この町でロイを見たと言ったんだよ」

 エルの顔を見上げられない代わりに、ロイの顔が視界に入った。その神妙な顔は確かに彼の表情だ。

「私とグレンストール卿、そしてロイと三人で楽団を眺めていたら……どうして今日はここに? と、ロイに話しかけてきてな」

 吹いた風に髪が弄ばれて、視界を遮った。

 邪魔だから直したいのに、指先が動かない。

「昨日あの町で一緒だった女性は一緒じゃないのかい? と言うから、他人の空似だろうと笑ったんだ」

 聞きたくない。聞かせたくないのに、父の語りは続く。

「音楽を気に入ったから食客として招き入れた我が家で、お前の肖像画を見ると、この女性だと」

 私たちは、二人で過ごしていただけなのに。

「肖像画のお前が、ロイと同じ顔の男といたと言ったんだよ」

 誰に何も言ってないのだから、暴かれたくなかった。

 こんな形で暴かれたくなかった。

「ロイと同じ顔だなんて言い過ぎだろう。けれど……お前にその、良い人ができたのなら、どんな男だろうかと見に行こうと思ったんだ」

 そう言うと、父が視線を向けた。──エルに。

「とてもよく似ている……本当に、ロイそっくりだ……」

 父が私に歩み寄った。

 乱れた髪を整えて耳に掛けられると、その顔がよく見える。──憐れむような表情が。

「そんなにロイを愛していたのか……同じ顔の男を探し、傍に置くほど……」

 違うの。

 何も言わないエルに向かって言いたかった。

 けど、何も違わない。何も言えない。

「イース」

 久しぶりだね、と言う声は柔らかかった。

「……ロイ」

 声が震えていたかもしれない。分からない。

 体の芯から冷え切ってしまって、もう感覚がない。

 父が一歩引いて、歩み寄ったロイがその代わりに私の目の前で跪いた。

「妹としか思えないなんて、言ってごめん」

 同じ顔だ。同じ声だ。

 なのにそんな表情も声色も、エルにはなかった。

「きみがこんなにも僕を想って、そして悩んでいるとは知らなかったんだ」

 跪いてそのまま、勝手に私の手を取った。

 私を見上げる灰色の双眸。

「もう一度、考え直させてほしい。だから……帰ってきてくれないか」

「そんなの」

 あまりに勝手だ。

「ごめんね。けど、時間が経たなきゃ……こうならなきゃ、分からなかったんだよ」

 ロイの声は優しい。

 エルの声と同じなのに、どうして違うのか。

 跪くロイの後ろの父と目が合った。

「安心していい、イース」

 何を安心しろと言うの。

「お前の姉さんの結婚相手が、多額の支援をしてくれていたから、ロイの父、グレンストール卿とも……婚約の持参金は、話がついてる」

「そんな」

 どうして今更。

 ──ここに来る前だったら、泣いて喜べたのに。

「淡い初恋だろうと、時間が経てばお前も戻ってくるだろうと思っていたんだ」

 まさか、と父はエルを一瞥した。

「まさかこんなにもロイに似た…………代わりを見つけて、そんな風に過ごしているとは、思わなかったんだ」

 言わないで。代わりだなんて言わないで。

 けれど自分がそうさせた。

 髪の色を染めさせて、似た服を着せた。

 彼に彼の代わりをさせた。

 ──こんな風に明かされたくなかった。

「きみは、イースのために、顔を変えたりしたのか? 身分を? いや、もう、とにかく」

 何も言わないエルを見上げて、父は続けた。

「もう自由にすると良い……ただ、内密にしてほしい。イースがここを離れたら、この屋敷をあげてもいい。だからどうか、言わないでくれ」

 子爵の娘が、好きな男の格好をさせた男を慰めに傍にいさせた──なんて汚点になるからな。

 と、父は言った。

 私とエルの日々を、汚点だと言った。

 そうさせたのは私だった。

「……今日はもう、私たちは帰るから、別れを済ませたら帰ってきなさい」

 何か言おうとしたロイを父が制した。

「ロイ、今日は私と街に戻ってくれるかい?」

 二人は馬車に乗り込んで、その中からロイが私に呼びかけた。

「待ってるよ。あの日からやり直そう」

 彼の純粋な金髪が光の色に透ける。

 それから馬車の扉が閉められて、土煙を立てて走り去っていく。

 風に土埃が舞わなくなっても、私は隣の彼の顔を見れない。私の隣に残っているたった一人なのに。

「よかったな」

 その声は冷たい。

「よかったな。本物が迎えに来てくれてよ」

 名前を呼ばなきゃいけない。

 あなたの名前を呼んで、話さなきゃいけない。

「……エル」

「気付いてたか?」

 私は名前を呼んでやっと、彼の顔を見上げることが出来た。

「お前は『エル』って言うとき、躊躇《ためら》うんだ」

 ──そんな顔を見たくなかった。

 エルの表情に、私は身動きが取れなくなって、部屋に戻る後ろ姿に手を伸ばすことはできなかった。

 それでも彼は食事を共にしてくれたし、いつものようにフルーツも剥いてくれた。

 それが尚更悲しかった。

 問いただして詰ってくれればいいのに、彼は私に何も聞いてこない。

 気まずい沈黙が流れながら、食後の飲み物を飲んでいた──その時。

「おい! グリン!」

 にゃおと鳴いて、いたずらに光る緑の目がテーブルの上に飛び乗った。

 今日はろくに相手をしていなかったからか。

 私も、エルも。

 一人で痩せっぽっちだった警戒心の強い子猫は、相手をされないと悪戯する天真爛漫な猫になりつつあった。

 名前を呼ばれると、グリンは満足そうに鳴いた。それから私たちを見て──揺れた尾が私のグラスに当たった。

「あっ」

 グラスが床に落ちて、音を立てて割れる。

 驚いたグリンは飛び降りると、一瞬で部屋から消えてしまった。

「もう……」

 椅子を降りて、割れたグラスの破片に手を伸ばす。私の目の前にエルの手が伸びてきた。

「俺がやる」

「いいのよ」

 それでも手を伸ばそうとすると、その手を掴まれた。

「貴族の嬢ちゃんは椅子に座っとけ」

「何それ」

 そんな言い方。

「あ?」

 エルは眉間に皺を寄せて、低い声で唸った。

「こういうことは下々のもんに任せろよ」

「何よ、それ」

 今までそんな風に言わなかったのに。

 どうして急に、私たちの間に線を引いて突き放すの。

 理由は分かってる。冷たくされて然るべきだ。

「私とあなたに、上下なんてないわ」

 だから引くわけにはいかなくて、落ちた破片に向かって手を伸ばした。

 伸ばした指先に尖った破片が刺さって、咄嗟に手を引っ込めた。

「いっ……」

 引っ込めた指先を見れば、赤い血がぷっくりと出てきている。

「この」

 エルが私の手首を掴んだ。

「馬鹿」

 怪我をした指先が口に含まれて、突然のことに息が止まった。

 指先で感じる、エルの熱。口の中は暖かくて、柔らかくて、どこまでも生々しかった。

「エル」

 躊躇《ためら》ってない。私はもう、この名前を呼ぶことを──躊躇わない。

 名前を呼んだら、咥えていた私の指先から唇を離した。

「イース」

 灰色の瞳に見据えられる。

「俺は、」

 開かれた唇に言葉が紡がれるのを待つ。

 終わったら、私のことも話すから。

 だからそれから、これからのことを──。

 言葉を待っていたのに、エルの表情が変わった。

「あ?」

 振り向いて、エルの視線の先を辿る。

 ネズミを咥えるグリンが、私のすぐ後ろにいた。

「きゃあああ!」

 グリンがその場にネズミを置いた。その顔はどこか誇らしげだ。ネズミは動かないので、どうやら死んでいるらしい。

 叫びながらその場を離れた私に、エルが笑う。

「ははは! お前ももう一人前なんだな!」

「狩りができたな!」

 エルはそう言って笑って、グリンの小さな体を抱き上げた。

 グリンはエルの腕の中で、やっと遊んでくれるのかとばかりの嬉しそうな顔をしている。

 二人とも子どもみたいで、親子みたいだった。

「行けよ」

 いきなり言われたから、誰に向けて言ったのか分からなかった。

 エルは私を見ていた。灰色の瞳で。

「どうせ俺とお前じゃ、世界が違うんだ」

「そんなこと」

「あるんだよ」

 すぐに言い返した私を、エルが遮った。

「俺とお前は世界が違う……俺は汚いことをしてたんだ、だから瀕死で倒れてたんだよ」

 グリンはエルの腕の中で、気持ちよさそうに喉を鳴らしている。

「お前のことは助けられたから襲わなかっただけだ。髪の毛を染めるのも、身元や山賊の過去を隠して匿われてると思って……言われたから、傍にいただけだ」

 これは別れの言葉だ。

 私たちは、別れを悟ってやっと、過去の話をすることができた。

 ──傷ついて、やっと。

 傷ついたところから曝け出すことが出来た。

「よかったな。俺はあの男の代わりになったか?」

「…………好きよ」

「あ?」

 我慢ができなかった。今伝えなきゃ届かないと思った。もう戸惑ってる時間の猶予がないから、伝えないといけなかった。

 漏らした私の想いに、エルは顔を顰めて、それから笑った。

「俺と同じ顔をした男のことだろ」

「違うの」

「錯覚だよ」

「違うの、エル」

「違わねえよ!」

 突然上げられた大きな声に、グリンが驚いて腕の中から逃げ出した。

「お前は俺を通してあの男を見てただけだ! 今までも──今も!」

 否定できない。

「同じ顔をしてたから俺を助けたんだろ! 違うか!?」

「違わない……」

 その通りだ。

 私は否定できない。けど言わなきゃいけない。

「私が、間違ってた」

 今まで自分が間違っていたと。

 だから出会ったこと自体を、間違いにも汚点にもしないでほしい。

「……そうだよ。お前は間違ってる。お前が好きなのは、あの男だ。俺じゃない」

 エルはしゃがんで、落ちたままの破片を拾い始めた。

 私が染めさせた金色の髪。

「エル」

「あ?」

 掛けられる言葉は、もうこれしかなかった。

「グリンのことを、よろしくね」

「連れていかねぇのか?」

「ええ。きっと不慣れな場所じゃ、不安で悪戯するわ。だから、よろしくね」

 もうこの家を出たら、私はもうここに帰らない。暗に屋敷のことを言い含めた。

「はは」

 エルは下を向いたままで、破片を拾う手を止めない。

「いい仕事代だ」

 もう私たちの間には線《ライン》が引かれてしまって、きっともう交わることはないんだろうなと思ってしまった。

 あなたの色を変えさせた私に、あなたが引いた線を踏む権利なんてないから。

 暖かい日差しの降り注ぐ玄関の外に、馬車を呼んでいた。私が生まれ育った街に帰るための馬車を。

 その日のグリンは朝から姿を見せなかった。

 屋敷の中のどこかにはいるだろう。跳ねるような足音はしていた。

「探してくる」

 エルが屋敷の中に探しに行った。

 これで見送られずに済む。

「では、お願いします」

 御者は戸惑ったが、そのまま強引に出発させた。

 小さいが自然に恵まれて、過ごしやすい町だった。

 古いが自分たちで手入れをした屋敷には愛着があった。

「……さようなら」

 今日のことも、明日には過去になる。

 過去に別れを告げたくてここに来たのに、ここも過去になってしまった。

 自分が傷ついたなんて言う資格はない。

 傷跡のある彼が、一人にならなくてよかったと、あの日拾った子猫の存在に心から感謝した。

 久しぶりに見た生家は華やかで、屋敷の調度品は新しく高価なものが多く目に付いた。

「おかえり、イース」

 出迎えてくれた父と母と包容を交わすと、その温もりに波立っていた心が少し凪《な》いだ。

「部屋は変わっていないから、ゆっくりするといい」

 私の部屋は出る前と変わっていなかった。

 この家にふさわしいドレスに着替えようと、クローゼットを開けた。

 その中の彩りに少し気が引けた。

 こんなにも色はあるのに、私は赤色を金色に変えさせる傲慢な女だった。

 世界で一番綺麗な色を、金色だと疑っていなかった。

 赤色の夕日に心を打たれたこともあったのに。

 エル。あなたの髪を思い出せる。出会ったときは、他と同じ赤色で少し癖っ毛だった。

 感傷的になっていると、ノックの音が飛び込んできた。

「イース」

 扉の外からかけられた声は父のもの。

「はい」

「ロイが来ているよ」

 今、その顔を見たくなかった。

 その顔を見てしまえば、感情に浸ることもできない。

「着替えてから、参ります」

 わかったと言って遠ざかる足音を聞いて、今まで纏っていたドレスを脱ぐ。

 ふと窓の外を見ると、青い空に鳥が飛んでいた。

 羨ましく感じて、それから重たいドレスを着て部屋を出て階段を降りた。

 美しく整えられた花と生垣のあるガーデンテラスで、並べられたお菓子に手をつけることなくロイは待っていてくれた。

 金色の髪が風に靡いて、同じ色のまつ毛に縁取られた灰色の目を伏せて、手元で本を読んでいた。

 美しい顔。

 私が好きな男の顔。

「イース」

 私の気配に気づくと、本を畳んでこちらに顔を向けてくれた。

「おかえり」

「ただいま」

 間違えてはいけない。

 呼ぶ名を決して、間違えてはいけない。

「……ロイ」

 向かい合って座ると、私の目の前のティーカップに紅茶が注がれた。

「どんな本を読んでいたの?」

「詩集だよ」

 ロイは読んでいた本の表紙を見せてくれる。

「もうすぐサロン《集まり》で自分の考えた詩の発表をするんだ」

「そうなのね」

 真剣に本を読んでいたのは、詩を考えていたかららしい。

 ──面白いな。どんな奴がどんな顔で書いてんのかと想像すると。

 ──何それ、どんな顔なの?

 ──小難しいヤツが澄まし顔で書いてんだろ。

 私の顔を見て、ロイが目を細めた。

「きみに嬉しそうにされると、僕も嬉しいよ」

「え?」

 私は今、目の前のロイのことではなく、馬鹿ねと答えた会話を思い出していた。

 慌てて口元を手で覆った。

「そうね」

 泣きそうだ。

「嬉しいわ」

 何もかも私から捨てた。

 泣く資格なんてない。

「あなたと一緒にいられて」

 嘆く必要なんてない。

 その日の夕食は家族で取った。

 召使いが食器を用意し、猫だっていない穏やかさを絵に描いたような夕食風景。

 生まれ育った家を離れてた期間は人生のほんの少しのはずなのに、どうにもお客様然とした居心地の悪さを感じてしまう。

 食後に飲み物を飲みながら父が言った。

「姉が良家に嫁いで金銭的に恵まれたのも……これも運命だったのだろう」

 よかったわね、と母が両手を叩いた。

「近いうちにパーティーを開かない? ロイとの婚約を祝って」

「そうだな。それがいい」

 父がグラスを掲げて乾杯しようと言った。

「娘の未来に、祝福を」

 掲げられたグラスの中で運命が揺れていた。

 部屋に戻って、窓の外を眺める。

 月は煌々と輝いて、欠けているのに眩しかった。

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     一人でのんびりと月を眺める余裕もなかった。「……おい」 ずっと聞こえるその声に、さすがに抱き寄せることを決める。「鳴くなよ」 見送りもさせてもらえなかったなんて。 みゃあみゃあと、ずっと聞こえるその声はグリンだった。いつも彼女が座ってた椅子の上に座って鳴いている。 昼間は彼女の部屋にいて、馬車の走り去る音を聞いてからもうずっと、彼女を求めるように鳴いていた。 抱き寄せると俺の顔を見上げた子猫の目は緑色。彼女と同じ目の色。 昨日の出来事を思い出す。突然の来訪。彼女の父親と、共に現れた俺と同じ顔をした男。 俺は、純粋な金髪のあの男の代わりだった。 似ていたから、俺を傍にいさせただけ。彼女が俺に言った願いは一つだった。 ──私の傍にいてほしいの。 あの願いは、本当はあの男に言いたかった言葉なのだ。 俺ではないあの男に、叶えられたかった願いなのだ。 その願いが叶えられた今、俺の役目は終わった。 愛されていたと思うほど、おめでたいわけじゃない。自分が今までしてきたことを忘れているわけじゃない。 彼女と俺がしていたのは、愛の真似事。 なるほど。「詩をつくるようなヤツの気持ちがわかった気がするな」 けれどなにも、歌えない。 燻った想いの名前を知らないから、俺は何も歌えない。「お前ももう一人前なんだろ、泣くなよ」 俺はそう言ってグリンを撫でて、そのままソファで眠った。 商店の賑わう広場に出ると、いつもフルーツを買っている店のやつから声をかけられた。「今日は一人? 買って行かないの?」 どちらも返事は同じだ。「……ああ」 うるせえ。 どいつもこいつも。彼女と過ごしたこの町が、俺を一人だと思い知らせる。 揺れる木々の葉一枚でさえ、俺に彼女を思い出させる。緑の目は若葉の色をしていた。 何も買わずに屋敷に戻る。 庭は花が咲いていて、その匂いに彼女の髪を思い出したから、もうどうしようもない。 屋敷に入ってソファに座る。 今更一人で、どうやって過ごせばいいのか分からない。 足元でグリンが鳴いて俺を呼んだ。「あ?」 見ると、そこには捕まえたであろうネズミの体があった。「ははは」 元気出せってことか? これを俺に? いや。「あいつにか? もう、ここには居ないんだ」 だから分かれよ。諦めろよ。「山賊が与えられてど

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    「イース」 私の名前を呼ぶ声は、愛した男の声。 月明かりのせいでその顔がよく見える。──愛した男の顔だ。 顎を掴まれているせいで、その顔から目が背けられない。 名前を呼ばれてるのに、呼び返せない。「グリン」 足元に現れた存在のおかげで手が離されて、起きちゃったの、と声をかけた。 腕を伸ばすとグリンはすぐに飛び込んできた。 境界線を飛び越える気持ちで彼の元に来たのに、その顔を見たら何もかも分からなくなってしまった。 話そうと思ったのに。「起きちゃったの?」 猫に話すしかできなくなってしまった。「部屋に戻るか?」「え?」 彼の言葉の意味を考えて、それが思いやりだと気がついた。「もうちょっと」 私はあなたと。「ここにいる」「そうかよ」 日付と体の輪郭の境界線を越えたかった。けれど本を捲り始めた彼に、もうその気はなさそうだった。 もう一度彼の傷に触れたかった。 触れた指先を今度こそ離さず、ここまでの経緯すべてを話したかった。 私とあなたが出会う前の。 そしてあなたに手を伸ばした理由と、今もあなたを手放せないその理由を。 聞いてくれたらいいのに。 出会ったばかりの頃、訳ありかと聞かれて頷いただけだった。それが退路を塞いだ気がする。 話したい。話せない。 離したくない。「眠いか?」「そうね、ちょっと」 嘘をついて目を閉じた。「俺もだ」 彼の言葉が、嘘か本当かわからない。 彼は本を置くと、私を背中から抱きしめた。 それにグリンが驚いて、私の膝から飛び降りた。「よく眠れそうだ」「そうなのね」 背中から心臓の鼓動が伝わる。耳元にかかった息のせいで私の心臓が跳ねた。「私もよ」 嘘ばっかりだった。 出会った時から、隠匿と欺瞞しかない。 このまま夜よ明けないで。 姿を見なければ、彼を彼だと思わずに済む。 朝よ来ないでと思うのに、明日も明後日もあることが希望だった。 だからゆっくり伝えていけばいいと決めて、腕の中で眠った。 窓から差し込む太陽の光で明るい部屋の中で、彼の顔が間近にあった。「起きてたの」「起きてたよ」 ソファの上で横たわる私の身体は、彼の腕の中に閉じ込められていた。「起こしてよ」「言わなかっただろ」 鼻先が触れそうな位置で言われる。もう、と息を吐くと、耳元に手が伸びた。 私

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