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第四話

Author: 夏目若葉
last update Last Updated: 2024-12-18 19:12:42

 私は首に巻いていたマフラーをはずしながら、ふぅーっと小さく息を吐いて、姉の向かいに静かに座った。

 仕事に出かける直前だったのか、姉はきちんとメイクをし、髪も服装も整っている。私と二歳しか違わないのにとても大人っぽい。

「昼間に?」

「うん。昨日の続きみたいな感じ」

 姉がもう限界だと言わんばかりに、つらそうに顔をしかめた。

 武田くんに話した『お母さんの体調が悪い』というのはウソではないけれど、それは身体的な面ではない。

 情緒不安定な母は時々、こうして発作のようなものが起きる。それが発症するようになったのは、父が失踪してからだ。

 だけど昨日は、母の様子が今までになくひどかった。

 頭痛がするからと部屋で寝ていた母が、起きてきてリビングに現れ、私の姿を目にした瞬間鬼の形相になったのだ。

 そしていきなり、『あなた誰なの? 人の家に勝手に入らないで! 出て行きなさい!』と、わけのわからないことを叫んだ。

 その後は手当たり次第に物を投げて暴れ、呆然としていた私を突き飛ばして追い出そうとした。

 たまたま家に居た姉が母をなだめてなんとか落ち着かせることが出来たのだけれど、姉がいなかったらどうなっていたかわからない。

「今日もね、由依のことがわからないみたいだったの。『追い出してやる!』って取り憑かれたようになってた。おかしいよね、自分の娘なのに」

 ぐったりとテーブルに肘をついてうなだれる姉を見ると、今日も話の通じない母を相手に大変だったのだろうと、それは容易に想像できた。

「ごめんね」

「どうして謝るの。由依はなにも悪くないじゃないの」

 その通りだけれど、姉の負担を少しでも一緒に背負えたらよかったのにと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「謝らなきゃいけないのは私のほうよ」

「え?」

 私と視線を合わせながら、悲しそうに眉を下げる姉を見て、いったいどうしたのだろうと小首をかしげる。私には謝られるような覚えはなにもない。

「今日のお母さんを見て思ったの」

「なにを?」

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