Mag-log inお茶の部屋へ行くようになってから、何日か経った。 毎日ではない。ヴィオラに呼ばれる日もあれば、呼ばれない日もある。 最初は呼ばれた時だけ行っていたけれど、一度だけ廊下でヴィオラを見かけた時に、「今日は行かないんですか」 と聞いたら、ヴィオラに変な顔をされた。「あなたは、私がお茶を飲んでいるところへ毎回参加するつもりですか」「駄目ですか」「そうは言っていません」「じゃあ行きます」「だから、勝手に決めないでください」 そう言われた。 でも、その日の午後にはリーネが工房へ来た。「ヴィオラ様がお呼びです」「やっぱり」「何がですか」「なんでもない」 それから、何度かあの部屋でお茶を飲んだ。 話す日もある。ほとんど話さない日もある。 ヴィオラは本を読んで、私は窓の外を見たり、工房から持ってきた紙に彫りたいものを描いたりする。 同じ部屋にいるのに、別々のことをしている。それでいいらしい。 今日は朝から雨が降っていた。 工房の窓にも細い雨粒がついている。 外へ出る予定もないし、石を削るにはちょうどよかった。 昼を過ぎた頃、鑿を置いた。 少し休もうと思った。 お茶の部屋へ行こうか考える。 呼ばれてはいない。 でも、前に行ってもいいと言っていた気がする。 いや、言ってはいなかったかもしれない。 駄目とは言っていない。それならいいだろう。 工房を出て、廊下を歩く。 雨の日の王宮はいつもより静かだった。 窓の外を見ると、庭の土が濡れている。 あの部屋の窓からも、今日は雨が見えるんだろうか。 扉の前まで来て、軽く叩いた。 返事がないから、いないのかもしれない。 帰ろうとした時、廊下の向こうから声がした。「ルカ様?」 振り返ると、 ヴィオラの侍女が立っていた。「ヴィオラ様なら、庭にいらっしゃいます」「庭?」「はい」「この雨で?」 侍女が困った顔をする。「何かあったんですか」「いえ。ただ……」 言いにくそうだった。「あそこの庭ですか」 侍女が頷くから、向かうことにした。 外へ出ると、思っていたより雨が強かった。 屋根のある回廊を進む。 庭へ近づくほど、雨の音が大きくなる。 ヴィオラはすぐに見つかった。 庭の端に立っていた。 傘は持っている。でも、裾が濡れていた。 白い靴にも泥がつい
絹の店へ行った翌日、私は朝から工房にいた。 昨日見た織機のことが、まだ頭に残っている。 石と布は全然違う。でも、作るところを見ていると似ている部分もあった。 一本ずつ糸を通して、間違えたら戻れるところまで戻る。そうやって最後には一枚の布になる。 石は一本ずつ重ねたりしないけれど、少しずつ形を出していくところは同じかもしれない。 そんなことを考えながら鑿を動かしていると、工房の扉が叩かれた。「ルカ様」 リーネだった。「どうしたの?」「ヴィオラ様がお呼びです」「今?」「はい」 私は手元の石を見る。 まだ途中だったけれど、今日は変なところで止めても問題なさそうだった。「分かった」 鑿を置いて、手についた石粉を払う。 リーネはそれを確認すると、工房の外へ出た。「こちらです」「ヴィオラ様の部屋?」「いいえ」「違うんだ」「今日は別のお部屋です」 また別の場所らしい。 昨日はセリスに連れられて絹の店へ行った。 今日はヴィオラに呼ばれて、知らない部屋へ向かっている。 最近こういうことが多い気がする。 廊下を歩いていると、リーネが一つの扉の前で止まった。「こちらです」 扉を開ける。 最初に見えたのは、大きな窓だった。 王宮の中にしては小さな部屋で、窓から庭の木が見える。部屋の中央には丸いテーブルと椅子が置かれていて、壁際には本棚があった。 豪華ではない。 王宮だから家具はいいものなんだろうけれど、飾りはほとんどなかった。「いらっしゃい」 窓際にいたヴィオラが振り返る。「お呼びと聞きました」「ええ。どうぞ、お座りください」「はい」 言われた通り椅子に座る。 テーブルの上には茶器が用意されていた。「お茶ですか」「見れば分かるでしょう」「そうですね」 ヴィオラが眉を寄せた。 怒ったのかと思ったけれど、そのまま向かいの椅子に座った。「今日は何かあるんですか」「何か、とは?」「話です」「話がなければ呼んではいけませんか」「いえ」 別にいけなくはない。 でも、ヴィオラはいつも何かをしている。 会議に出ているか、書類を読んでいるか、誰かと話している。何もせずに座っているところは、そういえばあまり見たことがなかった。「珍しいなと思いまして」「なにがですか」「ヴィオラ様がゆっくり座っている
中庭へ行ってから数日が過ぎた。 工房へも戻れるようになった。 石を削る音を聞いていると、ようやくいつもの生活へ戻った気がする。 昼過ぎだった。 工房の扉が控えめに叩かれる。「失礼します」 聞き慣れた声だった。「セリス様」「作業中でしたか」「少しだけです」 私は鑿を置く。 石粉を払うと、セリスは作業台の上を見渡した。「少し増えましたね」「失敗も増えました」「そうなんですか」「割りました」 セリスは少し笑う。「それでも続けるんですね」「割るのも仕事なので」「職人らしいですね」 そうなんだろうか。 あまり考えたことはなかった。「今日は少し、お付き合いください」 セリスが言う。「今日はどこですか。また好きな場所ですか」「少し違います」「仕事ですか」「半分くらいです」「半分」「商人として好きな場所です」 少し気になった。「市場ですか」「もっと静かなところです」 セリスは少しだけ笑う。「よろしければ、ご一緒しませんか」「いいですよ」 石粉を払って上着を羽織る。 工房を出ると、セリスは前回より少し安心したような顔をしていた。「今日は工房を止められないんですね」「止めません」「珍しいです」「帰ってきますから」「帰ってきます」「信用します」「少しだけですか」「今日は、もう少しだけ」 前より増えたらしい。 王宮を出ると、石畳の通りへ出る。 市場とは反対の道だった。「市場じゃないんですね」「はい」「布を扱う職人さんのお店です」「服ですか」「絹です」 絹。 服になる前は見たことがない。「興味ありますか」「……あまり」 正直に答える。「布は着るものなので」「そうですね」 セリスは笑った。 困った顔ではない。 中庭で見た時とは少し違う。 まるで、その返事を予想していたみたいだった。「でも」 セリスは歩きながら続ける。「気に入ってくれると嬉しい」「どうしてですか」「秘密です」 そう言われると少し気になる。 でも、絹で何を見るんだろう。 花みたいに土はない。 枝もない。 職人の店なら、道具くらいだろうか。 考えているうちに、一軒の店の前でセリスが足を止めた。「着きました」 看板には絹を扱う店の名前が書かれている。 店の奥からは、一定の音
体調が戻ってから二日が過ぎた。 熱はもう下がっている。 工房へ行こうとしたけれど、セリスにもヴィオラにも止められた。 今日は散歩くらいなら許された。 廊下へ出ると、少し先でセリスが待っていた。 いつものように姿勢が綺麗だ。 茶会の時とも違う。仕事へ向かう時とも違う。 今日は少しだけ柔らかく見えた。「おはようございます、ルカ」「おはようございます、セリス様」「今日は少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」「はい」 セリスは嬉しそうに頷く。「私の好きな場所があります」「好きな場所ですか」「はい。ご案内したいんです」 好きな場所。 そういう言い方をするのは少し珍しかった。 商談でも外交でもないらしい。 少し気になって、そのまま後をついて歩いた。 王宮の奥へ進む。 いつもより人が少ない。 書類を抱えた役人も、騎士も見当たらない。 代わりに、風が入ってきた。 中庭だった。 花壇がいくつも並んでいる。 白い花。 淡い桃色。 青い花も少しだけ見える。 どれも綺麗に揃っていた。「ここが、私の好きな場所です」 セリスは花壇を見る。 その横顔は、いつもより少し力が抜けて見えた。 外交姫ではなく、一人で花を見に来る人の顔だった。「仕事を忘れられる場所なんです」「そうなんですね」 私も花壇を見る。 綺麗だった。 でも、そのまま視線が下へ落ちる。 土に枝、切った跡。 花壇の縁まで目で追っていく。「どうしましたか」「枝、切ってありますね」「ええ。庭師が毎日手入れをしています」「この高さに揃えるの、大変そうです」 枝はどれも同じくらいの高さだった。 伸びすぎたところだけ切るなら簡単だ。 でも、全体を揃えるとなると違う。「毎日見ないと駄目ですね」「そうですね」「一日でも放っておくと変わりそうです」「庭師も同じことを言っていました」 少しかがんで花壇を見る。 土は柔らかそうだった。 水が溜まった感じもない。 小さな石も混ざっている。「いい土ですね」 セリスが少しだけ黙る。「……綺麗でしょう?」「はい」「花びら……綺麗なものは、お好きではありませんか」「好きですよ」「では、どうして」 私はもう一度花を見る。 綺麗だった。 でも、それだけだった。「綺麗だからです」
目を覚ますと、昨日より部屋が明るかった。 頭の重さは少し残っている。 でも、昨日みたいに体が沈む感じはない。 熱も少し下がったらしい。 起き上がろうとして、少し止まる。「動かないでください」 昨日のセリスの声を思い出した。 そこまで言われるほどだったかな。 少し考えてから、ゆっくり体を起こす。 昨日より軽い。でも、本調子ではなかった。 扉が静かに叩かれる。「失礼します」 入ってきたのはセリスだった。 両手に木の盆を持っている。 白い湯気が静かに揺れている。 昨日は本だった。今日は朝食らしい。「おはようございます、ルカ」「おはようございます、セリス様」「気分はいかがですか」「昨日より普通です」「それなら安心しました」 セリスは寝台の横へ小さな机を寄せる。 盆を置いても音はほとんどしなかった。 茶会の時と同じだ。 こういうところは変わらない。「それは何ですか」「朝食です」「厨房からですか」「いいえ」 セリスは少しだけ笑った。「私が作りました」 私は思わず盆を見直した。 野菜の甘い匂いがする。 豪華ではない。でも、温かかった。 なんとなく、セリスらしいと思った。「セリス様が料理をするんですか」「多少は」「知りませんでした」「話す機会がありませんでしたから」 それもそうだった。 私は寝台から降りようとする。 するとセリスがすぐ一歩近づいた。「そのままでいてください」「机まで行きます」「私が運びます」「でも」「昨日も言いました」 セリスは少し困ったように笑った。「まだ信用していませんので」 私は少し笑う。「昨日より信用されたって言ってました」「少しだけです」「まだ足りませんか」「はい」「厳しいですね」「ルカが無理をするからです」 言い返せなかった。 私は諦めて座り直す。 セリスは器を私の前へ寄せた。 湯気がふわりと上がる。 薬の匂いではなく、朝の匂いだった。「食べられそうですか」「多分」「今日は、その多分を信じます」「さっきより信用されました」「ほんの少しです」 匙を持つ。 一口飲む。 優しい味だった。 喉を通るたび、体の力が少しずつ戻ってくる気がした。「美味しいです」「よかったです」 セリスは安心したように息を吐いた。 その表
朝から、頭が少し重かった。 痛いわけではない。 でも、石粉を吸いすぎた日の奥みたいに、目の裏がぼんやりしている。 昨日の石のことを考えすぎたのかもしれない。「ルカ様、顔色が悪いです」 リーネが言った。「普通」「普通ではありません」「眠いだけ」「それも普通ではありません」 厳しい。 私は椅子に座ったまま、机の上を見る。 予定表が置いてあった。 午前は書類確認。 午後はセリスとの茶会。 夕方はヴィオラとの衣装確認。 多い。「減らした?」「減らしました」「これで?」「はい」 前にも聞いた気がする。 私は予定表を見る。 文字は読める。 でも、意味があまり入ってこない。「今日、工房行ける?」「無理です」「じゃあ倒れるかも」「縁起でもないことを言わないでください」 リーネが眉を寄せる。 私は少し笑おうとした。 でもうまく顔が動かなかった。「ルカ様」「ん」「本当に大丈夫ですか」「多分」「多分は駄目です」 多分は駄目らしい。 私は立ち上がる。 足元が少しだけ遅れた。 床が柔らかい気がした。 おかしいなと思う。 石の床なのに。「ルカ様」 リーネの声が遠くなる。 耳の奥で溶けていくみたいだった。 次に目を開けた時、天井が見えた。 白い天井だった。 彫刻室の石とは違う白。 布の白。 私はしばらくそれを見ていた。「起きましたか」 横から声がした。 セリスだった。 椅子に座っている。 いつもの綺麗な笑顔ではなかった。 少しだけ眉が下がっていて、手には本を持っている。「セリス様」「はい」「ここ、どこですか」「ルカの部屋です」 確かに、見慣れた景色だった。「私、倒れました?」「倒れました」「ああ、そうなんですか」「軽いですね」「重く言っても倒れた事実は変わらないので」 セリスは少しだけ目を細めた。「そういうところです」「どこですか」「分かりませんか」「はい」「でしょうね」 少し怒っている気がした。 でも声は荒くない。 静かだった。 だから余計に、怒っているのが分かる。 私は起き上がろうとした。「動かないでください」 即座に言われた。「でも」「動かないでください」「二回言いましたね」「必要なので」 私は諦めて枕へ戻る。 体