LOGINこうして藤原家ただ一人の後継ぎは、まるごと七年間も連れ去られた。その七年のあいだ、俊彦は何度も部下を動かして犯人たちの行方を探し続けてきた。秀一が藤原家に戻ってからも捜索は一度も止まったことがない。だが、二十年以上ものあいだ、彼らは姿を消していた。いくつか疑わしい点があっても、決定的な手がかりが見つからず、秀一自身も動きようがなかった。それが――まさかこのタイミングで、洋太の口から「見つかった」と告げられるとは。秀一の顔がわずかに強張り、次の瞬間には洋太へと大股で歩み寄っていた。「その情報、どこからだ?桜木家が流した偽の情報という可能性は?」「ありません、確実です!うちの連中が何度も確認をとりました!」洋太は息を弾ませながら、書類の入った封筒を差し出し、簡潔に続ける。「今回の発見は本当に偶然でした。うちの者が何人か、休暇で海外に行った時のことです。向こうのブラックマーケットで、昔の写真に写っていた傭兵の一人を、偶然見かけたらしいんです。以前から、彼らは汚れ仕事の温床みたいな国に潜んでいる可能性が高いと私たちが踏んでいました。あの手の場所は人の出入りが激しいし、混ざってしまえば誰にも気づかれません。それでうちの者は慎重に尾行し、ひたすら潜って……そのままひと月。ようやく十三年前の誘拐に関わった全員の所在が割れました」洋太の声がひそめられる。「十三年前の実行犯は全部で十五人。そのうち六人は逃亡生活の中で事故死、二人は病死。残る七人が、今も海外のブラックマーケットで麻薬の密売を生業としています。命じてくだされば、すぐにうちの者を動かします。七人全員、一人も逃さずに連れて来ます。そうすれば……十三年前、あなたと紀子奥様の恨みを、ようやく晴らすことができます!」もしあの十五人がいなければ――秀一は母と引き離されて辛い幼少期を経験することなく、藤原家にもあの冷たい空白の七年も存在しなかったかもしれない。犯人たちが長年悲惨な暮らしをしていたとしても、被害者が味わった苦しみに比べれば軽すぎる。何回裁かれたところで償いにはならないだろう。今の彼らに残された唯一の価値は――二十年以上封じられてきた真相を白日の下に晒し、影に潜んでいた黒幕を暴くことだけだ。洋太の言葉を聞いて、秀一は何も言わなかった。封筒を開け、視線を落とした
友也は、胸の中でずっと燻っていた疑問や不満を、勢いのまま一気に吐き出した。ここ数日、秀一が病院にいる佳苗たちをすべて友也に任せていたせいで、彼は何かと振り回されていた。そのうえ、アート展当日も雨音の手伝いに行けず、気持ちはずっと荒れっぱなしだった。健吾と由紀子の気弱な態度、そして佳苗の常軌を逸した行動を見続けるうちに、ふと、こんな考えが浮かんでしまったのだ。――この家族、本当に七年間も他人を無償で助けてきたような人間だろうか?むしろ、秀一のただ者じゃない雰囲気をどこかで察して、三人とも最初から演じていたんじゃないか?そんな疑念だった。友也の率直な推測を聞き、秀一は少しだけ眉を寄せ、しばらく考え込んだが、やがてゆっくり首を振った。「……それは、ないと思う。藤原家に戻ってから、烏山家のことを調べた。三人とも経歴は単純で、生活も苦しく、ずっと山の奥で暮らしていた人たちだ。誰かに頼まれて俺を助けた……なんて筋書きはないはずだ。俺が怪我をして記憶を失っていたから、病院に通うためにお金が要ると知って、健吾さんも由紀子さんも、必死で働いてくれていた。その姿は、嘘じゃなかった」秀一は子供だったとはいえ、善悪の判断がついていた。もしあれが全部演技だったのなら、さすがに完璧すぎた。当時の三人は、本当に素朴で誠実だった。変わり始めたのは、おそらく秀一が記憶を取り戻し、藤原家の長男として家に戻ったあとだ。そこから秀一は烏山家への支援を始め、少しずつ三人の態度にも欲が見え始めた。特に佳苗は、首都での華やかな暮らしに触れたことで、自分の立場を勘違いし始めたのだ。今、彼女に現実をみてもらうために、全てを取り上げるのではなく、ただ実家に帰ってもらうだけなのに、断固として拒否した。だが、秀一の決意は揺るがない。彼は友也を見据え、はっきりと言う。「俺が玲に全部打ち明ける日。あの三人が嫌がっても、連れてくるんだ。終わったあとも、そのまま実家に返す準備をしてくれ。態度は少し強くても構わないが、絶対に手を出すなと護衛たちに伝えてくれ。怪我だけはさせるな」友也は頷いた。「わかってる。秀一があの家族に恩を感じてることは知ってるから。ビビらせる程度にするよ。健吾さんと由紀子さんは、脅せばすぐ静かになるし……佳苗はちょっとうまくやれば何とかなるだろ
こんな方法で玲の心を繋ぎ止めるのは少し卑怯かもしれない。秀一にはその自覚があった。だが、この「全財産譲渡」の契約書があれば、玲に許してもらえる確率が上がるのも事実。とにかく秀一は、今回の謝罪にすべてを懸けていた。友也は、心の底から驚きつつも、どこか胸を打たれていた。「秀一、玲さんに許してもらいたいっていうその覚悟、ほんとすごい。これだけ準備していれば、きっと許してくれると思う。でも……ひとつ気になることがあって。今日、佳苗たちも連れてくるよね?それ……かなり危ないんじゃない?ほら、アート展の開幕の日、佳苗の企みを秀一が見抜いたから、俺を病院に残して、彼女を見張らせただろ?けどあの女、マジでどうかしてたよ?お前が玲さんに会いに行ったってわかった途端、あいつ……俺をナイフで刺そうとしてたんだ」あの日、雪乃がアート展で秀一を目撃すると、佳苗が計画通り秀一を足止めできなかったことに腹を立て、彼女が役に立たないと思ったから、咄嗟に計画を変更し、一人で玲を狙ったのだ。だが本当は、佳苗は相当な騒ぎを起こしていた。友也はあの日のことを思い出すために、体が震え出す。「あいつ、お前を足止めするために、果物ナイフを隠し持って、トイレで手首を切る気だったんだよ?自殺してまでお前を引き留めようとしてたなんて……恐ろしすぎる!」五年間も眠っていて、やっと目覚めた人間なら普通は命を大事にする。なのに佳苗は、まるで命を値切るかのように、簡単に投げ捨てようとした。「正直……佳苗みたいな人間、目を覚まさせないほうが世の中のためだったよ。あいつの両親に泣きつかれてたから、あれだけの金と手間をかけて助けてあげたのに……結局この有り様。だったら、あのまま寝ててもらったほうがずっと平和だったよ。まぁ、今更こんなことを言っても仕方ないけどね」秀一は佳苗の名を聞くだけで、わずかに眉根を寄せる。「……謝罪の件が終わったら、あの三人には首都から出てってもらう。実家に戻って、数年落ち着いて暮らせば……いくらかはまともに戻るだろう。少なくとも、あそこまで極端じゃなくなるはずだ」「いや……どうだろうね」友也は慎重に言葉を選んだ。「佳苗が今みたいに壊れてるの、病気のせいって思ってるみたいだけど……俺は違うと思うんだよね。人の本質って、そう簡単に変わらないから
「なぁ秀一、この赤いバラ、テーブルに置いたらもっとロマンチックになる?」ボディーガードとの電話を切ったばかりの秀一の耳に、友也の声が飛び込んだ。見ると、彼が大きな花束を抱え、レストランの中を歩き回っている。どこに置くべきかまったく決められないらしい。その様子に、秀一は思わずこめかみを押さえた。「……赤いバラを買えなんて誰も言ってないだろ?ここは、玲に謝罪するための場所なんだ。結婚記念日を祝うわけじゃない。赤いバラなんて、どう考えても違うだろ?」秀一は今回、海外から特別にカサブランカを取り寄せていた。上品で落ち着いた色合いに、ほのかに清らかな香り。――少しでも玲の怒りが和らぐように。そんな願いを込めた準備だった。しかし友也は「女性と会うなら、赤いバラが必要不可欠」という単純な発想で動いたらしく、その鮮烈な赤が、せっかくの柔らかな雰囲気を壊していた。友也は頭を掻いた。「言われてみればそうだな……さすが秀一、考えが細かい。謝罪するなら、ロマンチックより落ち着いた空間のほうがいいよね。これなら絶対、すぐ許してくれるよ」「あのな水沢、女性を、特に玲を舐めてはいけないんだぞ」秀一は静かに首を振り、真面目な口調で言った。「花や場の雰囲気だけで機嫌が直る、なんて思ってるなら……それは相手を軽く見ている証拠だ。愛する人を、本当の意味で大切にしていない」「そ、そんなつもりじゃ……!」友也は慌てて手を振る。「ただ、謝罪のためにレストランを貸し切って飾りつけまでするのは十分誠意があると思っただけで……まさか秀一、ほかにも何か準備してるのか?」秀一は答えない。ただ、静かに一枚の書類を取り出した。「……え?」友也が覗き込んだ瞬間、目がまん丸になった。「こ、これ……秀一名義の全財産の譲渡契約……?秀一、身ひとつで追い出される覚悟までできてるのか!」秀一は玲と離婚するつもりはない。だから、表現としては少し違う。だが事実として――真実を知った玲は、秀一を許さないと決め、離婚すると決意したのなら、秀一は何もかも失う。それでも秀一は、それを受け止めるつもりだ。「本来、俺のものはすべて玲のものだ。今まで俺は彼女を騙して、不安にさせて、傷つけてきた。彼女の信頼を裏切ったのだ。お金を渡せば許すような人じゃないのはわかってる。でも…
玲は雨音の話に一瞬動きを止め、頭の中に少し刺激の強い光景がよぎってしまい、顔がみるみる熱くなる。そのまま誤魔化すように歩幅を速め、雨音と並んで歩くのを避けた。とはいえ、体力の限界がすぐに来てしまった。少し進んだだけでまた足が重くなり、さらにひとつ大きなあくびが漏れる。――今日は本当に疲れたみたいだ。できるなら、早めに仕事を片づけて帰って寝たい。なにせ明日は、雪乃に会いに留置場へ行く予定なのだから。玲はそんなことを頭の片隅で考えていた。……一方その頃、秀一のもとには、彼が玲の身辺に付けていた二人のボディーガードから連絡が入っていた。ふたりは朝からの玲の行動を細かく報告する。「社長、今朝奥様は俊彦会長の電話を受けて、手土産を持って藤原本邸へ向かわれました。その後はアート展に移動されて、雨音さんと二時間ほど準備に追われていました。昼は二人でオフィスに籠ってお食事とお話を。そこは女性同士のプライベートになりますので、近づかないようにしておりました。それと……先ほどオフィスから出て来られた奥様ですが、かなりお疲れのようで。あくびを二、三回されていました。雨音さん曰く、昨夜あまり眠れなかったのでは、と。ただ詳細までは……」最後の部分は、どう考えても秀一のプライベートに直結する。ボディーガードたちも下手に踏み込むわけにはいかない。秀一はしばらく無言でスマホを握り、昨夜の自分の「暴走」を思い返したのか、咳払いして冷静を装った。「眠れていない件は心配いらない。俺のほうで対応する。それより、朝に藤原家に行った時はどれくらい滞在した?」「だいたい一時間ほどです」ボディーガードのひとりが答える。「奥様と会長のお話は、我々が聞く権限はありませんので、使用人と廊下で控えておりました。ただ、奥様が出てこられた時の様子は普段どおりで、特に傷つけられた様子もありませんでした」秀一は軽くテーブルを指で叩いた。それほど心配していないようだ。「父は、玲を大事にしてる俺の気持ちを理解してる。わざわざ彼女をいじめるような真似はしない。それに昨日、玲のおかげで俺の評判もかなりよくなった。父は感謝こそすれ、害を与えるはずがない」秀一が滞在時間を聞いたのは、美穂か綾――どちらかが嫌がらせをしないか確認したかっただけだ。だが一時間だけなら、さすが
「今日ね、令嬢たちのグループチャットで見たんだけど――弘樹くん、やっと退院したって」雨音は声を落としつつも、その「やっと」にしっかり力を込めて玲へ告げた。そう、「やっと」だ。弘樹の手のケガが報じられてから、気づけばもう一か月近く経っていた。当時は怪我の深刻さが噂になり、綾が流した「秀一に殴られた」という話を信じ込んだ暇人たちが、絶対重傷だと勝手に騒いだほどだ。とはいえ、手を怪我しただけで一か月も入院しているというのは、やはり珍しい。むしろ弘樹は家に帰りたくないから長引かせてるのではと思わせるほど居座っていて、雨音でさえ「もう病院にスイートでも作る気じゃない?」と思うくらいだった。だからこそ、今朝になって突然の退院報告は、妙に胸に引っかかった。退院すること自体は雨音や玲とはあまり関係のないことだが、そのタイミングはどうも変だったのだ。「だって、雪乃が捕まったばかりでしょ?その直後に弘樹くんが慌てて退院するなんて……どう考えても、誰かが気になって仕方ないから急いで出てきたって感じがするんだよ。その『誰か』って……玲ちゃん、言わなくてもわかるよね?」玲はため息混じりに笑った。「雪乃と関係してて、彼女が捕まったことで動揺する相手なんて……もう私しかいないでしょうね」ここまで言われれば、もう本人のマイナンバーを読み上げるのと同じレベルの直接さだ。それでも玲は雨音の心配を理解していた。「確かに弘樹から、病院にいる間に電話はかかってきたけど、出なかった。今日退院した理由が私かどうかはわからない。でもね、たとえ私に会いに来たとしても……怖がったりはしないわ。今さら心が揺れるなんてこと、絶対にない」「そっか。ならいいけど……玲ちゃん、藤原さんが今回やったことは正直ちょっとひどかったとは思うよ?でもさ、それでも弘樹くんに比べたら、まだ藤原さんのほうがチャンスをあげる価値があると思う。だから、弘樹くんに付け入られないように気をつけてね」雨音はそれ以上は言わず、話を切り替えるように立ち上がった。「さて、午後の来場者がそろそろ入る時間だし、会場に戻ろ」「うん」玲も席を立ち、雨音と一緒にドアへ向かった。ただ――オフィスを出て展示ホールまで歩く間、玲は妙に体の芯が重く、足取りが鈍かった。思わず小さなあくびが漏れる。「玲ちゃん