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第94話

Author: 雪八千
「ご、ごめんなさいっ!わざとじゃなくて……!」

玲は目を見開き、秀一の唇に自分の唇が触れたと気づいた瞬間、飛び退くように身を引いた。

そして慌てて謝罪の言葉を重ねる。

頬はもう赤いどころではない。まるで全身が爆発しそうなほど熱を帯びていた。

一方の秀一も、身体を固くしたまま言葉を失っていた。泰然自若を絵に描いたようなこの男が、耳の先まで真っ赤に染まるのは初めてのことだ。

――彼のファーストキスだった。

幾多の荒波を越えてきた彼も、今になって初めて知った。好きな人と唇を重ねるというのは、こんなにも甘く、胸を焼くような感覚なのかと。

名残惜しいのは、その時間があまりにも短く、自分がぎこちなくしてしまったことくらいだ。

だが、まだこれから先がある。

いくらでも取り戻せるだろう。

心の奥底から湧き上がる衝動を押し込め、秀一は静かに玲を見つめ、低く掠れた声で言った。

「……謝らなくていい。別に謝ることじゃない」

「い、いえっ……やっぱり謝ります。それから……」

玲は顔を伏せたまま、声を詰まらせる。

「秀一さん……引っ越しは大丈夫です。じ、自分でできますから……」

「わかった」

秀一は短く頷くだけで、それ以上は何も言わなかった。

玲はそれを聞くと、まるで逃げるように踵を返し、足早に歩き出す。暗い小路の奥に、その姿が風のように消えていく。

今回、秀一は追いかけなかった。今の空気のまま二人でいれば、玲は耐えられないだろうし、彼自身ももう抑えきれそうになかったからだ。

「……ごほっ、ごほんっ、社長――」

控えめな咳払いとともに、洋太の遠慮がちな声が響いた。彼はずっと暗がりに車を停めて待機しており、必要があれば助けるつもりでいた。

まさかあんな場面を目撃することになるとは思わず、視線を逸らしながら恐る恐る声をかける。

「ハンカチ……お使いになりますか?」

「いらない」

秀一は落ち着いた声でそう言い、後部座席に乗り込むと仕切りを上げた。指先でそっと唇の紅を拭い取り、その指を暗闇の中でゆっくりと撫でる。

――淡く残る甘い香りに、車内の空気までとろりと甘く満ちていった。

……

そのころ、玲は秀一がどうしているのか知る由もなかった。彼のもとを離れるや否や、そのまま高瀬家へと急ぎ戻ったのだ。

思い立ったらすぐに荷物をまとめて出るつもりだった
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