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6話

مؤلف: Amy
last update تاريخ النشر: 2026-10-09 19:16:55

「愛人にでも、なるから」

言ってしまった瞬間、自分の声だけがやけに鮮明に耳に残った。

給湯室の狭い空間で、彰人は何も言わなかった。

すぐそばにいるのに、その沈黙がひどく遠い。

さっきまで聞こえていた郁也と柚香の足音は、もう廊下の向こうへ消えている。

私は彰人の返事を待った。

断られても仕方がない。

4年前、私はこの人との婚約を捨てた。家族まで捨てて、郁也を選んだ。

それなのに今になって、娘を助けてほしい、この家から連れ出してほしい、その代わりなら自分を差し出すと言っている。

勝手なのは分かっている。

それでも今は、他に何も思いつかなかった。

やがて彰人が低く息を吐いた。

「……傷ついたまま逃げるのか」

顔を上げる。

冷たい目がまっすぐこちらを見ていた。

「俺のところへ来れば全部終わると思ってるなら、甘い」

胸の奥が痛んだ。

「そんなつもりじゃ……」

「じゃあ、何のつもりだ」

答えられなかった。

私はただ、この場所から消えたかった。

私が柚香に似ていたから、郁也が私と結婚したこと。

私が家族を捨てたから、絶対に自分から離れないと思っていたこと。

それを聞いた瞬間から、相馬家の壁も、廊下も、夫婦の寝室も、全部が別のものに見えていた。

ここでまた何事もなかったように朝を迎える。

郁也の妻として食卓に座る。

柚香の隣にいる夫を見ながら、ひかりの薬を飲ませる。

そんな明日を想像しただけで、息が詰まった。

このままこの家にいたら、私はきっと壊れる。

そして、私が壊れれば、ひかりまで守れなくなる。

それだけは嫌だった。

「……ひかりを連れて、ここを出たい」

やっと言えた。

彰人はしばらく私を見た。

「お前が出るんだろ」

逃げ道を塞ぐような言い方だった。

「俺が連れ出したことにするな」

私は唇を噛んだ。

彰人はもう何も言わない。

ただ、私が答えるのを待っている。

私はバッグの持ち手を握り直した。

「……分かった」

自分の声が、思っていたよりはっきりしていた。

彰人は給湯室の扉を開け、廊下へ出た。

私もその後に続く。

数歩進んだところで、彰人が振り返った。

「美晴」

「何?」

「その前に相馬と話すことがあるだろう」

それだけ言うと、彰人は背を向けた。

私はしばらくその背中を見ていたが、やがて2階へ向かった。

……

晩餐会を切り上げ、相馬邸を出た彰人は、迎えの車の後部座席に深く腰を沈めた。

窓の外を、相馬家の明かりが流れていく。

――愛人にでも、なるから。

美晴の声が、まだ耳に残っていた。

言われた瞬間、胸の奥に暗い満足が走った。

4年前。

自分との婚約を捨て、相馬郁也を選んだ女。

その女が今、自分に何でもすると言った。

ようやく俺のところへ来た。

ほんの一瞬、確かにそう思った。

なのに。

その満足は、すぐに別の感情へ変わった。

相馬に傷つけられたから。

行く場所がないから。

娘を救いたいから。

そう考えるたび、妙に腹が立つ。

欲しかったはずの言葉なのに、少しも気分がよくない。

彰人は眉間を押さえた。

自分でも、何に苛立っているのか分からなかった。

助手席の村瀬が振り返る。

「社長、海外の医療機関から追加照会が来ています」

彰人は目を開けた。

「ひかりの件か」

「はい」

「必要な資料を全部そろえろ。今夜中に送れ」

「承知しました」

村瀬が前を向く。

彰人は再び窓の外へ目をやった。

相馬邸はもう見えなかった。

……

ひかりは部屋で眠っていた。

ベッドのそばには看護師がいて、私を見ると静かに立ち上がった。

「少し休まれています。熱もありません」

「ありがとうございます」

私はベッドの縁に座った。

ひかりの頬に触れる。

温かい。

小さな寝息を聞いた瞬間、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。

この子だけは、守らなければ。

私はひかりの部屋を出て、クローゼット部屋で小さなバッグを取り出した。

何日分必要なのか分からない。

一晩なのか、数日なのか。

もしかしたら――。

そこから先は考えられなかった。

明日の朝、どこで目を覚ますのかさえ分からない。

それでも、不思議と荷物を戻そうとは思わなかった。

引き出しを開けると、ひかりの保険証と一緒に、去年の誕生日に3人で撮った写真が入っていた。

郁也の隣で笑う私と、その真ん中でケーキを抱えているひかり。

あの時の私は、この家がずっと自分たちの家だと思っていた。

指先が写真の端に触れた。

けれど、それはバッグには入れなかった。

今必要なのは、ひかりのものだけでいい。

とりあえず、ひかりの薬。

診察券。

母子手帳。

着替えを数枚。

いつも抱いて眠る白いうさぎのぬいぐるみ。

ひとつずつ詰めていく。

自分のものは、下着と服を少しだけ。

財布の中の現金は多くない。

カードもある。でも、それで何日持つのかは分からなかった。

考えれば怖くなる。

考えようとすると、頭の中がぐちゃぐちゃになった。

今は、そこまで考えられない。

ただひとつだけ分かっていた。

今までと同じ顔をして、この家で朝を迎えることだけはできなかった。

バッグのファスナーを閉めた時だった。

「……何してる?」

背後から声がした。

指が止まる。

振り返ると、開いた扉のところに郁也が立っていた。

ネクタイを緩めた姿で、眉をひそめている。

郁也の視線が、私の足元のバッグへ落ちた。

「その荷物、何だよ」

私は立ち上がった。

さっきまでなら、何と答えるか迷ったかもしれない。

でも今は、不思議なくらい静かだった。

「ひかりを連れて、今夜は外に出る」

郁也の表情が止まった。

「……は?」

「少し、この家を離れたいの」

「なんで?」

本当に分からないという顔だった。

その顔を見た瞬間、胸の奥にまた痛みが走った。

でも、もう泣きたくはなかった。

郁也は部屋へ入ってくる。

「晩餐会で何かあったのか?」

私は黙った。

「ワインのこと?あれなら柚香だって悪気は――」

「郁也」

自分でも驚くほど、静かな声が出た。

「私と結婚したのは」

一度、息を吸う。

「柚香に似てたから?」

郁也の顔から、表情が消えた。

ほんの数秒だった。

けれど、その沈黙だけで胸が冷えていく。

そして郁也は、眉を寄せた。

「……盗み聞きしたのかよ」

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