تسجيل الدخول「愛人にでも、なるから」
言ってしまった瞬間、自分の声だけがやけに鮮明に耳に残った。
給湯室の狭い空間で、彰人は何も言わなかった。
すぐそばにいるのに、その沈黙がひどく遠い。
さっきまで聞こえていた郁也と柚香の足音は、もう廊下の向こうへ消えている。
私は彰人の返事を待った。
断られても仕方がない。
4年前、私はこの人との婚約を捨てた。家族まで捨てて、郁也を選んだ。
それなのに今になって、娘を助けてほしい、この家から連れ出してほしい、その代わりなら自分を差し出すと言っている。
勝手なのは分かっている。
それでも今は、他に何も思いつかなかった。
やがて彰人が低く息を吐いた。
「……傷ついたまま逃げるのか」
顔を上げる。
冷たい目がまっすぐこちらを見ていた。
「俺のところへ来れば全部終わると思ってるなら、甘い」
胸の奥が痛んだ。
「そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、何のつもりだ」
答えられなかった。
私はただ、この場所から消えたかった。
私が柚香に似ていたから、郁也が私と結婚したこと。
私が家族を捨てたから、絶対に自分から離れないと思っていたこと。
それを聞いた瞬間から、相馬家の壁も、廊下も、夫婦の寝室も、全部が別のものに見えていた。
ここでまた何事もなかったように朝を迎える。
郁也の妻として食卓に座る。
柚香の隣にいる夫を見ながら、ひかりの薬を飲ませる。
そんな明日を想像しただけで、息が詰まった。
このままこの家にいたら、私はきっと壊れる。
そして、私が壊れれば、ひかりまで守れなくなる。
それだけは嫌だった。
「……ひかりを連れて、ここを出たい」
やっと言えた。
彰人はしばらく私を見た。
「お前が出るんだろ」
逃げ道を塞ぐような言い方だった。
「俺が連れ出したことにするな」
私は唇を噛んだ。
彰人はもう何も言わない。
ただ、私が答えるのを待っている。
私はバッグの持ち手を握り直した。
「……分かった」
自分の声が、思っていたよりはっきりしていた。
彰人は給湯室の扉を開け、廊下へ出た。
私もその後に続く。
数歩進んだところで、彰人が振り返った。
「美晴」
「何?」
「その前に相馬と話すことがあるだろう」
それだけ言うと、彰人は背を向けた。
私はしばらくその背中を見ていたが、やがて2階へ向かった。
……
晩餐会を切り上げ、相馬邸を出た彰人は、迎えの車の後部座席に深く腰を沈めた。
窓の外を、相馬家の明かりが流れていく。
――愛人にでも、なるから。
美晴の声が、まだ耳に残っていた。
言われた瞬間、胸の奥に暗い満足が走った。
4年前。
自分との婚約を捨て、相馬郁也を選んだ女。
その女が今、自分に何でもすると言った。
ようやく俺のところへ来た。
ほんの一瞬、確かにそう思った。
なのに。
その満足は、すぐに別の感情へ変わった。
相馬に傷つけられたから。
行く場所がないから。
娘を救いたいから。
そう考えるたび、妙に腹が立つ。
欲しかったはずの言葉なのに、少しも気分がよくない。
彰人は眉間を押さえた。
自分でも、何に苛立っているのか分からなかった。
助手席の村瀬が振り返る。
「社長、海外の医療機関から追加照会が来ています」
彰人は目を開けた。
「ひかりの件か」
「はい」
「必要な資料を全部そろえろ。今夜中に送れ」
「承知しました」
村瀬が前を向く。
彰人は再び窓の外へ目をやった。
相馬邸はもう見えなかった。
……
ひかりは部屋で眠っていた。
ベッドのそばには看護師がいて、私を見ると静かに立ち上がった。
「少し休まれています。熱もありません」
「ありがとうございます」
私はベッドの縁に座った。
ひかりの頬に触れる。
温かい。
小さな寝息を聞いた瞬間、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
この子だけは、守らなければ。
私はひかりの部屋を出て、クローゼット部屋で小さなバッグを取り出した。
何日分必要なのか分からない。
一晩なのか、数日なのか。
もしかしたら――。
そこから先は考えられなかった。
明日の朝、どこで目を覚ますのかさえ分からない。
それでも、不思議と荷物を戻そうとは思わなかった。
引き出しを開けると、ひかりの保険証と一緒に、去年の誕生日に3人で撮った写真が入っていた。
郁也の隣で笑う私と、その真ん中でケーキを抱えているひかり。
あの時の私は、この家がずっと自分たちの家だと思っていた。
指先が写真の端に触れた。
けれど、それはバッグには入れなかった。
今必要なのは、ひかりのものだけでいい。
とりあえず、ひかりの薬。
診察券。
母子手帳。
着替えを数枚。
いつも抱いて眠る白いうさぎのぬいぐるみ。
ひとつずつ詰めていく。
自分のものは、下着と服を少しだけ。
財布の中の現金は多くない。
カードもある。でも、それで何日持つのかは分からなかった。
考えれば怖くなる。
考えようとすると、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
今は、そこまで考えられない。
ただひとつだけ分かっていた。
今までと同じ顔をして、この家で朝を迎えることだけはできなかった。
バッグのファスナーを閉めた時だった。
「……何してる?」
背後から声がした。
指が止まる。
振り返ると、開いた扉のところに郁也が立っていた。
ネクタイを緩めた姿で、眉をひそめている。
郁也の視線が、私の足元のバッグへ落ちた。
「その荷物、何だよ」
私は立ち上がった。
さっきまでなら、何と答えるか迷ったかもしれない。
でも今は、不思議なくらい静かだった。
「ひかりを連れて、今夜は外に出る」
郁也の表情が止まった。
「……は?」
「少し、この家を離れたいの」
「なんで?」
本当に分からないという顔だった。
その顔を見た瞬間、胸の奥にまた痛みが走った。
でも、もう泣きたくはなかった。
郁也は部屋へ入ってくる。
「晩餐会で何かあったのか?」
私は黙った。
「ワインのこと?あれなら柚香だって悪気は――」
「郁也」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「私と結婚したのは」
一度、息を吸う。
「柚香に似てたから?」
郁也の顔から、表情が消えた。
ほんの数秒だった。
けれど、その沈黙だけで胸が冷えていく。
そして郁也は、眉を寄せた。
「……盗み聞きしたのかよ」
「愛人にでも、なるから」言ってしまった瞬間、自分の声だけがやけに鮮明に耳に残った。給湯室の狭い空間で、彰人は何も言わなかった。すぐそばにいるのに、その沈黙がひどく遠い。さっきまで聞こえていた郁也と柚香の足音は、もう廊下の向こうへ消えている。私は彰人の返事を待った。断られても仕方がない。4年前、私はこの人との婚約を捨てた。家族まで捨てて、郁也を選んだ。それなのに今になって、娘を助けてほしい、この家から連れ出してほしい、その代わりなら自分を差し出すと言っている。勝手なのは分かっている。それでも今は、他に何も思いつかなかった。やがて彰人が低く息を吐いた。「……傷ついたまま逃げるのか」顔を上げる。冷たい目がまっすぐこちらを見ていた。「俺のところへ来れば全部終わると思ってるなら、甘い」胸の奥が痛んだ。「そんなつもりじゃ……」「じゃあ、何のつもりだ」答えられなかった。私はただ、この場所から消えたかった。私が柚香に似ていたから、郁也が私と結婚したこと。私が家族を捨てたから、絶対に自分から離れないと思っていたこと。それを聞いた瞬間から、相馬家の壁も、廊下も、夫婦の寝室も、全部が別のものに見えていた。ここでまた何事もなかったように朝を迎える。郁也の妻として食卓に座る。柚香の隣にいる夫を見ながら、ひかりの薬を飲ませる。そんな明日を想像しただけで、息が詰まった。このままこの家にいたら、私はきっと壊れる。そして、私が壊れれば、ひかりまで守れなくなる。それだけは嫌だった。「……ひかりを連れて、ここを出たい」やっと言えた。彰人はしばらく私を見た。「お前が出るんだろ」逃げ道を塞ぐような言い方だった。「俺が連れ出したことにするな」私は唇を噛んだ。彰人はもう何も言わない。ただ、私が答えるのを待っている。私はバッグの持ち手を握り直した。「……分かった」自分の声が、思っていたよりはっきりしていた。彰人は給湯室の扉を開け、廊下へ出た。私もその後に続く。数歩進んだところで、彰人が振り返った。「美晴」「何?」「その前に相馬と話すことがあるだろう」それだけ言うと、彰人は背を向けた。私はしばらくその背中を見ていたが、やがて2階へ向かった。……晩餐会を切り上げ、相馬邸を出た彰人は、迎えの車の後部座席に深く腰を沈
ひかりが退院した翌日、相馬家では晩餐会が開かれた。相馬グループの創立記念と新規事業発表の会だ。出席しないと伝えると、須美子が子ども部屋まで来た。「御影さんが来るのよ。あなたの元婚約者なんだから、少しくらい役に立ちなさい」「篠宮家と絶縁した私は、役に立たない嫁じゃなかったんですか?」須美子の顔がこわばる。「共同事業が決まれば、相馬家のためになるの。あなたからも取りなして」「私はひかりのそばにいます」「看護師をつけると言ってるでしょう。妻として挨拶くらいなさい」寝かけていた娘が目を開けた。私は須美子を促して廊下へ出て、扉を閉めた。彰人には、私からもお礼を言いたい。同じ家の中なら、すぐ戻れる。「挨拶をしたらすぐ戻ります」須美子の返事を待たず、部屋へ戻った。ひかりは絵本を抱えて、また目を閉じていた。病院から来た看護師に、何かあればすぐ携帯へ連絡してほしいと頼み、私は階下へ向かった。吹き抜けの大ホールには白い花が飾られ、グラスの触れ合う音が響いていた。取引先へ挨拶する郁也の隣に、白いドレスの柚香がいる。私が近づいても、郁也は場所を空けなかった。妻として来いと言われたのに、その隣に立つ余地もない。「ひかりちゃん、大丈夫?」柚香が笑顔を向けた。「今は寝てる」「よかった。私も心配してたの」返事をする前に、御影社長がお見えになりました、という声がした。須美子と郁也が玄関へ急ぐ。黒いスーツの彰人は、村瀬を伴って入ってきた。出迎える客たちの向こうでも、背の高い彼の姿はすぐに見つかった。須美子に呼ばれ、私も近づいた。彰人に軽く会釈すると、頭の上から声が落ちてきた。「俺に過去の非礼を詫びたいらしいな」「……何の話?私は、そんなこと言ってないわ」「そうか」彼の視線が須美子へ移った。須美子は笑みを崩さず、近くの客に会釈した。そのとき、すぐ横から、妙に明るい声がした。「美晴さん、今夜も売る物を探しにいらしたんですか?」近くで歓談していた客が、こちらを振り向く。麗奈はワイングラスを手に、にこにこと私を見ていた。耳元で、あの大きな真珠が揺れる。「ここなら、高く売れそうな物がたくさんありますものね」近くで小さな笑い声がした。須美子が客のひとりへ話しかけると、周囲の顔もそちらへ向いた。麗奈が私の前へ一歩寄った。客たち
目を開けると白い天井が見えた。腕には点滴がつながっている。娘のベッドも、枕元の絵本もない。ひかりは?慌てて身体を起こしかけたところで、窓際から声がした。「寝てろ。娘なら看護師がついてる」椅子に座っていた彰人が立ち上がった。「……どうしてここに」「あの通りのビルで打ち合わせがあった。出てきたら、お前がふらついてた」意識が途切れる前の低い声を思い出した。受け止めたのは、彼だったのだ。「ここは?」「病院の部屋を借りた。ひかりの病室は同じ階にある」それでも起きようとすると、彰人が私の顔を覗き込んだ。「まだふらつくんだろ」「でも、目を覚ましたら私を探すから」彼は私を枕へ戻すと、携帯を取り出した。「村瀬。ひかりが起きたら、こっちに連絡が来るようにしてくれ」電話を切り、私を見る。「これでいいだろ」「……うん」彰人は椅子へ戻りかけ、私の肘の下から点滴の管を引き出した。「引っ張るなよ」私は腕を引っ込めた。「あなた、仕事は?」「ある」時計に目を落とす彼を見て、布団の端を握った。心臓を探してほしいと頼んだうえに、こんなことまで。「もう帰って大丈夫。これ以上、迷惑は――」「なら、まず起き上がるのをやめろ」言い返せず、枕へ頭を戻した。ノックがして、看護師が入ってきた。「娘は、まだ寝ていますか?」「ええ、眠っていますよ。目を覚ましたらお知らせしますね」布団を握っていた手が緩んだ。「ありがとうございます」「お母さんも、少し休んでくださいね」看護師が病室から出ると、彰人はベッド脇のテーブルを引き寄せた。お粥とスープがのっている。「食え」「……これ、私に?」「ほかに誰がいる」私はゆっくり身体を起こし、お粥の蓋を開けた。ひと口すくって飲み込むと、急に空腹を感じた。私はもうひと口すくった。続けて口へ運ぶ私を見て、彰人は椅子に腰を下ろし、携帯へ目を落とした。そこへ短いノックがした。「入れ」扉が開き、秘書の村瀬(むらせ)が顔を出した。「社長、ひかり様の夜間看護の手配が済みました」私は顔を上げた。彰人は小さく頷き、村瀬は一礼して外へ出ていった。「あなたが頼んでくれたの?」「今夜も同じことを繰り返すつもりか」彰人が水のコップを差し出した。私は受け取り、テーブルへ置いた。ずっと娘から目を離してはいけな
翌朝、枕元の携帯が震えた。郁也からだった。昨夜、柚香から送られてきた写真が浮かんだ。私は眠っているひかりを見てから、電話に出た。「熱は?」「まだある。夜中も苦しくて、何度も起きたの」「眠れなかったのか」「明け方になって、やっと」ひかりの頬にかかった髪を、そっとよけた。「昨日も、パパはって聞いてたのよ」「そうか、後で病院に行くよ」私は携帯を耳に当て直した。「そう?ひかりが起きた時にあなたがいたら――」そのとき電話の向こうで、甲高い声がした。「お兄ちゃん、痛い……!」「どうした?」郁也の声が、私から離れた。「火傷?まず水で冷やせ。ごめん、電話切るぞ」「待って。ひかりは?」「聞こえただろ。柚香が火傷したんだ」通話が切れた。私は携帯を耳に当てたまま、しばらく言葉も出なかった。……昼過ぎ、今度は郁也の母、相馬須美子(そうま すみこ)が来た。いつも通りに整えられた服で、ベッドに近づくより先に、私の足元の荷物を見た。「まだ入院してるの?」第一声がそれだった。「熱が下がらなくて」須美子はテーブルの上の請求書を手に取った。「今月だけでいくらかかってると思ってるの」「今はお金より、ひかりの身体が――」「美晴さんが選んだ結婚でしょう。困った時だけ相馬家に頼るのは、都合がよすぎるんじゃない?」須美子は請求書をテーブルへ戻した。「美晴さんと郁也が結婚すれば、篠宮家とのつながりができるはずだったのに」私は顔を上げた。「駆け落ちなんてして絶縁されて。相馬家には何の利益もないわ」「……私と郁也の結婚を、そんなふうに考えてたんですか」「名家の結婚なんてそういうものでしょう」私はひかりへ向き直り、布団から出ていた肩を覆った。「自分の立場が分かってないようね」娘に触れたまま、振り返った。「分かってます。私は、この子の母親です」「なら自分で何とかしなさい」須美子はバッグを手に取り、病室を出ていった。扉が閉まってから、私はテーブルの請求書を手に取った。結婚してから、仕事を辞めた。俺の妻が働く必要なんてないと郁也に言われ、愛情だと思って従った。自分で出せるお金を考えても、夫の顔が浮かぶ。それが悔しかった。その日の午後、看護師に娘を頼み、短時間だけ病院を出た。買い取り店のガラスのカウンターに、篠宮家から持ってきた
「ママ……まだ帰ってこないの?」玄関で、靴にかけていた手を止めた。ひかりが呼んでいるのは私だと分かって、詰めていた息がほどける。「ひかりちゃん」柚香の声から、さっきまでの甘さが少し消えた。「私のこともママって呼んでくれたら、寂しくないでしょう?」「やだ」ひかりは即答した。「ママはママだけだもん」私は靴を脱ぎ、リビングへ急いだ。「ひかり。柚香はお前のことが大好きなんだぞ」入口の手前で郁也の声がして、足が鈍った。やめさせてくれると思っていた。娘が嫌だと言えば、それで終わるはずだった。「でもママじゃない」「たまに呼ぶくらいいいだろ」「やだ。ママが悲しいもん」ひかりにそんな心配までさせている。私が口を開きかけた時、郁也の携帯が鳴った。「仕事だ。書斎で話してくる」別の出入口から出たらしく、足音が階段のほうへ遠ざかった。しばらくして、柚香がため息をついた。「……本当に可愛くない」声が変わっていた。「柚香おばちゃん?」「おばちゃんじゃなくて、ママって呼んで」「いや」次の瞬間。「痛い……」ひかりの声。私はリビングへ踏み込んだ。「何してるの!」ソファの脇で、柚香がひかりの手首を握っていた。私を見ると手を放す。娘は身体をよじり、こちらへ駆け寄ってきた。「ママ!」しゃがんで抱き留めると、ひかりは首に腕を回した。その手首に赤い指の跡がある。私はそっと触れ、娘が顔をしかめるのを見て、すぐに手を離した。「柚香」「違うの、お義姉さん」「何が違うの?」「ひかりちゃんが転びそうになったから……」「転ばないように持った手に、こんな跡が残るの?」柚香が怯えたように後ずさった。ちょうどその時、郁也が戻ってきた。「何してる?」柚香の目に、すぐ涙が浮かんだ。「お兄ちゃん……」いつもの声。「私、ただひかりちゃんと仲良くしたかっただけなのに」私はひかりの手首を見せた。「これを見て」郁也は手首の跡を見て、一瞬黙った。「柚香がわざとそんなことするわけないだろ」「跡が残ってるのよ」「ひかりが嫌がって暴れたんじゃないのか?」耳を疑う。「あなた、本気で言ってる?」「柚香は仲良くしたいだけだろ。お前が嫌な顔をするから、ひかりまで嫌がるんだ」また私のせいにする。娘の手を見ても、まだ。「もういいよ、お兄ち
「何でもします。娘を助けてくれるなら」御影グループ本社の応接室。私、篠宮美晴(しのみや みはる)は、ローテーブルを挟んで、4年ぶりに会う御影彰人(みかげ あきと)と向き合っていた。窓を背にしたソファに座る彰人は、そう言った私をしばらく黙って見ていた。やがて、口元だけがわずかに歪んだ。「何でも、か」その声には笑いより、棘のほうが多かった。「口なら何とでも言える」胸の前で握っていたバッグの持ち手が、指に食い込む。彰人はソファに背を預けたまま、冷たい目で私を見た。「そこまで言うなら、自分で見せてみろ」「……何を?」「お前の覚悟だよ」覚悟。バッグの持ち手を握り直した。娘を救えるなら、自分に何が残らなくてもいい。ただ、ここまで来た理由だけは、最初からひとつしかなかった。娘の相馬ひかり(そうまひかり)は今、相馬家にいる。出かける前、体調が悪くて泣き続けていたひかりを、ようやく寝かしつけて、そっと額にキスをした。3歳の娘を置いて、こんな場所へ来るほかなかったことが悔しかった。4年前。私は家族が決めた彰人との婚約を破棄し、家族の反対を押し切って相馬郁也(そうま いくや)と駆け落ちした。その結果、篠宮家とも絶縁した。その私が今さら、かつて自分から捨てた男に頭を下げている。彼に断られたら、次に誰を訪ねればいいのかも分からなかった。数日前、病院の診察室で、海外にひかりと適合する可能性の高いドナー心臓が見つかったと聞いた。日本へ届くのは約1ヶ月後だという。机の下で、私は膝に置いた両手を握り合わせた。ひかりが助かる。病気のために諦めてきたことを、少しずつできるようになるかもしれない。でも、医師は続けた。同じ心臓を必要としているのは、郁也の養妹、相馬柚香(そうま ゆずか)だった。帰りの車でその名を口にした時、郁也は前を向いたまま言った。「今回は柚香に譲ろう」最初は意味が分からなかった。「……ひかりじゃなくて?」「ああ」「ひかりはあなたの娘なのよ」「分かってる」分かっている。そのうえで、柚香を選ぶ。「柚香はずっと心臓病と闘ってきた。次があるか分からない」「ひかりだって同じでしょう?」「俺たちはまだ若いだろ。また健康な子を産めばいい」私は、ハンドルを握る夫の横顔を見た。「……ひかりの代わりに?」「そういう







