……幼い頃、一度だけお母さんが話してくれた。
人生には、自分が確かに一人の生身の人間として生きていると味わえる出逢いが必ずあると。 それが幸か不幸かは分からない。でも、生きている悲しみも喜びも確かに実感出来る出逢い。 お母さんは何と出逢い、それを知り人生を変えたのか? 私には、まだ分からない。流されるがままに毎日をこなして、今の自分に出来うる許された事をするのみだった。 「──お父様、今宵はお酒が随分と進みますのね。少々お召し上がりになりすぎではないですか?」 晩餐の時、ガネーシャ様が気遣わしげに口を開いた。お父様は既にワインのボトルを一本空けてしまっておいでだった。 けれど、お父様は珍しく上機嫌に快活な笑みをたたえた。 「なに、祝いの盃だ。今日は大変喜ばしい事が分かったからな。お前達にも話しておかねばなるまい──サリエルが私との子を妊娠したのだ」 私のみならず、ガネーシャ様もブリジット様も咄嗟に言葉が出なかった。カトラリーを扱う手が止まり、お父様とお母さんを交互に見つめて──三者三様に信じられないといった思いを瞳に浮かべる。 最初に気を取り直したのはガネーシャ様だった。 「まあ、それは本当に喜ばしい事ですわね。お父様、……お母様、おめでとうございます。お祝いを考えなければなりませんわ」 次いで、ブリジット様がことさらに朗らかな声を発する。 「まさか、この歳になって弟か妹を迎えられるとは思っていませんでした。本当におめでたく、今から生まれてくるのが楽しみですね。父上、誠におめでとうございます」 いっそ白々しいほどに、二人とも貴族然として新たな家族を祝福する。ブリジット様がこちらを見やって「ミモレヴィーテも嬉しいだろう、お二人の間の子はお前にとって本当の家族としての架け橋になる」と声をかけてきた。声音こそ明るいものの、言葉の端々に棘が隠されているのに気づかないほど、私も無邪気ではなくなっていた。それでも笑顔を取り繕い、鷹揚に従順に頷いてみせる。 「はい、本当に驚きましたけれど……お父様、お母様、おめでとうございます。生まれてくる赤ちゃんの為にも、お母様はお身体をお大事にしてくださいね。でも、お父様がお母様をとても大切にして下さっておいでですので、きっと大丈夫と信じております」 子供達の祝いの言葉を満足げに聞いていたお父様は、私の言葉が何よりお気に召したらしい。相好を崩して頷き、グラスのワインを飲み干した。対してお母さんは貞淑な妻といった風情で慎ましやかに口を閉ざしている。私には、それが気になった。 お父様がお母さんと結婚して、お母さんはややあって居室を別棟のお部屋から、お父様と同じお部屋に移された。それが何を意味するのかは漠然と理解しているつもりだったが、こうしてお母さんの妊娠を知らされると、その生々しさに衝撃を受ける。でも、それをあらわにする事は決して許されないのだ。 まるでお父様に飼われている愛玩動物だ。お母さんも、私も。従順でさえいれば安寧を与えられる。しかし逆らえば……。その先は怖くて考えられない。 町で平民として暮らしていた頃は貧しくても自由があった。心は何にも縛られていなかった。働くことさえ、それは励める自由だったと今ならば分かる。 ……嘆いても仕方ない。 お父様はお酒に頬を赤らめながら、ガネーシャ様に向かって「そういえば、明後日には茶会を催すのだったな。その場にはミモレヴィーテも参加させなさい」と告げた。食事を再開しようとしていたガネーシャ様の手が止まる。 「……はい、お父様。ミモレヴィーテお姉様もよろしくて?」 ガネーシャ様は交友関係が広く、お茶会はよく開催したり招待されたりしている。しかし、私がそこに参加する事をガネーシャ様が認められたのは初めてだった。お父様は以前お茶会に私も参加させるようにと仰せだったが、毎回何らかの理由をつけて私を遠ざけていたのだ。それを今回になって許したのは、お父様の今の機嫌を損ねたくないからだろう。 「はい、ガネーシャ様。粗相がないか心配ですが、喜んで参加させて頂きます」 「……お姉様なら大丈夫ですわ、マナーについて熱心に学ばれていると聞きましたもの。ミモレヴィーテお姉様には初めてのお茶会、素晴らしいひと時になりますわ」 もちろん、ガネーシャ様の言葉を額面通りに受け取るつもりはない。私は初々しさを表に出して「ガネーシャ様のお優しいお言葉に励まされる思いです。ガネーシャ様はお心が広くていらして、こうしてご縁があって本当に良かったと思います」と返してから、お父様に向かって「お父様、お母様が悪阻で顔色がすぐれないのが心配なのです。お食事の途中で退席するご無礼をお許し頂き、お母様にお部屋まで付き添いたいのですけれど、よろしいでしょうか?」と伺った。実際、お母さんは口許に手をあてて具合が悪そうだった。こんな空気に晒していたくない。 「ああ、よかろう。ミモレヴィーテにはかけがえのない母親だからな。私が部屋に戻るまで傍にいてやりなさい」 「ありがとうございます、お父様。──お母様、立てますか? 私がお支えします」 席を立ってお母さんのもとへ向かい、手を差し出す。お母さんは僅かに、ほっとしたような表情を浮かべた。支える為、身体に触れると、少し痩せたような気がする。私のお母さんを奪っておきながら、その変化に頓着しないお父様に腹立たしさをおぼえた。 「……では、失礼致します。皆様、お食事をお続けくださいませ」 お辞儀をしてお母さんの肩を抱き包みながら食堂をあとにする。お母さんがお父様と共にすごすお部屋に入るのは気が引けるというか、何とはなしに嫌な気持ちもあるけれど、それよりも今はお母さんと一緒にいたかった。二人で、誰にも邪魔されずに。 お母さんの歩調に合わせて歩き、お部屋に入る。そのお部屋は、とても広くて贅の凝らし方が半端ではなかった。煌めくシャンデリアに木目の整った美しい家具、四人は横になれそうな広々としたベッドは掛布もシーツも高級感が溢れている。別棟に与えられた私のお部屋も下町で暮らしていた家より遥かに贅沢だけれど、侯爵家の主のお部屋ともなれば扱われ方は格別なのだろう。埃一つなく掃除の行き届いたお部屋は磨き抜かれていて、これでお母さんがお父様に立場を縛られていなければ私は素直に喜べていたはずだ。 ともあれ、お父様が食事を終えるまでは二人の自由時間だ。私はお母さんをベッドに横たわらせて傍らに椅子を引き寄せて座った。 「お母さん……大丈夫?」 様々な意味を籠めて言った言葉は、果たしてお母さんに正しく伝わっていた。お母さんはうっすらと微笑み、私の手を優しく撫でてから握ってくれた。 「お母さんは大丈夫よ……分かっていたの、あの日々がずっとは続かない事も。……侯爵様のお心もアムースにいた頃から気づいてはいたわ。侯爵様は家同士の許嫁とご結婚されていらしたけれど……それに、家格が違うもの。周りが侯爵様を止めて下さると思っていたのよ……甘かったわね」 「お母さん……侯爵様の事は、その頃どう思っていたの?」 結婚してしまった今、後戻りは出来ないのだから、それを聞いてはいけない。失言だと口にしてから悟ったものの、お母さんは私を責めなかった。 「……私にはね、既に愛するお方がいたから。応える事など考えた事もなかったわ」 「……」 それは、婚約していたディマルテ男爵の令息の事だろうか? 分からない。ただ、これ以上踏み込んではいけないと心が警鐘を鳴らしている。私は押し黙り、私の手を握ってくれているお母さんの手をもう片方の手で包みさすった。 「お母さん……私が精霊さんに助けてもらったせいで……ごめんなさい」 「何を言うの、ミモレ。あなたは私の命を救ってくれたのよ。あなたが精霊様の力を借りたのは、私を慕ってくれているからこそでしょう。感謝こそすれ、恨む事などかけらもないわ。……だから、自分を責めないでちょうだい。あなたは何も悪くないの。過ちなどないのよ。……私が運命から逃れられなかったのは、それは私の……」 「お母さん、もう話さないで。顔色が悪いから……侯爵様が戻るまで、こうしているから休んで」 「……ありがとうね、ミモレ」 お母さんは息をついてから目を閉じて、けれど存在を確かめるように私の手は離さなかった。そうしてつかの間、久方ぶりに母娘として寄り添っていた。 ──翌日、お茶会に着ていくドレスをマルタに手伝ってもらって選んだ。 淡くて優しい若草色の生地に合わせるのはウエストから裾まで続く純白の三段レース。髪型は緩く編み込んで、控えめな真珠の髪飾りをあしらう事にした。 「ミモレヴィーテお嬢様、リボンは何色に致しましょう?」 「そうですね、何色が良いか……淡い若草色に少し黄色みを加えたようなリボンはありますか?」 「素敵ですわね、ございますよ」 「出来るだけ清楚にまとめたいですね。編み込みに使うリボンはそれで、真珠は小粒のものをサイドにお願い出来ますか?」 「はい、かしこまりましたわ。ガネーシャお嬢様にも引けを取らない令嬢に仕上がりそうですね」 「ガネーシャ様については、構わないのだけれど……他の皆様から笑われないようにはしたいですね」 「大丈夫ですとも、お嬢様は何しろ妖精の愛し子なのですから」 「もう……」 マルタと話すのは気晴らしになる。朗らかなマルタの性格のお蔭だろう。二人で、ああでもないこうでもない、これがいい、これはどうだろうと話し合っていると、あっという間に時間が経った。 ──楽しいと思えるのは、この時だけだった。翌日、私は、ぼんやりとそれを思い返す事になる。しかし、その追想さえものんびりとはしていられないのだ。 「ミモレヴィーテお嬢様、何やら風が強くなってまいりましたね」 「そうですね……」 嵐が待ち受けている。風は破壊か、雨は恵みか。私は向かい風に立たされ、追い風に突かれ、うずくまる事も許されない。──それは、真っ白に輝く嵐だった。どんな銀細工よりもまばゆい光の嵐。なのに風は感じない。私は光のただ中で目を開けているのも難しいほど輝く空間に包まれて立ち尽くしていた。だが、やがて嵐が収まってゆき、光は優しく私を取り巻く。光の向こうに、誰かが見えた。金色の髪は艶やかに光を反射し、同じく金色の瞳が叡智をたたえて明るい色なのに、とても深い。向こうに誰かいる、──そう見えた次の瞬間には、そのひとは目の前に立っていた。身にまとう白い衣は見たこともない生地と作りで、その容貌を引き立てている。──こんなにも美しいひとは、見た事がない。中性的なような、どことなく男性的な風貌と容姿。神々しい程なのに威圧感はない。そのひとの私を見据える眼差しには、慈しみさえ伺えた。白銀に僅かな金色が溶け込んだような不思議な空間で、そのひとと私は相対する。相手の深い瞳は、感情を伺わせないのに温かく優しく、どこか懐かしい。「……そなたか。精霊との契約なしに、それも二度も精霊を使役した癒しを成したのは」「契約……?」声までも濁りなく美しいひとには、いつしか私と親しんでくれている精霊達が幸せそうにまとわりついていた。「王様、ミモレヴィーテは私達のお友達なのです」「精霊王様、ミモレヴィーテは私達と通じ合える事を内緒にしなくちゃいけなかったんです。契約したら、ミモレヴィーテ以外のひとにも私達が見えてしまうから」「精霊……王様?」「そうよ、ミモレヴィーテ。この方は創造神と唯一対等にお話し出来るお方。精霊の頂点に立たれるお方」これは幻だろうか?──しかし、夢幻にしては鮮やかすぎる。精霊王と呼ばれた方は、私を責める色もなく真っ直ぐに見つめてきていた。急に畏怖がやってくる。創造神とさえ対等に話せる程の方が、なぜ目の前に現れたのか。「大丈夫だ、咎め立てるつもりはないよ。ただ、本来ならば精霊の癒しは、精霊達と契約を結ばなければ十分な力を発揮出来ない。にも関わらず──ミモレヴィーテ、君は瀕死の重傷を負った母さえも癒した。それから様子を見ていたが……君につらく当たる娘さえも精霊達の力を用いて癒しただろう。精霊達と愛し子は一心同体、愛し子の心次第では悪意ある者を癒すなど出来ない。君は本当に変わっている……精霊達との親和性があまりにも強い」「それは……いけない事なのですか?」「悪くはない。しか
──そして、初めてのお茶会に参加する日の朝が訪れた。装いの選び方はミステラ夫人直伝だ。自分に何が似合うかをミステラ夫人は基本から教えて下さっていた。装いは十分なはずだ。目立ちすぎず、地味にもならず、清楚で可憐な新参者の令嬢としては完璧に近い。けれど、問題は他の貴族令嬢との交流をした事がなかった点だった。下町で育った私には、当然の事ながら貴族の方々とはまったく面識がない。そのため、お茶会では集まった数人の令嬢達とガネーシャ様が会話に花を咲かせているのを、ただ眺めているしかなかった。焦りをおもてに出してはいけない、退屈そうな素振りなど見せてはいけないと気を張り詰めて、置いてきぼりにされながら微笑みをたたえる。それにしても、昨夜から続く風の中でよく屋外のお茶会を楽しめるものだとも思う。羽織るものも膝掛けもなしにでは、暖まるのはお喋りで動かしている口だけだ。「ガネーシャ様、こちらのお茶は何て華やかな水色に爽やかな香りでしょう。とても美味しいですわ」「ありがとうございます。今日の為に東方から取り寄せた茶葉を使用しておりますのよ。よろしければカスタードのタルトも作らせましたのでお召し上がりになられてくださいませ。このお茶に良く合いますのよ」「まあ、素敵ですわ。そう言えば前回のお茶会に添えられていたミルクジャムも本当に美味しくて。お恥ずかしながら帰宅してから我が家の職人に再現させようと致しましたのですけれど、どうしてもあのお味になりませんでしたのよ。ガネーシャ様のお宅では腕の良い職人をお雇いになられておいでですのね」「お気に召されて下さったのでしたら何よりでしたわ。でしたら、今日の記念として皆様にミルクジャムの瓶詰めをご用意させて頂きますので、ぜひお持ち帰りくださいませ」「まあ、嬉しいですわ。ありがとうございます」「大した事でもございませんわ。お喜び頂けるのでしたら、それが何よりですのよ。──そうそう、アイナ様。先日は私どもをお誕生日のパーティーにご招待下さり感謝致しますわ。楽しく心踊るひと時でしたのよ。アイナ様のご婚約者様、フィヨルド様もお見かけ致しましたわ。変わることなく睦まじいご様子で憧れますの」「まあ、お恥ずかしいですわ。フィヨルド様は私を大切になさって下さいますけれど、私には甘すぎますの。実は、お誕生日の時に頂いたブローチを本日着けてまいりました
……幼い頃、一度だけお母さんが話してくれた。人生には、自分が確かに一人の生身の人間として生きていると味わえる出逢いが必ずあると。それが幸か不幸かは分からない。でも、生きている悲しみも喜びも確かに実感出来る出逢い。お母さんは何と出逢い、それを知り人生を変えたのか?私には、まだ分からない。流されるがままに毎日をこなして、今の自分に出来うる許された事をするのみだった。「──お父様、今宵はお酒が随分と進みますのね。少々お召し上がりになりすぎではないですか?」晩餐の時、ガネーシャ様が気遣わしげに口を開いた。お父様は既にワインのボトルを一本空けてしまっておいでだった。けれど、お父様は珍しく上機嫌に快活な笑みをたたえた。「なに、祝いの盃だ。今日は大変喜ばしい事が分かったからな。お前達にも話しておかねばなるまい──サリエルが私との子を妊娠したのだ」私のみならず、ガネーシャ様もブリジット様も咄嗟に言葉が出なかった。カトラリーを扱う手が止まり、お父様とお母さんを交互に見つめて──三者三様に信じられないといった思いを瞳に浮かべる。最初に気を取り直したのはガネーシャ様だった。「まあ、それは本当に喜ばしい事ですわね。お父様、……お母様、おめでとうございます。お祝いを考えなければなりませんわ」次いで、ブリジット様がことさらに朗らかな声を発する。「まさか、この歳になって弟か妹を迎えられるとは思っていませんでした。本当におめでたく、今から生まれてくるのが楽しみですね。父上、誠におめでとうございます」いっそ白々しいほどに、二人とも貴族然として新たな家族を祝福する。ブリジット様がこちらを見やって「ミモレヴィーテも嬉しいだろう、お二人の間の子はお前にとって本当の家族としての架け橋になる」と声をかけてきた。声音こそ明るいものの、言葉の端々に棘が隠されているのに気づかないほど、私も無邪気ではなくなっていた。それでも笑顔を取り繕い、鷹揚に従順に頷いてみせる。「はい、本当に驚きましたけれど……お父様、お母様、おめでとうございます。生まれてくる赤ちゃんの為にも、お母様はお身体をお大事にしてくださいね。でも、お父様がお母様をとても大切にして下さっておいでですので、きっと大丈夫と信じております」子供達の祝いの言葉を満足げに聞いていたお父様は、私の言葉が何よりお気に召したらしい。相好を
「──はい、よろしいですわ。テーブルマナーもきちんとマスターなさいましたね」「ありがとうございます!」ガラント侯爵家に迎えられて、まず付けられた指南役のミステラ夫人から頷かれて、私は声を弾ませた。貴族社会のルールやマナー、教養をミステラ夫人は事細かに教えて下さった。「下町訛りも元より耳障りな程ではございませんでしたし、きっとお母様がミモレヴィーテお嬢様を大切にお育てになられたのでしょう。明日からは刺繍をお教え致しましょうね」「はい、よろしくお願い致します」お母さんの事を褒められるのは、自分の努力を褒められるより嬉しい。侯爵様との結婚がお母さんにとって幸せか、それが分からないからなおさらだ。「──ミモレヴィーテお嬢様、お勉強はお済みでしょうか?」ドアをノックする音が軽く響き、ビオラの声が聞こえる。私は「はい、大丈夫です」とミステラ夫人が許可の目配せをして下さったのを見てから返事をした。静かにドアが開き、ビオラが深々とお辞儀をする。普段はマルタが傍に付いていてくれるので、ビオラが訪れることは珍しい。「ミモレヴィーテお嬢様、今宵の晩餐は御一家揃って食堂にてお召し上がりになられますよう、侯爵様よりお言葉がございました」「侯爵様……お父様が?」父を知らない平民だった私には、まだ言い慣れない呼び方だけれど、お父様と呼ぶように侯爵様から言われている。いずれは慣れるのだろうか。それよりも、お屋敷に迎えられてからずっと、食事は与えられた部屋へと運ばれてきてマルタの世話を受けながら一人で頂いていた。それも仕方のない事で、貴族のテーブルマナーも知らないうちから侯爵家の方々とご一緒しても恥ずかしい思いをするのは私のみならず、私を育ててくれたお母さんもなのだ。侯爵家の皆様を不快にさせるおそれもあり、私はその処遇を受け容れていた。ご一緒するのは緊張してしまいそうで怖かったというのもある。それが、お母さんの結婚から一か月経とうとしている今許された。新しい家族──義理の兄妹となった方々も含めて、疎遠というべきか滅多に顔を合わせた事もない。私がまず教わるべき事が多くて関わるいとまもなかったせいもあるものの、兄妹のお二人が私の部屋を訪れて来て下さった事は一度もなかった。「ミモレヴィーテお嬢様、ちょうどよろしいですわ。学んだ事を皆様にご覧頂く良い機会です」「はい……ですが、
* * *「お父様が再婚なされるお相手は、この侯爵家には相応しくない人なの?」ガラント侯爵家の令嬢として何不自由なく育てられたガネーシャは、小瓶を持って私室にやって来た専属メイドのショーンに問いかけた。13歳の誕生日を迎えたばかりのガネーシャは、何の苦労もなくメイド達によって指先までもが美しく手入れされており、高位貴族の令嬢らしく淑やかに高貴に振る舞う事のみを求められ応えてきていた。「まあ、ガネーシャお嬢様。メイド達の噂話でもお聞きになられましたか?」「屋敷中がこの話でもちきりよ、耳に入れるなという方が難しいわ。……アムース子爵家の方と聞いたけれど……」「ガネーシャお嬢様のお耳に触れるのは致し方ない事と存じますが……取るに足らない身分の女性ですわ。形の上では新しい母君様となりますが、亡くなられた奥様の足許にも及ばぬ者でございますので無理に親しむ必要などございませんのよ。──こちら、本日の美容水でございます」言葉の端々から、ショーンが再婚相手を蔑んでいるのが伝わる。そう、ガネーシャを産んだ本当の母親には到底敵う女性のはずがないのだ。ガネーシャは少し溜飲をおろし、ショーンから美容水の小瓶を受け取った。迷わず蓋を開け、すっと中身を飲み下す。背後に立ってガネーシャの髪を梳き始めたショーンは、その様子を心配そうに見ていた。「ガネーシャお嬢様、こちらの美容水は侯爵様からも禁じられておりますものでございます。お嬢様たってのお願いですのでお運び致しておりますけれど……」「大丈夫よ、ショーン。もう一年以上飲んできているものだわ。ほら、私を見てちょうだい──この肌の色は美容水無くしては手に入れられなかったものだわ。けれど、まだね。もう少し真珠のように……」鏡越しにショーンを見て話していると、美容水を飲んだ直後に話しすぎたのか悪心がガネーシャを襲う。口にしてしまえば美容水は二度と服用出来なくなるため、決して言えない不調をガネーシャは慣れた態度でやり過ごした。ショーンも分かっている。だから、それ以上は諌める事も不調をあからさまに気遣う事も出来ずに「本当にお美しい御髪ですこと、香油を評判の商会の物に変えてから更に艶やかになられましたわ」と話題を逸らして髪を梳く。──と、ガネーシャとショーンの二人きりだった部屋のドアが無遠慮に開かれた
──夜明けを迎える頃、ようやく眠りが浅くなってきたところで、私は夢を見た。シャンデリアが煌めく広いホールに、華々しいドレスを纏ったお嬢様達がエスコートされながら優雅に舞う。そんな光景は平民の私が見た事などないはずなのに、見下ろせば自分も艶やかなドレスを着ている事にも違和感を覚えなかった。淡いピンクのドレスは脇に白いフリルとレースをふんわりと広がるように使われていて、金糸で薔薇が蕾から花開いてゆくさまを刺繍されている。どうやら、夢の中の私は現実よりもいくつか歳上らしい。身体つきが身に覚えのない美しさだった。様々な貴族の令息らしき人達が私に声をかけ、ダンスに誘ってくる。私はひらりと断り、ホールの隅にある椅子へと向かって飲み物をとり、疲労の息をついていた。そこに、お会いした事もないのに不思議とどこか懐かしさを感じさせる令息がやって来て私に向かって穏やかに話しかけた。「ミモレヴィーテお嬢様、デビュタントのパーティーは楽しめておられますか?」「はい、皆様お美しくて蝶か妖精のようです」「このパーティーで最もお美しいお嬢様ですのに、謙虚でおられますね」彼は手入れの行き届いた黒髪に深い緑の瞳が、僅かな影を落としていて私などより遥かに美しく見える。返答に困っていると、すっと手を差し出してきた。「ミモレヴィーテお嬢様、私とダンスを楽しむ栄誉をお与えくださいませんか?」私がファーストダンスは既に他の人──パートナーと済ませていたと、夢の中の私はなぜか認識している。目の前の令息はご令嬢達から注目されていたらしい。羨む声に溜め息が、さざ波のように聞こえてくる。「──はい、よろしくお願い致します」恭しく出された手に自らの手を重ね、私は立ち上がった。あれだけ令息達からの誘いを断ってきていたのに、どうしてか目の前の彼と踊ることは自然に受け容れられた。ホールの中央に歩んでゆくと、ゆったりとした曲に変わる。手を重ね、吐息さえ感じそうな距離で二人踊り始めた。リードが上手いというだけでは納得出来ないほどに踊りやすい。身体が軽くて、まるで広大な空に踊っているかのようだ。「──ミモレヴィーテお嬢様、私は……」熱を帯びた声音で彼が囁きかけてくる。どきりと心臓が脈打ち、私は彼を見つめた。互いの眼差しが絡み合う。──そこで、夢は唐突に途切れた。「……あ……」目を覚ますと、大き