* * *
「お父様が再婚なされるお相手は、この侯爵家には相応しくない人なの?」 ガラント侯爵家の令嬢として何不自由なく育てられたガネーシャは、小瓶を持って私室にやって来た専属メイドのショーンに問いかけた。13歳の誕生日を迎えたばかりのガネーシャは、何の苦労もなくメイド達によって指先までもが美しく手入れされており、高位貴族の令嬢らしく淑やかに高貴に振る舞う事のみを求められ応えてきていた。 「まあ、ガネーシャお嬢様。メイド達の噂話でもお聞きになられましたか?」 「屋敷中がこの話でもちきりよ、耳に入れるなという方が難しいわ。……アムース子爵家の方と聞いたけれど……」 「ガネーシャお嬢様のお耳に触れるのは致し方ない事と存じますが……取るに足らない身分の女性ですわ。形の上では新しい母君様となりますが、亡くなられた奥様の足許にも及ばぬ者でございますので無理に親しむ必要などございませんのよ。──こちら、本日の美容水でございます」 言葉の端々から、ショーンが再婚相手を蔑んでいるのが伝わる。そう、ガネーシャを産んだ本当の母親には到底敵う女性のはずがないのだ。ガネーシャは少し溜飲をおろし、ショーンから美容水の小瓶を受け取った。迷わず蓋を開け、すっと中身を飲み下す。背後に立ってガネーシャの髪を梳き始めたショーンは、その様子を心配そうに見ていた。 「ガネーシャお嬢様、こちらの美容水は侯爵様からも禁じられておりますものでございます。お嬢様たってのお願いですのでお運び致しておりますけれど……」 「大丈夫よ、ショーン。もう一年以上飲んできているものだわ。ほら、私を見てちょうだい──この肌の色は美容水無くしては手に入れられなかったものだわ。けれど、まだね。もう少し真珠のように……」 鏡越しにショーンを見て話していると、美容水を飲んだ直後に話しすぎたのか悪心がガネーシャを襲う。口にしてしまえば美容水は二度と服用出来なくなるため、決して言えない不調をガネーシャは慣れた態度でやり過ごした。 ショーンも分かっている。だから、それ以上は諌める事も不調をあからさまに気遣う事も出来ずに「本当にお美しい御髪ですこと、香油を評判の商会の物に変えてから更に艶やかになられましたわ」と話題を逸らして髪を梳く。 ──と、ガネーシャとショーンの二人きりだった部屋のドアが無遠慮に開かれた。こんな無作法をして許されるのは、この屋敷に二人しかいない。一人は父、そして残る一人は──。 「……ブリジットお兄様、レディーの部屋にノックもせず入って来られるのは失礼ですわ。その調子で社交界でも好きに振る舞われておいでですの?」 「二人きりの兄妹で何の遠慮があるんだ、ガネーシャ。私だって相手によって振る舞いは使い分けるさ。──またお前、あの美容水を飲んだな? 顔色が悪いぞ。あれは、飲む度にお前が体調を崩していたから調べさせたら微量だがヒ素が検出された危険な物ではないか」 「あら、何の事かさっぱり分かりませんわ。確かに美容水は頂いておりましたけれど……あの美容水のお蔭で透き通るような白いお肌を手に入れた夫人もおりますでしょう。その方は今も健在ですのよ」 ガネーシャとブリジットの実母は、南方に領地を構える高位貴族の令嬢だった。活発そうな小麦色の肌に、大きな瞳と濃く長い睫毛、ふっくらとした唇の鮮やかな美女で、その美貌をそのまま受け継げていればガネーシャも良かったのだが、生憎受け継いだのは肌の色を少しと睫毛だけだった。 「ガネーシャ、お前は十分美しいよ。社交界の噂を聞いてみるといい、今からお前のデビュタントを楽しみにして我こそパートナーを務めようと令息達が小競り合いをしているのだから」 「……ブリジットお兄様はお言葉がお上手ですこと」 「世辞は言っていない。私には似合わないからな。──それよりガネーシャも聞いただろう、父上の再婚について」 メイド達の噂話ごときでは、確かな話は入って来ないし当てにならない。ガネーシャはブリジットなら詳しく知っているだろうと考えて、「ブリジットお兄様、あまり芳しくないお相手と聞いておりますのよ。お兄様はご存知なのでしょう?」と兄妹ならではの率直さで訊ねた。 果たして、ブリジットは色々と聞き及んでいるらしい。眉をひそめて再婚相手への不快をあらわにした。 「何でも、アムース子爵家の長女だったそうだが……元はディマルテ男爵の長男と婚約していたものを、結婚直前に不義の子を身ごもって勘当されていたらしい。その後は平民として母娘で働いて暮らしていたと聞いたな」 「まあ、本当ですの?──不義の子など、とんでもない醜聞ではありませんか。婚約者がありながら密通するとは、はしたない……」 ブリジットからもたらされた情報に、ガネーシャも眉をひそめる。その穢らわしい母娘を、これから新しい家族として迎えなければならないのか。ガラント侯爵家の家門を貶めそうに思えるが、なぜお父様が再婚など決意したのか? 「まったく、はしたないどころの話ではないな。結局不義の相手と結婚する事も出来ずに実家からは勘当される程だ。相手はそれなりの卑しい身分だったんじゃないのか?」 「不義の相手までは、お兄様でも分からなかったのですか?」 再婚相手にはガネーシャより数か月先に生まれた娘がいる程だ、十何年も昔の話を掘り起こせる人物は限られる。少なくとも、自分達の世代では又聞きに頼るしかない。ブリジットは肩をすくめて「父上にも深入りして訊けない過去の話はあるさ」と、やや不満そうに答えた。 「だが、──その母娘には気をつけた方が良いかもしれない。特に娘の方だ」 「取るに足らないアムース子爵家の血を引く程度の方の、平民として育てられた娘でしょう?」 なぜ、確かな侯爵令嬢として生まれて育てられてきた身が気をつけねばならないのか。ガネーシャからすれば子爵家ごときの血を引く娘など気にも留める必要はないはずだし、ショーンもそう言ってくれていた。 だが、ブリジットはあまりにも信じがたい事を口にしたのだ。 「父上が視察に向かう途中の町で、母親が馬車に轢かれて瀕死の重傷を負ったんだが……娘が駆けつけて精霊を使役し、母親には傷ひとつ残らなかったとか」 「お兄様、それは──精霊様の治癒ではありませんか! それを可能とするのは──」 ガネーシャには言葉を続けられない。代わりにブリジットが声をひそめて繋いだ。 「──そう、聖女のみが行なえる御業、全ての属性の精霊を使役する治癒を、娘がしてのけた。父上が再婚してまで母娘を我が家に入れるのは、おそらく娘の力を利用する為だろうな」 次世の聖女候補として。 「ブリジット様、差し出がましく申し訳ございません。ガネーシャお嬢様のお支度がございますので……」 兄妹の会話が沈黙に落ちた時、ショーンが控えめに口を開いた。この忌まわしい話題を終わらせるには、それしかなかった。そこはブリジットも分かっている。不快も示さず「ああ、ガネーシャの美しさを存分に引き立てる支度を頼んだ。──私は先に父上の元へ行っているぞ」と身を翻しガネーシャの私室から出て行った。その足取りからは感情を窺わせなかった。 「──ガネーシャお嬢様、このショーンがお嬢様を誰よりもお美しい令嬢としてお支度させて頂きますわ。お嬢様は由緒あるガラント侯爵家のお生まれでございますもの」 「……ええ、お願い」 ──そうして磨き上げたガネーシャに引き合わされた母娘を初めて目にした時の衝撃は、彼女には決して忘れられないものだった。 母親は儚げな面差しの美貌。そして娘は──真珠のような白皙の肌に、それを引き立てる赤みを帯びた濃い茶色の生地と淡いアイボリーの生地を合わせたドレスをまとい、ソックスと靴もドレスに合わせている。その美しさは、とても平民として暮らしてきたとは見えなかった。 「あの、はじめまして……ミモレヴィーテと申します、ガネーシャ様。何とぞよろしくお願い致します……」 お辞儀こそ付け焼き刃のたどたどしいもので、優雅とは程遠い。だが、ガネーシャやガネーシャの実母とは趣きの異なる美貌は──まさに、実母から受け継げなかった容貌によってガネーシャが新たに求め追い続けてきたそれだった。 その瞬間の、烈しく燃え上がる感情をガネーシャは忘れない。何度忘れよう捨て去ろうと足掻いても燠火のごとく残り、いつでも再び燃え盛る事になる。 「……はじめまして、ミモレヴィーテお姉様」 誇りにかけて微笑む。そして、「ミモレヴィーテお姉様も、あの美容水をお使いに?」と──完全に失言だったが──口にしてしまった。 「……美容水……ですか? 私のような者は、そんな高価なお品はとても手が届く身分ではありませんので……」 ──ああ、とガネーシャは思った。 ああ、この子とは、絶対に歩み寄れないわ、と。 美容水による悪心が残る胸に灯されたのは、生まれて初めての憎しみだったのだ……。 ──歪な家族が新しく構成され、そして人々の運命は正しく狂わされてゆくのを誰も止められない。 倹しくも幸せだった母娘の家庭は既にない。正妻を病で亡くしてなお完成されていた侯爵家の絆もまた、捩れて原型を留めない。 そこから家族として始めなければならない人々が、それでも捨てられないものを抱えて、生きてゆくのだ。 * * *──それは、真っ白に輝く嵐だった。どんな銀細工よりもまばゆい光の嵐。なのに風は感じない。私は光のただ中で目を開けているのも難しいほど輝く空間に包まれて立ち尽くしていた。だが、やがて嵐が収まってゆき、光は優しく私を取り巻く。光の向こうに、誰かが見えた。金色の髪は艶やかに光を反射し、同じく金色の瞳が叡智をたたえて明るい色なのに、とても深い。向こうに誰かいる、──そう見えた次の瞬間には、そのひとは目の前に立っていた。身にまとう白い衣は見たこともない生地と作りで、その容貌を引き立てている。──こんなにも美しいひとは、見た事がない。中性的なような、どことなく男性的な風貌と容姿。神々しい程なのに威圧感はない。そのひとの私を見据える眼差しには、慈しみさえ伺えた。白銀に僅かな金色が溶け込んだような不思議な空間で、そのひとと私は相対する。相手の深い瞳は、感情を伺わせないのに温かく優しく、どこか懐かしい。「……そなたか。精霊との契約なしに、それも二度も精霊を使役した癒しを成したのは」「契約……?」声までも濁りなく美しいひとには、いつしか私と親しんでくれている精霊達が幸せそうにまとわりついていた。「王様、ミモレヴィーテは私達のお友達なのです」「精霊王様、ミモレヴィーテは私達と通じ合える事を内緒にしなくちゃいけなかったんです。契約したら、ミモレヴィーテ以外のひとにも私達が見えてしまうから」「精霊……王様?」「そうよ、ミモレヴィーテ。この方は創造神と唯一対等にお話し出来るお方。精霊の頂点に立たれるお方」これは幻だろうか?──しかし、夢幻にしては鮮やかすぎる。精霊王と呼ばれた方は、私を責める色もなく真っ直ぐに見つめてきていた。急に畏怖がやってくる。創造神とさえ対等に話せる程の方が、なぜ目の前に現れたのか。「大丈夫だ、咎め立てるつもりはないよ。ただ、本来ならば精霊の癒しは、精霊達と契約を結ばなければ十分な力を発揮出来ない。にも関わらず──ミモレヴィーテ、君は瀕死の重傷を負った母さえも癒した。それから様子を見ていたが……君につらく当たる娘さえも精霊達の力を用いて癒しただろう。精霊達と愛し子は一心同体、愛し子の心次第では悪意ある者を癒すなど出来ない。君は本当に変わっている……精霊達との親和性があまりにも強い」「それは……いけない事なのですか?」「悪くはない。しか
──そして、初めてのお茶会に参加する日の朝が訪れた。装いの選び方はミステラ夫人直伝だ。自分に何が似合うかをミステラ夫人は基本から教えて下さっていた。装いは十分なはずだ。目立ちすぎず、地味にもならず、清楚で可憐な新参者の令嬢としては完璧に近い。けれど、問題は他の貴族令嬢との交流をした事がなかった点だった。下町で育った私には、当然の事ながら貴族の方々とはまったく面識がない。そのため、お茶会では集まった数人の令嬢達とガネーシャ様が会話に花を咲かせているのを、ただ眺めているしかなかった。焦りをおもてに出してはいけない、退屈そうな素振りなど見せてはいけないと気を張り詰めて、置いてきぼりにされながら微笑みをたたえる。それにしても、昨夜から続く風の中でよく屋外のお茶会を楽しめるものだとも思う。羽織るものも膝掛けもなしにでは、暖まるのはお喋りで動かしている口だけだ。「ガネーシャ様、こちらのお茶は何て華やかな水色に爽やかな香りでしょう。とても美味しいですわ」「ありがとうございます。今日の為に東方から取り寄せた茶葉を使用しておりますのよ。よろしければカスタードのタルトも作らせましたのでお召し上がりになられてくださいませ。このお茶に良く合いますのよ」「まあ、素敵ですわ。そう言えば前回のお茶会に添えられていたミルクジャムも本当に美味しくて。お恥ずかしながら帰宅してから我が家の職人に再現させようと致しましたのですけれど、どうしてもあのお味になりませんでしたのよ。ガネーシャ様のお宅では腕の良い職人をお雇いになられておいでですのね」「お気に召されて下さったのでしたら何よりでしたわ。でしたら、今日の記念として皆様にミルクジャムの瓶詰めをご用意させて頂きますので、ぜひお持ち帰りくださいませ」「まあ、嬉しいですわ。ありがとうございます」「大した事でもございませんわ。お喜び頂けるのでしたら、それが何よりですのよ。──そうそう、アイナ様。先日は私どもをお誕生日のパーティーにご招待下さり感謝致しますわ。楽しく心踊るひと時でしたのよ。アイナ様のご婚約者様、フィヨルド様もお見かけ致しましたわ。変わることなく睦まじいご様子で憧れますの」「まあ、お恥ずかしいですわ。フィヨルド様は私を大切になさって下さいますけれど、私には甘すぎますの。実は、お誕生日の時に頂いたブローチを本日着けてまいりました
……幼い頃、一度だけお母さんが話してくれた。人生には、自分が確かに一人の生身の人間として生きていると味わえる出逢いが必ずあると。それが幸か不幸かは分からない。でも、生きている悲しみも喜びも確かに実感出来る出逢い。お母さんは何と出逢い、それを知り人生を変えたのか?私には、まだ分からない。流されるがままに毎日をこなして、今の自分に出来うる許された事をするのみだった。「──お父様、今宵はお酒が随分と進みますのね。少々お召し上がりになりすぎではないですか?」晩餐の時、ガネーシャ様が気遣わしげに口を開いた。お父様は既にワインのボトルを一本空けてしまっておいでだった。けれど、お父様は珍しく上機嫌に快活な笑みをたたえた。「なに、祝いの盃だ。今日は大変喜ばしい事が分かったからな。お前達にも話しておかねばなるまい──サリエルが私との子を妊娠したのだ」私のみならず、ガネーシャ様もブリジット様も咄嗟に言葉が出なかった。カトラリーを扱う手が止まり、お父様とお母さんを交互に見つめて──三者三様に信じられないといった思いを瞳に浮かべる。最初に気を取り直したのはガネーシャ様だった。「まあ、それは本当に喜ばしい事ですわね。お父様、……お母様、おめでとうございます。お祝いを考えなければなりませんわ」次いで、ブリジット様がことさらに朗らかな声を発する。「まさか、この歳になって弟か妹を迎えられるとは思っていませんでした。本当におめでたく、今から生まれてくるのが楽しみですね。父上、誠におめでとうございます」いっそ白々しいほどに、二人とも貴族然として新たな家族を祝福する。ブリジット様がこちらを見やって「ミモレヴィーテも嬉しいだろう、お二人の間の子はお前にとって本当の家族としての架け橋になる」と声をかけてきた。声音こそ明るいものの、言葉の端々に棘が隠されているのに気づかないほど、私も無邪気ではなくなっていた。それでも笑顔を取り繕い、鷹揚に従順に頷いてみせる。「はい、本当に驚きましたけれど……お父様、お母様、おめでとうございます。生まれてくる赤ちゃんの為にも、お母様はお身体をお大事にしてくださいね。でも、お父様がお母様をとても大切にして下さっておいでですので、きっと大丈夫と信じております」子供達の祝いの言葉を満足げに聞いていたお父様は、私の言葉が何よりお気に召したらしい。相好を
「──はい、よろしいですわ。テーブルマナーもきちんとマスターなさいましたね」「ありがとうございます!」ガラント侯爵家に迎えられて、まず付けられた指南役のミステラ夫人から頷かれて、私は声を弾ませた。貴族社会のルールやマナー、教養をミステラ夫人は事細かに教えて下さった。「下町訛りも元より耳障りな程ではございませんでしたし、きっとお母様がミモレヴィーテお嬢様を大切にお育てになられたのでしょう。明日からは刺繍をお教え致しましょうね」「はい、よろしくお願い致します」お母さんの事を褒められるのは、自分の努力を褒められるより嬉しい。侯爵様との結婚がお母さんにとって幸せか、それが分からないからなおさらだ。「──ミモレヴィーテお嬢様、お勉強はお済みでしょうか?」ドアをノックする音が軽く響き、ビオラの声が聞こえる。私は「はい、大丈夫です」とミステラ夫人が許可の目配せをして下さったのを見てから返事をした。静かにドアが開き、ビオラが深々とお辞儀をする。普段はマルタが傍に付いていてくれるので、ビオラが訪れることは珍しい。「ミモレヴィーテお嬢様、今宵の晩餐は御一家揃って食堂にてお召し上がりになられますよう、侯爵様よりお言葉がございました」「侯爵様……お父様が?」父を知らない平民だった私には、まだ言い慣れない呼び方だけれど、お父様と呼ぶように侯爵様から言われている。いずれは慣れるのだろうか。それよりも、お屋敷に迎えられてからずっと、食事は与えられた部屋へと運ばれてきてマルタの世話を受けながら一人で頂いていた。それも仕方のない事で、貴族のテーブルマナーも知らないうちから侯爵家の方々とご一緒しても恥ずかしい思いをするのは私のみならず、私を育ててくれたお母さんもなのだ。侯爵家の皆様を不快にさせるおそれもあり、私はその処遇を受け容れていた。ご一緒するのは緊張してしまいそうで怖かったというのもある。それが、お母さんの結婚から一か月経とうとしている今許された。新しい家族──義理の兄妹となった方々も含めて、疎遠というべきか滅多に顔を合わせた事もない。私がまず教わるべき事が多くて関わるいとまもなかったせいもあるものの、兄妹のお二人が私の部屋を訪れて来て下さった事は一度もなかった。「ミモレヴィーテお嬢様、ちょうどよろしいですわ。学んだ事を皆様にご覧頂く良い機会です」「はい……ですが、
* * *「お父様が再婚なされるお相手は、この侯爵家には相応しくない人なの?」ガラント侯爵家の令嬢として何不自由なく育てられたガネーシャは、小瓶を持って私室にやって来た専属メイドのショーンに問いかけた。13歳の誕生日を迎えたばかりのガネーシャは、何の苦労もなくメイド達によって指先までもが美しく手入れされており、高位貴族の令嬢らしく淑やかに高貴に振る舞う事のみを求められ応えてきていた。「まあ、ガネーシャお嬢様。メイド達の噂話でもお聞きになられましたか?」「屋敷中がこの話でもちきりよ、耳に入れるなという方が難しいわ。……アムース子爵家の方と聞いたけれど……」「ガネーシャお嬢様のお耳に触れるのは致し方ない事と存じますが……取るに足らない身分の女性ですわ。形の上では新しい母君様となりますが、亡くなられた奥様の足許にも及ばぬ者でございますので無理に親しむ必要などございませんのよ。──こちら、本日の美容水でございます」言葉の端々から、ショーンが再婚相手を蔑んでいるのが伝わる。そう、ガネーシャを産んだ本当の母親には到底敵う女性のはずがないのだ。ガネーシャは少し溜飲をおろし、ショーンから美容水の小瓶を受け取った。迷わず蓋を開け、すっと中身を飲み下す。背後に立ってガネーシャの髪を梳き始めたショーンは、その様子を心配そうに見ていた。「ガネーシャお嬢様、こちらの美容水は侯爵様からも禁じられておりますものでございます。お嬢様たってのお願いですのでお運び致しておりますけれど……」「大丈夫よ、ショーン。もう一年以上飲んできているものだわ。ほら、私を見てちょうだい──この肌の色は美容水無くしては手に入れられなかったものだわ。けれど、まだね。もう少し真珠のように……」鏡越しにショーンを見て話していると、美容水を飲んだ直後に話しすぎたのか悪心がガネーシャを襲う。口にしてしまえば美容水は二度と服用出来なくなるため、決して言えない不調をガネーシャは慣れた態度でやり過ごした。ショーンも分かっている。だから、それ以上は諌める事も不調をあからさまに気遣う事も出来ずに「本当にお美しい御髪ですこと、香油を評判の商会の物に変えてから更に艶やかになられましたわ」と話題を逸らして髪を梳く。──と、ガネーシャとショーンの二人きりだった部屋のドアが無遠慮に開かれた
──夜明けを迎える頃、ようやく眠りが浅くなってきたところで、私は夢を見た。シャンデリアが煌めく広いホールに、華々しいドレスを纏ったお嬢様達がエスコートされながら優雅に舞う。そんな光景は平民の私が見た事などないはずなのに、見下ろせば自分も艶やかなドレスを着ている事にも違和感を覚えなかった。淡いピンクのドレスは脇に白いフリルとレースをふんわりと広がるように使われていて、金糸で薔薇が蕾から花開いてゆくさまを刺繍されている。どうやら、夢の中の私は現実よりもいくつか歳上らしい。身体つきが身に覚えのない美しさだった。様々な貴族の令息らしき人達が私に声をかけ、ダンスに誘ってくる。私はひらりと断り、ホールの隅にある椅子へと向かって飲み物をとり、疲労の息をついていた。そこに、お会いした事もないのに不思議とどこか懐かしさを感じさせる令息がやって来て私に向かって穏やかに話しかけた。「ミモレヴィーテお嬢様、デビュタントのパーティーは楽しめておられますか?」「はい、皆様お美しくて蝶か妖精のようです」「このパーティーで最もお美しいお嬢様ですのに、謙虚でおられますね」彼は手入れの行き届いた黒髪に深い緑の瞳が、僅かな影を落としていて私などより遥かに美しく見える。返答に困っていると、すっと手を差し出してきた。「ミモレヴィーテお嬢様、私とダンスを楽しむ栄誉をお与えくださいませんか?」私がファーストダンスは既に他の人──パートナーと済ませていたと、夢の中の私はなぜか認識している。目の前の令息はご令嬢達から注目されていたらしい。羨む声に溜め息が、さざ波のように聞こえてくる。「──はい、よろしくお願い致します」恭しく出された手に自らの手を重ね、私は立ち上がった。あれだけ令息達からの誘いを断ってきていたのに、どうしてか目の前の彼と踊ることは自然に受け容れられた。ホールの中央に歩んでゆくと、ゆったりとした曲に変わる。手を重ね、吐息さえ感じそうな距離で二人踊り始めた。リードが上手いというだけでは納得出来ないほどに踊りやすい。身体が軽くて、まるで広大な空に踊っているかのようだ。「──ミモレヴィーテお嬢様、私は……」熱を帯びた声音で彼が囁きかけてくる。どきりと心臓が脈打ち、私は彼を見つめた。互いの眼差しが絡み合う。──そこで、夢は唐突に途切れた。「……あ……」目を覚ますと、大き