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「お父様が再婚なされるお相手は、この侯爵家には相応しくない人なの?」 ガラント侯爵家の令嬢として何不自由なく育てられたガネーシャは、小瓶を持って私室にやって来た専属メイドのショーンに問いかけた。13歳の誕生日を迎えたばかりのガネーシャは、何の苦労もなくメイド達によって指先までもが美しく手入れされており、高位貴族の令嬢らしく淑やかに高貴に振る舞う事のみを求められ応えてきていた。 「まあ、ガネーシャお嬢様。メイド達の噂話でもお聞きになられましたか?」 「屋敷中がこの話でもちきりよ、耳に入れるなという方が難しいわ。……アムース子爵家の方と聞いたけれど……」 「ガネーシャお嬢様のお耳に触れるのは致し方ない事と存じますが……取るに足らない身分の女性ですわ。形の上では新しい母君様となりますが、亡くなられた奥様の足許にも及ばぬ者でございますので無理に親しむ必要などございませんのよ。──こちら、本日の美容水でございます」 言葉の端々から、ショーンが再婚相手を蔑んでいるのが伝わる。そう、ガネーシャを産んだ本当の母親には到底敵う女性のはずがないのだ。ガネーシャは少し溜飲をおろし、ショーンから美容水の小瓶を受け取った。迷わず蓋を開け、すっと中身を飲み下す。背後に立ってガネーシャの髪を梳き始めたショーンは、その様子を心配そうに見ていた。 「ガネーシャお嬢様、こちらの美容水は侯爵様からも禁じられておりますものでございます。お嬢様たってのお願いですのでお運び致しておりますけれど……」 「大丈夫よ、ショーン。もう一年以上飲んできているものだわ。ほら、私を見てちょうだい──この肌の色は美容水無くしては手に入れられなかったものだわ。けれど、まだね。もう少し真珠のように……」 鏡越しにショーンを見て話していると、美容水を飲んだ直後に話しすぎたのか悪心がガネーシャを襲う。口にしてしまえば美容水は二度と服用出来なくなるため、決して言えない不調をガネーシャは慣れた態度でやり過ごした。 ショーンも分かっている。だから、それ以上は諌める事も不調をあからさまに気遣う事も出来ずに「本当にお美しい御髪ですこと、香油を評判の商会の物に変えてから更に艶やかになられましたわ」と話題を逸らして髪を梳く。 ──と、ガネーシャとショーンの二人きりだった部屋のドアが無遠慮に開かれた。こんな無作法をして許されるのは、この屋敷に二人しかいない。一人は父、そして残る一人は──。 「……ブリジットお兄様、レディーの部屋にノックもせず入って来られるのは失礼ですわ。その調子で社交界でも好きに振る舞われておいでですの?」 「二人きりの兄妹で何の遠慮があるんだ、ガネーシャ。私だって相手によって振る舞いは使い分けるさ。──またお前、あの美容水を飲んだな? 顔色が悪いぞ。あれは、飲む度にお前が体調を崩していたから調べさせたら微量だがヒ素が検出された危険な物ではないか」 「あら、何の事かさっぱり分かりませんわ。確かに美容水は頂いておりましたけれど……あの美容水のお蔭で透き通るような白いお肌を手に入れた夫人もおりますでしょう。その方は今も健在ですのよ」 ガネーシャとブリジットの実母は、南方に領地を構える高位貴族の令嬢だった。活発そうな小麦色の肌に、大きな瞳と濃く長い睫毛、ふっくらとした唇の鮮やかな美女で、その美貌をそのまま受け継げていればガネーシャも良かったのだが、生憎受け継いだのは肌の色を少しと睫毛だけだった。 「ガネーシャ、お前は十分美しいよ。社交界の噂を聞いてみるといい、今からお前のデビュタントを楽しみにして我こそパートナーを務めようと令息達が小競り合いをしているのだから」 「……ブリジットお兄様はお言葉がお上手ですこと」 「世辞は言っていない。私には似合わないからな。──それよりガネーシャも聞いただろう、父上の再婚について」 メイド達の噂話ごときでは、確かな話は入って来ないし当てにならない。ガネーシャはブリジットなら詳しく知っているだろうと考えて、「ブリジットお兄様、あまり芳しくないお相手と聞いておりますのよ。お兄様はご存知なのでしょう?」と兄妹ならではの率直さで訊ねた。 果たして、ブリジットは色々と聞き及んでいるらしい。眉をひそめて再婚相手への不快をあらわにした。 「何でも、アムース子爵家の長女だったそうだが……元はディマルテ男爵の長男と婚約していたものを、結婚直前に不義の子を身ごもって勘当されていたらしい。その後は平民として母娘で働いて暮らしていたと聞いたな」 「まあ、本当ですの?──不義の子など、とんでもない醜聞ではありませんか。婚約者がありながら密通するとは、はしたない……」 ブリジットからもたらされた情報に、ガネーシャも眉をひそめる。その穢らわしい母娘を、これから新しい家族として迎えなければならないのか。ガラント侯爵家の家門を貶めそうに思えるが、なぜお父様が再婚など決意したのか? 「まったく、はしたないどころの話ではないな。結局不義の相手と結婚する事も出来ずに実家からは勘当される程だ。相手はそれなりの卑しい身分だったんじゃないのか?」 「不義の相手までは、お兄様でも分からなかったのですか?」 再婚相手にはガネーシャより数か月先に生まれた娘がいる程だ、十何年も昔の話を掘り起こせる人物は限られる。少なくとも、自分達の世代では又聞きに頼るしかない。ブリジットは肩をすくめて「父上にも深入りして訊けない過去の話はあるさ」と、やや不満そうに答えた。 「だが、──その母娘には気をつけた方が良いかもしれない。特に娘の方だ」 「取るに足らないアムース子爵家の血を引く程度の方の、平民として育てられた娘でしょう?」 なぜ、確かな侯爵令嬢として生まれて育てられてきた身が気をつけねばならないのか。ガネーシャからすれば子爵家ごときの血を引く娘など気にも留める必要はないはずだし、ショーンもそう言ってくれていた。 だが、ブリジットはあまりにも信じがたい事を口にしたのだ。 「父上が視察に向かう途中の町で、母親が馬車に轢かれて瀕死の重傷を負ったんだが……娘が駆けつけて精霊を使役し、母親には傷ひとつ残らなかったとか」 「お兄様、それは──精霊様の治癒ではありませんか! それを可能とするのは──」 ガネーシャには言葉を続けられない。代わりにブリジットが声をひそめて繋いだ。 「──そう、聖女のみが行なえる御業、全ての属性の精霊を使役する治癒を、娘がしてのけた。父上が再婚してまで母娘を我が家に入れるのは、おそらく娘の力を利用する為だろうな」 次世の聖女候補として。 「ブリジット様、差し出がましく申し訳ございません。ガネーシャお嬢様のお支度がございますので……」 兄妹の会話が沈黙に落ちた時、ショーンが控えめに口を開いた。この忌まわしい話題を終わらせるには、それしかなかった。そこはブリジットも分かっている。不快も示さず「ああ、ガネーシャの美しさを存分に引き立てる支度を頼んだ。──私は先に父上の元へ行っているぞ」と身を翻しガネーシャの私室から出て行った。その足取りからは感情を窺わせなかった。 「──ガネーシャお嬢様、このショーンがお嬢様を誰よりもお美しい令嬢としてお支度させて頂きますわ。お嬢様は由緒あるガラント侯爵家のお生まれでございますもの」 「……ええ、お願い」 ──そうして磨き上げたガネーシャに引き合わされた母娘を初めて目にした時の衝撃は、彼女には決して忘れられないものだった。 母親は儚げな面差しの美貌。そして娘は──真珠のような白皙の肌に、それを引き立てる赤みを帯びた濃い茶色の生地と淡いアイボリーの生地を合わせたドレスをまとい、ソックスと靴もドレスに合わせている。その美しさは、とても平民として暮らしてきたとは見えなかった。 「あの、はじめまして……ミモレヴィーテと申します、ガネーシャ様。何とぞよろしくお願い致します……」 お辞儀こそ付け焼き刃のたどたどしいもので、優雅とは程遠い。だが、ガネーシャやガネーシャの実母とは趣きの異なる美貌は──まさに、実母から受け継げなかった容貌によってガネーシャが新たに求め追い続けてきたそれだった。 その瞬間の、烈しく燃え上がる感情をガネーシャは忘れない。何度忘れよう捨て去ろうと足掻いても燠火のごとく残り、いつでも再び燃え盛る事になる。 「……はじめまして、ミモレヴィーテお姉様」 誇りにかけて微笑む。そして、「ミモレヴィーテお姉様も、あの美容水をお使いに?」と──完全に失言だったが──口にしてしまった。 「……美容水……ですか? 私のような者は、そんな高価なお品はとても手が届く身分ではありませんので……」 ──ああ、とガネーシャは思った。 ああ、この子とは、絶対に歩み寄れないわ、と。 美容水による悪心が残る胸に灯されたのは、生まれて初めての憎しみだったのだ……。 ──歪な家族が新しく構成され、そして人々の運命は正しく狂わされてゆくのを誰も止められない。 倹しくも幸せだった母娘の家庭は既にない。正妻を病で亡くしてなお完成されていた侯爵家の絆もまた、捩れて原型を留めない。 そこから家族として始めなければならない人々が、それでも捨てられないものを抱えて、生きてゆくのだ。 * * *双子に対するお父様の溺愛は半端なものではなかった。乳母の他に赤ちゃんに慣れた専属メイドを雇い入れ、本邸のお父様とお母さんの部屋の隣に赤ちゃん専用のお部屋まで整えさせた。名前はお父様が考え、男の子にはガレスと、女の子には二二アンと名づけられた。早産だったにもかかわらず二人の生育は順調で、お父様が喜ばれるのでお屋敷では使用人にさえ笑顔が増えた。ガネーシャ様もブリジット様も、私相手になら皮肉や嫌味も言えようが、まだ何も分からない非力な赤ちゃんには手の出しようもない。表向きには赤ちゃんを新たな弟妹として歓迎し、お父様の意向に従っていた。そこで溜まる鬱憤は私へと向かうのも仕方ないかもしれない。我が子を生んでくれたお母さんを、お父様が殊更大事にするようになった事も相まって、ガネーシャ様もブリジット様も私にちくちくと尖った言葉を放ってくるのがエスカレートしていた。しかし、お父様にとって私は利用価値ある、次の代の聖女候補として揺るがないものを持っている。それは、ある夜の晩餐でも明らかにされた。お父様が、回復してきたお母さんを交えて久しぶりに全員揃った晩餐で私に言ったのだ。「ミモレヴィーテ、当代の聖女様もお年を召してお力の衰えが見えてきた。お前を次の代の聖女として陛下もお認めの意向を示されておられる。そこで、貴族向けの新聞にお前が紹介される事となった。広く知れ渡る事になるのだから、心を新たに一層励みなさい」精霊達との得がたい契約を交わしているとはいえ、私は17歳のデビュタントもまだ先の、14歳にしかならない子供だ。それが、貴族に向けて──ひいては国に次の聖女として認識されるようになる?私は臆したが、聖女様からの教えも受けている身だ。いずれ避けられない道でもあったのだろう。「……はい、お父様。聖女様からも努めて学ぶように致します」従順に答える私に、お父様は満足げに頷いた。ガネーシャ様とブリジット様はにこやかに祝う素振りで私の出自を元に嫌味を言うのを忘れない。「ミモレヴィーテは、既に貴族により統治される事で生きられた平民ではないからな。より貴族らしく、気高く民に分け与える事も覚えるべきだろう」「そうですわね、ミモレヴィーテお姉様もガラント侯爵家の令嬢として恥ずかしくない振る舞いを更に身につけるべきですわ。いまだに己の専属メイドへ丁寧語でお話しだとか。上に立つ者とし
──月日が経つのは早いもので、聖女様がお住まいになられる皇城内部の神聖宮で、お茶会にお呼ばれしてお話しするようになって、もう数か月が経った。初めのうちこそ縮こまって聖女様のお話しする事を聞き、忘れる事のないようにとばかり考えて余裕もなかったけれど、聖女様がとても柔和に接して下さるので、緊張は堅苦しさを解いてゆくようになった。お茶会の場は神聖宮のお庭か応接室で、今日はお天気が良いからとお庭で開かれている。応接室はどことなく閉塞感があるので、開放的なお庭でのお茶会はありがたかった。芝生は青々として艶があり、植栽も様々な草木や花が調和を成すように計算されていて上品でありながら落ち着く空気を醸し出している。「ミモレヴィーテ様、聖女という者は求められれば、どこにでも赴きます。──たとえ戦地であっても」「戦地にも……危険な場所ですよね?」私はそこを想像してみた。飛び交う怒号、流れる血、生命の奪い合い──戦争を知らない私にとって、それは漠然としていて、ただ戦争というものは恐ろしくて多くの犠牲を伴うとしか分からなかった。「私は精霊様達によって護られますので護衛は必要ございませんのよ。野戦病院にて運ばれてくる方々の癒しに集中するのみでしたわ……あれは、まだミモレヴィーテ様がお生まれになる前の戦でしたわね。今でこそ平定されて、国は平和を享受しておりますが」「そうなのですね……」「例えば上級精霊様達ならば、空間を丸ごと固定して、その場にいる全ての人を癒せますわ。それ程のお力をお持ちなのですよ」「……凄いです……」聖女様とお話ししていると、常に自分が精霊達によって恵まれていると思わせられる。そこに押しつけがましさはなく、むしろ聖女様からの憧憬を感じていた。「──さて、本日はここまでに致しましょうか。日が暮れるまでにご帰宅なされないとミモレヴィーテ様の父君様がご心配されますもの。父君様には、血の繋がりこそございませんけれど……大切にして頂けておりますか?」「……はい、それは……不思議な程大切にされております。私が精霊さん達と自由に集えるようにお庭まで整えて下さって……その上お部屋も別棟で一番広いお部屋を使えるように調度を揃えて下さったのです」「それは良かったですわ。そう言えば、母君様もそろそろ産み月でしたわね。お身体は健やかに保てておられますか?」「はい、初めは悪
しばらく馬車に乗っていると、見える景色が街並みから一転して、そびえ立つ城壁の続く道になった。これ程高さのある頑丈そうな壁を、どうやって建てたのだろうと思っているうちに、城門へと向かい検閲を受けて許可がおり、内部へと進められる。皇城はあまりにも広大で、侯爵家のお屋敷を初めて見た時でさえ大きさに驚いたものだったが、その比ではない。しかも舗装された道の石畳、両脇に植えられた色とりどりの植物、全てが入念に手入れされていると素人目にも分かる。そこを進むと、宮殿の入り口付近に馬車は止まった。ここからは降りて歩いてゆく事になるらしい。宮殿もまた見事に磨き上げられていて、例えば侯爵家のお屋敷が豪奢と言うならば、お城はまさに荘厳と言うにふさわしい。何気なく飾られている装飾品ひとつをとっても重々しく歴史を感じさせる。華美に走らずして、ここまで美しく仕上げられる皇城の差配に私は半ばぽかんとしながら案内の者に従って歩を進めた。もっとも、かしこまりはしても圧倒されて恐れるような事はなかった。精霊達が傍にいてくれているのが気配から伝わってくるので、私はそれを心強く思いながら毅然と歩けていた。ほんの数か月前までは荒ら屋ばかりの下町に馴染んでいたのに、まさか皇城の中を歩く日が来るとは、本当に人の運命は分からない。長い廊下を歩み、重厚な扉の前に立つ。案内の者が「こちらで国王陛下と皇后陛下がお待ちです」と告げた。騎士なのか衛兵なのか、四人がかりで扉が開かれる。広間の先に階段があり、その頂に玉座が見えた。「──そなたが話に聞いた者か。近う来るがよい」「……はい」国王陛下が厳かにお言葉を下さる。促されて私は頷き、静々と足音をたてないように歩いて広間に入って、玉座に向かって練習を重ねたカーテシーをし、口上を述べる。相手は王様とお后様だ、緊張するなという方が無理だが、それでも今まで練習でしてきたどんなお辞儀よりも無理なく出来たカーテシーに勢いを貰えた。「この国の輝ける太陽である国王陛下と、寄り添う満月である皇后陛下に、初めてお目にかかりご挨拶申し上げます。ガラント侯爵家が長女、ガラント・ミモレヴィーテと申します」「よろしい、面を上げよ」「はい」「……ふむ」そっと顔を上げると、国王陛下と皇后陛下が私の何かを意味深な眼差しで見つめてきた。気がつけば、皇后陛下の斜め後ろには下町でお声をか
……そして、深く沈む夜の眠りの果てに、私の世界は急にひらけた。温度のないクリームのような世界に立ち尽くし、辺りを見渡す。私は眠りに就いた時のまま、シュミーズドレスを着ていて、胸許にはショーターから貰ったペンダントが輝いていた。そのペンダントが熱い。波及するかの如く、全身を巡る血が熱くなる。私は自身を放熱させ、遠くから誰かが呼ばうのを感じてとり、熱に浮かされながら叫んだ。「──私を呼ばう者よ、来たれ。私はここにいる!」普段からは考えられない自分の言葉遣いだった。なのに、するりと口をついて飛び出した。声は波を起こし、不可思議な世界の向こうに何かを見た──次の瞬間には、目の前に「彼ら」が立っていた。彼らは六人の異形だった。アポロデス様の至高の美しさにこそ及ばないものの、六人の誰もがはっと息を呑む程に神々しい美しさで、羽の色や形から天使ではなく精霊達だと分かる。圧倒される存在感があり、だけど私は心の奥で昂陽していた。一人が「精霊王様のお導きにより、アーティファクトとミモレヴィーテ様のお力が馴染んだ今宵に馳せ参じました」と告げた。「アーティファクト……?」「そちらのペンダントでございます。贈り主はそれと気づいてはおりませんでしたが……これは、精霊との親和力が抜きん出て優れた方にしか有効には使えない品でございます。──申し遅れました、私は光の上級精霊、白銀の光と申します」名前の通り銀色に輝く光の粒子をまとう、白銀の光と名乗った精霊の言葉を皮切りに、他の精霊達も続けて名乗り始めた。「私は闇の上級精霊、漆黒の夜と申します」漆黒の夜は、新月の夜のような闇色の髪に瞳、まとう粒子も鈍色に光っている。状況が把握出来ないままに、精霊達が次々と口を開いてゆく。「私は風の上級精霊、空を護る者でございます」澄んだ青空を思わせる清々しいような美貌の精霊が、淡い雲みたいな粒子を、己の身に寄り添う風に任せながら、そう名乗った。「私は地の上級精霊、大地を統べる者でございます」空想上の精霊樹を連想させる雰囲気の、新緑色に光る粒子を放つ精霊が低めの重く落ち着いた声で名乗る。その声は重くとも心地よい。「私は水の上級精霊、生命を繋ぐ者でございます」透き通るような肌に、静かな湖を思わせる色が乗った精霊は名乗ると同時に、熱を帯びている私の頬をついと撫でてきた。ふっと、それまで暴れそうだ
「ミモレヴィーテ様、お身体が傾いていますわ、もう一度やり直してください」「は、はい……」カーテシーは、目上の相手に対して行なうお辞儀で、片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げ、何より背筋は伸ばしたまま挨拶をするのが身体のバランスを取りにくい。 両手でスカートの裾を軽くつまんで持ち上げながらともなると、履き慣れないヒールのある靴では重心が傾いてしまう。それでも言われた通りに何とかこなそうとすると、今度はミステラ夫人が「先ほどよりはよろしくなりましたし、ういういしいと思えば愛らしいですけれど、表情が必死すぎて固いですわ。もっと堂々と柔らかく」と注意してきた。「はい……」明日は国王陛下に謁見する。残された時間は僅かだ。これを会得しなければ、国王陛下に対して失礼にあたるし、何より子連れの後妻という微妙な立場のお母さんが陰口を言われてしまう。私はここ数日、ミステラ夫人のレッスンとガネーシャ様からのレッスンの後にも自室で練習するようにしていた。「そうですわよ、優雅に、たおやかに。──そろそろガネーシャお嬢様からの指南のお時間ですわね。少しだけ休憩なされて、ガネーシャお嬢様からも学ばれますよう」「はい、ありがとうございました」正直、疲れてはいる。それでも弱音は吐けない。 「ミモレヴィーテ様も、長い間下町で暮らしておいででしたのに習得がお早いですわ。よく頑張りましたわね」私の気持ちを察したらしいミステラ夫人が優しく言葉をかけて下さる。少し癒される思いだ。「ミモレヴィーテ様、お茶をお運び致しました。こちらを頂いて休まれてからガネーシャお嬢様の元へ行かれますよう。お紅茶にはお砂糖を多めに入れて下さいませ、ミモレヴィーテ様お好きでございますわよね?」マルタがお茶の道具等を運んで来てくれる。軽いお菓子まで一緒に用意してくれていた。「──さ、私は退室致しますので、おくつろぎ下さい。長い時間立ったままでお疲れでしょう」「いえ、ミステラ夫人様には本当にありがとうございました」ミステラ夫人が部屋から出てゆき、私はようやくソファーに腰をおろして足をさする。その間にも、マルタが手際よくカップに鮮やかな色味の紅茶をそそいでくれて、「こちらは精霊様達とお召し上がりくださいませ」と言いながらお菓子もテーブルに並べてくれた。軽くつまめるように、どれも一口サイズの
* * *ガラント侯爵が、自分の娘は全ての属性の精霊と契約を結ぶ事を成しえたと陛下に奏上した──それは、陛下に仕える貴族達の間に波紋を呼んだ。しかも、その娘は契約を結ぶ前に精霊による治癒を二度も行なったという。陛下も今の聖女が四十路半ばという高齢からか、いたくご興味を示され、その娘は陛下との謁見を許された。血筋から言えば、ありえない。ウィルダム公爵はガラント侯爵が知らぬ聖女の血筋についても分かっていた。だからこそ、家臣にガラント侯爵が突如迎えた後妻とガラント侯爵の娘達について調べるよう命じたのだ。都の街では祭りが開催されており、ウィルダム公爵の息子もお忍びで街に出てしまった。息子本人は秘密のつもりだろうが、家長に知らされない訳はない。これが街に出る最後だと話していたそうだから、仕方ないものだと思いながらも許す事にする。息子が最後と決めたのは、ウィルダム公爵を正式に継ぐ為の証を渡したからだと理解してやれない程には狭量ではない。──さて、息子の帰宅が先か、それとも報告書が上がってくるのが先か。執務室でコーヒーを一口含み、息をつく。今日片付けるべき書類は既に目を通し終えている。と、ドアをノックする音が来たるべき知らせを告げた。この音の出し方は執事長のホールズだろう。ウィルダム公爵は「入りなさい」と許しを与えた。静かにドアが開き、すっと洗練された挙措でホールズが入室して来た。手には纏められた紙の束が抱えられていた。厚みはなく、おそらくは数枚の束だろう。「公爵様、お命じになられました調査につきまして、ご報告致します。──こちらをご覧下さいますよう」「ああ、ご苦労だった」丁重に差し出されたそれを受け取り、目を文字に走らせる。ああ、とウィルダム公爵は思った。──サリエル……。君は。報告書には、かつてアムース子爵家の令嬢だったサリエルがディマルテ男爵家との縁談を破棄されて子爵家から勘当され、その後に下町で私生児を生んで、その子供と二人で暮らしていたと記されていた。子供は女児で、幼い頃から時に不思議な様子を見せていたらしい。サリエルはガラント侯爵に見初められるまで下町の公衆食堂で酌婦として働いていたそうだったが、女児が13歳になった時にガラント侯爵の使う馬車がサリエルを轢いてしまい、結果サリエルは瀕死の重傷を負い、女児─







