──夜明けを迎える頃、ようやく眠りが浅くなってきたところで、私は夢を見た。
シャンデリアが煌めく広いホールに、華々しいドレスを纏ったお嬢様達がエスコートされながら優雅に舞う。そんな光景は平民の私が見た事などないはずなのに、見下ろせば自分も艶やかなドレスを着ている事にも違和感を覚えなかった。淡いピンクのドレスは脇に白いフリルとレースをふんわりと広がるように使われていて、金糸で薔薇が蕾から花開いてゆくさまを刺繍されている。 どうやら、夢の中の私は現実よりもいくつか歳上らしい。身体つきが身に覚えのない美しさだった。 様々な貴族の令息らしき人達が私に声をかけ、ダンスに誘ってくる。私はひらりと断り、ホールの隅にある椅子へと向かって飲み物をとり、疲労の息をついていた。 そこに、お会いした事もないのに不思議とどこか懐かしさを感じさせる令息がやって来て私に向かって穏やかに話しかけた。 「ミモレヴィーテお嬢様、デビュタントのパーティーは楽しめておられますか?」 「はい、皆様お美しくて蝶か妖精のようです」 「このパーティーで最もお美しいお嬢様ですのに、謙虚でおられますね」 彼は手入れの行き届いた黒髪に深い緑の瞳が、僅かな影を落としていて私などより遥かに美しく見える。返答に困っていると、すっと手を差し出してきた。 「ミモレヴィーテお嬢様、私とダンスを楽しむ栄誉をお与えくださいませんか?」 私がファーストダンスは既に他の人──パートナーと済ませていたと、夢の中の私はなぜか認識している。 目の前の令息はご令嬢達から注目されていたらしい。羨む声に溜め息が、さざ波のように聞こえてくる。 「──はい、よろしくお願い致します」 恭しく出された手に自らの手を重ね、私は立ち上がった。あれだけ令息達からの誘いを断ってきていたのに、どうしてか目の前の彼と踊ることは自然に受け容れられた。 ホールの中央に歩んでゆくと、ゆったりとした曲に変わる。手を重ね、吐息さえ感じそうな距離で二人踊り始めた。リードが上手いというだけでは納得出来ないほどに踊りやすい。身体が軽くて、まるで広大な空に踊っているかのようだ。 「──ミモレヴィーテお嬢様、私は……」 熱を帯びた声音で彼が囁きかけてくる。どきりと心臓が脈打ち、私は彼を見つめた。互いの眼差しが絡み合う。 ──そこで、夢は唐突に途切れた。 「……あ……」 目を覚ますと、大きな窓から差し込む朝日が眩しい。寝過ごしてしまった、と瞬時に思った。労働者の朝は早くて、夜明けと同時に起きてきて簡単な朝食をとり、すぐに働き始めるのだ。 けれど、今の私が居るのは侯爵様のお屋敷だった。ベッドで半身を起こして、どうすればいいのか分からずに辺りを見回していると、控えめにドアをノックする音が聞こえてきて、マルタが何かを抱えて入ってきた。 「ミモレヴィーテ様、洗面のお湯をお持ち致しました。お済みになられましたら朝食を運ばせて頂きますわ。本来ならば食堂で召し上がらますところですけれど、侯爵様が慣れないうちから一族と食事を共にするのでは緊張で味も感じないだろうとの仰せで」 「……あ、ありがとうございます……」 慌ててベッドから出ようとする。すると、マルタは「そのままで大丈夫ですわ。どうぞお楽になさってくださいませ」と制してきた。 「あ、はい……」 ベッドの中で身体を起こしたまま、マルタに手伝われて洗顔を済ませる。顔を洗うのにまでお湯を使うだなんて、貴族のお屋敷というのは本当に贅を凝らしている。 マルタが洗顔用具を下げて、朝食を運んで来てくれると、その思いは驚愕と共に一層強くなった。 複雑でいて芳しいスープに彩り豊かなサラダとドレッシングがかかったパンケーキにフルーツ、何かのジュースまで付いている。朝食といえばオートミールのお粥が当たり前だった私からすれば、まるで何かのお祝いで出されるお料理だ。 「──さ、お召し上がりくださいませ」 「は、はい……」 すっかり恐縮してしまっている私に気づいたのか、マルタが明るい声で「お召し上がりになられましたら、お母君様のお部屋に案内致しますわ。さぞご心配でしたでしょう。容態も安定なされたとの事ですので、少しですがお話しも出来ますよ」と励ますように話しかけてきてくれた。 「本当ですか?」 心のもやが一つ晴れて、気持ちが浮き立つ。我ながら現金なものだと思うものの、お母さんの事は心配で仕方なかったのだ。 「はい、侯爵様からもお許しを得ております。──さ、冷めないうちにお召し上がりくださいませ。朝食を済ませましたらお着替えをなされて、お母君様のお部屋にまいりましょう。お母君様も今頃朝食を頂いておりますわ」 「──はい!」 返事をして、カトラリーを手に取る。味わいからも、手の込んだ朝食だと分かった。朝だからか、どれも優しい味がする。 「お口には合いますでしょうか?」 「はい、とても美味しいです」 「それでしたら、ようございました。室内用のドレスは急ぎご用意致しましたので既製品ですが、どれも侯爵家に相応しいドレスですのよ。ミモレヴィーテ様には何色がお似合いになられるでしょう」 室内用、のドレス。ドレスにも用途に合わせて色々あるのだろうか。疑問に思いながら朝食を頂いて、食器を下げてもらい今度こそベッドから出て起き上がる。マルタがクローゼットを開けてくれると、数えきれないほどのドレスが並んでいて、私は驚きを通り越して目を疑った。 「今日はお天気もよろしいですし、淡いイエローのドレスがよろしいでしょう」 呆然と立っている私に、マルタがてきぱきとイエローのドレスを取り出して当ててくる。上品な光沢のある淡いイエローのドレスは茶色の糸で刺繍が施されており、白くて大きな襟にはイエローのレースが縫いつけられていた。見ると、袖口も襟と同じ意匠になっている。 「……あの、こんな高そうなお洋服は……もし汚してしまったら」 気後れしながら断ろうとする。すると、マルタは「こちらでもシンプルな方ですわ、これ以上質素にしてしまわれてはミモレヴィーテ様のお美しさが損なわれてしまいます。──さ、お着替えを手伝わせてくださいませ」と譲らなかった。 「御髪はサイドを結いましょう。髪飾りには真珠とシルバーのものを」 生まれてこのかた、ドレスはおろか髪飾りさえ付けた事もない。戸惑うばかりだが、従うしかない事は分かりつつあった。おとなしくマルタのお世話に任せると、鏡には見違えるような私の姿が映っている。 「まあ、何てお美しいのでしょう。ごく淡いブラウンの御髪にアメジストのような瞳のお色と良く映えてお似合いですわ。──失礼致します、少しお化粧も致しましょうね。眉を整えて、白いお肌をよりお美しく見せる為にチークを軽く、それとほのかなピンクの口紅を」 ここまで来ると、なされるがままだった。鏡の向こうの私が、私であるがままに別人の私になってゆく。 そうして完成した私をマルタが見つめて、満足そうに何度も頷いた。 「──これでよろしいですわ。お母君様のお部屋までご案内致します」 「ありがとうございます」 ようやく、お母さんに会える。お母さんは私のこの姿を見て、どう思うだろうか。きっと驚くに違いない。離れ離れの間も大切にして頂けていた事も分かるだろう。私としても、お母さんが適切な治療を受けて回復している姿を見たい。 マルタの案内で、お母さんのいる部屋へと向かう。初めて履くヒールのある靴は歩きにくいものの、お母さんに会えると思うと足取りは軽かった。 「こちらでございます。今は侯爵様も外しておられますので、母娘水入らずでお語らいくださいませ」 「はい、ありがとうございます」 しばらく歩くと、ひときわ重厚な扉の前に着いた。部屋からの音は聞こえてこない。ごくりと息を呑んでドアをノックすると、すぐに扉は開かれた。侍医の方だろうか、白衣を着ている。 「お話は伺っております、奥様のお嬢様でございますね」 「奥様……?」 「お嬢様のお母様の事です」 「お母さん……あの、お母さんの具合はいかがでしょうか?」 なぜ保護されただけのお母さんが奥様と呼ばれるのか。胸騒ぎがしたけれど、今はお母さんと言葉を交わしたい。侍医の方は私を安心させるように目を細めて笑顔になった。 「まだ貧血ですが、少しでしたらお話しも可能です。朝食もお召し上がりになられて、栄養を補う薬も服用なされました。──どうぞ」 「あ、ありがとうございます……お母さん、私よ。ミモレよ」 ベッドに半身を起こして休んでいるお母さんに駆け寄る。お母さんは私を慈愛に満ちた面持ちで迎えてくれて、胸がいっぱいになった。 「ミモレ、大事にして頂けていたのね。綺麗なドレスまで……」 「お母さん、私なら大丈夫よ。お風呂にも入れてもらえたし、お食事も豪華だったわ。──どう? もう痛いところはない? 苦しくはない?」 「ええ、大丈夫よ……ミモレ」 「よかった……。──ねえ、お母さん。奥様ってどういう事?」 微笑みは消さずに、どこか遠い目になったお母さんに不安を覚える。何かを諦めてしまったかのような瞳だった。 そして、にわかには信じられない事を言われたのだ。 「お母さんはね、アムース子爵の長女として……このガラント侯爵家の侯爵様と結婚するのよ。ミモレ、あなたはこれから侯爵家で侯爵様の娘として暮らすの」 「……なに、言ってるの……?」 「……お母さんは、アムース子爵の長女として生まれて育てられたのよ。訳あって、あなたを身ごもってから町で平民として生きてきたけれど……アムース子爵家からも許されたの……」 「何で? だからって何で侯爵様と結婚するの?」 思わず口早に問いかける。お母さんは、私を見つめてから手を伸ばして、私の手を握った。 「もう、あの町には戻れないでしょう?──ミモレは賢い子だから、なぜだか意味は分かるわよね?」 「私が……精霊さんにお母さんを治してもらったから……?」 お母さんからの答えはなかった。無言こそが雄弁な答えだろう。お母さんは私を責めない為に黙って私の手を握り、俯いたのだ。 「──お嬢様、そろそろ奥様のお身体に障りますので……大丈夫です、私どもが看病しておりますのでお任せください。奥様とは、また明日お話しにお越しください。今日よりも長くお話し出来るようになられますでしょう」 「……」 侍医の方が声をかけてくる。医療について素人の私では、従うしかない。 「……お母さん、私……」 「……また明日ね、ミモレ」 朝から晩まで働いてきていたお母さんは強い人に見えていた。けれど今、お母さんは消えそうに儚く見えた。 ──その半月後、侯爵様は正式にお母さんと結婚した。侯爵様の正妻は数年前に病で亡くなられておいでだったので、法的な問題は何もなかった。お母さんは侯爵夫人に、私は侯爵令嬢と呼ばれる身分になったのだった。 侯爵様には前妻との間に令息と令嬢が一人ずつおられた。この方々と、義理とはいえ兄妹になり──そこから、私を取り巻く全ては変わってしまった──。──それは、真っ白に輝く嵐だった。どんな銀細工よりもまばゆい光の嵐。なのに風は感じない。私は光のただ中で目を開けているのも難しいほど輝く空間に包まれて立ち尽くしていた。だが、やがて嵐が収まってゆき、光は優しく私を取り巻く。光の向こうに、誰かが見えた。金色の髪は艶やかに光を反射し、同じく金色の瞳が叡智をたたえて明るい色なのに、とても深い。向こうに誰かいる、──そう見えた次の瞬間には、そのひとは目の前に立っていた。身にまとう白い衣は見たこともない生地と作りで、その容貌を引き立てている。──こんなにも美しいひとは、見た事がない。中性的なような、どことなく男性的な風貌と容姿。神々しい程なのに威圧感はない。そのひとの私を見据える眼差しには、慈しみさえ伺えた。白銀に僅かな金色が溶け込んだような不思議な空間で、そのひとと私は相対する。相手の深い瞳は、感情を伺わせないのに温かく優しく、どこか懐かしい。「……そなたか。精霊との契約なしに、それも二度も精霊を使役した癒しを成したのは」「契約……?」声までも濁りなく美しいひとには、いつしか私と親しんでくれている精霊達が幸せそうにまとわりついていた。「王様、ミモレヴィーテは私達のお友達なのです」「精霊王様、ミモレヴィーテは私達と通じ合える事を内緒にしなくちゃいけなかったんです。契約したら、ミモレヴィーテ以外のひとにも私達が見えてしまうから」「精霊……王様?」「そうよ、ミモレヴィーテ。この方は創造神と唯一対等にお話し出来るお方。精霊の頂点に立たれるお方」これは幻だろうか?──しかし、夢幻にしては鮮やかすぎる。精霊王と呼ばれた方は、私を責める色もなく真っ直ぐに見つめてきていた。急に畏怖がやってくる。創造神とさえ対等に話せる程の方が、なぜ目の前に現れたのか。「大丈夫だ、咎め立てるつもりはないよ。ただ、本来ならば精霊の癒しは、精霊達と契約を結ばなければ十分な力を発揮出来ない。にも関わらず──ミモレヴィーテ、君は瀕死の重傷を負った母さえも癒した。それから様子を見ていたが……君につらく当たる娘さえも精霊達の力を用いて癒しただろう。精霊達と愛し子は一心同体、愛し子の心次第では悪意ある者を癒すなど出来ない。君は本当に変わっている……精霊達との親和性があまりにも強い」「それは……いけない事なのですか?」「悪くはない。しか
──そして、初めてのお茶会に参加する日の朝が訪れた。装いの選び方はミステラ夫人直伝だ。自分に何が似合うかをミステラ夫人は基本から教えて下さっていた。装いは十分なはずだ。目立ちすぎず、地味にもならず、清楚で可憐な新参者の令嬢としては完璧に近い。けれど、問題は他の貴族令嬢との交流をした事がなかった点だった。下町で育った私には、当然の事ながら貴族の方々とはまったく面識がない。そのため、お茶会では集まった数人の令嬢達とガネーシャ様が会話に花を咲かせているのを、ただ眺めているしかなかった。焦りをおもてに出してはいけない、退屈そうな素振りなど見せてはいけないと気を張り詰めて、置いてきぼりにされながら微笑みをたたえる。それにしても、昨夜から続く風の中でよく屋外のお茶会を楽しめるものだとも思う。羽織るものも膝掛けもなしにでは、暖まるのはお喋りで動かしている口だけだ。「ガネーシャ様、こちらのお茶は何て華やかな水色に爽やかな香りでしょう。とても美味しいですわ」「ありがとうございます。今日の為に東方から取り寄せた茶葉を使用しておりますのよ。よろしければカスタードのタルトも作らせましたのでお召し上がりになられてくださいませ。このお茶に良く合いますのよ」「まあ、素敵ですわ。そう言えば前回のお茶会に添えられていたミルクジャムも本当に美味しくて。お恥ずかしながら帰宅してから我が家の職人に再現させようと致しましたのですけれど、どうしてもあのお味になりませんでしたのよ。ガネーシャ様のお宅では腕の良い職人をお雇いになられておいでですのね」「お気に召されて下さったのでしたら何よりでしたわ。でしたら、今日の記念として皆様にミルクジャムの瓶詰めをご用意させて頂きますので、ぜひお持ち帰りくださいませ」「まあ、嬉しいですわ。ありがとうございます」「大した事でもございませんわ。お喜び頂けるのでしたら、それが何よりですのよ。──そうそう、アイナ様。先日は私どもをお誕生日のパーティーにご招待下さり感謝致しますわ。楽しく心踊るひと時でしたのよ。アイナ様のご婚約者様、フィヨルド様もお見かけ致しましたわ。変わることなく睦まじいご様子で憧れますの」「まあ、お恥ずかしいですわ。フィヨルド様は私を大切になさって下さいますけれど、私には甘すぎますの。実は、お誕生日の時に頂いたブローチを本日着けてまいりました
……幼い頃、一度だけお母さんが話してくれた。人生には、自分が確かに一人の生身の人間として生きていると味わえる出逢いが必ずあると。それが幸か不幸かは分からない。でも、生きている悲しみも喜びも確かに実感出来る出逢い。お母さんは何と出逢い、それを知り人生を変えたのか?私には、まだ分からない。流されるがままに毎日をこなして、今の自分に出来うる許された事をするのみだった。「──お父様、今宵はお酒が随分と進みますのね。少々お召し上がりになりすぎではないですか?」晩餐の時、ガネーシャ様が気遣わしげに口を開いた。お父様は既にワインのボトルを一本空けてしまっておいでだった。けれど、お父様は珍しく上機嫌に快活な笑みをたたえた。「なに、祝いの盃だ。今日は大変喜ばしい事が分かったからな。お前達にも話しておかねばなるまい──サリエルが私との子を妊娠したのだ」私のみならず、ガネーシャ様もブリジット様も咄嗟に言葉が出なかった。カトラリーを扱う手が止まり、お父様とお母さんを交互に見つめて──三者三様に信じられないといった思いを瞳に浮かべる。最初に気を取り直したのはガネーシャ様だった。「まあ、それは本当に喜ばしい事ですわね。お父様、……お母様、おめでとうございます。お祝いを考えなければなりませんわ」次いで、ブリジット様がことさらに朗らかな声を発する。「まさか、この歳になって弟か妹を迎えられるとは思っていませんでした。本当におめでたく、今から生まれてくるのが楽しみですね。父上、誠におめでとうございます」いっそ白々しいほどに、二人とも貴族然として新たな家族を祝福する。ブリジット様がこちらを見やって「ミモレヴィーテも嬉しいだろう、お二人の間の子はお前にとって本当の家族としての架け橋になる」と声をかけてきた。声音こそ明るいものの、言葉の端々に棘が隠されているのに気づかないほど、私も無邪気ではなくなっていた。それでも笑顔を取り繕い、鷹揚に従順に頷いてみせる。「はい、本当に驚きましたけれど……お父様、お母様、おめでとうございます。生まれてくる赤ちゃんの為にも、お母様はお身体をお大事にしてくださいね。でも、お父様がお母様をとても大切にして下さっておいでですので、きっと大丈夫と信じております」子供達の祝いの言葉を満足げに聞いていたお父様は、私の言葉が何よりお気に召したらしい。相好を
「──はい、よろしいですわ。テーブルマナーもきちんとマスターなさいましたね」「ありがとうございます!」ガラント侯爵家に迎えられて、まず付けられた指南役のミステラ夫人から頷かれて、私は声を弾ませた。貴族社会のルールやマナー、教養をミステラ夫人は事細かに教えて下さった。「下町訛りも元より耳障りな程ではございませんでしたし、きっとお母様がミモレヴィーテお嬢様を大切にお育てになられたのでしょう。明日からは刺繍をお教え致しましょうね」「はい、よろしくお願い致します」お母さんの事を褒められるのは、自分の努力を褒められるより嬉しい。侯爵様との結婚がお母さんにとって幸せか、それが分からないからなおさらだ。「──ミモレヴィーテお嬢様、お勉強はお済みでしょうか?」ドアをノックする音が軽く響き、ビオラの声が聞こえる。私は「はい、大丈夫です」とミステラ夫人が許可の目配せをして下さったのを見てから返事をした。静かにドアが開き、ビオラが深々とお辞儀をする。普段はマルタが傍に付いていてくれるので、ビオラが訪れることは珍しい。「ミモレヴィーテお嬢様、今宵の晩餐は御一家揃って食堂にてお召し上がりになられますよう、侯爵様よりお言葉がございました」「侯爵様……お父様が?」父を知らない平民だった私には、まだ言い慣れない呼び方だけれど、お父様と呼ぶように侯爵様から言われている。いずれは慣れるのだろうか。それよりも、お屋敷に迎えられてからずっと、食事は与えられた部屋へと運ばれてきてマルタの世話を受けながら一人で頂いていた。それも仕方のない事で、貴族のテーブルマナーも知らないうちから侯爵家の方々とご一緒しても恥ずかしい思いをするのは私のみならず、私を育ててくれたお母さんもなのだ。侯爵家の皆様を不快にさせるおそれもあり、私はその処遇を受け容れていた。ご一緒するのは緊張してしまいそうで怖かったというのもある。それが、お母さんの結婚から一か月経とうとしている今許された。新しい家族──義理の兄妹となった方々も含めて、疎遠というべきか滅多に顔を合わせた事もない。私がまず教わるべき事が多くて関わるいとまもなかったせいもあるものの、兄妹のお二人が私の部屋を訪れて来て下さった事は一度もなかった。「ミモレヴィーテお嬢様、ちょうどよろしいですわ。学んだ事を皆様にご覧頂く良い機会です」「はい……ですが、
* * *「お父様が再婚なされるお相手は、この侯爵家には相応しくない人なの?」ガラント侯爵家の令嬢として何不自由なく育てられたガネーシャは、小瓶を持って私室にやって来た専属メイドのショーンに問いかけた。13歳の誕生日を迎えたばかりのガネーシャは、何の苦労もなくメイド達によって指先までもが美しく手入れされており、高位貴族の令嬢らしく淑やかに高貴に振る舞う事のみを求められ応えてきていた。「まあ、ガネーシャお嬢様。メイド達の噂話でもお聞きになられましたか?」「屋敷中がこの話でもちきりよ、耳に入れるなという方が難しいわ。……アムース子爵家の方と聞いたけれど……」「ガネーシャお嬢様のお耳に触れるのは致し方ない事と存じますが……取るに足らない身分の女性ですわ。形の上では新しい母君様となりますが、亡くなられた奥様の足許にも及ばぬ者でございますので無理に親しむ必要などございませんのよ。──こちら、本日の美容水でございます」言葉の端々から、ショーンが再婚相手を蔑んでいるのが伝わる。そう、ガネーシャを産んだ本当の母親には到底敵う女性のはずがないのだ。ガネーシャは少し溜飲をおろし、ショーンから美容水の小瓶を受け取った。迷わず蓋を開け、すっと中身を飲み下す。背後に立ってガネーシャの髪を梳き始めたショーンは、その様子を心配そうに見ていた。「ガネーシャお嬢様、こちらの美容水は侯爵様からも禁じられておりますものでございます。お嬢様たってのお願いですのでお運び致しておりますけれど……」「大丈夫よ、ショーン。もう一年以上飲んできているものだわ。ほら、私を見てちょうだい──この肌の色は美容水無くしては手に入れられなかったものだわ。けれど、まだね。もう少し真珠のように……」鏡越しにショーンを見て話していると、美容水を飲んだ直後に話しすぎたのか悪心がガネーシャを襲う。口にしてしまえば美容水は二度と服用出来なくなるため、決して言えない不調をガネーシャは慣れた態度でやり過ごした。ショーンも分かっている。だから、それ以上は諌める事も不調をあからさまに気遣う事も出来ずに「本当にお美しい御髪ですこと、香油を評判の商会の物に変えてから更に艶やかになられましたわ」と話題を逸らして髪を梳く。──と、ガネーシャとショーンの二人きりだった部屋のドアが無遠慮に開かれた
──夜明けを迎える頃、ようやく眠りが浅くなってきたところで、私は夢を見た。シャンデリアが煌めく広いホールに、華々しいドレスを纏ったお嬢様達がエスコートされながら優雅に舞う。そんな光景は平民の私が見た事などないはずなのに、見下ろせば自分も艶やかなドレスを着ている事にも違和感を覚えなかった。淡いピンクのドレスは脇に白いフリルとレースをふんわりと広がるように使われていて、金糸で薔薇が蕾から花開いてゆくさまを刺繍されている。どうやら、夢の中の私は現実よりもいくつか歳上らしい。身体つきが身に覚えのない美しさだった。様々な貴族の令息らしき人達が私に声をかけ、ダンスに誘ってくる。私はひらりと断り、ホールの隅にある椅子へと向かって飲み物をとり、疲労の息をついていた。そこに、お会いした事もないのに不思議とどこか懐かしさを感じさせる令息がやって来て私に向かって穏やかに話しかけた。「ミモレヴィーテお嬢様、デビュタントのパーティーは楽しめておられますか?」「はい、皆様お美しくて蝶か妖精のようです」「このパーティーで最もお美しいお嬢様ですのに、謙虚でおられますね」彼は手入れの行き届いた黒髪に深い緑の瞳が、僅かな影を落としていて私などより遥かに美しく見える。返答に困っていると、すっと手を差し出してきた。「ミモレヴィーテお嬢様、私とダンスを楽しむ栄誉をお与えくださいませんか?」私がファーストダンスは既に他の人──パートナーと済ませていたと、夢の中の私はなぜか認識している。目の前の令息はご令嬢達から注目されていたらしい。羨む声に溜め息が、さざ波のように聞こえてくる。「──はい、よろしくお願い致します」恭しく出された手に自らの手を重ね、私は立ち上がった。あれだけ令息達からの誘いを断ってきていたのに、どうしてか目の前の彼と踊ることは自然に受け容れられた。ホールの中央に歩んでゆくと、ゆったりとした曲に変わる。手を重ね、吐息さえ感じそうな距離で二人踊り始めた。リードが上手いというだけでは納得出来ないほどに踊りやすい。身体が軽くて、まるで広大な空に踊っているかのようだ。「──ミモレヴィーテお嬢様、私は……」熱を帯びた声音で彼が囁きかけてくる。どきりと心臓が脈打ち、私は彼を見つめた。互いの眼差しが絡み合う。──そこで、夢は唐突に途切れた。「……あ……」目を覚ますと、大き