「──さ、ミモレヴィーテ様。こちらでございます」
マルタに案内された浴室は汚れひとつなく磨き上げられていて、大きな白い浴槽からは柔らかい湯気が立ちのぼっていた。ほのかに、ハーブのものらしき優しい香りが漂ってくる。 着ていた服を脱がされてタオルを纏い、──服を脱ぐだけでもマルタは手伝うと言ってきて、私は自分で脱げますからと必死に抵抗したものの聞き入れてもらえなかった──浴槽へと促され、恐る恐る張られたお湯へと足を浸けてゆく。ぬるくも熱くもない温度は幼子が母から受ける抱擁のように温かい。 浴槽に足を浸けて立ち尽くし、どうすればいいのか分からずに戸惑っていると、マルタがやんわりと「腰をおろして足を伸ばされ、どうぞ楽になさってくださいませ」と教えてくれた。躊躇いつつ言われた通りにすると、お湯が身体を包み込んできて、初めて体験する心地良さに私は驚きながらも知らず息をついていた。 「お湯加減はいかがでしょうか? 熱くはないですか?」 「あ、大丈夫です……あの、気持ちいいです」 「でしたら、ようございました。ゆっくりお湯で肌を柔らかく致しましたら、私が洗わせて頂きますわ」 「?……洗う……?」 浴槽すら初めて見た私からすれば、何もかもわけが分からない。お湯に浸かる事の他に、何かあるのだろうか。この浴室ではお湯に浸かるだけでなく、身体も洗うのか?──だとしても、幼い子どもでも病気の身でもないのに誰かに身体を洗ってもらうだなんて、まさか貴族の方々は皆様、自分の身の回りの事全てでメイドとして働く人からお世話を受けているとでもいうのか? 「失礼ですが、普段はどのようにお身体を洗われておいででいらっしゃいましたでしょうか?」 「あの、身体を洗いたい時は桶に水を汲んできて……布を濡らして身体を拭いていました……」 侯爵様のお屋敷に来てからというもの、身分違いの扱いをまざまざと感じてしまい、萎縮するばかりだ。けれど、マルタは見くだす様子もなく微笑みかけてきた。 「左様でございましたか。お湯は貴重なものでございますから、ミモレヴィーテ様が馴染みのない事も致し方ありませんわ。私達のようなお屋敷で働く者どもも同様に身体を洗っておりますのよ」 「そうなんですか?」 こんなにも立派なお屋敷で働けている人達でも、平民である私と変わらないと知って驚く。同時に、ならばなぜ私は今お湯に浸かっていて、それだけでも平民の私には過ぎた贅沢なのに身体を洗うお世話までされようとしているのだろうか。もしかして、私が自分で洗っては洗い方が悪くて浴室を汚してしまうからだろうか? けれど、私の狼狽を察したらしいマルタが、両膝をついて目線を私に合わせ語りかけてきてくれた。 「生まれてこられてから、ずっと平民としてお暮らしになられておいででしたのですもの、戸惑われる事も多いかと存じます。ですが、ミモレヴィーテ様、これからは私がミモレヴィーテ様にお仕えさせて頂きます。私を雇用しているお方は侯爵様でございますが、私の主はミモレヴィーテ様なのですよ。どうか、お心を平らげてお任せくださいませんか?」 「マルタさん……あの、私は……主というのは、どういう……」 「言葉のままですわ。ミモレヴィーテ様は、もはやこのお屋敷に住まわれる尊いお方の一人でございますもの」 ──住まう。私が、この立派なお屋敷に。下働きとして働く身ではなく。 まるで天変地異だ。あまりの衝撃に言葉を失って固まった私をマルタはどう受けとめたのか、「さ、お身体を洗わせて頂きますわね」と甲斐甲斐しく柔らかいタオルを使って、私の身体を流し始めた。そこからは、「力加減はいかがでしょうか?」と訊ねられても「痒いところはございませんか?」と訊ねられても、「……大丈夫です……」としか言えなかった。 ──そして、マルタの手で身体を洗ってもらい、浴槽から出てもマルタにタオルで優しく身体の水気を拭われて、着慣れないシュミーズドレスを着せられた。生地の肌触りがなめらかで、驚くほどさらっとしている。裾も袖もたっぷりと生地が使われていて、身じろぎするだけで、ひらひらと舞うように揺れた。 「本来でしたら、香油で全身をお揉みさせて頂きたいところですが……今宵はまだお屋敷においでになられたばかりですので、明日の湯浴みをお済ませになられてからに致しましょう」 「──明日もお湯に浸かるんですか?」 「湯浴みは毎日なさるものですけれど……お嫌でしたでしょうか? それとも、私のお世話に何か不手際が……」 不手際が、と口にしたマルタが悲しげな表情になったので、私は慌てて「不手際だなんて、とんでもないです」と否定した。 「ただ、マルタさんからお湯は貴重なものだと聞いたので……私も今まで、お湯で身体を洗った事なんてありませんでしたし……そんな贅沢をしていいのかと……」 たどたどしく訴えると、マルタはにこりと笑んで「よろしいのですよ、ミモレヴィーテ様にとって、これから湯浴みは日常であり贅沢ではないのですから」と言った。 「それから、私の事はマルタと呼び捨てになさってくださいませ。ミモレヴィーテ様は私の主なのですから」 どうにもおかしい。保護というのは、一時的なものではないのか。宛てがわれたお部屋の行き届いた準備といい、マルタといい、まるでこれから侯爵家の新たな一員としてずっと暮らしてゆくかのようだ。 けれど、その疑問をどう口にすればいいのか分からない。口ごもると、マルタは「そうですわね、ミモレヴィーテ様もお慣れになるまでお時間が必要でしょう。──とりあえず、湯冷めしないうちにお部屋にまいりましょう、熱いお茶と甘いものをご用意しておりますわ。聞いた話では、精霊様も甘いものを好むのですよね? ミモレヴィーテ様とご一緒に頂けば精霊様も喜ばれるのでは?」 「──甘いものですって、ミモレヴィーテ!」 「甘いお茶も欲しい、クッキーと一緒に食べたら美味しい!」 服を脱いで湯浴みをしている間、離れておとなしくしていた精霊達が途端に声をあげてはしゃぎだす。──そうだ、精霊達は私がどうなろうと一緒にいてくれるはずだ。物心つく前から身近に寄り添ってきてくれた友達以上の親しみある存在が見守ってくれると思えば、少しは安心出来る。 そう思い、私はようやく微かな笑みを浮かべる事が出来た。 「──ありがとうございます。あの、クッキーもありますか?」 さすがに言われてすぐにマルタと呼び捨ては出来ない。それでも、マルタは「ええ、ございますよ。お紅茶にはお砂糖か蜂蜜か、どちらをお好みか分かりませんでしたので、両方ご用意しております」とにこやかに答えてくれた。その言葉に精霊達が歓声をあげる。どうやら、精霊達はマルタを憎からず感じているらしい。私もマルタに対しては、環境の変化の激しさに怖気付いてはいても良い人なのではないかと感じられていた。 「嬉しいです。ありがとうございます」 「どういたしまして、ミモレヴィーテ様と精霊様がお喜びになるのでしたら、私も嬉しいですわ。スコーンもございますよ。合わせるものはジャムとクリームをご用意致しましたので、お好きなようにお召し上がりくださいませ」 話しながら、初めに案内されたお部屋へと連れて行ってもらう。すれ違う使用人らしき人が皆私にお辞儀をしてくるので、一人一人に頭を下げていると、マルタから「ミモレヴィーテ様、その必要はございませんわ」と窘められてしまった。 お部屋は明かりが灯されていた。促されてソファーに腰をおろすと、すぐにお茶とお菓子に数種類のフルーツが運ばれてきた。フルーツは綺麗にカットされていて、一口で食べられる大きさになっている。普段飲み慣れないお茶には、どれくらいお砂糖や蜂蜜を加えればいいのだろうと迷うと、精霊達が「このくらい入れて、ミモレヴィーテ」と指示してくれた。 お茶は香りが花のようで、お菓子と合わせて頂くととても美味しかった。そのお菓子も、お砂糖とバターがふんだんに使われていて、甘くて濃厚な味わいだった。こんなに美味しいものを口にするのは初めてで、給仕をされながら食べる事に落ち着かない緊張感はあったけれど、目の前で精霊達が喜ぶ姿を見ていると、それでも心はなごんだ。 「精霊様がお菓子を召し上がるなら、お菓子が浮いてみたり消えていったりするものと思っておりましたが、拝見しているとミモレヴィーテ様お一人が召し上がられているようにしか見えませんのね、不思議です」 「精霊さんは食べ物を持ち上げられないので、食べ物のエネルギーだけを食べるんです。なので、精霊さんが食べたお菓子は見た目こそ変わりませんが味も栄養もなくなります」 「まあ、そうなのですね。精霊様とは本当に神秘的な存在ですわ。お茶とお菓子は喜んでおられますか?」 「はい、とても」 興味深そうに訊ねてくるマルタに笑顔で頷くと、彼女も相好を崩した。 「それはよろしゅうございました。──ミモレヴィーテ様、軽食もございますので、お召し上がりくださいませ。そうしましたら、本日はお疲れでしょうからお休みになられるようにとの侯爵様からのご伝言でございます」 「あ、……その前に、お母さんにひと目でいいので会えませんか?」 それは、ずっと気になっている事だった。そろそろ意識は戻っている頃だと思うものの、しかしマルタは首を縦に振ってはくれなかった。 「気がかりではございましょうが……お傍には侯爵様が付き添われておいででございます。侍医も控えておりますので、どうか今夜だけは我慢なされてくださいませ。──ご安心ください、お母君様は無事に目を覚まされたと伺いましたわ。明日には笑顔でお迎えくださいます」 断りに表情を曇らせた私を見てとり、マルタがすぐに情報を付け足す。お母さんが目を覚ましたと知れて、本当ならば一刻も早く顔を見たかったけれど、いくらか安堵は出来た。 ──結局、精霊達とお腹いっぱいに美味しいものを頂いて、ベッドに入らされた。ふかふかのベッドは身体を包んで雲の上に横たわっているかのようだ。ぺったりと薄くて固い布団に慣れていた私は、落ち着かなくて何度も寝返りを打った。気持ちいいのに寝つけない。 すると、宵闇の中で光る蝶のように鱗粉にも似た軌跡を残しながら光の精霊が目の前を飛んで話しかけてきた。 「ミモレヴィーテ、心配でしょうけど寝なさい。──私が子守唄を歌ってあげる」 「精霊さんの子守唄……?」 それは、激しい雷雨に怯える夜とか、お母さんが疲れて寝てしまっても寝つけずに震える時、精霊が歌ってくれる特別な歌だった。どんなに怯えていても、聞いているうちに、すっと眠りに入る事が出来る優しい声音の歌。 光の精霊は、私の返事を待たずに微笑んで歌い始めた。 「──おやすみ、おやすみ、愛しいあなた」 その声に、身体がベッドへと沈んでゆくのを感じる。 「月が満ちて星を見守るように、あなたは常に愛が見守る」 待って、もう少し話し相手になって。そう言いたいのに、瞼がとろりと重くなる。 「見守る寝息よ安らかに、夢へといざなえ満たされて」 もう、声も出ない。石鹸の香りがする枕に顔をうずめて、やがてその香りも遠ざかる。 「おやすみ、おやすみ、愛しいあなた、眠りの国でも独りにならず……」 ──そうして私が眠りに就いた時、意識を取り戻したお母さんは侯爵様と向き合っていたのだ。 侯爵様は、まずお母さんに謝罪した。 「──まずは、すまない事をした。私の乗る馬車が視察に向かう途中の道で、君を害してしまった……さぞ恐ろしくも痛い思いをした事だろう。どうか許して欲しい」 「……ガラント侯爵様……と、お見受け致します……私はこの通り無事ですので……それよりも、ここは」 「勝手ながら、私の屋敷へ君の娘と共に運ばせて頂いた。──馬車に轢かれた君は瀕死の重傷を負っていた。それを君の娘が精霊を使役して治癒させた。……これが意味する結果は分かるはずだ」 「ミモレ……ミモレヴィーテは普通の娘です……! 精霊様の使役など有り得ません」 「けれど、事実は町の住人達が目の当たりにしてしまった。──私も見たが、彼女が起こした奇跡の御業は本物だった……そこで、だ」 ああ、と震える両手で顔を覆うお母さんの、その手に侯爵様は自分の熱い手のひらを重ねた。 「君達母娘は私が守る。その為にも──アムース子爵の娘として、君には私と結婚してもらう」 愛の言葉の代わりに、侯爵様は繰り返し「大丈夫だ、悪いようにはしない。必ず守る……」と囁きかけていたのだ──それが真実の何を意味するか、お母さんが知ってか知らずかは問わずに。 ……私はその頃、深い眠りに就いていた。夢さえ見ない眠り。 夢に見てしまえば、恐ろしい何かを知ってしまう。だから、光の精霊は私をひたすらな眠りに落としたのだった。──いつかは知る時が来るであろう、けれどそれは今であってはならない、と。 許された時の目一杯を、愛に包まれた、ただのミモレヴィーテであれと。──それは、真っ白に輝く嵐だった。どんな銀細工よりもまばゆい光の嵐。なのに風は感じない。私は光のただ中で目を開けているのも難しいほど輝く空間に包まれて立ち尽くしていた。だが、やがて嵐が収まってゆき、光は優しく私を取り巻く。光の向こうに、誰かが見えた。金色の髪は艶やかに光を反射し、同じく金色の瞳が叡智をたたえて明るい色なのに、とても深い。向こうに誰かいる、──そう見えた次の瞬間には、そのひとは目の前に立っていた。身にまとう白い衣は見たこともない生地と作りで、その容貌を引き立てている。──こんなにも美しいひとは、見た事がない。中性的なような、どことなく男性的な風貌と容姿。神々しい程なのに威圧感はない。そのひとの私を見据える眼差しには、慈しみさえ伺えた。白銀に僅かな金色が溶け込んだような不思議な空間で、そのひとと私は相対する。相手の深い瞳は、感情を伺わせないのに温かく優しく、どこか懐かしい。「……そなたか。精霊との契約なしに、それも二度も精霊を使役した癒しを成したのは」「契約……?」声までも濁りなく美しいひとには、いつしか私と親しんでくれている精霊達が幸せそうにまとわりついていた。「王様、ミモレヴィーテは私達のお友達なのです」「精霊王様、ミモレヴィーテは私達と通じ合える事を内緒にしなくちゃいけなかったんです。契約したら、ミモレヴィーテ以外のひとにも私達が見えてしまうから」「精霊……王様?」「そうよ、ミモレヴィーテ。この方は創造神と唯一対等にお話し出来るお方。精霊の頂点に立たれるお方」これは幻だろうか?──しかし、夢幻にしては鮮やかすぎる。精霊王と呼ばれた方は、私を責める色もなく真っ直ぐに見つめてきていた。急に畏怖がやってくる。創造神とさえ対等に話せる程の方が、なぜ目の前に現れたのか。「大丈夫だ、咎め立てるつもりはないよ。ただ、本来ならば精霊の癒しは、精霊達と契約を結ばなければ十分な力を発揮出来ない。にも関わらず──ミモレヴィーテ、君は瀕死の重傷を負った母さえも癒した。それから様子を見ていたが……君につらく当たる娘さえも精霊達の力を用いて癒しただろう。精霊達と愛し子は一心同体、愛し子の心次第では悪意ある者を癒すなど出来ない。君は本当に変わっている……精霊達との親和性があまりにも強い」「それは……いけない事なのですか?」「悪くはない。しか
──そして、初めてのお茶会に参加する日の朝が訪れた。装いの選び方はミステラ夫人直伝だ。自分に何が似合うかをミステラ夫人は基本から教えて下さっていた。装いは十分なはずだ。目立ちすぎず、地味にもならず、清楚で可憐な新参者の令嬢としては完璧に近い。けれど、問題は他の貴族令嬢との交流をした事がなかった点だった。下町で育った私には、当然の事ながら貴族の方々とはまったく面識がない。そのため、お茶会では集まった数人の令嬢達とガネーシャ様が会話に花を咲かせているのを、ただ眺めているしかなかった。焦りをおもてに出してはいけない、退屈そうな素振りなど見せてはいけないと気を張り詰めて、置いてきぼりにされながら微笑みをたたえる。それにしても、昨夜から続く風の中でよく屋外のお茶会を楽しめるものだとも思う。羽織るものも膝掛けもなしにでは、暖まるのはお喋りで動かしている口だけだ。「ガネーシャ様、こちらのお茶は何て華やかな水色に爽やかな香りでしょう。とても美味しいですわ」「ありがとうございます。今日の為に東方から取り寄せた茶葉を使用しておりますのよ。よろしければカスタードのタルトも作らせましたのでお召し上がりになられてくださいませ。このお茶に良く合いますのよ」「まあ、素敵ですわ。そう言えば前回のお茶会に添えられていたミルクジャムも本当に美味しくて。お恥ずかしながら帰宅してから我が家の職人に再現させようと致しましたのですけれど、どうしてもあのお味になりませんでしたのよ。ガネーシャ様のお宅では腕の良い職人をお雇いになられておいでですのね」「お気に召されて下さったのでしたら何よりでしたわ。でしたら、今日の記念として皆様にミルクジャムの瓶詰めをご用意させて頂きますので、ぜひお持ち帰りくださいませ」「まあ、嬉しいですわ。ありがとうございます」「大した事でもございませんわ。お喜び頂けるのでしたら、それが何よりですのよ。──そうそう、アイナ様。先日は私どもをお誕生日のパーティーにご招待下さり感謝致しますわ。楽しく心踊るひと時でしたのよ。アイナ様のご婚約者様、フィヨルド様もお見かけ致しましたわ。変わることなく睦まじいご様子で憧れますの」「まあ、お恥ずかしいですわ。フィヨルド様は私を大切になさって下さいますけれど、私には甘すぎますの。実は、お誕生日の時に頂いたブローチを本日着けてまいりました
……幼い頃、一度だけお母さんが話してくれた。人生には、自分が確かに一人の生身の人間として生きていると味わえる出逢いが必ずあると。それが幸か不幸かは分からない。でも、生きている悲しみも喜びも確かに実感出来る出逢い。お母さんは何と出逢い、それを知り人生を変えたのか?私には、まだ分からない。流されるがままに毎日をこなして、今の自分に出来うる許された事をするのみだった。「──お父様、今宵はお酒が随分と進みますのね。少々お召し上がりになりすぎではないですか?」晩餐の時、ガネーシャ様が気遣わしげに口を開いた。お父様は既にワインのボトルを一本空けてしまっておいでだった。けれど、お父様は珍しく上機嫌に快活な笑みをたたえた。「なに、祝いの盃だ。今日は大変喜ばしい事が分かったからな。お前達にも話しておかねばなるまい──サリエルが私との子を妊娠したのだ」私のみならず、ガネーシャ様もブリジット様も咄嗟に言葉が出なかった。カトラリーを扱う手が止まり、お父様とお母さんを交互に見つめて──三者三様に信じられないといった思いを瞳に浮かべる。最初に気を取り直したのはガネーシャ様だった。「まあ、それは本当に喜ばしい事ですわね。お父様、……お母様、おめでとうございます。お祝いを考えなければなりませんわ」次いで、ブリジット様がことさらに朗らかな声を発する。「まさか、この歳になって弟か妹を迎えられるとは思っていませんでした。本当におめでたく、今から生まれてくるのが楽しみですね。父上、誠におめでとうございます」いっそ白々しいほどに、二人とも貴族然として新たな家族を祝福する。ブリジット様がこちらを見やって「ミモレヴィーテも嬉しいだろう、お二人の間の子はお前にとって本当の家族としての架け橋になる」と声をかけてきた。声音こそ明るいものの、言葉の端々に棘が隠されているのに気づかないほど、私も無邪気ではなくなっていた。それでも笑顔を取り繕い、鷹揚に従順に頷いてみせる。「はい、本当に驚きましたけれど……お父様、お母様、おめでとうございます。生まれてくる赤ちゃんの為にも、お母様はお身体をお大事にしてくださいね。でも、お父様がお母様をとても大切にして下さっておいでですので、きっと大丈夫と信じております」子供達の祝いの言葉を満足げに聞いていたお父様は、私の言葉が何よりお気に召したらしい。相好を
「──はい、よろしいですわ。テーブルマナーもきちんとマスターなさいましたね」「ありがとうございます!」ガラント侯爵家に迎えられて、まず付けられた指南役のミステラ夫人から頷かれて、私は声を弾ませた。貴族社会のルールやマナー、教養をミステラ夫人は事細かに教えて下さった。「下町訛りも元より耳障りな程ではございませんでしたし、きっとお母様がミモレヴィーテお嬢様を大切にお育てになられたのでしょう。明日からは刺繍をお教え致しましょうね」「はい、よろしくお願い致します」お母さんの事を褒められるのは、自分の努力を褒められるより嬉しい。侯爵様との結婚がお母さんにとって幸せか、それが分からないからなおさらだ。「──ミモレヴィーテお嬢様、お勉強はお済みでしょうか?」ドアをノックする音が軽く響き、ビオラの声が聞こえる。私は「はい、大丈夫です」とミステラ夫人が許可の目配せをして下さったのを見てから返事をした。静かにドアが開き、ビオラが深々とお辞儀をする。普段はマルタが傍に付いていてくれるので、ビオラが訪れることは珍しい。「ミモレヴィーテお嬢様、今宵の晩餐は御一家揃って食堂にてお召し上がりになられますよう、侯爵様よりお言葉がございました」「侯爵様……お父様が?」父を知らない平民だった私には、まだ言い慣れない呼び方だけれど、お父様と呼ぶように侯爵様から言われている。いずれは慣れるのだろうか。それよりも、お屋敷に迎えられてからずっと、食事は与えられた部屋へと運ばれてきてマルタの世話を受けながら一人で頂いていた。それも仕方のない事で、貴族のテーブルマナーも知らないうちから侯爵家の方々とご一緒しても恥ずかしい思いをするのは私のみならず、私を育ててくれたお母さんもなのだ。侯爵家の皆様を不快にさせるおそれもあり、私はその処遇を受け容れていた。ご一緒するのは緊張してしまいそうで怖かったというのもある。それが、お母さんの結婚から一か月経とうとしている今許された。新しい家族──義理の兄妹となった方々も含めて、疎遠というべきか滅多に顔を合わせた事もない。私がまず教わるべき事が多くて関わるいとまもなかったせいもあるものの、兄妹のお二人が私の部屋を訪れて来て下さった事は一度もなかった。「ミモレヴィーテお嬢様、ちょうどよろしいですわ。学んだ事を皆様にご覧頂く良い機会です」「はい……ですが、
* * *「お父様が再婚なされるお相手は、この侯爵家には相応しくない人なの?」ガラント侯爵家の令嬢として何不自由なく育てられたガネーシャは、小瓶を持って私室にやって来た専属メイドのショーンに問いかけた。13歳の誕生日を迎えたばかりのガネーシャは、何の苦労もなくメイド達によって指先までもが美しく手入れされており、高位貴族の令嬢らしく淑やかに高貴に振る舞う事のみを求められ応えてきていた。「まあ、ガネーシャお嬢様。メイド達の噂話でもお聞きになられましたか?」「屋敷中がこの話でもちきりよ、耳に入れるなという方が難しいわ。……アムース子爵家の方と聞いたけれど……」「ガネーシャお嬢様のお耳に触れるのは致し方ない事と存じますが……取るに足らない身分の女性ですわ。形の上では新しい母君様となりますが、亡くなられた奥様の足許にも及ばぬ者でございますので無理に親しむ必要などございませんのよ。──こちら、本日の美容水でございます」言葉の端々から、ショーンが再婚相手を蔑んでいるのが伝わる。そう、ガネーシャを産んだ本当の母親には到底敵う女性のはずがないのだ。ガネーシャは少し溜飲をおろし、ショーンから美容水の小瓶を受け取った。迷わず蓋を開け、すっと中身を飲み下す。背後に立ってガネーシャの髪を梳き始めたショーンは、その様子を心配そうに見ていた。「ガネーシャお嬢様、こちらの美容水は侯爵様からも禁じられておりますものでございます。お嬢様たってのお願いですのでお運び致しておりますけれど……」「大丈夫よ、ショーン。もう一年以上飲んできているものだわ。ほら、私を見てちょうだい──この肌の色は美容水無くしては手に入れられなかったものだわ。けれど、まだね。もう少し真珠のように……」鏡越しにショーンを見て話していると、美容水を飲んだ直後に話しすぎたのか悪心がガネーシャを襲う。口にしてしまえば美容水は二度と服用出来なくなるため、決して言えない不調をガネーシャは慣れた態度でやり過ごした。ショーンも分かっている。だから、それ以上は諌める事も不調をあからさまに気遣う事も出来ずに「本当にお美しい御髪ですこと、香油を評判の商会の物に変えてから更に艶やかになられましたわ」と話題を逸らして髪を梳く。──と、ガネーシャとショーンの二人きりだった部屋のドアが無遠慮に開かれた
──夜明けを迎える頃、ようやく眠りが浅くなってきたところで、私は夢を見た。シャンデリアが煌めく広いホールに、華々しいドレスを纏ったお嬢様達がエスコートされながら優雅に舞う。そんな光景は平民の私が見た事などないはずなのに、見下ろせば自分も艶やかなドレスを着ている事にも違和感を覚えなかった。淡いピンクのドレスは脇に白いフリルとレースをふんわりと広がるように使われていて、金糸で薔薇が蕾から花開いてゆくさまを刺繍されている。どうやら、夢の中の私は現実よりもいくつか歳上らしい。身体つきが身に覚えのない美しさだった。様々な貴族の令息らしき人達が私に声をかけ、ダンスに誘ってくる。私はひらりと断り、ホールの隅にある椅子へと向かって飲み物をとり、疲労の息をついていた。そこに、お会いした事もないのに不思議とどこか懐かしさを感じさせる令息がやって来て私に向かって穏やかに話しかけた。「ミモレヴィーテお嬢様、デビュタントのパーティーは楽しめておられますか?」「はい、皆様お美しくて蝶か妖精のようです」「このパーティーで最もお美しいお嬢様ですのに、謙虚でおられますね」彼は手入れの行き届いた黒髪に深い緑の瞳が、僅かな影を落としていて私などより遥かに美しく見える。返答に困っていると、すっと手を差し出してきた。「ミモレヴィーテお嬢様、私とダンスを楽しむ栄誉をお与えくださいませんか?」私がファーストダンスは既に他の人──パートナーと済ませていたと、夢の中の私はなぜか認識している。目の前の令息はご令嬢達から注目されていたらしい。羨む声に溜め息が、さざ波のように聞こえてくる。「──はい、よろしくお願い致します」恭しく出された手に自らの手を重ね、私は立ち上がった。あれだけ令息達からの誘いを断ってきていたのに、どうしてか目の前の彼と踊ることは自然に受け容れられた。ホールの中央に歩んでゆくと、ゆったりとした曲に変わる。手を重ね、吐息さえ感じそうな距離で二人踊り始めた。リードが上手いというだけでは納得出来ないほどに踊りやすい。身体が軽くて、まるで広大な空に踊っているかのようだ。「──ミモレヴィーテお嬢様、私は……」熱を帯びた声音で彼が囁きかけてくる。どきりと心臓が脈打ち、私は彼を見つめた。互いの眼差しが絡み合う。──そこで、夢は唐突に途切れた。「……あ……」目を覚ますと、大き